読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

グレーバーの「根本的他性、あるいは「現実」について」とオンラインについて

 

思想 2020年 10 月号 [雑誌]

思想 2020年 10 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/09/28
  • メディア: 雑誌
 

 

(これは2020年10月1日にフェイスブックに投稿したやつ。)

 岩波の『思想』10月号に掲載されていたグレーバーの「根本的他性、あるいは「現実」について」を読んだ。他性を、自らとは別の存在論のもとで存在するものとして客観的に認識しうると前提し、そのように認識したと信じることでそれを自らとは異なるものにとどめることは、翻って自らの他性に対する他性をも揺るがされないよう守ることになると批判し、むしろ他性が侵入することで他性に対する他性としてのいわば自性が揺るがされる可能性に賭けるというグレーバーの立場は面白い。全てを相対化してしまうと、まるでアリストテレス分類学のように、全ての文化がpartes extra partes(デカルト)として成立することになる。それでは人類学の、民族誌学者の意味はない。問題は(それがいいとか悪いとかではなく、まだ解き明かされていないものとしての)、それらが相互浸透しつつ、はっきりと割り切れない中で、その文化の中にいる人々が矛盾を抱えつつ複数のものを、こういってよければ複数の存在論を抱えて生きているという点にある。これがグレーバーの問題意識だと、僕は思った。
 翻って、同じ問題を我々も今抱えているわけだ。それはどういうことかというと、後述するように、画面上の他者を存在すると宣言できるか、あるいは実際に会わないと存在しないというような宣言がほんとうに可能か、この存在論的な矛盾の中で我々は現在を生きているということだ。オンライン上だと存在している感じがしないが、かといって対面で会わないとその人が存在していることにならないというわけでもない。ではどうしたら存在することになるのか。ハンコを押せばいいのか。非接触ICカードリーダを買ってきて固定IPアドレスでCA証明書を取得したパソコンで認証すればいいのか。存在するということをどのようにして我々は理解できるのか。これは日常の中の深刻な人類学的問題でもある。僕は誰かにとって存在しているのだろうか。あるいはそれは僕の記憶上の信仰でしかなく、場合によっては他者の記憶の僕とは大きく異なるかもしれない。
 明日から対面授業が始まる。対面授業に行くことで、学生たちが実在の人間であることを僕は知ることになる。とはいえ、ここでいう実在とは何なのだろう。現実に学生なるものが存在的に存在し、それに物理的に近づくことで僕の諸感官が受け取った刺激をそれは学生であると認識することであろうか。それは、画面上で認識する場合も同様であり、対面で会ったからといって学生の実在性が高まるわけではない。画面上の学生は表象としての学生であるといってみても無意味である。なぜなら画面自体は学生を表象しているのではなく、我々が学生と認識しているなにものかが映った色のモザイク状の映像あるいは波形のノイズを転送しているだけであり、我々はその表象されたモザイク状の映像やノイズから学生の像や学生の声という表象を取り出すだけだ(ディープラーニングが必要なのもそのモザイクやノイズから表象を表象として取り出すことが必要だからである。同様の意味で、厳密に言えば、絵画や映像にある一意に定まった表象があることを前提とする表象分析というのは、分析になっておらずトートロジーである)。現実においても、我々は諸々の強度から異化されたものを再現前化することで学生という存在があたかも存在的に存在するかのように認識するわけで、どちらが学生の実在を表象したものであるかを判断することはできない。我々ができるのは、自らが認識した学生的対象の、学生という理念からの距離を、我々が受け取る情報の粒度によって測ることぐらいのものである。
 とはいえ、おそらく一定の強度において僕が向き合うある特定の他者としての学生はそこに持続的にいるのであるが、それを画面越しに把握するか現実に(つまり僕の意識に直接的に働きかける諸感官に対して無媒介的に)把握するか、ということは、その他者がVtuberやコスプレや音声のみの存在としてであっても変わらない問題である。言い換えれば、僕が学生の多様な実在を総合的に一貫したものとして捉えることはできない。持続を生き時間の中で自己を構築できるのは学生自身であって、その自己は時間の中でいかようにも組み上げられるだろうが、その存在はその学生の記憶における同一性に存し、外部から判断することはできない。例えばあるVtuberを知っていたとして、二人の人が、私がその中の人ですといった場合に、僕がそのどちらが正しく、どちらが間違っているのか、あるいはどちらも正しいのか、どちらも間違っているのか、といったことを判断することはできない。それはVtuberでなくとも、僕の記憶の中で合成できる同一性を保ち得ないような変化のある対象については、判断不可能である(化粧、服装、表情……諸々の手段によって外面的同一性はいつでも解体できる)。白状すれば、僕は精神に異常を来した時に、子供の顔が全く判別できなくなった。どの子が自分の子かわからなくなるのだ。しかし本来それは当然のことで、ある特定の子が自分の子供であるとして同一的に確定できるためには、一夫一婦の核家族、一家族だけが同居する狭小住宅、その親子の結びつきを担保する戸籍や民法など、様々な条件が援用されなければならない。さもなければ、自分の子が誰かということなど、わかりようがないだろう。それは生まれた子の記憶としてしか成立せず、それが男系ということにもつながってくるのである。いずれにしても、僕が僕であるということは僕にしかわからない。それを敷衍して、ある学生がその学生であるということもその学生にしかわからないので、オンラインから対面に変わったからといって、僕が学生が存在することを知ることはできないし、より情報量の多い対象(あるいはそれには机や椅子、照明や窓も入るかもしれない)に対して講義を行うということになるだけである。
 しかしおそらくそういうわけにはいかない。僕は、オンライン上では音声しか知らなかった個々の学生の記憶と、実際に対面した学生とを、何らかの努力でもって結びつけることになる。同一の学生と認識することになる。そうすると、前学期にその学生たちにもっていた印象は全て書き換えられ、いま僕が有している学生に対する印象やイメージというもの、その記憶は、全てなかったことになるはずだ。多分、学生に対面した後に、僕がいままさに記憶の中に保持している学生のイメージ、学生の名簿の名前を見て想起するイメージ、それはもう想起し得ないものとなる。それが怖い。僕にとっては、コロナより、半年間オンラインでやり取りしていた相手が現実にも存在することの方がよっぽど怖いのである。僕の信じていた存在は、次の瞬間には存在ではない。少なくともそのように存在してはいない。子供もそうだった。見るたびに別人に見えた。今でこそ、子供がある人間として、一貫性を持った存在として僕にも理解でき、過去の写真などを見ても、なぜ子供があのような評価を周囲から受けていたのかとか、そういうことがわかるようになったが、それは自らの中で完全に存在そのものが変化していることを意味している。こう考えると、場合によっては、根本的他性とは、そもそも自己が毎瞬間、自らに対して経験していることでもありうるのではないだろうか。我々は存在というものの概念の無根拠的な自明性を信じることによって、その存在論の揺らぎを糊塗して、存在していることにする、まさにこれが我々の存在論なのではないか――これはつまり、観念論に過ぎないが、存在論の可能性を確かに信じつつも、観念論でしか存在を把握できないのが我々の悲しさなのではないだろうか。

 

そしてだれも信じなくなった (文春文庫)

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