読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

やっぱり話し言葉

 特に苦もなく40記事超えてきてるな。やっぱ誰かのためとかじゃなく自分のために書いてるからだろうな。カラオケも、友達から「自分が満足できるように歌うことを目指せ」っていわれてから伸び伸びと歌えるようになった。ブログも、誰かに読まれたいとかウケたいとか思ったりせず、自分が書きたいから書くっていうノリだけで書けば、伸び伸び書けて、いくらでも書ける。まぁ読みに来る人いないけど。余談だけど、誰かのためじゃなく自分のためにって歌詞ある歌なんかいろいろあるよな。宇多田ヒカルFor You とか……でも思い出せないな、バンプ才悩人応援歌とか尾崎豊僕が僕であるためになんかも似た文脈だけど。才悩人応援歌いいよね。

 前の記事(喋ってる感じで書く - 読んだ木)で、いろいろ理由つけて、話し言葉じゃなくて書き言葉でブログ書くって話をしたんだけど、それより前の記事(気持ちを言葉で表現するということ - 読んだ木)で、いやむしろブログ書くことを通じて自分の新しい側面を開拓するみたいなこと書いてるじゃん、っていう。これってあれでしょ、最強の矛と最強の盾が二重スリットを通ったら矛が折れたり盾が割れたりしてるやつだよね。んで、だから、やっぱり苦手だけどできるだけ砕けた感じで書くことを意識しようと思う。

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

 哲学書っていうとお堅い感じだけど、ダイアログ(対話)を重視するからプラトンとかは会話の形で、今で言えばショートショートみたいな感じで書いてるものも多いんだよね。この『饗宴』は飲み会の様子が書いてあるだけだし。

 誰だったか忘れたけど現代の哲学者でもそういう書き方をしてる人はいて。あと、高橋昌一郎の『理性の限界』っていう新書も、20世紀の哲学的課題についていろんな人との対話の形式で説明するっていうスタイル。読みやすくて面白い本だった。

 

 

 だから、必ずしも話し言葉喋り言葉がくだけてて書き言葉が硬いということでもない。どちらの言葉でも、書かれたことか言われたことかの間にはかなり違いがあるけど、書かれちまえば結局はそれもひっくるめてスタイルの問題でしかないっていう。

 

 ただ、あることを伝える時に必要な文字のボリュームは、やっぱり話し言葉のほうが多い。なぜなら、こう、呼吸を挟んだりとか、同じことを繰り返したりするから。リズムを作るんだよね、話し言葉って、とどのつまり呼吸だから。去年学校がオンライン授業になって、オンデマンド形式で(録画して配信する形式で)やった先生なんか、ちゃんと原稿作ったら普段90分かけて喋ることが30分で終わっちゃった、みたいな話がある。でもじゃあそれで、対面でリアルに喋ってる時は内容が薄かったのかというとそういうことではなくて。残りの60分で、繰り返しを入れたり雑談的に関連する話を広げることで、聞き手の関心や知識に講義の内容をつなげていってるわけ。学生の反応とか見ながらね。だから、たしかにロジカルに書かれた原稿だと30分で終わるけど、それがちゃんと受け手に伝わるように喋りを工夫していくと、90分になる。

 

 

 研究者と教員って素質が違うよねってことは、マックス・ウェーバーを引用するまでもなく、なんとなく経験的に理解できる気がするけど、要は、研究者は無謬無矛盾の論理や結論を提示すればいいんだけど、教育者はその結論を専門じゃない人にわかるようにそれをくだいて伝える役目がある、というのが大きな違いだよね。どんな研究も、突き詰めていけば自分しかやっていないことなので、研究者はある程度は周囲に説明していかなきゃいけないんだけど、それをどこまで平易にできるかは難しい。往々にして変な理解や誤解を招くことになるからね。大学教員の最初にやることは、高校までの知識を一旦否定してもらうことだったりする。もちろん一つの世界観として義務教育、中等教育での訓育は必要だけど、そこから先はそれを相対化していくつもの世界観を手に入れなくてはいけないから。

 このブログは、別に難しい話なんかしないし頼まれても出来ないけど、ただこの平易な話し言葉でも、普段の平易な言葉では表現してないような色々なことを表現できたらいいな、とは思ってる。炊飯器で実はケーキも作れるんです的な。平易な言葉でもなんでもよくて、弘法は筆を選ばずっていうけど、どんな言葉を使っても、宇宙から爪の先まで説明できちゃうのが理想。数字を使わないと厳密なことができないっていう人いるけど、数字なんて数字の体系の中だけでつじつまがあってるだけで、数字と数学の体系それ自体が現実においてなにかっていうのは、自然言語と同様によくわからない話しだからね。デカルトだってラテン語じゃなくてフランス語で講義して人気が出たし、スミスだってラテン語じゃなくて英語で講義したから人気が出たんだ。難しい専門用語じゃなくて平易な言葉でたくさんのことを話せた方が、より多くの人に意図を伝えられていいじゃないか、と思った。

 

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