読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

言語習得したい

 

新訳 ソシュール 一般言語学講義

新訳 ソシュール 一般言語学講義

 

 

 言語は、生きていくために必須ではないが、もし出来るならたくさんできた方がいいに決まっている。日本語だけでも、敬語ができた方がいい、漢字が書けた方がいい、方便が話せれば地方の人とも仲良くなれる、言葉遣いが丁寧なら一目置かれる、など色々なメリットはある。

 日本語だけでは生きていけない、小学生から英語を勉強するような時代であるから、英語もできた方がいい。僕は今、英語ができなくて非常に参っている。これは壁である。仕事上の技術や、専門知識であればまだこう、やっている間に身についたり、関連する書籍を読んだりすることで伸ばしていくことができる。しかし英語は、どうも単語とかも覚えられないし、正しい言い回しというのがどうやってもよくわからないし、伝わらない時に本当にイライラするし、これはストレス以外のなにものでもない。こんなブログを書いていないで英語の勉強をすればいいのかもしれない。

 

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

 

 

 ただなんというか、言い訳なのだが、これは一人ではできないのだ。例えばプログラミングはパソコンなどの電子計算機がなければできない。紙のノートにいくらコードを書く練習をしても、プログラミング技術は上達しないだろう。ピアノだって、ピアノソナタをいくら聴いても上達しない、ピアノを弾かなくてはダメだ。料理も、レストランで美味しい料理をたくさん食べれば上達するというものではない。しかし英語の勉強となるとどうだろう。ラジオで英語を聞くだけで上達するとか、ノートに書けば書けるようになるとか、そういう話ばかりだ。確かに多少はできたような気にはなると思う。しかし、ビジネスや研究の実用に足るものになるようなクオリティにはならない。マクドナルドに行って英語が聞こえてきても緊張しないというぐらいの話だ。しばしば英語教材の効果として謳われる、日常会話でスラスラと英語が出てくるというのは、逆に英語の単語選択を意識的にせずに文章を喋っているということだ。日本語ですら、ビジネスでスラスラ出てくることはないだろう。むしろ、慎重に言葉を選択したり、言い回しで濁したりする技術が必要となる。結局そういうことは、誰かを前にして、実際に英語使用のシーンの中で勉強しないと、学ぶことはできない。ただ、英語をそういうレベルで身につけようと思うと、めちゃめちゃお金がかかる。大学にもう一度行くような感じになってしまう。時間はなんとか作れるとしても、そんなお金はない。というか、そんなお金がないぐらい貧しい暮らしをしているから英語を身につけたいと思っているぐらいなのだ。

 

 

 今どきは、英語ができるだけではダメだ。今走っているプロジェクトなど、10人中日本人は2人だけ、6人は中国語話者である。自分のいる分野で優秀な人材はみんな中国人であり、そういう人たちと会話するにも中国語ができなければいけない。逆に、中国の人たちはなぜか知らないが英語も日本語もスラスラと話すことができる。能力が高く、日中英語を使いこなすのが当たり前の人たちばかりの中で、英語もろくに話せない自分。せめて、中国語で日常会話ぐらいできるようになりたい。文字はなんとか読めるが、逆にそのことで発音がわからない。中国語会話の学習の場は、英会話ほど充実していない。電車の広告も英会話ばかりで中国語会話はない。僕が駅前留学したいのは太平洋の向こうではなく日本海をまたいだ隣国なのだ。

 ビジネス上では中国語も便利だが、文化や日常での人間関係の面では韓国語を学ぶ必要が切である。韓国語は日本語に近いし、ハングルがわかればカタカナのようなものだ。電車の中の韓国語表記なども見ていればなんとなくわかる。フがg、ヲがk、レがnとかそういったことだ。ただなんか活用みたいなのが多くて文章になると途端に分からなくなる。これは中国語と違って難しいところだ。

 

わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)

わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)

 

 

 他にも西洋のことを勉強するのに仏独ラテン語を身につけなければならない、ロシア語の資料も読まなければならない、ベトナム語タガログ語話者なども周囲に登場し始めた、となってくるともう何ヶ国語できても間に合わない。しかし、できないとコミュニケーションが取れない。理解してもらえない。理解してもらえないとこちらの主張もわからないし、相手の意図も汲み取れない。だからとにかくできるところからやっていくしかない。各種教材や、google翻訳などツールが充実しているので、相当ハードルは下がってきているが、むしろそのことで、いかに自分が色々な言語の話者と意思疎通できていないかを思い知らされることにもなった。

 言語はその人の認識をも形作る。見方によっては世界そのものでさえある。それが皆違うということに思いを致せば、むしろなぜ人々が意思疎通できているかのように振舞っているのか、から恐ろしくもある。そういったところからソフィストが生まれ、ソクラテス以後の「真理」への欲求となるというわけだ。果たして自分は言葉を使うことで、誰かと本当に意思疎通できているのだろうか。言葉は本当は何を表しているのだろうか。言葉をかなぐり捨てて裸で対峙できる相手などいない孤独な人間にとって、他者と繋がるまでの道のりは長い。

 →つづき:気持ちを言葉で表現するということ - 読んだ木

 

精神病〈上〉

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