読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

喋ってる感じで書く

 このブログも登録してるけど、「ブログ村」ってサイトにいくと色々なブログが読めて面白いんだよね。なんかだらだらとブログ見てたら、同じはてなブログで今年入ってから立ち上げたブログで、記事が30個ぐらいしかないのに読者が百数十人いるブログとかあって。読んでみると他愛もないことを書いてるんだけど面白いんだよね。

 これに比すると、比するべくもないんだけど、僕のブログはなんかつまらないし読みにくい。硬いんだよね、文章が。昔、言文一致運動ってのがあったけど、仕事柄書き言葉のトレーニングをかなり受けてきてるから、しゃべりの感じで書けない。今書いてるのはかなり意識して喋ってる感じの書き方にしてるけど、すごくムズムズする。正しい表現や文章の論理構造に直したいと思っちゃう。でも多分、こういう風に喋ってる感じに近づけて書いた方が、読みやすいんだと思う。多少文章の構造がおかしかったり、意味が取れなかったりしても、それはそれでよくて、そもそも意味をちゃんと理解したりするために読むんじゃないよっていうか。

 じゃあなんのために読むんだよって話なんだけど、音楽みたいなもんなんだよね。単にこう、読み流していって、誰かの息遣いを感じることが、ブログを読む時にすることなんじゃないかな。わざわざそこから何かを学び取ったりしたいと思ってないし、それならブログじゃなくて本を読むしっていう。ツイッターなんかもミニブログってことでブログのうちに入るらしいんだけど、日々の何気ないことをつぶやく感じで書くのがブログ。何か具体的な主張とか考察とかは、もうちっと固いプラットフォームで。それこそnoteとか(noteはブログとは違う、という記事を前に書いた→なぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木)。

 僕もそういう感じでブログを書ければいいんだけど、そういう喋りの感じで書くためには、ちょっと違う中身が必要になる。それはどういうことかっていうと、かっちりした文章で書く場合には、何かを言語で論理的に説明する、その論理自体が内容になるわけ。「今日はリンゴについて書く。リンゴというのは、丸くて赤い果物である。」みたいな感じね。これでまぁ、何か内容のあることが書いてある感じになる。でも、単にこれを喋りの文章で書いてもダメなの。「リンゴってさ、赤くて丸い果物なわけよ。」って言われても、「は?」ってなるじゃん。「それで?」って思う。なんでこういう違いが生まれるかというと、喋りの文章で書くときは、論理じゃなくて、感情が内容として乗ってる必要があるんだよね。例えば「今日食ったリンゴ、まじで美味くてさ。」みたいな。もうこの一文で惹きつけられるところがあるよね。逆にこういう感情は、かっちりした文章では伝わらない。「今日食べたリンゴは、大変な美味しさであった。」むしろこっちだと「知らねーよ」って思う。

 前に、伝えたいことを言葉にするって結構大変だよね、って趣旨のブログ記事を書いた(気持ちを言葉で表現するということ - 読んだ木)。で、そこでは言語表現のための形容詞とか、そういう文章技法みたいな話を書いたんだけど、実際のところ、言葉の使い方って、こういうそのなんていうのかな、同じ「リンゴ」とか「美味しい」とかって単語を使っていたとしても、その崩れ方っていうか、書き方によって全然違うんだよね。どんなに標準語で正しい表現を追求しても、標準語である限り表現の幅が全然狭い、みたいなこと。

 なんかそれで思い出したんだけど、昔、言語学者のフィールドワークに付き合わされて、後輩と喋ってる様子を記録されたのね。で、最後にそのフィードバックを受けたんだけど、自分を偉そうに見せるときはなんか知んないけど主語が「僕」から「俺」にすり替わってるとか、結構面白かったんだよね。自覚ないんだけどちょいちょい状況とかによって表現変えてるっていう。あの、女性差別みたいなのもさ、みんな自覚ないわけじゃん。でも女性相手だと偉そうな喋り方する人とか、なれなれしくする人とか、やっぱり多いんだよね。それは無自覚な差別なんだと思うけど、そういう人も言語学者にフィールドワークの対象にされて30分ぐらい普通の会話した後にフィードバックもらうみたいなことをするまでは、自覚できないと思う。あと、これはまた別の話なんだけど、僕は昔は「〜ぜ」みたいな、霧雨魔理沙みたいな喋り方してたんだよね。でもいつからか女の子になりたくなってた時期があって、それから「〜だよね」っていう「ね」を語尾につけることがめっちゃ多くなった。そういう自覚っていうか、自分がどういう人間になりたいか的なあれで語尾も変わってくるっていう。

 なんか今は日常の会話でも、まぁ職業柄もあるし、あとポリコレみたいなのがめっちゃ厳しいから、結構よく考えて、文語調のとまではいかないけど、かっちりした文章で喋ることが多くなった。だからあんまり滑らかに喋れないんだよね。一語一語選びながら喋る感じになっちゃうし、そのくせ色々限定をつけようとするから話が長くなるし。だいたいこんな感じになる。「んー、僕は、こうー、思うな、いやもちろん、それは、自分が、こういう立場にいるから、言えることだし。ああ思う人も、当然、いるはずなんだけど。ただ、まぁ、これこれこういう、前提、がある場合には、まぁ、その、こう、思う。っていうのも、ありかなっていう。もちろん、それにー、対して、ちょめちょめっていう批判もね。あるだろうし。それはー、甘んじて受ける、っていうか、それは僕の中でも、課題だな、って思ってる。わけ、なんだけど、一応、パッと思いつく、ところとして。」みたいな喋り方ね。まじうざいね文字起こしすると。でもこういう喋り、喋りって怖いから、こういう喋りになっちゃうんだよね。

 喋りっぽい書き方は感情を乗せるのに向いてて、書き言葉っぽい書き方はロジックを展開するのに向いてると思うんだけど、僕みたいに喋り自体がちょっとこう書き言葉っぽい感じの表現の仕方に引っ張られてると、逆に感情とかをストレートに表現するのにつまずくんだよね。「わーい」って素直に言えなくて、「僕は、うん、まぁ嬉しい、もちろん僕だけ嬉しいっていうのは、あの、もしかしたら相手は嬉しくないかもしれないし、ある意味で自己中心的なんだけど、僕の、僕の感情の動きとしては、嬉しい、という表現で、一応説明するしかないっていうか。でも本当にね、僕の気持ちなんだよ、この、嬉しいっていうのは。僕の中から出てきているものだから、これは。」みたいになっちゃう。いやワロてないで。本当に結構これ僕の悩みだから。「わーい」とか言えないの。だから「女の子」になりたかったみたいなところもあって。「わーい」とかいうの、恥ずかしいっていう以前に、なんか自分の感情を表す言葉としてそういうものを身につけてこなかったんだよね。そういうのは子供がいう言葉で、自分には関係のない言葉っていうか。言うなれば、牛が「もー」っていうのと一緒。牛が嬉しい時に「もー」って言ったり、子供が嬉しい時に「わーい」って言ったとしても、自分は言わないしっていう。でもいや、みんな言ってるんだよね、嬉しい時にその感情を表現する言葉として、「わーい」。確かに、嬉しい時に感情を表現する言葉、それ以外になかなかないよね。「うむ、大変結構。結構結構。」みたいな感じかな。いやもう、素直に「わーい」って言えよっていう。

 なんかねー、ほんと、感情を出すって難しいですよ。なんかもう、おっさんだから、どんな感情出しても下品な感じになる気がするし。特に僕は男性だから、女性と話す時は本当に変な受け止められ方しないようにめっちゃ気をつかう。「あーそれはいいですね。あいや、その、性的な意味とかじゃなくて、いや、好意の対象としてあなたをいいと言っているのではなく、あるいはあなたの考え方が僕にとって魅力的、いや、そういう魅力じゃないですよ、日曜日の午後に一緒にカフェでスコーンを頬張りながら話を聞きつつアールグレイ飲みたいっていう感じの魅力じゃないんですよ、考え方が魅力的っていうのは。本当に、この、ビジネスライク、いや、あなたとビジネスライクな関係でしか関係したくないと突き放しているわけではないんですが、いやでもそのプライベートで繋がりたいというわけでもなくて、あの、あなたという存在を拒絶しているわけではないんです、もちろんその生活上の様々な関係でですね、こうしてあなたと関係がある、その関係において、その文脈で開陳されるあなたの考え方ですね、それが本当にいいというか、魅力的というか、いや僕が男性だからあなたの考え方を上からジャッジしようというんじゃないです、むしろ逆で、尊敬、尊敬なんですけど、僕はそういう考え方できないから、でもその、そういう誤解を生んだとしたら本当にすみません、いや、表向き謝っているってことじゃないんです、あの本当に、いや僕本当男性だからこんな、その僕の存在が間違ってて、単に、あなたの考え方が魅力で、僕もそういう考え方ができたらと思っていいですねって口走っただけで、あー本当にすみません、すみませんってば、うわーん」。

 口は災いの元。そもそも感情を出さなきゃいいんですよ。ね。見ざる言わざる聞かざる。誰かと言葉を通じて仲良くなろうってのが間違ってるんですよ。だから僕は、書き言葉調でブログを書き、感情を排して話の論理と情報紹介のみで内容を埋めているのだ。つまらないブログだが、現代社会において正しい書き方をしようと思えば、この方法が好ましい。むしろ、このような書き方でも読みたいと思わせるほど、充実した情報を集めてくる方に注力した方がよいだろう。喋り言葉で書いて面白おかしく共感を得るのは、それを許されるアイデンティティを持った人に任せればよい。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。
 

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