読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

気持ちを言葉で表現するということ

 前回、色々な言語を習得したいという、単に願望だけを書いた記事をアップした(言語習得したい - 読んだ木)。確かに、色々な言語が話せれば話せるほど、たくさんの人と意思疎通できるようになる。他方で、告白の話を書いたときに(それわた - 読んだ木)、言葉を使って表現したものが本当に自分の表現したいものでなく、逆に言葉に自分の意識が引っ張られてしまうこともあることに、少しだけ触れた。

 そうすると今度は、より多くの人と話すための言語能力ではなく、より深い意思疎通をするための言語能力という問題が出てくる。そこにあるのは、出来るだけ自分の心中を的確に表すような言葉を選ぶという楽しみだ。もちろん、思ったことをスラスラと話せる人もいいけれど、実は自分が「思ったこと」を本当にちゃんと言葉にしようと思ったら、案外難しいのではないか。

 難しい感情の話を引き合いに出さなくても、日常的に見たり触れたりしているものを説明するだけで、結構言葉には限界があることがわかる。例えば、目の前にリンゴがあって、これを説明しようと思った時。黄色のレモンと紫のブドウと並んでいるなら、とりあえず赤いリンゴといえば伝わる。しかし、目の前に赤いリンゴがいくつもある中で、一つのリンゴだけを説明しようとしたら、赤いリンゴでは伝わらない。同じ「赤いリンゴ」でも、「右下がまだ緑になっているリンゴ」とか、「もっとも濃い赤色のリンゴ」とか、なんなら「赤いリンゴの中では一番黄色いリンゴ」という説明をすることになるだろう。そうすると、もはやそのリンゴは「赤いリンゴ」ではなくなるのだ。

 

りんごかもしれない

りんごかもしれない

 

 

 同じように、何かいいことがあった時に嬉しかったことを伝えようとする場合、周りに悲しんでいる人ばかりだったら、「嬉しかった」といえばそのニュアンスは伝わるだろう。しかし、みんな喜んでいるときに「自分も嬉しかった」と言ってしまったら、その「嬉しさ」はむしろ他人の嬉しさによって取って代わられてしまう。確かに他人と同じように嬉しいのだが、しかし自分の嬉しさは自分だけの嬉しさで、自分なりの嬉しさの文脈があるはずだ。そうすると今度は、何が嬉しかったのか、嬉しいと思った理由はなんなのか、嬉しさの度合いはどうだったのか、ということを説明することになる。相手の笑顔が嬉しかった、自分が相手の喜びを想像しそれに共感したから嬉しかった、思わず声が出たほど嬉しかった、などと詳しく表現していくことになる。

 

 ▼これは、誰かが嬉しいと自分も嬉しいという「共感」が人間同士のつながりの根源的な結びつきを生み出すもので、そこから嬉しさの輪が広がり、みんなが嬉しくなるように振る舞うようになると、いい社会になるよね、ということを説いた本。

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)

 

 

 相手に言葉を届ける時は、その言葉を相手がどのように受け取るか、理解するか、ということも重要になる。ある人に好意を持っていた時には、「好きだ」というだろう。「お母さんが好きだ」ということは、母親に直接言えば十二分に伝わるだろうが、他の人にそれをいう場合は「母親には感謝している」「自分は母親の影響を強く受けている」などと違う表現を用いて説明しないと、要らぬ誤解を生む。あるいは、友人に「君のこういうところが好きだ」と言った場合、ヘテロセクシュアルの同性同士なら相手を尊敬する気持ちの現れとして伝わるだろうが、それ以外のケースでは性的な期待なしに受け取られることは難しい。しかし、ヘテロセクシュアルの異性にわざわざ「性的な魅力とは全く関係のないところであなたのこれこれこういう点を好ましいと思っている」などというと、逆に相手の性的な魅力を全否定しているようで気まずい。

 逆に、相手に強い性的魅力を感じている場合に、「あなたは性的に魅力的です」と言葉にして伝えることは、ハラスメントになる場合がほとんどだ。相手が自分の期待に全くそぐわない能力で、そのことが多くの人に迷惑をかけているとしても、「あなたは無能で迷惑な存在です」などと口が裂けても言ってはいけない。相手に伝えたい気持ちがあっても、それを伝えてよい状況というのはそれほど多くない。自分の感情を言葉に乗せること自体が暴力になってしまうのだ。こうなってくると、言葉の役割というのは全く虚しいものになってくる。結局、言葉によっては伝えられないものが数多くあるわけだ。しかし、伝えることで意思疎通が生まれ、相互理解が生まれ、その次の行動を導くことができる。工夫して伝えられるなら、なんとかして伝えたいものだ。そのためには、丁寧な言葉選び、さまざまな表現上の工夫が必要だ。

 

 

 言葉選びは、自分に対しても影響を発揮する。単純な言葉ばかりで自分を表現していると、本当に自分が単純になってしまったように思わされる。逆に、色々な言葉で自分を探していくと、自分がどんな言葉でも表現できないほど複雑であるかのように思わされる。自己啓発などでよく使われるのは、自分の感情や自分の行為を単純な言葉で完結させることで悩むことを強制的に辞めさせ、言葉のいらない行為に駆り立てていく方法だ。例えば、どんな時も「大丈夫」という言葉を当てはめ、その時に生まれる迷いや悲しみを言語化しないようにさせる。そして、言葉を探す暇がないように行動することを促す。「ありがとう」という言葉を常に意識させることで、他者への怒りや自分の不満を言語化しないようにするやり方もある。これは言葉を奪う系の自己啓発だが、実際に物を捨てさせて、少しの物だけに自分を代表させることで自分の表現の余地をなくし、自分の多様なあり方を諦めさせることで新たな欲求に駆り立てさせるという自己啓発もある。いずれにしても、自分の複雑な感情や悩みを、言語化して自覚したり他者に伝えたりする代わりに、単純な言語によりその感情や悩みを考えることを不可能にすることで楽にさせるやり方だ。昔は暗示とか催眠という表現も使われた。

 

 

 単純な言葉の方が伝えたいことが伝わりやすいというシーンも多い。誰かに愛の告白をする際に、長々と前口上を述べるのは野暮である。「愛してる」「アイラブユー」「ジュテーム」「ウォーアイニー」、どの言葉でも端的に伝えるものだ。ただ、その場合は、言葉は最後の鍵でしかない。相手に伝えたいことは、言葉以外の様々なことによってすでに伝わっていて、それを最後に言葉が代表(表象)する。そういう時に、言葉は意味を持つ。僕らが投票する時には、候補者か政党の名前だけを書く。理想の政策や現在の社会問題について長々と自分の考えを書いたりはしない。なぜなら、政治上の自分の考えは日々自分の生活の場で表明し、働きかけ、取り組まれているべきもので、投票用紙に書くのはそれを国会において代表する人の名前だけでいいはずだからだ。議会制民主主義と呼ばれるこのシステムは、自分の政治信条や求める政策を言語化し外部化しないまま、政治家の名前を投票用紙に書いただけでその人が全て解決してくれる、というようには設計されていない。あくまで、日々の議論や取り組みを、代表が代わりに国会に持って行ってくれるというシステムなのである。その前提があるから、投票ではたくさんの言葉は必要なく、名前を書くだけでいいという簡単なやり方になっているのだ。愛の告白も、普段から愛していることが伝わっていさえすれば、その言葉は最も洗練されたもので構わない。なんなら、「愛している」という言葉を使う必要すらないのだ。ただ、言葉は乗り物なので、何かはそれに乗せて相手に届けなければ、確たるものは何も伝わらないが。

  

チャイナアドバイス

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 こう考えてくると、ブログは、言葉のみを使って他人とコミュニケーションを図る高度な技術だ。僕は長々とした記事を何度も書いて何を伝えようとしているのか。それは端的にいえば、僕が興味関心を持っていることに、同じように関心を持って共感している人に出会いたい、同じ悩みやもどかしさを持っている人と交流したい、ということである。長々と書かれた文章は、多様な人に関心を持ってもらえるために並べられた僕の脳内のショーウィンドウであり、同時に自分自身を単純な言葉で矮小化しないようにするためのカラフルなクローゼットである。僕にとってブログは、ありったけの言葉を使っても出会えない自分、まだ言葉になっていない新しい世界を探す旅路なのだ。

 

明日の風

明日の風

 

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