読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

ブログ記事リライトの三つの要点+はてなブログのチート技

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原稿用紙の時代のリライトは相当の苦労を要した

 ブログ記事が100記事を超えてきた(はてなブログ100記事到達 - 読んだ木)ので、少しずつ過去の記事の整理や改善を行なっている。 過去記事のリライトにおいて重視していることは、主に以下の三つだ。

 以下、このそれぞれについて僕のやり方をメモしておく。後で効果をレビューすることも考えてのことだ。

 

目次と見出し

 今までブログ記事に見出しなどつけてこなかった。mixiで1万字書いても見出しなどつけなかった。大体その頃は論理的に文章を書くことができなくて、しょっちゅう「閑話休題」とかなんとか言ってどうでもいいことをあれこれ並べ立てていただけだったからだ。

 しかし年齢を重ねるにつれ、ようやく文章らしい文章を書けるようになってきた。このブログはどの記事もそれなりに読むことのできるものになっている。とはいえ、ただ文章がズラズラ並んでいるのは見にくい。分量が少ない記事なら、1行ごとに改行したり、なんなら2行空けしたりするのだろうが、このブログでそれはそぐわない。

 そこで、論理構造に沿って見出しをつけ、それを目次にまとめるという作業が必要となる。とはいえ、はてなブログではワードと同じで、見出しを作れば勝手に目次が完成する。見出しをつけると必然的に文章の内部構造も読みやすく論理が通るように改善されるので、自分のライティング能力の向上にもつながる。

 とはいえ、100記事というのはなかなか多いもので、まだ一部の記事でしかこれをできていない。中にはダラダラと書いているものもあるわけで、そういうものはあえて改善せず放置するということも手ではある。それを読みこなしてくれる人を待つ、というわけだ。まぁ、エッセイ的なものだとむしろ整理せずに、迂遠な理路から滲み出る妙味みたいなのを楽しむという読み方もあるだろう。しかしブログは紙媒体と違って長く読んでいると疲れるし、画面上の情報量が多いし、あまり整理されていない文章を出すのに適したプラットフォームではないというのも確かだ。その辺はまだ紙の方が色々可能性がある。

 

内部リンク

 内部リンクを作っていくこと、これは自分の書いたものの整理のためにも重要だ。カテゴリーという方法もあるが、ある程度絞り込まれたテーマで3記事とか5記事とか書いているものがある。例えば鉄道車両の形式について、あるいはクラシック音楽について、など。カテゴリーとしては鉄道とか音楽とかいうものに包摂される中の一部だ。そういうものにいちいちカテゴリーをつけていくとカテゴリーが無限増殖してしまう。そこで、カテゴリーは作らないまでも内部リンクでその関連をきちんと示す。まさに「ハイパーリンク」のなせる技だ(※HTML=ハイパー・テキスト・マークアップ・ランゲージの何がハイパーかというと、ハイパーリンクで文章同士の関係性が示され、しかも容易に参照できるという点である)。

 これも、いくつかの記事を行ったり来たりして、また全部の記事に手を入れなければならなかったりして、非常に面倒な作業だ。しかし、自分の書いたものを、その逐次の印象に終わらせず、より広い文脈に置き換えて整理できるので、これも必要かつ重要な作業だと思っている。

 

低パフォーマンス記事の排除

 これは読み手に迷惑をかけないための措置である。Google Search Consoleでクロール状況などを見ながら、あまり価値のない記事、読まれない記事、がっかりさせている記事などを見つけ出し、それを排除する。排除する方法は主に二つあって、一つはその記事自体を大幅に書き直して改善すること。それは前述の二つの改善を軸に行う。もう一つは、特に前者の改善のうち見出しをつけようと思ったらそれほどボリュームがなかったというような場合、他の記事に統合すること。まぁ、大体この作業をすることになる。それで先ほども2〜3個の記事を統合して削除した。これをやると、統合先の記事の厚みも出てくるので、全体として質が上がっていく。

 なにぶん久しぶりのブログだったこともあったし、特に最初の方は気負っていて、文章も硬くて読みにくい、アフィリエイトリンクが多い、内容が薄いなどの問題があった。最近は肩の力も抜けてきて、書きたいことを書き、読まれなくてもいい個人的な心情の吐露であっても、一応きちんとした文章になっているようにはしている。その最初の方の記事を整理していくのがこの排除作業の中心となる。

 

はてなブログだけのチート技(というほどのことでもないが)

 以上の三つの要点に加えて、はてなブログだけで使えるチート技がある。それは、記事内に他のはてなブログの記事を引用することだ。トラックバックというシステムははてなブログの世界からどうやら消滅してしまったようだが、「言及」というシステムとして形を変えてまだ生きている。他のはてなブログから「言及」、つまりリンクを貼られると、「アクセス解析」ページ下部の「言及の一覧」に表示されるそうだ(記事へのリアクションがわかる「言及の一覧」パネルを追加しました - はてなブログ開発ブログ)。そうだ、というのは、自分は言及されたことがないので実際にどんな感じで出るかは知らないからである。

 はてなブログでブログを書いているような人は、noteなんかと違って結構レガシーなやり方ではてなー同士で繋がりたいと思っている人が多いので、他のはてなブログで「言及」されたとなれば一回は飛んできてくれてブログを見てくれる。アクセス数への貢献などは微々たるものだが、はてなの繋がりが手っ取り早く体験できて楽しい。リライトは単にアクセスを稼ぐだけでなく、そういった繋がりや広がりに向けて行うことも重要だ。記事を見返して、なにか参照できそうなはてなブログの記事を見つけられそうなら、ぜひそれをリンクとして記事内に貼ろう。例えばこんな感じで:

 

▼スクショで「言及の一覧」に辿り着く方法をわかりやすく書いている記事(短い)

operationservicebu.hatenablog.jp

 

▼いちいち「言及」の内容を紹介している記事(長いけど「言及」システムを最大限活用するとこういう感じになるという例)

www.atoka.xyz

 

▼つーか「言及」されると通知がくるんだな。教えてくれてありがとう。

suzukidesu23.hateblo.jp

 

▼このシステムが出来たばっかりの頃はみんなビビってたらしい。お前らトラックバックを知らんのかいと小一時間

www.nobusan.work

 

 っていうかこんなシステムを別装するならトラックバック機能復活してくれよな……「トラバされた!」とかいって盛り上がってた麗しき時代のブロガーたちはどこへ行ってしまったのか。でもwordpressでやってたときはスパムしかトラバ来なかったしやっぱりこのはてなの内輪システムがいいのかもしれない。

 

* * *

 

 リライトによる記事の整理と改善作業は、概ねこのようなところである。今後さらに記事が増えていったら、もう少し突っ込んだ改善、あるいはサイトの見た目なども、手を加えていくかもしれない。

 

 

東武30000系の思い出

 この記事では、東武30000系の話をしようと思う。

 「最近会った東急8000系ファミリー - 読んだ木」の冒頭で、今年の4月ごろだったか、東京メトロ半蔵門線東急田園都市線を利用する際に東急8500系に乗った話を書いた。そのとき、途中駅で東武30000系とすれ違った。久々の再開で嬉しく慌ててホームに飛び出し、カメラを向けたものの、うまく撮ることはできなかった。

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ブレブレ。スマホで地下の暗い空間で撮るのには限界がある。ISO感度を高く設定できるカメラで高速シャッターを切らなければいけない

 側面の、「東武動物公園」を圧縮せずに表示できる長いLED行先表示器が愛おしい。しかし、急行表示のない単なる「押上」だけでは宝の持ち腐れもいいところである。

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東武30000系の長い行先表示器

 後で気がついたが、これは本線系統で最後の一編成だった31609F(+31409F)である。この2ヶ月後、6月頭に運用離脱して、現在東上線向け改造工事を受けているそうだ。

 多分この形式を半蔵門線内で撮ったのはこれが最初で最後だろう。と思ったら、以前にも同じ編成の写真を撮っていた。

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これは2017年、半蔵門線のどこかの駅、おそらく永田町で撮った東武30000系で、やはり31609F+31409Fだ。

 なお、東上線に行った編成も何度か見かけている。しかしどうやら、写真に収めたのはほとんどなかったようだ。一つは、2017年の暮れに池袋駅で撮ったこの一枚。

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31613F+31413F。発車シーンを動画で撮っていた。

 もう一つは、2019年4月に撮った31610F。

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 前に「東武博物館への思い入れ - 読んだ木」の記事で書いたが、僕は小さい頃から東武線の近くに住んでいて、東武の車両はなんとなく好きだった。それで30000系が出た時も、一目で好きになった。6050系、新顔8000系、10030系を引き継ぎつつも、阪急の血を引いていることを思わせる(東武鉄道の車両は阪急の子会社だったアルナ工機が長く手がけていた)より落ち着きのあるクールな表情。10000系列は前面が分かれているが、こちらは一体的に形成されているのが綺麗なのだ。それでいて、内面にはどんな長い駅名でも受け入れてくれる横長のLED表示器。南栗橋から中央林間まで走り抜くタフさ。東武で先駆けて、一両だけPMSMを載せて走る進取性(31602Fのモハ35602)。

 その生い立ちも涙をそそるものだ。営団半蔵門線および東急田園都市線直通に備え、10030系の進化版として華々しく登場したが、那智暴虐なる直通先の圧力により、10年足らずで50050系に引導を渡す形で地下鉄直通運用から追い出され、遠く栃木県の鈍行にあてがわれたり、浅草と北千住の間をちまちまと往復するような運用につかされたりしていた。登場から15年ほど経った2011年に東上線に転属し、それからは伸び伸びと過ごしているようだ。9000系が地下鉄に直通し、横浜みなとみらいにまで行っているというのに、よっぽど高性能で美形の30000系が埼玉の奥地との往復にしか携わらないのは腑に落ちないが、それでも伊勢崎線複々線区間を彷彿とさせるようなストレートの多い東上線の走行を、30000系なりに楽しんでいるようだから何もいうまい。31609F+31409Fだけが伊勢崎線に残されていたが、それももう撤退して東上線に移るということで、当然地上運用限定だから、池袋かそれより先に行かないと会えないということになる。おそらくもうほとんど見かけることも無くなるだろうと思うと少し寂しいものがある。絶対にないだろうとは思うが、もし奇跡が起こるなら、東武9000系9050系の引退に合わせて直通対応機器を載せ替え、相当の改造をやって30000系をメトロ副都心線東急東横線横浜高速鉄道みなとみらい線まで直通させてほしい。東急5000系の一部車両は田園都市線東横線も、そしてその直通先も走ったことがあるものがあるから、両線はある程度共通化されているといってよい。そうすると、案外改造も信号機器対応などだけで済むかもしれない。それでもあまりコストに見合わないとは思うが、こういうことを妄想する分には楽しいものだ。行先表示器には、「特急 元町・中華街」、なんなら「Fライナー 元町・中華街」を表示するのに十分なスペースがある。

 

 

東武30000系は一部のいきったオタクによりサンマと呼ばれているらしい。こんな素晴らしい車両に対してひどいあだ名だ。ちなみに、目黒を通る東武の車両は、山手貨物線で通過するだけとはいえ、臨時品川始発スペーシア日光43・42号と多客臨の送り込み回送で品川へ行き来する東武100系がある。)

 

※車両ネタの記事では他に
東急1000系の話→東急池上線 車両いろいろ、1000系いろいろ - 読んだ木
京急2100形・1000形の話→くるりの「赤い電車」の芸の細かさ - 読んだ木
東急8000系8500系の話→最近会った東急8000系ファミリー - 読んだ木
伊豆急8000系の話→伊豆急行線の8000系 - 読んだ木
伊豆急2100系の話→伊豆急2100系 キンメ電車と黒船電車 - 読んだ木
もどうぞ。

はてなブログ読者10人到達

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 気づいたら、このブログの読者が10人を超えていた。100人ではない。10人である。10人というと大したことがないと思われる向きも多いだろう。実際、僕が見かけるはてなブログで、ある程度コンスタントに更新し続けているもので読者が10人を下回っているブログはあまりない。しかし、Twitterですらフォロワーが10人を超えない僕にとっては、10人もブログの読者がいるというのは感嘆すべき事柄だ。10人いればお茶会や飲み会でもそれなりの規模になるし、ふたチーム作ってバスケットボールの試合もできる。

 

数値的な観点から見た読者数

 はてなの読者システムは、アクセス数とは違って定量的に計測し、予測することが難しい。読者二桁到達が「はてなブログ100記事到達 - 読んだ木」とほぼ同じタイミングだったのは偶然ではないかもしれない。リンク先の記事で書いた通りこのブログはひと月20記事のペースで書いているから、10記事で読者一人という増加ペースではある。とはいえ、もっと記事が少なくて読者数が多い人はたくさんいるので、読者が増えるのにはなんらか別の要因があるのだと思う。

 その要因とは、表現するのが難しいのだが、決まったテーマでのコンテンツ性があるかどうか、ということではないか。例えば、新しいガジェットのレビューであるとか、メンタルヘルスのようなある特定の分野の専門知識を定期的に更新しているとか、そういったことだ。占いやスピリチュアル、投資など、専門的だが人員が飽和していてしかも専門性が掘り下げられていないような分野では、それほど読者もつかないかもしれないが……

 (※この記事を書いてからしばらく後に、読者の数の「別の要因」は、Twitterのffと同じシステムであることに気づいた。それほど記事数が多くないのに読者数の多いブロガーは、コンテンツが特に秀でているというわけでは必ずしもなく、しばしば読者を増やすために色々なブログに積極的にスターをつけたり読者になったりするという方法をとっているのだ。これはTwitterでもフォロー稼ぎによく使われる方法である。しかし、短文が流れるだけのTwitterと異なり、数百のブログの読者になったら、一つ一つのブログはほとんど読めないのではないかと思うが……)

 このブログは、僕が好き勝手に書いているだけなので、読者の増え方はかなり鈍い方だと思う。ただ、更新が頻繁であることから、読者になってくれる方がいるのではないか。記事の文字数も、内容がスカスカでも一応1,000文字以上はあるわけだから(逆にそれ以下にするのは難しい)、暇つぶしぐらいにはなるのかもしれない。僕は自分でたまにブログを読み返してみることがあるが、このブログはすごく面白いと思う。書いている人の含蓄や視点の鋭さが伝わってくる。そういったところが評価されて読者の増加につなが……寝言はこの辺でやめておこう。いずれにせよ、増加ペースが低い場合でも、月に20記事、毎回1,000字以上のものを書いていれば、月に2人ぐらいの読者はつく、というわけだ。

 なお、10人程度の読者だと、SEO的な分析、例えばアクティブ率とか、再訪のスパンとか、そういうアクセスにつながる効果については全く計測することができない。それに、アクセス数を気にするならオーガニックな検索流入での上積みを目指すべきであって、数としてはそれほど膨れ上がることのない読者数を気にすることはない。公式の「週刊はてなブログ」ですら読者数は3万に満たないのであって、そもそも読者数をそういった観点から捉えるのは適切ではないように思う。

僕個人にとって読者数の持つ意味

 僕個人にとって、読者がついたということは、そのような数値的な意味合いとは全く異なる重みを持っている。

 確かにまだ双方向の交流が生まれる機運にまでは至ってないとはいえ、記事を書けば誰か読む人がいるという点では、「インターネット年少世代 - 読んだ木」や「なぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木」で書いたような、このブログの求めている見知らぬ他者との繋がりという目標に向かって、これは大きな前進があったといってよいだろう。大変なのはゼロをイチにするプロセスである。読者が10人もいたら、とりあえずそのうちの一人ぐらいは僕が記事を更新すれば読んでくれる可能性が高いのであって、単に雑文しか書かないこのブログでそのような契機に恵まれるというのは大変稀有なことだと言わざるを得ない。

 大正期から昭和初期にかけては、大正デモクラシーの機運や社会主義の広がりによって、個人雑誌というのがたくさん出た。月に一度とか四半期に一度、こういうブログ記事みたいなものを5個や10個寄せ集めて印刷製本して、知り合いや購読者に配って読んでもらう、同人誌である。あまり書くネタがない場合は、より薄いパンフレットやペライチの新聞になった。何か利益が出るわけではないが、特に書き物で食っていく人にとっては重要な自己宣伝の手段であったし、書かずにはいられない人の最も手近な表現ツールだった。僕はブログもそういった性質を備えたものだと考えている。近年のnoteやオンラインサロンというのも多分にそういう傾向を持っているといえるだろう。双方向性が欠けているという点では、むしろ後者の方が個人雑誌に近いかもしれない。

 個人雑誌というのは、せいぜい数百部の発行であって、読む人は数十人といったところ。その中で、たまに寄稿してくれたりする人も現れたりする。つまり、この人数の点から考えればnoteやオンラインサロンほどではなく、はてなブログの読者と似たり寄ったりの世界だ。当時の感覚で行けば、10人程度の読者でも十分に読者コミュニティがあるといえる。数万人を擁するオンラインサロンなどがよく知られている現代では、そういう小規模なネット上のコミュニティに意味を見出す人は少ないかもしれないが。

インターネット上の小規模なコミュニティの価値

 僕は、むしろそういう数人から数十人程度のコミュニティにこそ意味を見出す立場である。というのも、言語の伝わりやすさというのが、あることを言語に乗せて伝えている人の立場への近さに依存すると考えれば、自分の書いていることに共感してくれるような人はそれほど多くないだろうと思うからだ。数万人の登録者がいるオンラインサロンの運営者やアルファブロガーは、こういってよければ、運営者が立つ非常に独特な地位や環境を、それに手が届かずそれを知り得ない立場の人たちに、その現実が「伝わらないように伝える」ことで儲けている。だから、オンラインサロンの受信者、アルファブログの読者は、永遠にその発信者と共感したりする同一の地平に立つことはできず、知らない情報を知らないで居続けるという前提のもので、情報弱者たる受信者の地位に甘んじ続けなければならない。もし、そこに目新しい話がほとんどなく、そうだよね〜と共感するだけなら、わざわざ高い金を払ってオンラインサロンの会員になることはないだろう。

 これに対し、僕のようにむしろ共感と繋がり(笑)をインターネット(笑)に求める立場の人間は、目新しい情報ではなく、そうだよね〜と共感してもらって、発信者と受信者が同じ立場であることを確認し、時にそれが入れ替わったりして相互にやりとりするようなコミュニティを必要としている。これはオンラインサロンやnoteで記事を売るブロガーとは正反対の立場であって、そんな共感が生まれる相手など限られているから数人から数十人のコミュニティにしかならない。しかし、そこに一人でも新しい繋がりが生まれたら、人生が変わるような契機が生まれるような可能性を秘めている。狭くて相互的なコミュニティにあっては、知らない人に会うことで、新しい事業を始めたり、どこかへ転居したり、知らない会社に入っていったりする未知の可能性に開かれている。既婚なのでもう結婚はしないが、生涯の友人を見つけたり、新しい趣味のコミュニティにいざなわれることもあるだろう。要は、浅く広くではなく狭く深くやることに価値を置いているわけだ。そういう可能性に開かれているという点で、やっぱりブログというのは、僕にとっては今でも十分に面白いプラットフォームなのである。

 

 

ワンオペ育児に最適なファストフード、寿司

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これは下田の文という店のランチで食べた海鮮丼

 久々にはてなの「お題」で記事を書くか。今週のお題「寿司」。

 タイトルからして出オチなのだが、うちで寿司といえば、料理が面倒なときにスーパーで買ってくるファストフードである。

 

 メリットはいくつかある。一人分の1パックが500円ちょっとで買えるからそれなりに安く、味の良し悪しなんてのはスーパーだから期待できないにしても、変なものが入っているわけではないからそんなに不味いことはないし、惣菜のように脂っこいということもない。何よりいいのは、子供が食べられることだ。

 

 子供に簡単に食べさせられる食事というのは、案外ないものだ。

 うちで普段重宝しているのは冷食で、特にチャーハンと餃子。これも、生協で買っているからまぁ食べられるものの、市販の味の濃いやつはどうも僕自身が好きではないので、生協のストックがなくなると困る。

 また、マクドナルドなどのファストフード店も近くにはなく、多分一番近くて歩いて20分ぐらいかかるところだから、全然ファストではない。

 パン屋は便利なのだが、パンは大体朝食に出しているので、昼や夜は違うものが食べたいということがある。

 まだ歳が片手の数に満たない子供達にカップラーメンを食べさせるわけにもいかないし、さりとてどろどろの離乳食を食べさせる期間はとうに終わっているから、お湯を入れてぱっと作れるものもない。

 湯を沸かして茹だるまで待つことさえできればパスタでもいいのだが、この沸かして茹でてソースをあえる、という十分程度の間、腹をすかして喚いている子供の面倒を見ながら熱いものを扱うというのがどうにも厄介である。

 

 ここでありがたいのが、スーパーの寿司だ。

 子供たちを連れて、家のすぐ近くの、あるいは公園帰りのスーパーに行けばパッと手に入る。子供には一人前の寿司を買う必要はない。アラカルトで数貫入っている玉子とネギトロを買ってやる。かんぴょう、納豆巻なんてのも案外好評である。たまにはいくらも買ってやる。

 大人は一人前を買うが、大した値段ではない。大人は一人前で足りなければ、後でカップ麺を食べればいいのであって、わざわざスーパーの寿司ごときにいくらも出すことはない。

 しかし寿司は寿司、子供たちは大喜びとくる。これがありがたい。おにぎりではこうはいかない。アラカルトの寿司を選べば、子供の嗜好に合わせてやれる。

 さらにいいのは、寿司なら手掴み食べができる。飯もののようにいちいちサジで掬って口に持っていってやる必要がない。それでいて、パンとは違って腹にたまるから、ぐっすりお昼寝とあいなる。

 また、季節も問わない。寿司なら暑くても寒くてもパッと食べられる。寒ければ味噌汁を(これも湯を入れて1分でできるインスタントでいい)、暑ければさました麦茶を合わせれば文句なしだ。

 寿司は健康にもいいような気がする。スーパーで売っている唐揚げやら中華弁当やら他の惣菜に比べて、脂っこくない。また、握りたてで鮮度もよい。味も、醤油をじゃぶじゃぶつけるようなことがなければ全くさっぱりしているのであって、高血圧の恐れもない。菓子パンのように甘くないから、子供たちも食べる量を弁える。おにぎりよりも具の割合が大きいので、タンパク質摂取にもなる。魚は目にいいとかなんとかいう話もある。海苔は野菜のようなものだが、わかめもキャベツも食べない子供達が海苔はよく食べる。

 食後には、冷食だとレンチンのために移し替えた皿とか餃子を焼いたフライパンとかを洗う手間があるが、スーパーの寿司なら寿司パックを捨てるだけ。ここは環境問題より子育ての負担軽減を優先させてもらいたいものだ。

 

 うちは海が近いからスーパーの寿司が充実しているのかもしれないが、いやしかしこれまで住んだことのあるいくつかの県でもスーパーの寿司は充実していた。海なし県に住んだことがないからよくわからないが、スーパーの寿司がないところで子育てはできないと思う。

 なお、うちの家族はまだ寿司を外食で食べたことはない。外食で寿司を食べるなど邪道であって、スーパーのパック寿司を買うのが王道である、と子供たちに言い聞かせている。海の近くに行くとつい観光地価格で寿司や海鮮丼を食べてしまう父のようになってはいけない。

 

 

ヘーゲル『精神現象学』の訳書比較

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最近、熊野訳『精神現象学』を読んでいる

熊野訳は読みやすく、訳出が比較的的確

 ずいぶん久しぶりに本の話をしよう。このブログは元々本の話をするために立ち上げたのだし(「ブログ名「読んだ木」について - 読んだ木」参照)。

 ヘーゲル精神現象学』の訳はいろいろあるが、最も読みやすく、かつ内容がよく原文に即しているとされるのが、筑摩から2018年に文庫で出ている熊野純彦訳のものだ。確かにこれは、驚くほど読みやすい。その理由はいくつかあると思う。

 第一に、訳語の扱いである。即自、対自、対他などという、これまでの訳書で通例使われてきた専門用語化した和訳語を使わず、文意に即してその時々で訳し分けている。さらに、安易に原語を漢字に置き換えた熟語にせず、それをいちいち開いている。例えば、An-und-für-sich-seinをあるところでは「絶対的な」、またあるところでは「それ自体として、かつそれ自身に対して存在すること」と訳し分ける、といった具合だ。

 第二に、文章の構造だ。ヘーゲルの読みにくさは文章をes(それ)やハイフン、セミコロンにカンマでどんどん繋いで、一体何のことを話している文章なのかわからなくなるところにある。これをそのまま訳すと、意図不明な概念が次々に並ぶことになり、しかも指示語が続いて何のことを言っているのかわからなくなる。これに対し熊野はいちいち指示語を元の言葉に置き換えて、文を切って、迷子にならないで読めるよう工夫して訳している。

 第三に、これに伴う弊害として原語に対応する訳語の不統一があるが、それに対して原語のルビを振り、適宜原語をはさみ、さらに訳注をつけるという丁寧さだ。1ページの中にルビの「フールジッヒ」(für-sich)が6回も出てくる場所があるほどであって、それはそれに当てている訳語がそれぞれ文意に則して変えられていることから、原文では同じ言葉であることを説明するために必要なのである。これは今までであれば、単に「対自」などと訳されて終わりだった。

熊野訳で難儀していること

 しかしこれは、確かに読む分にはいいのだが、要約してレジュメを作るとなると困難である。同じ「対自」という言葉にいろいろと述語が当てられているというのであれば、要約したときに論理構造に支障がない範囲でざっと抜き出せば良い。しかし、表現がそれぞれ違っていて、必ずしも全てに原語がルビで振られているわけではないとすると、言語では同じ言葉かどうか、同じ言葉でなくても同じ語根が意識されている単語でないかどうか、ということをいちいち原文にあたっていく必要がある。それをしないと、大まかな流れは掴めても、根拠となる論理構造の緻密さがいまいち掴めず、ゆえに適切な要約ができないからだ。言葉が開かれすぎていて困る、という点では、岩波から出ている水田洋訳のスミス『道徳感情論』を彷彿とさせる。どうもいちいちひらがなが多いところなど、似ているところがある。

 僕のように、原文を読むほど丁寧に読むわけではないが、細かい論理構造はしっかり把握したいという立場では、日本語にその構造が細かく反映されていない訳の場合、頭を抱えることになる。結局、原文を読まなくてはならなくなるからだ。研究会などで、他の人がその分野のスペシャリストではない場合、なおさらその責任は重くなる。そこで今は、手に取りやすい最新の原書、2020年に出たレクラム版のG. W. F. Hagel, Phänomenologie des Geistesを片手にヒイヒイ言いながら要約をしているわけだが、僕はドイツ語が読めるわけでもないし、ヘーゲルの文章はダラダラしててややこしいし、全く参ってしまう。この意味では、樫山訳は内容はわからなくても要約はそれなりにスムーズにできそうである。

 加えて、熊野訳でちょっと気になるのは、もちろんこれも読みやすさのための配慮ではあるのだが、訳者によって小見出しがつけられていることである。この小見出しが、やや訳者の読みが入り過ぎているように感じる。他の訳書でも読者の便を考えて小見出しを補足することはよくあるのだが、せいぜいその節でテーマとなっている熟語とか、人名を掲げるという程度だ。文章を元にしつつつけてはいるものの、その小見出しがつけられている文章におけるヘーゲルの主張で中心となっている言葉が必ずしも小見出しになっているわけではなく、その割に丁寧な小見出しとなっているので、やや混乱をきたすように思う。少なくとも、要約する際にそのまま使えるようなものではない。

どの訳書を読むべきか、用途や立場に合わせて選ぶ

熊野純彦訳『精神現象学筑摩書房、2019年

 とはいえ、文庫で手に入れられて、一般の人も読みやすいという点で熊野訳は最も優れている。ヘーゲルあるいは『精神現象学』を名前しか知らないが、その内容を知りたい、という人には良いだろう。それなりに安いし。それから、Kindle版があるのもナウでヤングな方面にはありがたい。Kindleでは単語で検索したりすることができる点、何かと便利であるそうだ。本だと文庫とはいえ上下各700ページあるので、だいぶ嵩張る。しかし、気合を入れれば最後まで読み通すことができるだろう。付属校のひねくれた高校生、時間のある大学生、あるいはこの方面を専攻していない大学院生、あるいは社会人が取り組むなら、この訳書をお勧めする。序文と序論を最後から最後まで読み、途中は飛ばしたりしても良いから、関心のあるところを拾い読みすれば良いだろう。

 ▼Kindle

樫山欽四郎訳『精神現象学平凡社、1997年

 1990年代に平凡社から出た樫山訳は、平凡社ライブラリーの版型を文庫版と見做すなら、初めて文庫サイズで出た精神現象学だろうと思う。その意味で、フランス現代思想ブームの中で『精神現象学』を読みたい人の期待に応えた良書であった。しかし、これは元を辿れば河出から出た1960年代の訳を引き継いでいるもので、それから半世紀以上経ち、文庫でも熊野訳が出た今となっては、いかんせん読むのが難しすぎると感じる。日本語にはなっているが、こなれていないので読み通すのが非常に難しいのだ。熊野訳は研究会などで使うには耐えない訳だと感じるので、複数人で真面目に読んでいこうというなら、樫山訳を使ってもいいかもしれない。

 できれば、すでにある程度内容を知っていて、適宜原文と対照しながら読むというのがいいだろう。特に、ドイツ語を多少は読める、ドイツ語で先に読んで後から日本語で読む、という人にはお勧めだ。値段は安く、最も手に取りやすいものと言えるが、何も知らない大学生などにはお勧めしない。松岡正剛氏はそれでも学生時代に河出の訳で読んだらしいから、さすがに大したものである(1708夜『精神現象学』G・W・F・ヘーゲル|松岡正剛の千夜千冊)。まぁ当時は、他に訳書がなかったという事情が大きいだろうが、そもそもこんな本は今でも読む学生は一握りしかいないだろう。

 

 

 

牧野紀之訳『精神現象学 第二版』未知谷、2018年

 もう少し立ち入った研究会などで使うなら、未知谷から出ている牧野紀之訳が一番良いと思われる。ただこれは値段が本当に高く、1年ぐらいは取り組み、かつ今後の人生でも何度か使うくらいつもりで買わないともったいないだろう。牧野訳の良いところは、訳者の訳に対する考え方が逐一書かれていることで、しかもそれがかなりの部分正鵠を射ているということだ。例えば熊野訳で序文の最初の節の小見出しに「哲学書に「序文」は必要か?」とあるのは、パッと見るとヘーゲルが「哲学書に「序文」は必要ない」と反語的に言っているように思えるが、これは明らかにミスリードで、ヘーゲルは明らかにこれ以下の文章で「哲学書に「序文」は必要か?不要ではないか?という見方もあるようだが、実際は不要などではなく、適切な書き方をされるのであれば、本当に必要なものだ」という趣旨のことを言っている。これは、ヘーゲルがscheinenの使い方を反語的に用いる癖があるからであって、そういうことが牧野訳ではしっかりと解説されている。そういうところが逆に、研究会などで熊野訳を使うハードルになる。

 なお、「第二版」とあるのは序文がヘーゲルの改稿版を元にしたとかいうことではなく、もともと出版社が初版を2001年に出したのだが、初版絶版になったので再版し、その時にちょっとした論考も付したので版を改めて第二版としたもので、訳文には特に手が入っていないらしい(詳しく確認してはいない)。

 
金子武蔵訳『精神の現象学岩波書店、2016年

 あるいは、人生かけてヘーゲルの思想に取り組んでみたいという人が、精神現象学を読むために使うのは、もっとも深い分析と解釈を備えた金子武蔵訳『精神の現象学岩波書店だといわれる。あまり詳しくないのだが、最近はオンデマンドで発注すれば数ヶ月後に製本して送ってくれるという次第になっているらしい。この出版年2016年というのはオンデマンド版が出た年なのだが、元々は1970年代に出た訳で、それに注解などを加えたものが21世紀入ってから出て(既に絶版)、元の訳書がこの年にオンデマンド版になった、という次第である。三冊もあるから覚悟がいる。

 

 

 

 

 

長谷川宏訳『精神現象学』作品社、1998年

 長谷川訳は、熊野訳とおなじように読みやすさを目指した翻訳だ。長谷川氏はマルクスなどもその要領で翻訳しており、その後光文社新訳などで流行した、一般読者にも親しみやすい訳を目指したはしりの翻訳者である。が、いかんせん意訳すぎる部分があり、その意訳が原文の意図に沿っているかどうか怪しいところがある。これは牧野氏にかなり突っ込まれていたはずだ。97年に樫山訳が平凡社ライブラリーで出て、98年に長谷川訳、すぐ01年に牧野訳が出て、金子訳もその頃再版のようなことをされているから、何か2000年前後にヘーゲルを読む機運があったのだろうと思う。

 原書を手元に置きたい人は

 ちなみに、精神現象学の原文はネットに公開されているので、わざわざ本を買うまでもないかもしれない。しかし、紙でできた実物の原書を研究などの用で手元に置きたいという人には、レクラムの2020年版の本がおすすめ。簡単な出版の系譜、先行文献のまとめ、それから2020年の『思想』にアドルノ論を寄せているゲオルグ・W・ベルトラムが解説を書いている。文庫サイズで700ページ弱、ペーパーバックなので軽くてよい。序文に対するヘーゲル1831年の改稿の異同も脚注で補足されている。

 

ヘーゲルだけで終わらせてはいけない

 ヘーゲルを読んだなら、その後の時代としてフォイエルバッハニーチェハイデガードゥルーズなどを読んでいくことになるかもしれない。日本に関心がある人なら田辺元なども。あるいは、その前の時代としてカントやロック、古代ギリシャなどにも遡っていく人がいるかもしれない。おいおいその辺もこのブログに書くかもしれない(が、それなら松岡正剛の千夜千冊にアクセスした方が早いかもしれない)。

 

▼哲学入門書について書いた記事

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▼人文系の研究者むけ

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はてなブログ100記事到達とその後

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150日弱、5ヶ月程度かけて100記事に到達

 

 以前、通算1000アクセス到達時に記事を書いた。しかし、あの時はまだブログがインターネット上に出ているとまでは言い難かった。オーガニックなアクセスが皆無で、Twitterはてなのコミュニティからのアクセスに頼っていたからだ。

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 今回、100記事に到達し、アクセス数はともかくとしても、検索流入なども発生してようやく本来のブログらしくなってきたので、ざっと状況を整理してみたい。

 

100記事到達直後(2021/7/6)

 だいぶスローペースだが、このブログの記事が100記事に到達したらしい。ブログ開設から142日、週にしておよそ20週、月にして5ヶ月弱ということだから、ひと月20記事、週に5記事というわけで、平日毎日書いているくらいのペースらしい。投稿日数は56日とあるから、1日2記事程度書いていることが多いようだ。本当だろうか、あまりそんなにたくさん書いているつもりはないのだが。

アクセス数と記事数の関係

 アクセス数はまだあまり記事数に対応して伸びるということもない。開設後初めて1000アクセスに達した際に「はてなブログ1000アクセス到達 - 読んだ木」という記事を書いたが、そこでは1記事5アクセス、Twitter連携するとその三倍で15アクセス、とある。Twitter連携したのはブログを始めて1ヶ月ほど過ぎた頃だった(ブログのTwitter連携 - 読んだ木)から、まぁ1500アクセスまでは行っていないが、最初の1ヶ月で20記事×5アクセス=100アクセス程度、その後4ヶ月で80記事×15アクセス=1200アクセスというわけで、合わせて1300アクセス。現在のアクセス数は1276アクセスだから大体あってる。

googleからの検索流入の開始

 90記事を超えたあたりから、どうも検索流入が増えているように感じられる。元々bingとは相性が良く、わずかながら検索流入があったのだが、最近はgoogleからの流入も始まっている。今後は検索によるアクセス増が見込まれ、本格的にアクセスが増える流れになるかもしれない。一方、ここのところ記事の管理を怠っていた。具体的には、記事同士の内部リンクを全然作ってなかった。そのため新しく書いた記事がグーグルなど検索サイトにインデックスされず、検索対象にならなくなっている。ここを改善しつつ、今後のアクセスの流れを注視していきたい。(→この結果は後日具体的に判明した。本記事の次の節を参照のこと)

1万アクセスへ到達したい場合

 なお、開始から時間が経ってきて、アクセスが増えてくると、本来注目しなければならないのは月次の数字だ。現在、Googleアナリティクスで月100ユーザ行かない程度。はてなブログでは月100〜200アクセスという程度だ。巷では月1万PVとか10万PVということで盛り上がっているが、月20記事のペースで書くとすると、1万アクセスへ到達するには1記事500アクセスが必要だ。Twitterで3倍になるペースを維持するとすると、何もしなくても1記事150アクセスあるようにしなければならない。今読者が10人弱なので、それが30倍、300人くらいになるとそのぐらいのアクセスに達する。あるいは、Twitterのフォロワーが現在やはり10人弱で、これが150倍になるようにするとすると、50倍、500人くらいのフォロワーがいればそうなるかもしれない。

はてなブログの読者の増加

  なお、このすぐ後に読者数が10人を超えた。詳細はこちらの記事で。本記事の続きでは、100記事到達から数日経って判明したその効果についてさらに確認していこう。

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100記事到達から数日後(〜7月末)

 100記事到達から数日経つと、目に見えて変化が起きた。それはインプレッションの急増(Google Search Consoleデータより)と、アフィリエイトリンクからこのブログ初の売上発生である。

インプレッションの増加

 インプレッション、つまりgoogleの検索結果に表示されることが増えるということは、そのクリックも増えることを当然意味するのだが、これまで1日5回程度しかインプレッションが発生していなかったのが、100記事を越えたことを機に恒常的に10回前後のインプレッションが発生するようになった。クリック数もサーチコンソールで表示されるものの、あまり正確な数字とも思えない場合があり、そちらは参考にしていない。ちなみに、はてなブログgoogleサイトマップがちゃんと送信されないことで有名であり(【2020年4月~】はてなブログのサイトマップの形式が変わりました。 - *1)、公式はそれに対して匙を投げているので(GoogleSearchConsoleからのサイトマップ送信に失敗する問題について)、このブログも100記事あるけど30〜40記事くらいしかインデックスされてない。まぁでも、ブログを始めた頃の殴り書きみたいな記事が検索に引っかかってもしょうがないからね。十年前とは違うんだよ十年前とは(昔はTwitterのツイートみたいな記事でも検索に引っかかってめっちゃアクセスがあった。「はてなブログ1000アクセス到達 - 読んだ木」参照)。100記事ぐらい書いていく中で、ライティングがうまくなって記事の質が上がった、ということが色々な部分に影響しているということも言えそうだ。ただこれは個人差があるので、定量的な指標としては扱えないけれども。

Amazonアソシエイトでの売り上げ発生

 これと並行して、Amazonアソシエイトで売り上げが発生したのは驚きであった。このブログはアフィリエイトでやっているわけではないから別に何か商材をお勧めしているわけではない。ただ、アフィリエイトリンクは本や音楽に言及する際、画像の表示や文献紹介として非常に便利なので、設定しているのである。しかし、これもある程度生地の厚みが出て来れば勝手にそういう流れができるものなのだと感心した。

 (ただし、これを書いた1ヶ月後くらいには、規定の売上回数に満たなかったためにAmazonアソシエイトの申請が棄却されてアソシエイトアカウントが停止した。「Amazonアソシエイトの停止 - 読んだ木」参照。もう少しアクセスが増えてから再び開設する予定である)

その他の点について

 もう少し細かい点で言えば、他国からのスパムアクセスが散見されるようになった。昔の、pingを送信しまくっていた時代と違い、ロシアから元のアクセス数の2倍のスパムアクセスがある、ということはないが、やはりブログの読まれかたの計測には支障がある。それから、アクセスがたまに1ユーザーが大量のPVを算出する、という形から、毎時1アクセスの流入がある、という形に変化してきた。ページが多くなるにつれ、個々のページへのアクセスは増加したが、回遊性が低下しているということだ。これはより適切な他の指標からも窺える。一応シリーズ化した記事では他記事にも誘導するようリンクをまとめているものの、まだわざわざ次の記事まで読むほどの面白さもないというところか。僕にも土屋賢二ほどのユーモアがあればなぁ。

 

 

*1:7回目の出直し🌼

ブログの書き方について

 ブログの書き方について自分でも色々考えたり書いたりしているので、その試行錯誤の過程を一応このページにまとめて、後で読んで整理しようと思っている。この中から、自分に合った方法をその時々で選ぶ、というのが、もっともよくブログを書ける(アクセスを集めるというよりも楽しく書ける)方法だと思っている。

それわた

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 これは前座。はやみねかおるの小説に出てくる「それわた」(「それが私にとってなんだというのでしょう」の略)という言葉こそブログ記事にふさわしい、そういうどうでもいい話でブログが盛り上がるような時代が再来してほしい、という話。別に書き方について書いているわけではないが、読まれるようなものをあえて書く必要はないということを書いた。

 

言語習得したい

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 他言語を使う必要に色々迫られている中で、逆に自分が他言語話者と全然意思疎通ができていない、ということを残念に思った、という話。言語習得は、他言語だけでなく母語でも重要である。

 

気持ちを言葉で表現する

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 「それわた」の記事では、他人は関心のないような自分のことを掘り下げて書くことに意味を見出し、「言語習得」の記事ではいろいろな人と話せるようになりたいと書いたので、その帰結として色々な人とお互いのことを深く理解できるような会話をするためにはどのような表現が必要か、ということを少し考えてみたもの。これはちょっとブログの書き方の方法論となっている。

 

喋ってる感じで描く

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「気持ちを言葉で表現」という話の流れから、さらに文体の問題へと進んでいく。ロジカルな表現に向いている書き言葉に対して、感情表現に向いている話し言葉という差異があって、後者をブログで扱うのは色々と困難がある、という話。

 

やっぱり話し言葉

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 前の記事とセットになっている記事。前の記事で話し言葉には色々困難があると書いた。とはいえ、書き言葉に馴染んだ自分にとってはむしろそこに新たな表現の可能性があるのではないか、という話。また、それがどうしたらできるのか、ということ。

 

変化に満ちた面白いブログ、あるいは

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何を書くか、ということは、自分がどのような変化を把握したか、ということにほかならず、書かれうるものとは認識の対象となる全てのものであり、それは変化したものである、という話。ブログ記事のテーマ選定の方法論。

 

ブログ記事の整理と改善

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 ブログ運営では欠かせないリライト。僕は主に三つの方法を実行している。