読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

大瀧詠一で真夏を彩る

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 もう、梅雨明けなのだろうか。暑い日差しがアスファルトを熱し、うだるような気候にうんざりさせられる。しかし、日陰で風が吹いてくれば、もうしばらくすれば秋がくることの予感もある。夏だ。

 

 

A Long Vacation

 真夏の始まり、ということでかける曲は、TUBE——ではない。通称ロンバケ大瀧詠一のA Long Vacation である。

  昔はこれ、レコードで聴いてたんだよなぁ。今はちょっと置く場所もないし、子供が走り回って針飛ばしたり盤割ったりしそうなので、実家に眠らせている。レコードで聞くのがなんか夏っぽいんだけどな。とはいえ、Apple MusicでiPhoneから聴くのでも、最近は音質がいい。Lossless とかいって、設定で高音質再生を選択しておくと、例えば「君は天然色」最初のチューニング音に含まれる高い倍音なんかまで聴こえてくるほどちゃんと音が再現される。でもレコードがいいよなぁ。

 レコードがいいのは、このジャケットのイラストもある。レコードのジャケットのイラストでいえば、前に記事にしたリー・オスカー「風をみたかい」の鈴木英人のイラストもイケてる(リー・オスカーのベスト盤「風を見たかい」:「約束の地」「朝日のサンフランシスコ・ベイ」ほか - 読んだ木)。でも、このロンバケのジャケットも相当いけてるし、こっちの方がよく知られているだろう。このイラストは言わずと知れた永井博のものだ。この、海のそばのプールの誰もいない感じ、これが大瀧詠一の歌が描くちょっとアンニュイな雰囲気をよく表現している。

▼昔の写真見返してたらジャケットを写真に収めていた!

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A LONG VACATION のLPジャケット

 ▼Amazonでは当時のLPもまだ入手可能らしい。これで子供に割られても安心だ(?)

 

君は天然色

  このアルバムの収録曲の目玉はなんといっても最初の「君は天然色」だが、この歌のタイトル自体が既に色褪せている。僕は結構大きくなるまで、これを「きみはてんねんいろ」と読んでいた。もしかしたらこの記事の読者にもそう読む向きがあるかもしれないが、それは間違いだ。ここでいう「天然色」は「てんねんしょく」と読むのである。しかし21世紀を生きる僕らに天然色なんて言葉は馴染みがなくてな。

 一応補足しておくと、天然色というのは、昔、白黒の映画しかなかった頃に、新たにカラー映画が出てきた時、自然の色みnatural colorだ、ということで「天然色」と打ち出したのである。つまりフルカラーという意味だ。なお、「オールカラー」「総天然色」という表現もあるが、これは一部だけフルカラーの映画があったので、それと区別するためにそう銘打っていたらしい(Wikipedia情報)。

 

 他の曲もそうだが、全体的に海辺のリゾートにいる話であって、だからイラストも海辺の屋外プール付きホテルだと解釈すべきだろう。いまどきこんな綺麗で静かなところはインドネシアにでも行かなければないかもしれないが。歌の登場人物も、血気盛んな若者というより、もう散々遊んで、30代とか40代に突入し、しかし子供などはおらず生活上の余裕があり、まだ遊びたいけどもう元気もないし、という雰囲気を感じる。村上春樹とは違う方向性のアンニュイさだ。こちらは遊び方を知っている、というかね。まぁバブル崩壊後の日本ではちょっとイメージも湧かないような贅沢さがある。

 

カナリア諸島にて

 いやほんと、その贅沢さってのはいいもんで。「カナリア諸島にて」を聴いて、じゃあカナリア諸島はどこにあるのかな、と。

  Googleで検索してみると、アフリカ北西部のスペイン領の群島です、とか出てくる。

 おおー良さげなところだ。なんか洞窟とかもあるらしい。でも日本の歌でこんなところを歌詞にするって、やっぱりそういう時代だったんだよね。日本人が高度成長期で世界各地に出かけて行って、そこで稼いだり遊んだりしてた頃。村上春樹マルタ島について書いたり(スプートニクの恋人 (講談社文庫))、沢木耕太郎ユーラシア大陸縦断してるし(深夜特急1―香港・マカオ―(新潮文庫))、なんか余裕があったいい時代だったよね。今はみんな貧乏旅行か物価の安いところに逃避するしかなくて、先進国のプール付きホテルのリゾートに行くとかはできないからなぁ。余裕のないヒッピー文化がスピリチュアル化して貧乏の忍耐を説くための自己啓発になる、あるいは教祖のためのカモ作りに使われる、みたいなところがあって、やっぱり反資本主義的な文化も資本の支えがないとな……なんて思ったりしてる。ともあれ、今どきの、自分の部屋すら一歩も出ないで世界が変わることを祈るような歌とは違う味わいがある。最近のそういう歌も好きなんだけどね。yama とか聴いてるし。

 ▼yamaで一番すきな曲

 

 

 まぁ、このコロナ禍でそもそも旅行も何もできない時代なので、贅沢とかそういったこと以前の話という感じもするが、なんとか想像力を働かせて、妄想の中だけでも夏を楽しみたいものである。

 

追記

 今日たまたま見かけたニュースで、ロンバケSACD (Super Audio CD)が、発売40周年記念で出るとか(大滝詠一、名盤『A LONG VACATION』のSuper Audio CDがSony Music国内歴代1位の初回出荷枚数を記録 | E-TALENTBANK co.,ltd.)。40周年記念ですでに色々出てたような? と思ったが、確かに上の方に貼ったリンクは40周年の再販CDでもSACDではなかったようだ。さらに、アナログレコードもでるそう。これは音質違うのかな、うちにあるアナログレコードも多少プレミアだったりして? やっぱり子供に割られないように大切に聴かなくては……

 

SACDのやつってこれかな?

▼40周年LPはこれだ。ちょっとほしいな。笑

 

 

* * *

〔季節に合わせた曲の話シリーズ〕

春の訪れを感じた時:「モーツァルト日和 - 読んだ木
春のまだ肌寒い頃「リー・オスカーのベスト盤「風を見たかい」:「約束の地」「朝日のサンフランシスコ・ベイ」ほか - 読んだ木
少し暖かい春の朝:「カーペンターズの朝 - 読んだ木
初夏の空気:「懐かしい吹奏楽曲「セドナ」を聴きながら - 読んだ木

チック・コリアの「スペイン」いろいろ

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 チック・コリアについてはこれまでの記事でもちょくちょく話題にしてきた。(例えば1940年代生まれの音楽家たち - 読んだ木。この記事は、チック・コリアの亡くなる前後に書いたものだった。)

 しかし、考えてみればまだ曲について書いたことはあまりなかったかもしれない。「男子高校生の演奏 - 読んだ木」で触れた通り、僕がチック・コリアを好きになったのは高校生の吹奏楽部で「スペイン」を演奏したからだったが、その楽譜は熱帯JAZZのもので、オリジナルのものとはかなり違うものでもあった。そんな「スペイン」の様々な演奏が、最近はApple Musicで聴き比べることができる。大変便利な時代だ。

 僕自身は、音楽については素人だから、別にレビューとかそういうことができるわけではないが、当時の郷愁もあるので、誰かに読んでもらいたいということではなく自分のために、いろいろな「スペイン」の演奏についてメモ程度にまとめておこうと思う。

(見出しの括弧内は録音年→リリース年) 

 

 

チック・コリア演奏録音

「スペイン」オリジナル録音(1972→1973) 

Light As a Feather
・普通のCD→Light As a Feather
・別テイクの入った2枚組CD→ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)
 ・SMH、UHQ、MP3など→ライト・アズ・ア・フェザー
Amazon Musicスペイン

 

 「スペイン」という曲の最もよく知られているスタンダードな演奏は、このライト・アズ・ア・フェザー "light as a feather"というアルバムに収められたものだ。1972年録音、73年リリース。冒頭、チックが電子ピアノで奏でるアランフェス協奏曲の第2楽章の、テレレ〜 テレレーレレーレ テレレ〜という哀愁ただようイントロが特徴的。

 ただ、後述するチックの様々な演奏、あるいはアレンジの多様さと比較すれば、演奏の味わいはあっさりしているし、曲の性格としても、冒頭にアランフェス協奏曲が引用されている他はそれほどスペイン風の曲調が再現されているわけではないし、チック・コリアのプレイが前面に出ているわけではないから、後世の人間が聴いてもそれほどインパクトを受けないかもしれない。ただ、歴史的にはやはり当時大きな影響があったのであって、全ての出発点としてこの録音があるのだ。

 

「スペイン」アナザーテイク(1972→1998)

ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)


・アナザーテイクの入った2枚組CD→ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)
Amazon Musicスペイン(別テイク)


 これはアナザーテイクということで、1998年に出たリマスター盤のボーナスディスクに収められたもの。上述の採用テイクより若干テンポが早いのが魅力。ただフルートが前者よりも力無い感じで、そこがイマイチかな。そのせいでテンポが早めにも関わらず全体的に乗り切れてない感じを受ける。 

 

チック・コリア・アコースティック・バンド版「スペイン」(1989→1989)

Akoustic Band
CD→Akoustic Band Standards and More
LP(中古品だがLPが売っている!2022/4/25時点)→Akoustic Band [Analog]

 

 ピアノ・ソロ版「スペイン」に対して、ソロではないんだけど、チック・コリア・アコースティック・バンドの有名な演奏が、チックのピアノが前面に出たバージョンの「スペイン」としてよく知られていると思う。チックのピアノを楽しみつつ「スペイン」を聴くなら、ソロよりもこれだと思う。

 このバンドは写真の通り、ジョン・パティトゥッチというベーシストと、デイヴ・ウェックルというフュージョン系のドラマーとの比較的若い3人のトリオで、フルートやサックスが入っていないこともあり、おしゃれで耳障りのいい演奏に仕上がっている。とはいえ、それはあくまでチック好きの立場からの感想で、実際はチックのめちゃめちゃ手数の多い演奏がバンドとうまく調和してるというもの。ムーディなBGMになるジャズナンバーとはわけが違う。
 これは僕は、「スペイン」の様々な録音の中で最もチック・コリアの良さというか、らしさがうまく出ている録音だと思う。しかし惜しむらくは、なぜかApple Musicに入っていないのである! 大変残念なことだ。

 

ソロプレイ「スペイン」(?→2008)

 

Chick Corea - Very Best Of Jazz: Thelonious Monk(2CD)

CD(新品)→Chick Corea - Very Best Of Jazz: Thelonious Monk(2CD)
CD(中古)→The Very Best Of Jazz - Chick Corea
Amazon MusicSpain (Live)


 チックがソロで「スペイン」を演奏する録音が入ったCDはいくつかあったと思うのだけど、これは2枚組CDのチック・コリアベスト盤で、ちょっと僕の検索能力だといつ録音されたものかとかはわからなかった。結構狭い箱でのライブで、ピアノソロで軽めに弾いているものだ。そのために時間も4分足らずと非常に短い。もうちょっとしっかりしたピアノ・ソロの「スペイン」の録音もあるはずなのだが、Apple Music上では見つけられなかった。

 

チック・コリア・トリオ版「スペイン」(2013→2013)

 

Trilogy

CD→Trilogy

CD、MP3、Amazon Musicなど→Trilogy by Chick Corea Trio

SHM-CDトリロジー (SHM-CD)


 これは、「Trilogy」というアルバムに収められた演奏で、2013年というかなり最近のライブ録音である。この演奏の魅力は、逆説的だがチックがあんまり弾いていないところだ。なんといってもニーニョ・ホセレのフラメンコギターとクリスチャン・マクブライドウッドベースの絡みが最高である。この二人が慎み深くスペイン風に「スペイン」の進行をたどっていく流れを邪魔せずに、チックが音を置いていく、それがまたムーディな雰囲気を醸している。ホルヘ・パルドのフルートがオリジナルのジョー・ファレルの演奏を想起させつつも、より情熱的なタンギングと丁寧なトリルで曲を盛り上げている。

 これは、のちに触れるパコ・デ・ルシア沖仁がほぼソロで奏でる「スペイン」とは異なり、フラメンコギターが中心となる「スペイン」ではあるがトリオだ、という点で特徴がある。チックが入っていることもあり、原曲が尊重され、フラメンコ風にアレンジするあまりリズムが崩れて三連符になるようなことがないことも、原曲好きの聴き手にとっては嬉しいところ。

 

カバー:ジャズ系

 ここからはカバー曲を扱っていこう。まずはジャズ系のアレンジから。

熱帯JAZZ楽団演奏「スペイン」(2003→2011) 

熱帯JAZZ楽団 XV~The CoversII~
アルバム(CD、MP3、Amazon Music)→熱帯JAZZ楽団 XV~The CoversII~
Amazon Music(単曲)→スペイン


 2003年の熱帯JAZZの7枚目のCDに収録された「スペイン」の「熱帯」アレンジで、Apple Musicに入ってるのはこっちのThe Covers 2に再録されたもの。中身は一緒のはず。熱帯アレンジというだけあって、コンガのポコポコいう音に乗せて重厚な金管バンドの音がまっすぐ飛んでくる熱い一曲だ。そういうアレンジの性質上、吹奏楽の楽譜になって高校生バンドなどによって演奏されている。その楽器編成もさることながら、冒頭を「スペイン」の主題にして、もともと冒頭にあったアランフェス協奏曲2楽章のフレーズが曲の中盤の転換部にどてっと突っ込まれている、これがすごくインパクトあるんだよね。
 雰囲気としては、ウェストサイド・ストーリー・メドレーみたいな感じ。ウェストサイド・ストーリーでいうウェストサイドっていうのは、アメリカ西海岸のことではなくニューヨークの地名で、東京で言えば「西川口物語」みたいな感じなのかな。それだとウェストリバーサイド・ストーリーになりそうだけど。まぁそれはいいとして、ウェストサイド・ストーリーは確かにニューヨークの話でニューヨークで上演されるけど、あれ物語の主要な登場人物がプエルトリコ人なんだよね。プエルトリコはもともとスペインの植民地で、20世紀にアメリカの管理下に移るんだけど、今でも自治領みたいな扱いで、スペイン風の文化が根付いている。それを反映した音楽になっているから、あれもスペイン風かつ熱帯っぽい雰囲気のある曲なのよね。だから熱帯JAZZ版「スペイン」が「ウェストサイド・ストーリー」風に聴こえるのも、多少は由縁のあることだと思う。

 

マンハッタン・ジャズ・クインテット演奏「スペイン」(2007→2008)

スペイン
CD、Amazon Musicスペイン
Amazon Music(単曲)→SPAIN


 マンハッタン・ジャズ・クインテットが演奏する「スペイン」。オープニングが時代劇みたい、といったらちょっと語弊があるかもしれないが、ミュートしたトランペットの高音のロングトーンから始まる独特のもの。中身の編曲はビッグバンドに最適化されたシンフォニックなもので、編曲家デイヴィッド・マシューズの面目躍如といったところだ。ただまぁ、チックではあり得ないタイミングでのメジャーへの進行とかあるので、ビッグバンドのアレンジとしてはいけてるけど、原曲好きな人には受け入れられないかも。吹奏楽やってた人なら、パートをばらしてそれぞれに受け持たせるこのアレンジは好きだと思う。

 

マンハッタン・ジャズ・クインテット演奏「スペイン」(?→2014)

Special Edition of Mjq-The 30th Anniversary by Manhattan Jazz Quintet (2014-10-08)

中古CD→Special Edition of Mjq-The 30th Anniversary by Manhattan Jazz Quintet (2014-10-08)


 トランペットが前面に出ている「スペイン」と言えばこれ。原曲のフルートの代わりをトランペットがやり、合いの手をサックスが入れるという形だ。前のMJQの編曲よりシンプルな編成。冒頭、アランフェス協奏曲のテーマをトランペットソロで吹くのは、まさに「必殺仕事人」のテーマそのものであり、時代劇を想起する人も多かろう(ただしあそこでトランペットのアランフェス協奏曲が使われている元ネタは多分マイルス・デイヴィスのアレンジだろう:「スケッチ・オブ・スペイン+3」)。なお、高校の部活の同期にしか通じない話ではあるが、高校2年生の定期演奏会第3部で「スペイン」をやる前に第2部で上演した音楽劇の中で、まさにそのトランペットソロがSEとして吹かれているので、あのとき期せずしてアランフェス協奏曲のバリエーションが2回演奏されたということになる。

 トランペット好きの人には一番楽しめる「スペイン」かもしれないけど、僕なんかはこれを聴くと、だからトランペットは鬱陶しいんだよな……って思っちゃうぐらいペットの主張が強い。それに合いの手を入れるサックスも本当になんていうか、自己主張が激しくて、曲全体としてはつっけんどんな印象を受ける。
 ただこれはもう、「スペイン」っぽさもチック・コリア感もないから、違う曲として聴けばそれなりに聴きごたえはある。なんか知らないけどドラムがオープンハイハットの付け根のところをずっとツンツクツクツクツンツクツクツクやっていて、「A列車で行こう」よりも列車みがある。言うなれば Spain ならぬ Austin で、テキサス・イーグル号でロサンゼルスからオースティンを経由してシカゴに行く長距離列車が砂漠地帯を駆け抜ける様を描いた曲、と説明された方がよっぽどしっくりくる。ロスからオースティンまではスペイン語の駅名も多いしね(そういう問題ではない)。

 

渡辺香津美 feat. 小曽根真 デュオ演奏「スペイン」(?→2016)

 

 

ベスト・オブ・domoイヤーズ
CD、MP3、Amazon Musicベスト・オブ・domoイヤーズ
Amazon Music(単曲)→スペイン [feat. 小曽根 真]


 フラメンコアレンジのギター版「スペイン」は数多くあれど、ジャズギター版「スペイン」はあまりない(多分)。その意味で貴重な録音なんじゃないか。渡辺香津美のギター演奏によるスペインは普通にかっこいいので、特に説明不要だろうが、面白いのは小曽根真がかなりチック・コリアの弾き方に忠実に演っているところ。そのおかげで、「スペイン」感はばっちり出ている。元のを聴いてないからわかんないんだけど、1998年のアルバム『ダンディズム』収録の録音なのかな。

 渡辺香津美の弾くスペインはこのほかにギターソロ、ストリングスとの共演もあるのだけれど、どちらも単に「スペイン」のインストアレンジ(元々インストだけど)って感じで、正直あまりそそられない。後述する沖仁とやったやつと小曽根真とやったこれだけは、「スペイン」として聴けるかな、と思う。ほかは渡辺香津美を聴きたい人のための「スペイン」かな、と。

 

カバー:フラメンコ系

パコ・デ・ルシアジョン・マクラフリンのギターデュオ演奏「スペイン」(1987→2016)

 

PACO & JOHN LIVE AT

LP(レコード盤!新品であるゾ!)→Paco and John Live at Montreux [Analog]
CD、MP3、Amazon MusicPACO & JOHN LIVE AT Montreux
※レビューにはDVDのレビューが書かれているが、DVD付きのものが売られている時といない時がある。購入時要チェック。
ライブDVD→PACO & JOHN-LIVE AT Montreux

 

 フラメンコ風の「スペイン」、というと語弊がある、フラメンコギターで表現しうる最高の「スペイン」、といえばこの録音だ。

 二人とも、ジャズもフラメンコも存分に演奏できるテクニックを持っている稀代のギタリストだ。「スペイン」という曲はまさにその二つを架橋するうってつけの存在である。さて、フラメンコはジャズと異なりカンテ(歌)やバイレ(踊り)が中核となる音楽である。しかも、パルマと呼ばれる手拍子や、サパテアードというタップダンスのような足鳴らし、パリージョというカスタネットのような打楽器などを用いて、かなり鋭くリズムを刻む。そのようなフラメンコの趣向が反映された「スペイン」は自ずと、観客を巻き込むようなはっきりとしたリズム感が表現されることになる。後述の通り、それは場合によっては「スペイン」の独自の細かいリズムを崩してフラメンコのノリに寄せていく結果になりかねない。しかしこの二人の演奏は、ジャズであることをも崩さない。よって、神業的なギター演奏によりその独自のリズムをさらに切れ味鋭く刻むことになるのだ。

 ライブDVDも評価が高いが、僕はまだ見る機会がない。そのうち入手して見てみたいと思う。

 

ミシェル・カミロ&トマティート演奏「スペイン」(2000?→2000) 

Spain

CD、MP3、Amazon Musicスペイン

 

 こちらはピアニストのミシェル・カミロとフラメンコ・ギタリストのトマティートの共演。ジャズに入れるかフラメンコに入れるか悩んだ。カミロはジャズ調に、トマティートはフラメンコ調に弾こうとしているので……ただまぁ、主役はトマティートであるはずだろうと思ってフラメンコの方へ。トマティートのギターは♪♬(8分音符+16分音符二つ)のリズムを8分三連符に崩してしまうのだが(チックもたまにやる)、それが情緒的な雰囲気を醸し出している。ピアノはかなりジャズ調に弾いているためにややトマティートとの齟齬があるが、音質のミクスチャが心地よいし、トマティートのソロではフラメンコギターの雰囲気を存分に楽しめる。

 

沖仁演奏「スペイン」バンドバージョン(?→2018)

Spain

CD、MP3、Amazon MusicSpain
Amazon Music(単曲)→Spain (Band Version)


 沖仁のギター演奏は日本刀のような切れ味がある。じゃあ、お前は日本刀でなんか切ったことがあるのか?と言われればそれはないのだが、言い直せば、沖仁の演奏は強い抑揚がなくリズムが正確無比、それでいて特に高音域の弦の音が鋭く、聴く人をドキドキさせる。これを比して日本刀、というわけだ。

 バンドアレンジなのでピアノとベースも入っているが、フラメンコらしくメインのリズムはパルマで取り、シャカシャカという音は多分シェイカーだと思うのだがそれにしてはリズムが細かい、雰囲気たっぷりだ。また、中盤にアランフェス協奏曲のテーマを入れてさらに盛り上げている。

 

沖仁 con 渡辺香津美「スペイン」(?→2015) 

エン・ビーボ!〜狂熱のライブ〜
CD、MP3、Amazon Musicエン・ビーボ!〜狂熱のライブ〜
Amazon Music(単曲)→スペイン

 

 フラメンコギターの沖仁エレキギター渡辺香津美のコンビで演奏する「スペイン」。小曽根との共演の時は、バブル期のフュージョンのような気障さが色濃く出ていた渡辺の演奏も、沖仁との共演ではむしろ沖のフラメンコの哀愁と情熱の漂う雰囲気を盛り上げる役割を担う。沖のギターも、バンドとやった時とは異なり、自由にのびのびと盛り上がったストロークで情熱を感じさせる。

 沖仁だからフラメンコ系に括ってしまったが、これはフラメンコとジャズとフュージョンの合間にあるような録音で、いずれとも言い難い。その意味では、曲の向かう方向が常に問い直されながら進行する、緊張感ある演奏であるとも言える。最終盤ではロック調の展開もあり、聴く者の息をつかせない。

 

元ネタ:アランフェス協奏曲

 さて、ここまで聴いた皆さんには(聴いてなくても)、改めてオリジナルのアランフェス協奏曲、ホアキン・ロドリーゴがスペインはマドリードの南にある都市アランフエスをモチーフに1939年に作曲されたそれを聴いてもらいたいものだ。

 

ジョン・ウィリアムズバレンボイム指揮イギリス室内管弦楽団

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲 他(ステレオ&マルチチャンネル)

 ジョン・ウィリアムズの演奏(映画音楽の人とは別)、オケはバレンボイム指揮のイギリス室内管弦楽団という正統派。(CD、MP3、Amazon Music)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲 他(ステレオ&マルチチャンネル)

ジョン・ウィリアムズフィラデルフィアオーケストラ

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲/カステルヌオーヴォ=テデスコ:ギター協奏曲 ほか

 これもジョン・ウィリアムズ。オケがフィラデルフィア管弦楽団でお手本のような演奏(CD)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲/カステルヌオーヴォ=テデスコ:ギター協奏曲 ほか

バルエコとドミンゴ

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲、ある貴紳のための幻想曲 他

 俗にバルエコ奏法と呼ばれる、アポヤンドせず端正かつ自然な現代的奏法を打ち立てたことで知られるバルエコと、言わずと知れたテノール歌手プラシド・ドミンゴがタッグを組む一枚(CD)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲、ある貴紳のための幻想曲 他

作曲のきっかけとなったペペ・ロメロ

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲

 アランフェス協奏曲はギタリストのセレドニオ・ロメロがロドリーゴに息子たちと協奏できる曲の作曲を頼んだことがきっかけで生まれた、その次男ペペ・ロメロの演奏。解釈が異なり好みは分かれるが、本来はこれが正しい解釈かもしれない(CD)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲

 

曲の雰囲気

 なんかApple musicに入ってるものとamazonのリンクがマッチしないんだよな。まぁ録音の取捨はさておき、これを聴くと意外な印象に打たれる。というのも、第一楽章と第三楽章はオーソドックな古典音楽風であり、僕のような素人が聴くと、後期バロックリュート音楽と言われればそんな気がしてくるぐらいである。第二楽章だけが敢えて聴けばスペイン風だが、そもそもバロック音楽組曲にもスペイン風の楽章というのは入っているのであって、これをもってスペインというわけにはなかなかいかない。

 ただ、この第二楽章は切り出されてギターの音楽、あるいはジャズアレンジされてスペイン風の音楽として非常に有名になった。それで、アランフェス協奏曲の第二楽章=スペイン風のギター音楽の代表となったわけだ。そこからチックはさらに主題を切り出して「スペイン」という曲を作ったのである。

 そこで思うのだが、今までジャズ風、フラメンコ風のアレンジの「スペイン」を聴いてきた。そこにはさらにフュージョンやロックの可能性もあった。しかしむしろ、リュートクラシックギターによるアンサンブルやオーケストラアレンジのクラシック風「スペイン」があってもいいのではないか。だれかそういう編曲で書いて演奏してくれないかな。

 

* * *

 

そのようなわけで、まだまだ新しい解釈や演奏の余地が多分にある「スペイン」の魅力、最初は、メモ程度に……と思っていたらずいぶん長くなってしまった。それぞれの録音について詳しくはまたいろんな人が書いているので、そちらもぜひ参照されたし。

ガーシュウィンとクラシック音楽としての「トムとジェリー」

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トムのようなすらっとして俊敏そうな猫には会ったことがない

 最近、子供に付き合ってトム・アンド・ジェリーを観ている。改めて観るとすごい。喋りはほぼなくて、全部がオーケストラの生演奏によるBGM兼効果音によって表現されている。つまり、作曲家がアニメに合わせて全部楽譜を書いて、オーケストラがアニメーションに合わせて演奏しているのだ。今からすると大変贅沢な仕立てだと思うし、1940年代から作られたにもかかわらず、今でも変わらぬ面白さと笑いを提供してくれているのがすごい。40年代に作られたものは日本では著作権が切れているので、視聴コストがかからないのもありがたい。

 

トムジェリとガーシュウィンとそのころのアメリ

 その中でも秀逸な一作は、1947年に公開された「猫のコンチェルト」。ハンガリー狂詩曲第2番を猫のトーマス(トム)がピアニストとして演奏するのだが、ピアノに住んでいたネズミのジェローム(ジェリー)が演奏に伴うピアノの動作により叩き起こされたために、トムの演奏を邪魔しようとして両者の間に小競り合いが引き起こされる、というシナリオだ。

 

トムとジェリー2 ピアノ・コンサート [DVD]

トムとジェリー2 ピアノ・コンサート [DVD]

  • 発売日: 2017/10/28
  • メディア: DVD
 

 

 演奏中に茶々が入ると、同じ部分が何度も繰り返されたり、急にジャズ調のメロディが挿入されたり、原曲にはないカデンツァが入ったりする。その時には曲の正しい進行が壊されているはずなのだが、アニメを観ているとそんな気はしない。むしろ、トムとジェリーの間のやりとりの中で、曲が次々に構築される、創造されているという印象を受ける。予定調和ではなく、色々な出来事を積み重ねることで全く新しい曲が生み出される、そんな風に聴こえるのだ。

 それはいわば、ジョージ・ガーシュウィンの曲のようなものかもしれない。ガーシュウィンの代表曲で「のだめカンタービレ」のアニメによっても有名になった「ラプソディ・イン・ブルー」は、1924年に書かれたものだ。その時はガーシュウィンが書いたものをファーディ・グローフェがジャスバンド向けにアレンジした楽譜であった。26年にグローフェが編曲したオーケストラ版が出て、最終的な版として現在まで流通することになるのは、1942年(ガーシュウィンはすでに37年に没している)にフランク・キャンベル=ワトソンが編曲したものだという(ウィキペディア情報)。

 

ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー、パリのアメリカ人、他
 

 

 どういう経緯でこんな素っ頓狂な曲ができたのかよくわからないが、この24年から42年という時期のアメリカの特異な雰囲気は、前の記事(雨の日のラヴェル、アメリカのラフマニノフ、道化のショスタコーヴィッチ - 読んだ木)でも書いたように、非常に興味深いものだ。つまりこの時代は、西洋の優美で繊細なクラシック音楽(定義が曖昧なのはご容赦あれ)や、それを書く作曲家たちが、ロシア革命ナチスの台頭に伴って荒々しく否定されていた時に、アメリカではアフリカ音楽や各地の民族音楽にルーツを持つ楽曲が渾然一体となって演奏されていて、ある意味で「正しい作曲」なんてものがなくなってしまった時代だった。ラヴェルも、ラフマニノフも、自分がそれまで培ってきた価値観が根底から掘り崩され、戸惑いながらアメリカを訪れたのである。当時のアメリカの音楽は、ある意味自由であったし、ある意味無秩序だと思われるようなものだったのではないか。確固たるスタイルもなければ、バンドやオケの編成もばらばら。音楽の真理を追求するのではなく、その場に即して最もエモーショナルなものを提示できたものが正しいという価値観。1898年にニューヨークで生まれたガーシュウィンはまさにそのような空気の中で育ち、20年代から38年に早逝するまでそこで作曲家として活躍していたのだった。

 

ラプソディ・イン・ブルーの「コレジャナイ」録音たち

 その意味でいえば、ガーシュウィンの曲そのものだけでなく、その演奏も、それまでのヨーロッパにおける「正しい演奏」を目指して演奏された録音は面白くない。Apple Musicで色々な演奏が聴けるが、例えばスロヴァキア放送交響楽団の1990年の演奏など正しすぎてひっくり返ってしまう。 

Gershwin: Rhapsody In Blue / Piano Concerto

Gershwin: Rhapsody In Blue / Piano Concerto

  • 発売日: 1990/07/02
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 音のつぶ一粒一粒がはっきりと聴こえ、しかも和音が進むにつれての楽器の積み重ねがはっきりわかるように演奏されている。和音が綺麗で、クラリネットのビビリ音が全然ないし、金管のビブラートが揃っている。なんか小節の頭拍がはっきりしていて、楽譜が見えるようだ。金管の登場が輝かしい。きわめつけは、途中のアドリブっぽい演奏が本当に……間抜け。確かにクラシック音楽の演奏技法としては正しいのだが、コレジャナイ感がすごい。

 2016年にリリースされた、郎朗(ランラン)の演奏したラプソディ・イン・ブルーは、いかにもアジア人が解釈して手を加えたらこういう演奏になりそうだ、という印象を受ける。ジャズをタバコ臭いバーで強い酒に朦朧としながら自分をなんらかの快感に持っていくために聴くというのではなく、それが録音されたLPやCDで日本製のオーディオ機器から聴いている人々は、ジャズにある種の「美しい」イメージを抱いている。静かなカフェのBGMになるほどの扱い、というわけだ。もちろんそれは、スムースジャズフュージョンなどが出てきた20世紀終盤以降のジャズについては適合的な理解だが、それを第二次大戦前のガーシュウィンに当てはめてはいけない。

ニューヨーク・ラプソディ

ニューヨーク・ラプソディ

  • アーティスト:Lang Lang
  • 発売日: 2016/09/14
  • メディア: CD
 

 

 著名な指揮者でしばしばこの曲を振っているのは、レオナルド・バーンスタインだ。バーンスタインは1919年生まれ、ユダヤアメリカ人で、10歳上のカラヤンと並んで名を馳せた。あの世代で近現代の曲を振る指揮者としては、彼がもっとも優れていたように思える。これまでに紹介した曲の中では、「雨の日のラヴェル、アメリカのラフマニノフ、道化のショスタコーヴィッチ - 読んだ木」で引いたショスタコーヴィチ交響曲第5番の録音が彼の指揮だった。

 彼が振った中で、ロサンゼルス交響楽団の演奏のものがある。

  この演奏は、冒頭のクラリネットがよくわかっていて、音を潰して、いくつかの音をビビらせることで雰囲気を出すことに成功している。ただ、テンポが遅いとまでは言わないけど、進行がどうももったりしていて面白くない。ジャズのリズムではない。スウィングがない。

  その点、やはりニューヨークフィルと演奏したこの演奏に勝るものはない。

  一目ならぬ一聴瞭然だが、ジャズらしい突っ込みと引き伸ばしの、スウィングのリズムが曲の全編にわたって継続している。そのおかげで、変に細工しなくとも曲に躍動感が出て、ラプソディ・イン・ブルーのもつ魅力がグッと引き出されている。そのリズムによって出る音引く音が自然に見えてくる。なぜみんなこういう風に演奏できないのか。最近はウィーンのニューイヤーコンサートでも、ウィンナワルツのリズムがどうもはっきり乗れなくて流れが作れてないと感じる演奏がある。みんなノリが悪い。もっと体を揺らしていこうぜ。

 

ガーシュウィンの弾くラプソディ・イン・ブルー

 じゃあそうすると結局、一番いい演奏はもうこの、「スムース」になる前の時代にしか残ってないという話になるわけだ。この、Gershwin Plays Gershwinに入っている、SP盤を聴いているかのようなひどい音質の録音である。

Rhapsody In Blue

Rhapsody In Blue

  • 発売日: 2010/12/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

  これがとにかく至高である。リズムも無茶苦茶、音もぐちゃぐちゃ。なのにすごくエモーションを掻き立てられる。楽器の状態が悪いからとにかく吹き込んで音を出さなきゃいけない。だからクラリネットのビビり音が入ったりする。ピアノも響かないから音が丸っこい、それに躍動感をつけるために、タッチが速い。音を出すために力強いのではない、音が出ないピアノでそれをやると単に重くなるだけだ。逆にポップにするために軽くひいたら、音が出ない。だからしっかり引くけど、早く鍵盤から指を跳ばす。跳ぶように引く。オケは、弾いているうちにどんどんリズムが早くなってしまう。だからレントのところでしっかりテンポを落とす。それで緩急が生まれる。作曲技術が単純で、主題の展開などが凝ってないから、聴いていると飽きそうになる。だからすぐ全く違う表情のメロディに移行する。それぞれのメロディは単純だけど、どんどん展開するから楽しい。言ってみれば、ヨーロッパの正統なる音楽教育を受けて形作られた高度な音楽と、多額の費用と大勢の観客を集めて維持されるようなオーケストラではないからこそ、生まれた音楽なのだ。だから、どんなにすごいオケがやってもいい音楽にならない。むしろ、いい技術を持っているがへそが曲がっているので売れたりはしないような場末のビッグバンドなどがいい演奏ができそうだが、もちろんそれゆえに素晴らしい演奏が録音される、ということはないかもしれない。録音されて世に出ているものがいつも最高なわけではないのだ。

 

クラシック音楽としての「トムとジェリー

 

 47年のトムジェリの、いわば「ハンガリー狂詩曲第2番による変奏曲」も、そのようなヨーロッパの音楽をアメリカナイズする文脈の上にあるような気がする。だからこれはこれとして、クラシックのある一曲として尊重されるべきだし、この作曲を手がけたスコット・ブラッドリーなどは近代音楽を代表する作曲家としてもっと評価されるべきだろう。言葉の世界でいう宮沢賢治のようなものであって、音楽で動きを表現する天才である。擬態語ならぬ擬態音というわけだ。動物を音楽で表現することはバロック時代から前例があるけれども、彼ほどそれをダイナミックに成し得た作曲家はそれまでには存在しないといえよう。

 放送開始から80年を経たトムジェリや、あるいはそのほかの劇場音楽などが、1世紀ぐらいの時を経て歴史となり、伝統あるオケで単独演奏され、録音される日も遠からず来るだろう。その時にはもう、西洋のクラシックが中心となるような音楽史解釈は崩壊しているだろう(今はまだ根強い)。その時には、本当に新しい、聴いたことのない音楽が生まれてくるに違いない。それまで生きて、そんな新たな音楽を楽しんでみたいものである。

 

 

クラシック音楽シリーズのまとめページ

 このブログで結構色々なクラシック音楽の作曲家と録音について書いてきたから、ちょっとまとめページを作っておこう。適宜更新。(3/26現在:8記事)

 

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 これが最初の記事。マルタ・アルゲリッチチック・コリアについて書いてる。

 

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 これが吹奏楽の話の一つ目で、吹奏楽でやったベルリオーズファウストの劫罰」、オルフ「カルミナ・ブラーナ」、やってないけどやりたかったディーリアス「ラ・カリンダ」の話。

 

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 短いけど、サイモン・ラトル指揮ベルリンフィル演奏のモーツァルトの話。前半に僕の音楽遍歴を書いてる。

 

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 ヴィルヘルム・ケンプ演奏、ベートーヴェンピアノコンチェルト第5番「皇帝」の録音について。

 

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 タイトルの通り、ラヴェルラフマニノフショスタコーヴィッチについて、作曲家の同時代性から時代背景を考えてみたもの。

 

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 ジュゼッペ・シノーポリの指揮するワーグナーの曲解釈が面白い、という話。

 

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 吹奏楽の話の第二弾。セドナとセレブレーション。

 

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 前のアメリカでのラフマやラヴェルの話に絡めて、ガーシュウィンと、「トムとジェリー」作曲家のスコット・ブラッドリーに言及。

 

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 メインはチック・コリアの「スペイン」の話だけど、最後のところでアランフェス協奏曲を取り上げているので。

懐かしい吹奏楽曲「セドナ」を聴きながら

 暑さ寒さも彼岸までとはよくいったもので、今日は初夏の空気すら思わせるような暖かい晴天の朝だ。太陽の光が体温を上昇させ、否応無く気分が向上する。

 これまで、春の曲として色々なものを紹介してきた。春が訪れたばかりの頃のポカポカ陽気の1日にはモーツァルトモーツァルト日和 - 読んだ木)、春の夕方の肌寒い風を感じたらリー・オスカー(リー・オスカーのベスト盤 - 読んだ木)、暖かい日差しと冷たい風の同居する朝にはカーペンターズカーペンターズの朝 - 読んだ木)、といった具合だ。しかし、もう風も暖かく、日差しも暖かく、身体も暖かくなってエンジンがかかってくるとなれば、もっと力強い曲を聴きたい。

 そこで今日選んだのは、ライニキー作曲の吹奏楽曲、「セドナ」だ。

 

セドナ

セドナ

  • 発売日: 2020/05/27
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 ちょくちょく書いてきていることだが、僕は高校時代に一瞬だけ吹奏楽部に属していたことがある(男子高校生の演奏 - 読んだ木)。その一番最初の頃に吹いたのが、セドナだったと思う。それを練習していた時を思い出してはたと気づいたのだが、内声重視の曲作りは大学時代のアンサンブルではなく、むしろこの吹奏楽の時代に叩き込まれたのだった。シノーポリの曲作りについて書いた前の記事(シノーポリのワーグナーが好きなわけ - 読んだ木)では、大学時代にビオラを弾いてたから内声に意識がいった、と書いたのだが、どうもそうでもないような気がする。逆に、吹奏楽で内声の位置付けとか、ピッチの微妙な調整とかを散々指導されているのをすでに間近で見ていたから、大学に入ってから内声をやることに抵抗がなかったのかもしれない。セドナは、それほど技巧的に難しい曲ではないが、それゆえに木管のスケールとか、ホルンの音高とか、基本的なテクニックの部分が完璧にこなされないと曲として完成しない。僕は低音だったから何もしなかったが、木管やホルンは再三厳しい練習を求められてかわいそうなくらいだった。

 セドナと同じような曲で、これは自分では吹いていないのだが、スウェアリンジェンの「管楽器と打楽器のためのセレブレーション」も好きな曲だ。これはセドナ以上に単純な曲で、相当丁寧に曲作りしないとなんだか間抜けな曲になってしまう。僕が吹奏楽曲を聞きたいと思った時によくかけていた、セドナとセレブレーションが入っているCDがあって、それが2001年の吹奏楽コンクールの自由曲選集だから、僕が吹奏楽部にいた2006年ごろにはまだそういった無邪気な曲をやる雰囲気があったのだろう(このCDはApple Musicには入っていなくて残念)。 

BRN(14)決定版!!吹奏楽コンクール自由曲選集2001「天空への挑戦」
 

 多分それ以降の吹奏楽曲ってもっとこう、正気を離れていった気がする。それ以降のことを知らないからなんとも言えないけど、近年耳にする吹奏楽曲ってなんていうか、技巧的な現代音楽みたいなものばかりだ。吹鳴する音の調和そのものの深さ、単純でもその奥にある倍音の味わいを楽しむ、といったようなことはあまり流行らないのだろうか。まぁコンクールではそれは微妙すぎて、あるいはできて当然なので評価し得ないということでもあるのかもしれない。しかしそれはピッチの調合では単純には測れないような、追究の余地があるようにも思う。

 

〔季節に合わせた曲の話シリーズ〕

春の訪れを感じた時:「モーツァルト日和 - 読んだ木
春のまだ肌寒い頃「リー・オスカーのベスト盤「風を見たかい」:「約束の地」「朝日のサンフランシスコ・ベイ」ほか - 読んだ木
少し暖かい春の朝:「カーペンターズの朝 - 読んだ木
初夏の空気:「懐かしい吹奏楽曲「セドナ」を聴きながら - 読んだ木」 
真夏の始まり:「大瀧詠一で真夏を彩る - 読んだ木

 

* * *

 

 自分で演奏したことのある吹奏楽曲の録音を聴いていると、自分が弾いた楽譜と違う音がしばしば出てくるので、違和感を持つことがある。というのも吹奏楽では、編成や人数、コンクールの尺と演奏の速さの関係などにより、原スコアをそのまま演奏することは稀で、演奏するバンドによって楽譜がアレンジされているからである。自分の頭の中に記憶されている「セドナ」の完成形のようなものがあり、それを求めて聴くのだが、それは一回きりのものだから、永遠にたどり着くことはできない。そもそも、当時だって楽譜通りに弾けていたわけでもないのだから、僕の頭の中に流れているセドナは現実には存在したことのないセドナだとすら言える。「男子高校生の演奏 - 読んだ木」の記事で書いたカルミナ・ブラーナも同様で、これも理想通りの演奏というものには出会ったことがない。

 この、理想というのは厄介なものだ。頭の中に流れている音楽と、実際に聴く音楽との違いに常に裏切られる気持ちになってしまう。音楽はわかりやすい例だが、概念化されたものはなんでもそうである。「愛」とか「共存」とか「平和」とか、脳内には何かしらの理想の像が出来上がっている。それはプラトンが「イデア」と呼んだもの、つまり完全なものの理念ということになるが、実際にはそんなものはない。だから、現実の恋愛で幻滅することもあれば、共に生きようとして相手を滅ぼしたりすることもあるし、世の中はいつまでたっても平和にならない。

 演奏家は音を工夫し、指揮者はその音を聞きながら音の積み重ねを工夫し、作曲家や編曲者は演奏を聴いたらそれをよりよくしようとスコアを書き換えてしまう。書き換えられたスコアを見て指揮者は解釈を変えて音の積み重ねを工夫し、それに合わせて演奏家は違う音色を出そうとする。そんなことをみんなでやっていたらいつまでも音楽は完成しない。吹奏楽だってコンクールがあるから終わらせることができるようなものの、本当に完璧な演奏を目指したら何年も同じ曲を練習し続けることになるだろう。

 作曲家が死んでようやく楽譜は確定し、録音された盤が出て一応それは完成された演奏として見なされる。そうすることでしか、何かにピリオドを打つことはできない。我々は何を目指してこんなに頑張っているのか、と悩んでしまった音楽家は、もう音楽を続けられない。ピカソが、芸術家が完成を目指し、それに到達したと思ってしまったらもう終わりだ、といったようなことをいっていたと思うが、常に現実に裏切られ続け、幻滅し続けることこそ芸術家の運命である。それでも自らのうちにある何かに向かおう、それに合わせて現実を変えていこう、あるいはそれを現実に表出させようとする情熱こそ、芸術を生み出す原動力となる。それは何かを書く稼業でも同じだが、とにかく現実に絶望し続けること、知らないことに目を開かされ続けること、これが書き続けるための最良の方法であり、同時にそれが、書き続けることが難しい理由でもある。

 

プラトンの哲学 (岩波新書)

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  • 作者:藤沢 令夫
  • 発売日: 1998/01/20
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くるりの「赤い電車」の芸の細かさ

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泉岳寺駅を発車する京急1000形1025編成未更新車(2019年4月5日)

 

くるりの「赤い電車

 昨日は家を出なかったのでナーバスな記事を書いた(何もない日々 - 読んだ木)けど、今日は家にいなくていい日だし、晴れてて日光を受けて気分が上々だし、何もなくてもいいような気がしてきた。

 こういう時は、奥田民生の「イージュー★ライダー」を流すに限る。気が抜けて楽になれる。

 このまま電車に乗ってどこか海の方へでも出かけたい気分である。そこで頭の中に流れてくるのがくるりの「赤い電車」。(この写真はC62だけど。梅小路のかな? スワローエンゼルかっこいい)

 

赤い電車

赤い電車

  • 発売日: 2016/09/14
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 「赤い電車」はシーメンス製のGTO-VVVFインバータSIBAS32を積んだ京急2100形と1000形をモチーフにした歌で、「ドレミファインバータ」と呼ばれる独特のインバータの変調音が曲中に再現されていることで知られている。ドレミファインバータの「ドレミファ」は階名読みで、実際には「ファソラシ」である、と一般に言われていることから、歌詞の中では音名読みとして「ファソラシドレミファソー」という表記でそのインバータ音が再現されている。

インバータ音の再現

 「ファソラシ」インバータだから、この曲はF dur、つまりヘ長調で書かれている。歌詞の「ファソラシドレミファソー」は、メロディの音名では「ファソラシ♭ドレミファソー」である。だが、ここには落とし穴がある。確かにインバータは「ファ」から始まる音階なのだが、その調はB dur変ロ長調なのだ。だから、インバータは「ファソラシ♭ドレミ♭ファソー」と鳴っている。シーメンスの狙いはわからないが、確かに、全音階の主音の1度音から始まるより、5度の属音から始まる方が動きが出て、電動車の起動音に相応しいのかもしれない。そして、鉄道に深い愛を注いでいるくるりの岸田は、間奏の中でこの音をエレキギターで忠実に再現している。そうすると、間奏で移調しないと音がぶつかる。B durに転調すれば簡単だが、順次進行を特徴とするこの歌でそんな転調をすれば雰囲気が壊れる。そこで、E♭M7、Dm7、D♭M7、Cm7と解決しないままドミナントを繰り返して下降することで、ファから始まるシ♭の音階を溶け込ませつつ、終点に近づいていく雰囲気を表現している。これはあまり知られていないことかもしれないが、F durで曲を書きつつB durを突っ込むために行われたこの処理は、僕はすごいテクニックだなと思う。

コンプレッサ音の再現

 もう一つ、あまり知られていないこの曲の興味深いポイントは、間奏でインバータの音だけでなく、コンプレッサの音も再現されていると思われることである。京急2100形および1000形のコンプレッサはこれまたドイツ製で、クノールブレムゼ社製のSL-22形というスクリュー式のものである。鉄道のコンプレッサは、スクリュー式のほかには国鉄車両がぶら下げていたようなレシプロ式のコンプレッサや、近年主流のスクロール式のコンプレッサがある。レシプロはシリンダのトトトト……という音が特徴で、スクロール式は連続的なブイーンという音がする。これに対してスクリュー式は、レシプロやスクロールのように作動部が接触する機構がないためそのような打音はせず、フゥイーンというやや透き通った回転音がする。さて、赤い電車の間奏では、インバータを模した上昇下降音形が2回繰り返された後、雰囲気の違うエフェクトでGの音が揺らぎながら伸ばされる。インバータの下降音形、つまり回生ブレーキの動作が終わった後なので電車は停車している。そこで動き出すのがコンプレッサだ。減速時のブレーキで減圧したタンクに空気を送り込むためにそれは働く。このGの音は、それを模しているのではないか。もしそうだとしたら、随分と芸が細かい。

ドレミファインバータへの個人的な思い入れ

 手元に保存されている動画を見ると、僕が最後にドレミファインバータを記録したのは2019年春の1025編成であった。この編成はその直後に機器更新が施され、歌わなくなっている。残るは1033編成のみで、2020年度に更新されることが確実視されていたことから、その年初からもうなくなる、もうなくなると言われ続けてきた。コロナ禍の影響もあって春は生き延び、夏にはなくなるかと思われたがまだ大丈夫で、冬には公式のインスタでも取り上げられ、ついに……と思われたが2021年を迎え、春になったいまでもまだ走っているらしい。ぜひインバータだけでも、横浜に新しくできた京急本社の下の博物館に置いてその音を楽しめるようにしてもらえないものか。

 というのも、ドレミファインバータに僕はそれなりに思い入れがあるのだ。京急ユーザではなかったが、小さい頃に常磐線のE501系でその音を聴いていたから。僕はそこに、ある種のノスタルジーを感じているのである。上野口にE501が来て、まだ103系415系が現役で、651系が駆け抜けていった時代の常磐線を思い出すのだ。

 

  

TOMIX Nゲージ E501系 水戸線 セット 98235 鉄道模型 電車

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  ※車両ネタの記事では他に
東急1000系の話→東急池上線 車両いろいろ、1000系いろいろ - 読んだ木
東急8000系8500系の話→最近会った東急8000系ファミリー - 読んだ木
伊豆急8000系の話→伊豆急行線の8000系 - 読んだ木
伊豆急2100系の話→伊豆急2100系 キンメ電車と黒船電車 - 読んだ木
東武30000系の話→東武30000系の思い出 - 読んだ木
もどうぞ。

3月9日と卒業ソング

 記念すべき50投稿目。

 明日は3月9日。レミオロメンを思い出す。

3月9日

3月9日

  • 発売日: 2019/10/01
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  ただ、卒業というとどうもユーミンの卒業写真を思い出す。これはおそらく、自分自身はあまり卒業というものを楽しんでいなかったからだろう。小学校の卒業式はとにかく練習が面倒だった記憶しかないし、中学校は終わりの方にやや不登校気味で、早く卒業したかった。中学校の卒業式の帰りに、あーこれでこの学校ともおさらばできて嬉しい!みたいなことを口走ったら、ヤンキーにガン飛ばされたのも嫌な記憶としてこびりついている。高校と大学は繋がってたし男子校だったから全然卒業って感じはなくて、大学では留年したから卒業の区切りが微妙な感じになった。いずれにしても、別れを惜しむような卒業というのは未だかつてしたことがない。それで、むしろ小学校も卒業していなかった頃に親の運転する車で聴いていたユーミンの卒業写真だけが頭に残っているというわけだ。

 

卒業写真

卒業写真

  • 発売日: 2018/09/24
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

  僕は人間関係をとにかく引っ張るたちで、自分から誰かと縁を切るようなことはない。なんというか、僕にとっては誰もが愛おしい。パワハラ上司も、メンヘラ女子も、そういうレッテルで括れば括れないこともないが、それぞれ個別の事情があって、それぞれの個性の中で頑張っていて、その上で僕と独自の関係性があって、そうすると、誰もがかけがえのない相手になってしまう。心底から憎んだり、嫌ったりすることができない。中学時代の僕の逃げ場だった塾の同期とは未だに飲み会をやることがあるし、元カノを結婚式に呼んで出し物までしてもらってしまった。そういうのは、なんかあまりないことなのかもしれないけど、僕にとってはすごく自然なことだ。そうすると、卒業して離れ離れになるということが、あまり起きない。

 もちろんこれは、メールやSNSの発達も大きい。ずっと繋がっていられて、いつでもやりとりできる。だから、気が向くと声をかけて遊びにいってしまう。コロナでここ1年ほどそういう機会がないのは、僕にとってはとってもストレスだ。その間に転職したり海外へ行ったりする人も結構いて、むしろ今の方が「今生の別れ」が起きやすいかもしれないと思うほどだ。でも、僕にとってはみんなどこかで生きているのを感じるような気がして(死んだりしてる場合もあるんだろうけど)、やはりこう、離れ離れな感じがしない。卒業というのは、ある種、自分の意識の部分も大きいのではないか。卒業式とか諸々の儀式によって、自分がもうそこから「卒業した」と強く思うことで、その場での関係性を断ち切る。それをやらないと、全ての物事がフェードアウトのような感じで進んでいく。その意味では確かに、僕の周りからいなくなった人というのもたくさんいる。出会うときはいつも突然だが、いなくなるときは自然だ。

 

ラブ・ストーリーは突然に

ラブ・ストーリーは突然に

  • 発売日: 2014/04/11
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 卒業というのは、もう一つ、やり遂げた、というニュアンスをも含んでいる気がする。その意味でも、僕は卒業というのをあまり経験していない。確かに学業は、一応課程を終了したという意味で卒業はしている。しかし、部活を全力でやり遂げたりとか、仕事とか課題とかをしっかり最後までやったという形で卒業することは、まずない。だいたい途中で放り投げるか、途中で挫折して退場する、という形になってしまう。どこに行っても自分の能力が足りない気がしている。それはある種の被害妄想なのだろうけど、でもその妄想に耐えきれずに潰れてしまうのだ。だから、なにかから「卒業」できることもないというわけ。

 とはいえ、ゴールがなにか明確な形で区切られていないと、そういう意味での卒業もない。どうせ何をやってもゴールは次々に現れる。人類の頂点に立つまでゲームは続く。「あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう」と歌う尾崎豊の気持ちはよくわかる。本当の自分などないのだ、卒業に向かい、卒業に向かうコースに抗う自分しか、そこにはいないのだ。自分はそのコースから外れたいと思っていても、自分というものはそのコースに照らしてでしか把握できない。 アナーキーでかけらとして散らばっている自分、というものを認識することは、ほとんどの人には為し難いことだ。

卒業

卒業

  • 発売日: 2014/04/01
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  卒業せずに生きられるような、あるいは卒業というゴールをおかずに生きられるようなあり方を自分が肯定できれば楽だろうと思う。だけど、そういうことを考えるたびに、僕は僕の無力感、無能感、劣等感に打ちひしがれることになる。そして、ハムスターのように自ら回し車に乗って走り出すことになる。進むこともなく、下がることもないが、そこで走っていることに安心できる、というわけだ。虚しく、くだらないことだ。

 とはいえ、自分の生まで卒業してしまう気は、今のところの僕にはない。これまで卒業せずに関係性を築いてきた人たちと、僕はもっと楽しい時間を送りたいし、もっと親密になって色々なことを吸収したいと思っているからだ。かなりか細い感じではあるけれど、僕の青春の日々は続いている。それは、僕がこの世を卒業するまで、不登校にならずに続けたいと思える、もっとも長い履修課程である。

 

終わりなき旅

終わりなき旅

  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

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