読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

やっぱり話し言葉

 特に苦もなく40記事超えてきてるな。やっぱ誰かのためとかじゃなく自分のために書いてるからだろうな。カラオケも、友達から「自分が満足できるように歌うことを目指せ」っていわれてから伸び伸びと歌えるようになった。ブログも、誰かに読まれたいとかウケたいとか思ったりせず、自分が書きたいから書くっていうノリだけで書けば、伸び伸び書けて、いくらでも書ける。まぁ読みに来る人いないけど。余談だけど、誰かのためじゃなく自分のためにって歌詞ある歌なんかいろいろあるよな。宇多田ヒカルFor You とか……でも思い出せないな、バンプ才悩人応援歌とか尾崎豊僕が僕であるためになんかも似た文脈だけど。才悩人応援歌いいよね。

 前の記事(喋ってる感じで書く - 読んだ木)で、いろいろ理由つけて、話し言葉じゃなくて書き言葉でブログ書くって話をしたんだけど、それより前の記事(気持ちを言葉で表現するということ - 読んだ木)で、いやむしろブログ書くことを通じて自分の新しい側面を開拓するみたいなこと書いてるじゃん、っていう。これってあれでしょ、最強の矛と最強の盾が二重スリットを通ったら矛が折れたり盾が割れたりしてるやつだよね。んで、だから、やっぱり苦手だけどできるだけ砕けた感じで書くことを意識しようと思う。

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

 哲学書っていうとお堅い感じだけど、ダイアログ(対話)を重視するからプラトンとかは会話の形で、今で言えばショートショートみたいな感じで書いてるものも多いんだよね。この『饗宴』は飲み会の様子が書いてあるだけだし。

 誰だったか忘れたけど現代の哲学者でもそういう書き方をしてる人はいて。あと、高橋昌一郎の『理性の限界』っていう新書も、20世紀の哲学的課題についていろんな人との対話の形式で説明するっていうスタイル。読みやすくて面白い本だった。

 

 

 だから、必ずしも話し言葉喋り言葉がくだけてて書き言葉が硬いということでもない。どちらの言葉でも、書かれたことか言われたことかの間にはかなり違いがあるけど、書かれちまえば結局はそれもひっくるめてスタイルの問題でしかないっていう。

 

 ただ、あることを伝える時に必要な文字のボリュームは、やっぱり話し言葉のほうが多い。なぜなら、こう、呼吸を挟んだりとか、同じことを繰り返したりするから。リズムを作るんだよね、話し言葉って、とどのつまり呼吸だから。去年学校がオンライン授業になって、オンデマンド形式で(録画して配信する形式で)やった先生なんか、ちゃんと原稿作ったら普段90分かけて喋ることが30分で終わっちゃった、みたいな話がある。でもじゃあそれで、対面でリアルに喋ってる時は内容が薄かったのかというとそういうことではなくて。残りの60分で、繰り返しを入れたり雑談的に関連する話を広げることで、聞き手の関心や知識に講義の内容をつなげていってるわけ。学生の反応とか見ながらね。だから、たしかにロジカルに書かれた原稿だと30分で終わるけど、それがちゃんと受け手に伝わるように喋りを工夫していくと、90分になる。

 

 

 研究者と教員って素質が違うよねってことは、マックス・ウェーバーを引用するまでもなく、なんとなく経験的に理解できる気がするけど、要は、研究者は無謬無矛盾の論理や結論を提示すればいいんだけど、教育者はその結論を専門じゃない人にわかるようにそれをくだいて伝える役目がある、というのが大きな違いだよね。どんな研究も、突き詰めていけば自分しかやっていないことなので、研究者はある程度は周囲に説明していかなきゃいけないんだけど、それをどこまで平易にできるかは難しい。往々にして変な理解や誤解を招くことになるからね。大学教員の最初にやることは、高校までの知識を一旦否定してもらうことだったりする。もちろん一つの世界観として義務教育、中等教育での訓育は必要だけど、そこから先はそれを相対化していくつもの世界観を手に入れなくてはいけないから。

 このブログは、別に難しい話なんかしないし頼まれても出来ないけど、ただこの平易な話し言葉でも、普段の平易な言葉では表現してないような色々なことを表現できたらいいな、とは思ってる。炊飯器で実はケーキも作れるんです的な。平易な言葉でもなんでもよくて、弘法は筆を選ばずっていうけど、どんな言葉を使っても、宇宙から爪の先まで説明できちゃうのが理想。数字を使わないと厳密なことができないっていう人いるけど、数字なんて数字の体系の中だけでつじつまがあってるだけで、数字と数学の体系それ自体が現実においてなにかっていうのは、自然言語と同様によくわからない話しだからね。デカルトだってラテン語じゃなくてフランス語で講義して人気が出たし、スミスだってラテン語じゃなくて英語で講義したから人気が出たんだ。難しい専門用語じゃなくて平易な言葉でたくさんのことを話せた方が、より多くの人に意図を伝えられていいじゃないか、と思った。

 

▼この記事の続き

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歩くことと書くこと

 昔、万歩計っていうのがあって、歩数を測るためだけのポケベルみたいな機械だったんだけど、今時はもうそんなものがなくても、スマホが勝手に歩数を測ってくれる。別に健康に気を使っているとかではないのだが、数値化されるものはなんでも面白くて見てしまう。

 

 

 僕の1日あたり歩数は、生まれたて児の子守りしてる時は1000歩行かないぐらいで、児童館なんかにいってもせいぜい3000歩ぐらい。今日は洗足池まで行ったからさぞかし歩いただろうと思っても、8000歩も行かない。これに対して、平日はすぐに1万歩を超える。デスクワークで、平日こそずっと座っているように思うのだが、それが案外違うのだ。休日などに子守りをしている時は、移動の時に子供と歩くことはあっても、児童館なら児童館、自宅なら自宅に長い時間居て、それほど動かない。これに対して、仕事をしている時には、ランチになればどこか近場へ歩いていかねばならず、それでなくても向かいの郵便局とか、ちょっとコーヒーとか、2〜3時間に一度は建物を出てどこかへ行って帰ってくる。このことが、案外に歩数に反映されるのだ。

 歩数の多さは、筋肉量を増やしたりダイエットしたりすることにはほとんど貢献しないと思うが、多少なりとも代謝をよくする効果がある。つまり、同じ体型でもその体型を維持するために回転するエネルギーの量が増える。そのことで、身体を動かしやすくなったり、移動することの心理的抵抗が下がったりする。だからトレーニングとは別に、歩数は多いほうがよい、というのが僕の考え方だ。ただこれは、外に出ないと難しい。外に出ると色々誘惑もあって、散財したり、余計なものを飲み食いしたりすることもある。しかしそのことは、歩行によるエネルギーの回転に加えて、より幅広い自分の感覚や心身の回転を増やすものだろう。

 ちなみに、前の記事に書いたが、筋トレと体組成についても(あまり当てにならないと分かっていても)数値化して楽しんでいる部分がある。要はゲーミフィケーションだから、正しかろうが間違っていようが、楽しければこういうアプリにはそれなりに価値があるのだ。

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* * *

 

 コロナ禍で家に居続けたので、飲み会もないし、とにかく人に会わない。その間に、やっぱりこれもコロナの影響で、引っ越したり転職したりする人も多く、それまで会ってた人とも疎遠になる。ますます人と会わない。金は使わなくなったが、仕事が増えないし家の環境改善のために多少なりとも消費しないといけないので、貯金も増えない。自分の心身のポテンシャルがどんどん使われなくなり、思考がどんよりしてくる。ブログを書き続けるのは、その状態を少しでも打破しようという試みでもある。つまり、歩く代わりに書いているのだ。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/06/10
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 ブログを書いて、あるいは他人のブログを読んで、色々思い出したり、やってみたりすることは、ここ数日だけでちょっとずつ増えている。

 例えば以前なら、友達とカラオケに行って初めて耳にした曲をプレイリストに入れたりすることで、毎月聴いている曲が変わっていった。しかしコロナ以降、カラオケなんて行けなくなってしまった。今じゃ1年前と同じ曲を聴いていて、しかも曲を聴くための移動時間もなくなってしまった。だが、ブログで色々昔聴いていた曲なんかを思い出したことで、少しずつ違う曲を聴くようになっている。ちょいちょい散歩するようになったのも、もちろんコロナ感染数が落ち着いてきて、対策も行き届いてきたから、安全な範囲で外出することが憚られなくなったということもあるが、家を出るのがめんどくさい、という気持ちに対して、何か勉強したり書いたりするネタを見つけられるかもしれない、という気持ちがまさって身支度を進んでするようになったことも大きい。アウトプットがあるからこそインプットが生じるという側面があるのだろう。

 とはいえ、新しい人に知り合いたい、新しいことを学んだり取り組んだりしたいという気持ちから生じる様々な計画は、今もってなおコロナ禍のもとで実行が叶わないままである。僕なんかは多少落ち着いてきた年齢だからいいけれども、これが10代、20代の若者だったら相当苦しいと思う。茨木のり子の詩のように、「わたしが一番きれいだったとき」という感じになってしまうのだと、いくら何でもやるせない。

 

茨木のり子詩集 (岩波文庫)

茨木のり子詩集 (岩波文庫)

  • 発売日: 2014/03/15
  • メディア: 文庫
 

 

もちろん、人がバタバタ死ぬよりはいいのだろう。人間にはどうしようもないこともたくさんあるのだろう。しかし、それに対して割り切れない気持ちがあることは、これもよく向き合って感受しなければ、と思う。それをなかったことにはできないのだから。

 ヘミングウェイの『日はまた登る』に描かれているような、本当の意味でのロスト・ジェネレーション——つまり戦争で生きる意味も若さも失ってしまったような世代——の苦悩も、茨木のり子の詩と共通する戦争という社会背景がある。コロナ禍も、戦争と同じように若い世代の青春と未来を奪ってしまうとしたら、悲しい。悲しむ他には何もできないことを理解しなければいけないのが悲しい。おそらく祈りとは、その悲しみを癒すためにあるのだろうが。

 

日はまた昇る (新潮文庫)

日はまた昇る (新潮文庫)

 

 

ロスト・ジェネレーション―異郷からの帰還
 

 

 まぁとはいえ、多くの人は、コロナがあったからといって、既存の価値観に対してそれほどシニカルにならないというか、バブルが崩壊して就職氷河期があってリーマンがあって東日本大震災があった時代に年少者として生きてきたような今の若い世代の人々は、そもそも世の中に何も期待していないという部分があるだろうから、別にコロナの影響もどうということはないかもしれない。僕も、別に相続する家もなく、無期雇用の定職もなく、資産も将来の展望もない。マイホーム幻想もなければ出世欲もない(そもそもそのコースがない)。だから、コロナがあってもなくても、生きていくのだけで精一杯であることに変わりはない。今の就職氷河期以下の人々は、少なくとも日本という狭い島国に残ることを選択した人は、だいたい皆そうだろうと思う。

 ロストするものを持ち合わせていないというのも、なかなか寂しいものである。だから、むしろロストしたくないような価値あるものを見つけようと思って、小さな日常の周りに張り巡らされた壁を、言葉のツルハシでコツコツコツコツ削っているのだ。こう書くとなんかマインクラフトみたいだな。fateではなく、マインクラフトは人生、の時代なのか。与えられたストーリーはない。心踊る選択肢もない。予定された感動もない。ただ、掘るのみだ。

 

あな (こどものとも傑作集)

あな (こどものとも傑作集)

 

 

東急池上線 車両いろいろ、1000系いろいろ

 子供が望むのままにお散歩していたら、京浜東北線蒲田駅に着いた。そこで、東急池上線に乗ることにした。子供は初めて乗る電車に期待を膨らませている。僕自身は昔、池上線沿線に住んでいた頃を思い出し、懐かしさを胸に東急線の改札をくぐった。

 そこに並んでいたのは、緑の東急7000系。僕の記憶の中ではまだ少数派だった新型車両が、関東では貴重な私鉄ターミナルの櫛形ホームを埋めている。早速乗ろうかと思ったが、席が埋まっているので一本見送り。すると、東急1000系1500番台のトップナンバー1501Fがやってきた。

▼手前が1501F、奥に7000系が2本並ぶ。この後ろからもう一本停まっていた7000系が、先に出発していった。

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 1500番台は、もと日比谷線に直通していた東横線の車両を、直通運転の中止に伴って改造したもの。僕も日比谷線を使っていた頃、たまにお世話になった。ほとんどは営団03系と東武20000系だったので、本当にたまにだったが。ただ、北千住で始発を待っていると、東急1000系がやってくることが多かった。

 その頃の地下直の東急1000系は、9000系と同じく東横線を代表する赤いカラーリングの8両編成で、高架や地下をギャアギャア言わせながら走っていた。転用されて緑の優しいカラーリングになり、多摩川線や池上線をのんびり走っている姿を見た時には、おまえも歳とって丸くなっちまったんだなって思ったもんだよ……

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 顔は相変わらず四角いけどな。

 

 僕の記憶にある7700系などはもういないようだった。あの歌舞伎顔とか言われてたやつ、好きだったんだけどな。しかも子供は1000系より7000系がいいと言い出して、1000系も見送って次に来た7000系に乗りこみ、中間車(2両目)端にあるクロスシートに向かい合わせで座る。やっぱり電車の旅はクロスシートに限る。

 子供は路面電車のように軒をかすめて走る電車が面白かったらしく、しばらくおとなしく乗っていた。が、石川台のあたりで流石に飽きて、降りたいと言い出した。そこで、洗足池で降りて池を散策し、公園へ。

 天気もいいし、日差しもぽかぽか。子供はノンストップで走り回っている。僕は池の鴨を見ていた。🦆

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▲子供に書けと言われて書いた7000系

 

 1時間くらい公園で遊び、モスバーガーでおやつタイム。そのあと帰ろうかと思ったら、すぐ裏手に線路が走っていて、子供がそこで電車の来るのを待つという。ちょっと寒い中、じっと待っていたら、来たのはオリジナルの1000系だった。

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 1021Fは僕の記憶にある東急の最もスタンダードなフェイスだ。

 

 * * *

 

 昔、1000系の前面が編成によって全然違う時期があって面白かった記憶がある。そう思って写真を漁ると、あったあった。以下は、5年前、2016年の蒲田駅での写真である。

 

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 当時のキャプションには、こうある。

東急1000系三つ巴。左奥から、前面貫通扉が中央にある1013F、行先表示器がフルカラーLED化された1020F、行先幕にアシンメトリーな貫通扉配置でスタンダードなフェイスの1023F。

 こんな情景はもう蒲田駅では見られないのだろう。*1そもそも、方向幕が本当に幕の車は、もう池上線には走っていないのかもしれない。池上線・多摩川線なんてわざわざLEDにしなくても、「五反田←→蒲田」「蒲田←→多摩川」「雪が谷大塚行」の三つのプレートを用意すれば足りる気がするが。

 あと、この頃は前照灯がまだシールドビームの1000系も多かった。

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 これも2016年に撮影した写真で、当時の説明書きがある。

左は最近前照灯がLED化されたという東急1505F。右は比較のために、従来のシールドビームを輝かせる1019Fの写真。

 今ではみんなLEDになってしまったのだろう。というか、当時はよくこれだけ色々な東急1000系を撮影していたものである。やはり沿線に住んでいるというのはいいものだ。電車に知らず知らずのうちに愛着が湧く。

 

* * *

 

 このように、色々と懐かしむことがあった。子供は電車が色々見れて満足げだった。7000系天国になってしまった池上線で、オリジナルの1000系と改造1500番台にもあえてよかったなぁ、と思いながら、洗足池駅に戻った。

 すると、なんと最後にビッグなサプライズ。「きになる電車」こと復刻デザインの1000系1017Fがやってきたではないか。

 これは、上の写真を撮影した2016年に登場したリニューアル車両で、電車自体は1993年に製造されたものだ。外見は昭和の頃の東急3000系のカラーリング、内装は木目調をベースとした落ち着いたデザインになっている(東急の公式ページ:きになる電車|さらなる安全・快適への取り組み)。戸越銀座駅をリニューアルするときに、木をふんだんに使った建築にしたのに合わせてデビューした電車だったと思う。

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 内外装リニューアルから5年、なんとなく一時期だけのカラーリングかと思っていたら、そのままでずっと走っていたのだ。雪が谷検車区所属31編成のうちの1編成なので、乗れたのはかなりラッキーである。

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 もうまたしばらく池上線に乗ることはないだろう。ローカルな風情があって好きな路線ではあるのだが。沿線にまた住むことでもあれば、お世話になるかもしれない。その頃まで1000系が残っているかどうか。もし残っていなかったら、上田電鉄にでも会いに行くとしようか。

 

鉄道車輌ガイドvol.16 東急目蒲・池上線の旧型車 (NEKO MOOK)
 

  

  ※車両ネタの記事では他に
東急8000系8500系の話→最近会った東急8000系ファミリー - 読んだ木
伊豆急8000系の話→伊豆急行線の8000系 - 読んだ木
伊豆急2100系の話→伊豆急2100系 キンメ電車と黒船電車 - 読んだ木
東武30000系の話→東武30000系の思い出 - 読んだ木
京急2100形・1000形の話→くるりの「赤い電車」の芸の細かさ - 読んだ木
もどうぞ。

*1:と思って調べたら、1013Fは真緑のラッピングを施されてアオガエルこと緑の旧3000系を「緑の電車」として元気に走っているらしい。旧3000系「緑の電車」ラッピング列車 運行のお知らせ|お知らせ|東急電鉄株式会社

喋ってる感じで書く

 このブログも登録してるけど、「ブログ村」ってサイトにいくと色々なブログが読めて面白いんだよね。なんかだらだらとブログ見てたら、同じはてなブログで今年入ってから立ち上げたブログで、記事が30個ぐらいしかないのに読者が百数十人いるブログとかあって。読んでみると他愛もないことを書いてるんだけど面白いんだよね。

 これに比すると、比するべくもないんだけど、僕のブログはなんかつまらないし読みにくい。硬いんだよね、文章が。昔、言文一致運動ってのがあったけど、仕事柄書き言葉のトレーニングをかなり受けてきてるから、しゃべりの感じで書けない。今書いてるのはかなり意識して喋ってる感じの書き方にしてるけど、すごくムズムズする。正しい表現や文章の論理構造に直したいと思っちゃう。でも多分、こういう風に喋ってる感じに近づけて書いた方が、読みやすいんだと思う。多少文章の構造がおかしかったり、意味が取れなかったりしても、それはそれでよくて、そもそも意味をちゃんと理解したりするために読むんじゃないよっていうか。

 じゃあなんのために読むんだよって話なんだけど、音楽みたいなもんなんだよね。単にこう、読み流していって、誰かの息遣いを感じることが、ブログを読む時にすることなんじゃないかな。わざわざそこから何かを学び取ったりしたいと思ってないし、それならブログじゃなくて本を読むしっていう。ツイッターなんかもミニブログってことでブログのうちに入るらしいんだけど、日々の何気ないことをつぶやく感じで書くのがブログ。何か具体的な主張とか考察とかは、もうちっと固いプラットフォームで。それこそnoteとか(noteはブログとは違う、という記事を前に書いた→なぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木)。

 僕もそういう感じでブログを書ければいいんだけど、そういう喋りの感じで書くためには、ちょっと違う中身が必要になる。それはどういうことかっていうと、かっちりした文章で書く場合には、何かを言語で論理的に説明する、その論理自体が内容になるわけ。「今日はリンゴについて書く。リンゴというのは、丸くて赤い果物である。」みたいな感じね。これでまぁ、何か内容のあることが書いてある感じになる。でも、単にこれを喋りの文章で書いてもダメなの。「リンゴってさ、赤くて丸い果物なわけよ。」って言われても、「は?」ってなるじゃん。「それで?」って思う。なんでこういう違いが生まれるかというと、喋りの文章で書くときは、論理じゃなくて、感情が内容として乗ってる必要があるんだよね。例えば「今日食ったリンゴ、まじで美味くてさ。」みたいな。もうこの一文で惹きつけられるところがあるよね。逆にこういう感情は、かっちりした文章では伝わらない。「今日食べたリンゴは、大変な美味しさであった。」むしろこっちだと「知らねーよ」って思う。

 前に、伝えたいことを言葉にするって結構大変だよね、って趣旨のブログ記事を書いた(気持ちを言葉で表現するということ - 読んだ木)。で、そこでは言語表現のための形容詞とか、そういう文章技法みたいな話を書いたんだけど、実際のところ、言葉の使い方って、こういうそのなんていうのかな、同じ「リンゴ」とか「美味しい」とかって単語を使っていたとしても、その崩れ方っていうか、書き方によって全然違うんだよね。どんなに標準語で正しい表現を追求しても、標準語である限り表現の幅が全然狭い、みたいなこと。

 なんかそれで思い出したんだけど、昔、言語学者のフィールドワークに付き合わされて、後輩と喋ってる様子を記録されたのね。で、最後にそのフィードバックを受けたんだけど、自分を偉そうに見せるときはなんか知んないけど主語が「僕」から「俺」にすり替わってるとか、結構面白かったんだよね。自覚ないんだけどちょいちょい状況とかによって表現変えてるっていう。あの、女性差別みたいなのもさ、みんな自覚ないわけじゃん。でも女性相手だと偉そうな喋り方する人とか、なれなれしくする人とか、やっぱり多いんだよね。それは無自覚な差別なんだと思うけど、そういう人も言語学者にフィールドワークの対象にされて30分ぐらい普通の会話した後にフィードバックもらうみたいなことをするまでは、自覚できないと思う。あと、これはまた別の話なんだけど、僕は昔は「〜ぜ」みたいな、霧雨魔理沙みたいな喋り方してたんだよね。でもいつからか女の子になりたくなってた時期があって、それから「〜だよね」っていう「ね」を語尾につけることがめっちゃ多くなった。そういう自覚っていうか、自分がどういう人間になりたいか的なあれで語尾も変わってくるっていう。

 なんか今は日常の会話でも、まぁ職業柄もあるし、あとポリコレみたいなのがめっちゃ厳しいから、結構よく考えて、文語調のとまではいかないけど、かっちりした文章で喋ることが多くなった。だからあんまり滑らかに喋れないんだよね。一語一語選びながら喋る感じになっちゃうし、そのくせ色々限定をつけようとするから話が長くなるし。だいたいこんな感じになる。「んー、僕は、こうー、思うな、いやもちろん、それは、自分が、こういう立場にいるから、言えることだし。ああ思う人も、当然、いるはずなんだけど。ただ、まぁ、これこれこういう、前提、がある場合には、まぁ、その、こう、思う。っていうのも、ありかなっていう。もちろん、それにー、対して、ちょめちょめっていう批判もね。あるだろうし。それはー、甘んじて受ける、っていうか、それは僕の中でも、課題だな、って思ってる。わけ、なんだけど、一応、パッと思いつく、ところとして。」みたいな喋り方ね。まじうざいね文字起こしすると。でもこういう喋り、喋りって怖いから、こういう喋りになっちゃうんだよね。

 喋りっぽい書き方は感情を乗せるのに向いてて、書き言葉っぽい書き方はロジックを展開するのに向いてると思うんだけど、僕みたいに喋り自体がちょっとこう書き言葉っぽい感じの表現の仕方に引っ張られてると、逆に感情とかをストレートに表現するのにつまずくんだよね。「わーい」って素直に言えなくて、「僕は、うん、まぁ嬉しい、もちろん僕だけ嬉しいっていうのは、あの、もしかしたら相手は嬉しくないかもしれないし、ある意味で自己中心的なんだけど、僕の、僕の感情の動きとしては、嬉しい、という表現で、一応説明するしかないっていうか。でも本当にね、僕の気持ちなんだよ、この、嬉しいっていうのは。僕の中から出てきているものだから、これは。」みたいになっちゃう。いやワロてないで。本当に結構これ僕の悩みだから。「わーい」とか言えないの。だから「女の子」になりたかったみたいなところもあって。「わーい」とかいうの、恥ずかしいっていう以前に、なんか自分の感情を表す言葉としてそういうものを身につけてこなかったんだよね。そういうのは子供がいう言葉で、自分には関係のない言葉っていうか。言うなれば、牛が「もー」っていうのと一緒。牛が嬉しい時に「もー」って言ったり、子供が嬉しい時に「わーい」って言ったとしても、自分は言わないしっていう。でもいや、みんな言ってるんだよね、嬉しい時にその感情を表現する言葉として、「わーい」。確かに、嬉しい時に感情を表現する言葉、それ以外になかなかないよね。「うむ、大変結構。結構結構。」みたいな感じかな。いやもう、素直に「わーい」って言えよっていう。

 なんかねー、ほんと、感情を出すって難しいですよ。なんかもう、おっさんだから、どんな感情出しても下品な感じになる気がするし。特に僕は男性だから、女性と話す時は本当に変な受け止められ方しないようにめっちゃ気をつかう。「あーそれはいいですね。あいや、その、性的な意味とかじゃなくて、いや、好意の対象としてあなたをいいと言っているのではなく、あるいはあなたの考え方が僕にとって魅力的、いや、そういう魅力じゃないですよ、日曜日の午後に一緒にカフェでスコーンを頬張りながら話を聞きつつアールグレイ飲みたいっていう感じの魅力じゃないんですよ、考え方が魅力的っていうのは。本当に、この、ビジネスライク、いや、あなたとビジネスライクな関係でしか関係したくないと突き放しているわけではないんですが、いやでもそのプライベートで繋がりたいというわけでもなくて、あの、あなたという存在を拒絶しているわけではないんです、もちろんその生活上の様々な関係でですね、こうしてあなたと関係がある、その関係において、その文脈で開陳されるあなたの考え方ですね、それが本当にいいというか、魅力的というか、いや僕が男性だからあなたの考え方を上からジャッジしようというんじゃないです、むしろ逆で、尊敬、尊敬なんですけど、僕はそういう考え方できないから、でもその、そういう誤解を生んだとしたら本当にすみません、いや、表向き謝っているってことじゃないんです、あの本当に、いや僕本当男性だからこんな、その僕の存在が間違ってて、単に、あなたの考え方が魅力で、僕もそういう考え方ができたらと思っていいですねって口走っただけで、あー本当にすみません、すみませんってば、うわーん」。

 口は災いの元。そもそも感情を出さなきゃいいんですよ。ね。見ざる言わざる聞かざる。誰かと言葉を通じて仲良くなろうってのが間違ってるんですよ。だから僕は、書き言葉調でブログを書き、感情を排して話の論理と情報紹介のみで内容を埋めているのだ。つまらないブログだが、現代社会において正しい書き方をしようと思えば、この方法が好ましい。むしろ、このような書き方でも読みたいと思わせるほど、充実した情報を集めてくる方に注力した方がよいだろう。喋り言葉で書いて面白おかしく共感を得るのは、それを許されるアイデンティティを持った人に任せればよい。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。
 

 ▼この記事の続き

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気持ちを言葉で表現するということ

 前回、色々な言語を習得したいという、単に願望だけを書いた記事をアップした(言語習得したい - 読んだ木)。確かに、色々な言語が話せれば話せるほど、たくさんの人と意思疎通できるようになる。他方で、告白の話を書いたときに(それわた - 読んだ木)、言葉を使って表現したものが本当に自分の表現したいものでなく、逆に言葉に自分の意識が引っ張られてしまうこともあることに、少しだけ触れた。

 そうすると今度は、より多くの人と話すための言語能力ではなく、より深い意思疎通をするための言語能力という問題が出てくる。そこにあるのは、出来るだけ自分の心中を的確に表すような言葉を選ぶという楽しみだ。もちろん、思ったことをスラスラと話せる人もいいけれど、実は自分が「思ったこと」を本当にちゃんと言葉にしようと思ったら、案外難しいのではないか。

 難しい感情の話を引き合いに出さなくても、日常的に見たり触れたりしているものを説明するだけで、結構言葉には限界があることがわかる。例えば、目の前にリンゴがあって、これを説明しようと思った時。黄色のレモンと紫のブドウと並んでいるなら、とりあえず赤いリンゴといえば伝わる。しかし、目の前に赤いリンゴがいくつもある中で、一つのリンゴだけを説明しようとしたら、赤いリンゴでは伝わらない。同じ「赤いリンゴ」でも、「右下がまだ緑になっているリンゴ」とか、「もっとも濃い赤色のリンゴ」とか、なんなら「赤いリンゴの中では一番黄色いリンゴ」という説明をすることになるだろう。そうすると、もはやそのリンゴは「赤いリンゴ」ではなくなるのだ。

 

りんごかもしれない

りんごかもしれない

 

 

 同じように、何かいいことがあった時に嬉しかったことを伝えようとする場合、周りに悲しんでいる人ばかりだったら、「嬉しかった」といえばそのニュアンスは伝わるだろう。しかし、みんな喜んでいるときに「自分も嬉しかった」と言ってしまったら、その「嬉しさ」はむしろ他人の嬉しさによって取って代わられてしまう。確かに他人と同じように嬉しいのだが、しかし自分の嬉しさは自分だけの嬉しさで、自分なりの嬉しさの文脈があるはずだ。そうすると今度は、何が嬉しかったのか、嬉しいと思った理由はなんなのか、嬉しさの度合いはどうだったのか、ということを説明することになる。相手の笑顔が嬉しかった、自分が相手の喜びを想像しそれに共感したから嬉しかった、思わず声が出たほど嬉しかった、などと詳しく表現していくことになる。

 

 ▼これは、誰かが嬉しいと自分も嬉しいという「共感」が人間同士のつながりの根源的な結びつきを生み出すもので、そこから嬉しさの輪が広がり、みんなが嬉しくなるように振る舞うようになると、いい社会になるよね、ということを説いた本。

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)

 

 

 相手に言葉を届ける時は、その言葉を相手がどのように受け取るか、理解するか、ということも重要になる。ある人に好意を持っていた時には、「好きだ」というだろう。「お母さんが好きだ」ということは、母親に直接言えば十二分に伝わるだろうが、他の人にそれをいう場合は「母親には感謝している」「自分は母親の影響を強く受けている」などと違う表現を用いて説明しないと、要らぬ誤解を生む。あるいは、友人に「君のこういうところが好きだ」と言った場合、ヘテロセクシュアルの同性同士なら相手を尊敬する気持ちの現れとして伝わるだろうが、それ以外のケースでは性的な期待なしに受け取られることは難しい。しかし、ヘテロセクシュアルの異性にわざわざ「性的な魅力とは全く関係のないところであなたのこれこれこういう点を好ましいと思っている」などというと、逆に相手の性的な魅力を全否定しているようで気まずい。

 逆に、相手に強い性的魅力を感じている場合に、「あなたは性的に魅力的です」と言葉にして伝えることは、ハラスメントになる場合がほとんどだ。相手が自分の期待に全くそぐわない能力で、そのことが多くの人に迷惑をかけているとしても、「あなたは無能で迷惑な存在です」などと口が裂けても言ってはいけない。相手に伝えたい気持ちがあっても、それを伝えてよい状況というのはそれほど多くない。自分の感情を言葉に乗せること自体が暴力になってしまうのだ。こうなってくると、言葉の役割というのは全く虚しいものになってくる。結局、言葉によっては伝えられないものが数多くあるわけだ。しかし、伝えることで意思疎通が生まれ、相互理解が生まれ、その次の行動を導くことができる。工夫して伝えられるなら、なんとかして伝えたいものだ。そのためには、丁寧な言葉選び、さまざまな表現上の工夫が必要だ。

 

 

 言葉選びは、自分に対しても影響を発揮する。単純な言葉ばかりで自分を表現していると、本当に自分が単純になってしまったように思わされる。逆に、色々な言葉で自分を探していくと、自分がどんな言葉でも表現できないほど複雑であるかのように思わされる。自己啓発などでよく使われるのは、自分の感情や自分の行為を単純な言葉で完結させることで悩むことを強制的に辞めさせ、言葉のいらない行為に駆り立てていく方法だ。例えば、どんな時も「大丈夫」という言葉を当てはめ、その時に生まれる迷いや悲しみを言語化しないようにさせる。そして、言葉を探す暇がないように行動することを促す。「ありがとう」という言葉を常に意識させることで、他者への怒りや自分の不満を言語化しないようにするやり方もある。これは言葉を奪う系の自己啓発だが、実際に物を捨てさせて、少しの物だけに自分を代表させることで自分の表現の余地をなくし、自分の多様なあり方を諦めさせることで新たな欲求に駆り立てさせるという自己啓発もある。いずれにしても、自分の複雑な感情や悩みを、言語化して自覚したり他者に伝えたりする代わりに、単純な言語によりその感情や悩みを考えることを不可能にすることで楽にさせるやり方だ。昔は暗示とか催眠という表現も使われた。

 

 

 単純な言葉の方が伝えたいことが伝わりやすいというシーンも多い。誰かに愛の告白をする際に、長々と前口上を述べるのは野暮である。「愛してる」「アイラブユー」「ジュテーム」「ウォーアイニー」、どの言葉でも端的に伝えるものだ。ただ、その場合は、言葉は最後の鍵でしかない。相手に伝えたいことは、言葉以外の様々なことによってすでに伝わっていて、それを最後に言葉が代表(表象)する。そういう時に、言葉は意味を持つ。僕らが投票する時には、候補者か政党の名前だけを書く。理想の政策や現在の社会問題について長々と自分の考えを書いたりはしない。なぜなら、政治上の自分の考えは日々自分の生活の場で表明し、働きかけ、取り組まれているべきもので、投票用紙に書くのはそれを国会において代表する人の名前だけでいいはずだからだ。議会制民主主義と呼ばれるこのシステムは、自分の政治信条や求める政策を言語化し外部化しないまま、政治家の名前を投票用紙に書いただけでその人が全て解決してくれる、というようには設計されていない。あくまで、日々の議論や取り組みを、代表が代わりに国会に持って行ってくれるというシステムなのである。その前提があるから、投票ではたくさんの言葉は必要なく、名前を書くだけでいいという簡単なやり方になっているのだ。愛の告白も、普段から愛していることが伝わっていさえすれば、その言葉は最も洗練されたもので構わない。なんなら、「愛している」という言葉を使う必要すらないのだ。ただ、言葉は乗り物なので、何かはそれに乗せて相手に届けなければ、確たるものは何も伝わらないが。

  

チャイナアドバイス

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  • 発売日: 2016/10/25
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 こう考えてくると、ブログは、言葉のみを使って他人とコミュニケーションを図る高度な技術だ。僕は長々とした記事を何度も書いて何を伝えようとしているのか。それは端的にいえば、僕が興味関心を持っていることに、同じように関心を持って共感している人に出会いたい、同じ悩みやもどかしさを持っている人と交流したい、ということである。長々と書かれた文章は、多様な人に関心を持ってもらえるために並べられた僕の脳内のショーウィンドウであり、同時に自分自身を単純な言葉で矮小化しないようにするためのカラフルなクローゼットである。僕にとってブログは、ありったけの言葉を使っても出会えない自分、まだ言葉になっていない新しい世界を探す旅路なのだ。

 

明日の風

明日の風

 

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言語習得したい

 

新訳 ソシュール 一般言語学講義

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 言語は、生きていくために必須ではないが、もし出来るならたくさんできた方がいいに決まっている。日本語だけでも、敬語ができた方がいい、漢字が書けた方がいい、方便が話せれば地方の人とも仲良くなれる、言葉遣いが丁寧なら一目置かれる、など色々なメリットはある。

 日本語だけでは生きていけない、小学生から英語を勉強するような時代であるから、英語もできた方がいい。僕は今、英語ができなくて非常に参っている。これは壁である。仕事上の技術や、専門知識であればまだこう、やっている間に身についたり、関連する書籍を読んだりすることで伸ばしていくことができる。しかし英語は、どうも単語とかも覚えられないし、正しい言い回しというのがどうやってもよくわからないし、伝わらない時に本当にイライラするし、これはストレス以外のなにものでもない。こんなブログを書いていないで英語の勉強をすればいいのかもしれない。

 

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

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 ただなんというか、言い訳なのだが、これは一人ではできないのだ。例えばプログラミングはパソコンなどの電子計算機がなければできない。紙のノートにいくらコードを書く練習をしても、プログラミング技術は上達しないだろう。ピアノだって、ピアノソナタをいくら聴いても上達しない、ピアノを弾かなくてはダメだ。料理も、レストランで美味しい料理をたくさん食べれば上達するというものではない。しかし英語の勉強となるとどうだろう。ラジオで英語を聞くだけで上達するとか、ノートに書けば書けるようになるとか、そういう話ばかりだ。確かに多少はできたような気にはなると思う。しかし、ビジネスや研究の実用に足るものになるようなクオリティにはならない。マクドナルドに行って英語が聞こえてきても緊張しないというぐらいの話だ。しばしば英語教材の効果として謳われる、日常会話でスラスラと英語が出てくるというのは、逆に英語の単語選択を意識的にせずに文章を喋っているということだ。日本語ですら、ビジネスでスラスラ出てくることはないだろう。むしろ、慎重に言葉を選択したり、言い回しで濁したりする技術が必要となる。結局そういうことは、誰かを前にして、実際に英語使用のシーンの中で勉強しないと、学ぶことはできない。ただ、英語をそういうレベルで身につけようと思うと、めちゃめちゃお金がかかる。大学にもう一度行くような感じになってしまう。時間はなんとか作れるとしても、そんなお金はない。というか、そんなお金がないぐらい貧しい暮らしをしているから英語を身につけたいと思っているぐらいなのだ。

 

 

 今どきは、英語ができるだけではダメだ。今走っているプロジェクトなど、10人中日本人は2人だけ、6人は中国語話者である。自分のいる分野で優秀な人材はみんな中国人であり、そういう人たちと会話するにも中国語ができなければいけない。逆に、中国の人たちはなぜか知らないが英語も日本語もスラスラと話すことができる。能力が高く、日中英語を使いこなすのが当たり前の人たちばかりの中で、英語もろくに話せない自分。せめて、中国語で日常会話ぐらいできるようになりたい。文字はなんとか読めるが、逆にそのことで発音がわからない。中国語会話の学習の場は、英会話ほど充実していない。電車の広告も英会話ばかりで中国語会話はない。僕が駅前留学したいのは太平洋の向こうではなく日本海をまたいだ隣国なのだ。中国語の小説も、他国ではどんどん訳されているのに日本では訳されるのが遅かったりする。

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 ビジネス上では中国語も便利だが、文化や日常での人間関係の面では韓国語を学ぶ必要が切である。韓国語は日本語に近いし、ハングルがわかればカタカナのようなものだ。電車の中の韓国語表記なども見ていればなんとなくわかる。フがg、ヲがk、レがnとかそういったことだ。ただなんか活用みたいなのが多くて文章になると途端に分からなくなる。これは中国語と違って難しいところだ。

 

わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)

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 他にも西洋のことを勉強するのに仏独ラテン語を身につけなければならない、ロシア語の資料も読まなければならない、ベトナム語タガログ語話者なども周囲に登場し始めた、となってくるともう何ヶ国語できても間に合わない。しかし、できないとコミュニケーションが取れない。理解してもらえない。理解してもらえないとこちらの主張もわからないし、相手の意図も汲み取れない。だからとにかくできるところからやっていくしかない。各種教材や、google翻訳などツールが充実しているので、相当ハードルは下がってきているが、むしろそのことで、いかに自分が色々な言語の話者と意思疎通できていないかを思い知らされることにもなった。

 言語はその人の認識をも形作る。見方によっては世界そのものでさえある。それが皆違うということに思いを致せば、むしろなぜ人々が意思疎通できているかのように振舞っているのか、から恐ろしくもある。そういったところからソフィストが生まれ、ソクラテス以後の「真理」への欲求となるというわけだ。果たして自分は言葉を使うことで、誰かと本当に意思疎通できているのだろうか。言葉は本当は何を表しているのだろうか。言葉をかなぐり捨てて裸で対峙できる相手などいない孤独な人間にとって、他者と繋がるまでの道のりは長い。

 

→つづき:気持ちを言葉で表現するということ - 読んだ木

↓ 中国語学習を始めた

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それわた

 今週のお題は「告白します」なんだそうだ。告白といえばトルストイ『懺悔』)か、フーコー『性の歴史 1 知への意志』『性の歴史IV 肉の告白』)というイメージがあるが、やはり面白いのは普通の個人の日常から出てくる告白である。

 普段、自分はこういう人間だよ〜と振る舞っている自分の像に対し、自分の内面の考えや実際のあり方を言語化してあげることで、表の自分と、それとは違う自分の間の齟齬に解決をつけてあげたり、あるいは自分が見せようとしている像を否定して楽になるという効果が、告白にはある。他方で、告白した内容が必ずしも自分の本心ではなく、あくまでそれも自分の見せ方の一つでしかないのに、告白することによってそれを本当の自分と思い込んでしまう、というようなこともある。いずれにしても、ブログで、「告白」するという要請に応えようと、普段は表現していないネタを表現することで、新たな自分の可能性を発見できるかもしれない。

 

 ただ、告白したことが読み手にとって面白いかどうかは別である。年に2回しか床屋に行かないとか、服はユニクロの同じシャツを5枚着回しているだけとか、カラオケでは裏声で女性ボーカルの歌ばっかり歌ってるとか、二郎ではニンニク少なめヤサイアブラコールをするとか、告白するネタには事欠かないが、僕が読み手なら「で?」と言いたくなることばかりだ。

  そこで思い出すのは「それわた」である。これは様々なシーンで使える言葉である。「それわた」とは、「それがわたしにとって何だというのでしょう?」の略で、はやみねかおるの書く名探偵夢水清志郎シリーズの主人公が所属する学校の文芸部の部誌のタイトルだ。これは秀逸なタイトルで、つまり部誌に書かれる文芸作品など誰も読みたがらない、読もうとも思わないような、「わたしにとって何でもない」ものだ、ということを反語で言っているわけである。なのに、みんなそれを読むというもう一捻りのアイロニーがここにはある。明らかにわたしにとって何でもないはずの素人文芸を、読みなくなって読んでしまう。つまり、「わたしにとって何か」であるような文芸になってしまう。

 

 

 これって、ブログと全く同じではないか。今でこそブログはお役立ち、情報紹介のようなものが多くなったが、一時期のブログは知らない人のどうでもいい日記ばかりで、「ブログを日記にしか使わないのは日本人だけ」といった頓珍漢な批判まで出てくる始末だった。しかしそれで盛り上がっていたのだから不思議である。自分に関係のないどうでもいいようなことでも、むしろどうでもいいことだからこそ、関心が湧いてしまうという人情がある。

 これに関連してもう一つ告白をすれば、僕はこのブログに15年前の文化の再来を求めている(インターネット年少世代 - 読んだ木)。「それわた」というツッコミを無視してだらだらと記事を書いていたら、どこからともなく時間や知識や欲求を持て余している人が集まってきて、どうでもいいことでコメント欄とかで盛り上がって、ゆくゆくはオフ会や文通をするという、そういう文化の再来をだ。

 しかし、今のところ1日片手で数えるほどしかアクセスのないこのブログでそんなことが起こるなんてのは、夢のまた夢だろう。そう思ってブログをやってきて10年以上が過ぎ、本当にまだあの頃の盛り上がりが戻ってきたことはない。正直に告白するが、今日もアクセスは片手で数えるほどである。

 

電車男

電車男

  • 作者:中野 独人
  • 発売日: 2004/10/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)