読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

雨の日のラヴェル、アメリカのラフマニノフ、道化のショスタコーヴィッチ

 雨の火曜日。これが月曜日か土曜日だったらなんだか詩的な妙味が生まれてくるが、火曜日ではどうもいけない。英語ならMonday とWednesday にrainy day が似合う。中国語だとやっぱり星期天の雨天、だろう。

 春雨や梅雨の時期には、ラヴェルピアノ曲が似合う。

ラヴェル ピアノ・ソロ作品全集
 

 ショパンだと降り方が呑気すぎていけない。東アジアに降る雨は——もちろん場所によりけりだけども——もっとファラファラファラと、風と共に絶え間ない流れのように降り注ぐものだ。ラヴェルプロコフィエフの黒い楽譜の方が、その感じによくマッチしている。僕はラヴェルの有名なバレエ曲ボレロよりも、第一次世界大戦従軍以前に書かれたピアノ曲の方がよっぽど好きだ。

 ただ、これらは僕にとってはどちらかというと梅雨に似合うイメージがより強い。

 前に、春らしい曲としてモーツァルトとかイギリスの曲とかを挙げる記事を書いた(モーツァルト日和 - 読んだ木)。ここに付け加えるものとして、春の雨の不安定さと、たまに晴れ上がって陽が差し込む感じから想起させられるのが、ラフマニノフパガニーニの主題による狂詩曲の第18変奏だ。この狂詩曲はみんな変な曲ばっかりだが、この曲は打って変わって優雅で穏やかなメロディの部分があるので、よく単独で演奏される。

  ウィキペディアを見たら、この曲はラフマニノフが1917年のロシア革命後に祖国へ帰れなくなり、アメリカに渡ってどちらかといえば作曲家ではなく演奏家として活動し10年以上を経た1930年代に、スイスにあった別荘に行って書かれたものだという。

 以前の記事でラフマのピアノ協奏曲2番の録音についてちょっと書いたんだけど(1940年代生まれの音楽家たち - 読んだ木)、1900年ごろに書かれたこれらの曲にはロシアらしい旋律、重々しい和音やオーソドックスな進行など、ラフマニノフの真骨頂である優美な味わいがある。とても春にはふさわしくない。でも、それから30年以上経った頃に書かれたこの狂詩曲には、そういった趣きはあまり出ていない。この18変奏のメロディアスな部分など、なんだかイギリスの曲みたいな和音の解決の仕方に感じる。詳しくないので具体的な音楽理論ではわからないのだけど。

 ロシア革命の後亡命した作曲家とは対照的に、ソ連となったロシアで活動した作曲家といえば、ショスタコーヴィッチが有名だ。日本では「革命」という副題が勝手に付せられているこの曲は、確かにその副題をつけたくなるような終楽章を持っている。

 

これが演奏されたのは1937年。ラフマニノフパガニーニの主題による狂詩曲を書いたのも、たった数年違いの1934年だ。ラフマニノフアメリカに渡ることで彼の音楽の持つ優美さを失ったとすれば、ショスタコーヴィッチはその優美さを引き継ぎながらも、それを戯画的に作り変えることを余儀なくされた。交響曲第5番は、当時それまでの楽曲を反革命というレッテルで攻撃されていたショスタコーヴィッチの、政治的な命運を分ける曲として書かれたものだったからである。四分音符=188のテンポで演奏する今日のショスタコ5番の終章4楽章冒頭は「革命」を想起させるような力強さを感じさせるが、どうやらこれは四分音符=88の誤植で、初演時はそのように演奏されたものらしい。もしそうだとすれば、むしろ社会主義国家の独裁の重々しさを感じさせるものだったかもしれない。

 

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

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 ちなみに、第一次世界大戦に従軍し、同時期に母親を亡くしたラヴェルは、1920年代に入ると冒頭に紹介したような繊細で流れるようなピアノ曲を書くことはほとんどなくなってしまった。ラヴェルが再び筆をとったのは1928年、ボレロを書いた時だが、それは彼がニューヨークに行って刺激を受けて書かれたものだった。1930年前後のアメリ東海岸ラフマニノフラヴェルもいたというのは、音楽に詳しい人なら常識なのかもしれないが、僕にとってはなんだか不思議な感じである。みんな、アメリカに染まってアメリカっぽくなってしまうという感じがある。ほんの少しこの記事(1940年代生まれの音楽家たち - 読んだ木)で触れた、「ゴジラ」のテーマの元ネタとなったことでも知られているラヴェルのピアノ協奏曲ト長調も、30年を少し過ぎた最晩年の作品である。アメリカにラヴェルが来なかったら、あのような緊迫感のある伊福部のゴジラのテーマ曲も生まれなかっただろう。

 その時そこで活躍していたのは、ジョージ・ガーシュウィンであった(クラシック音楽としての「トムとジェリー」 - 読んだ木)。チャップリンが『モダン・タイムス』を公開したのが1936年。もはやそこには、自然の音も香りも残っていなかったということか。ナチスの勢力拡大で、ヨーロッパでの活動拠点となっていたスイスの別荘からも逐われたラフマニノフは、アメリカ西海岸で1943年に没している。その晩年は、何がロマン派音楽を殺したのか、ということを、象徴的に表しているように思う。

 

錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)

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▼この話のちょっとした続き

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