読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

歩くことと書くこと

 昔、万歩計っていうのがあって、歩数を測るためだけのポケベルみたいな機械だったんだけど、今時はもうそんなものがなくても、スマホが勝手に歩数を測ってくれる。別に健康に気を使っているとかではないのだが、数値化されるものはなんでも面白くて見てしまう。

 

 

 僕の1日あたり歩数は、生まれたて児の子守りしてる時は1000歩行かないぐらいで、児童館なんかにいってもせいぜい3000歩ぐらい。今日は洗足池まで行ったからさぞかし歩いただろうと思っても、8000歩も行かない。これに対して、平日はすぐに1万歩を超える。デスクワークで、平日こそずっと座っているように思うのだが、それが案外違うのだ。休日などに子守りをしている時は、移動の時に子供と歩くことはあっても、児童館なら児童館、自宅なら自宅に長い時間居て、それほど動かない。これに対して、仕事をしている時には、ランチになればどこか近場へ歩いていかねばならず、それでなくても向かいの郵便局とか、ちょっとコーヒーとか、2〜3時間に一度は建物を出てどこかへ行って帰ってくる。このことが、案外に歩数に反映されるのだ。

 歩数の多さは、筋肉量を増やしたりダイエットしたりすることにはほとんど貢献しないと思うが、多少なりとも代謝をよくする効果がある。つまり、同じ体型でもその体型を維持するために回転するエネルギーの量が増える。そのことで、身体を動かしやすくなったり、移動することの心理的抵抗が下がったりする。だからトレーニングとは別に、歩数は多いほうがよい、というのが僕の考え方だ。ただこれは、外に出ないと難しい。外に出ると色々誘惑もあって、散財したり、余計なものを飲み食いしたりすることもある。しかしそのことは、歩行によるエネルギーの回転に加えて、より幅広い自分の感覚や心身の回転を増やすものだろう。

 

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 コロナ禍で家に居続けたので、飲み会もないし、とにかく人に会わない。その間に、やっぱりこれもコロナの影響で、引っ越したり転職したりする人も多く、それまで会ってた人とも疎遠になる。ますます人と会わない。金は使わなくなったが、仕事が増えないし家の環境改善のために多少なりとも消費しないといけないので、貯金も増えない。自分の心身のポテンシャルがどんどん使われなくなり、思考がどんよりしてくる。ブログを書き続けるのは、その状態を少しでも打破しようという試みでもある。つまり、歩く代わりに書いているのだ。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2010/06/10
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 ブログを書いて、あるいは他人のブログを読んで、色々思い出したり、やってみたりすることは、ここ数日だけでちょっとずつ増えている。

 例えば以前なら、友達とカラオケに行って初めて耳にした曲をプレイリストに入れたりすることで、毎月聴いている曲が変わっていった。しかしコロナ以降、カラオケなんて行けなくなってしまった。今じゃ1年前と同じ曲を聴いていて、しかも曲を聴くための移動時間もなくなってしまった。だが、ブログで色々昔聴いていた曲なんかを思い出したことで、少しずつ違う曲を聴くようになっている。ちょいちょい散歩するようになったのも、もちろんコロナ感染数が落ち着いてきて、対策も行き届いてきたから、安全な範囲で外出することが憚られなくなったということもあるが、家を出るのがめんどくさい、という気持ちに対して、何か勉強したり書いたりするネタを見つけられるかもしれない、という気持ちがまさって身支度を進んでするようになったことも大きい。アウトプットがあるからこそインプットが生じるという側面があるのだろう。

 とはいえ、新しい人に知り合いたい、新しいことを学んだり取り組んだりしたいという気持ちから生じる様々な計画は、今もってなおコロナ禍のもとで実行が叶わないままである。僕なんかは多少落ち着いてきた年齢だからいいけれども、これが10代、20代の若者だったら相当苦しいと思う。茨木のり子の詩のように、「わたしが一番きれいだったとき」という感じになってしまうのだと、いくら何でもやるせない。

 

茨木のり子詩集 (岩波文庫)

茨木のり子詩集 (岩波文庫)

  • 発売日: 2014/03/15
  • メディア: 文庫
 

 

もちろん、人がバタバタ死ぬよりはいいのだろう。人間にはどうしようもないこともたくさんあるのだろう。しかし、それに対して割り切れない気持ちがあることは、これもよく向き合って感受しなければ、と思う。それをなかったことにはできないのだから。

 ヘミングウェイの『日はまた登る』に描かれているような、本当の意味でのロスト・ジェネレーション——つまり戦争で生きる意味も若さも失ってしまったような世代——の苦悩も、茨木のり子の詩と共通する戦争という社会背景がある。コロナ禍も、戦争と同じように若い世代の青春と未来を奪ってしまうとしたら、悲しい。悲しむ他には何もできないことを理解しなければいけないのが悲しい。おそらく祈りとは、その悲しみを癒すためにあるのだろうが。

 

日はまた昇る (新潮文庫)

日はまた昇る (新潮文庫)

 

 

ロスト・ジェネレーション―異郷からの帰還
 

 

 まぁとはいえ、多くの人は、コロナがあったからといって、既存の価値観に対してそれほどシニカルにならないというか、バブルが崩壊して就職氷河期があってリーマンがあって東日本大震災があった時代に年少者として生きてきたような今の若い世代の人々は、そもそも世の中に何も期待していないという部分があるだろうから、別にコロナの影響もどうということはないかもしれない。僕も、別に相続する家もなく、無期雇用の定職もなく、資産も将来の展望もない。マイホーム幻想もなければ出世欲もない(そもそもそのコースがない)。だから、コロナがあってもなくても、生きていくのだけで精一杯であることに変わりはない。今の就職氷河期以下の人々は、少なくとも日本という狭い島国に残ることを選択した人は、だいたい皆そうだろうと思う。

 ロストするものを持ち合わせていないというのも、なかなか寂しいものである。だから、むしろロストしたくないような価値あるものを見つけようと思って、小さな日常の周りに張り巡らされた壁を、言葉のツルハシでコツコツコツコツ削っているのだ。こう書くとなんかマインクラフトみたいだな。fateではなく、マインクラフトは人生、の時代なのか。与えられたストーリーはない。心踊る選択肢もない。予定された感動もない。ただ、掘るのみだ。

 

あな (こどものとも傑作集)

あな (こどものとも傑作集)