読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

不断に繰り返される卒業と旅立ち

 今週のお題は「〇〇からの卒業」だそうだ。卒業に関する記事をちょっと前に書いたところだった(3月9日と卒業ソング - 読んだ木)。

 その時に、ちゃんと「卒業」できないという話を書いて、最後にMr.Childrenの「終わりなき旅」を置いたのだった。それは、中学生の時にギターで弾いたりして、僕にとっての卒業ソングの一つだったからだ。しかし、ミスチルの卒業ソングは今では終わりなき旅ではなく、「旅立ちの唄」らしい。

 

旅立ちの唄

旅立ちの唄

  • 発売日: 2020/10/01
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 ちゃんと卒業できないということは、はっきりとした新しいスタートも切れないということだ。うやむやのまま新しいことが始まって、それに巻き込まれていく。要は、今いるところから旅立つことができないのである。天皇のように、生まれつき人生になんの自由もない人間と違い、多くの人は自分のあり方やある場所を、それなりに選ぶことができる。もちろん、さまざまな理由により、それなりにしか選べないけれど。ただ、多少なりとも選ぶことができる、そのことを自分で気付けるなら、卒業して新しい世界への旅立ちを行うことができる。学校を卒業した後にも卒業と旅立ちは続く。「旅立ちの唄」を歌うことができる。

 それを選べなかった僕は、「終わりなき旅」をまだ続けている。高校時代から同じ学校に30過ぎるまでいて、はっきりとした就職活動もしないで手伝っていた知り合いの会社に入り、5年以上付き合った彼女とそのまま結婚して、多分はたから見たら安定した「幸せ」な人生を歩んでいるのだと思う。しかし、それは半分以上、自分の怠惰と消極性による帰結なのだと僕は知っている。

 結局のところ、僕は保守的な人間だから、社会の雰囲気に合わせて生きているのだ。僕の生きている社会には、どうも新しい旅立ちを厭う価値観が蔓延している。先日も、久々に連絡した知人が、就職して半年なのにもう転職しました、と自嘲気味に近況報告してくれた。半年で転職できるなんて、素晴らしい決断力と行動力ではないか。ずるずると同じ会社にしがみついて20代を浪費して周りにも迷惑をかけた自分としては、そう思わずにはいられない。付き合いの別れや離婚だってそうだ。人間なんだからもっと気軽にくっついたり別れたりすればいいのに、離婚といえばもうこの世の終わり、人間失格のように扱う文化。そして人々はそのことでさらに相手探しに、絶対にありえない永遠の愛の幻想を探す旅に追い立てられてしまう。そうして人々は、終わりなき旅のさまよい人となる。

 とはいえ、僕だって最初からこんな保守的な人生を生きようと思っていたわけではない。むしろ、大学で迷子になって、ベンチャーとか社会起業をやりたいと思って、再生可能エネルギー関係のスタートアップに入りつつ、親の反対を押し切って大学院に進んだのだった。結婚だって、姓をどちらかが変えなければいけないので嫌だったが、現実的に制度を考えるとそれしか選択肢はなかった。しかし、能力も度胸も足りず自分でベンチャーを立ち上げたりうまく経営したりすることはできず、面白い友人たちはみんな旅立っていってしまい、旅立てなかった僕は、狭い部屋で子守りをするだけの人生に落ち込んでしまったのだった。心情としてはアリスの「遠くで汽笛を聞きながら」である。

 

遠くで汽笛を聞きながら

遠くで汽笛を聞きながら

  • 発売日: 2016/11/02
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 そう、「遠くで汽笛を聞きながら」こそ本当は卒業ソングなのではないか。皆が「卒業」し「旅立って」いく中で、自分はどこにもいけない、というこの感じ(その意味では「沈丁花 - 読んだ木」に書いたBilly JoelPiano Manと通じるところもある。)。それは、「卒業」し続ける人々からの「卒業」であり、「卒業」の終わりである。尾崎豊のように、何度も卒業し続ける恐怖に、もはや悩まされることはない。「卒業」からの卒業、というわけだ。新たな旅立ちに向かい続ける人の求める場所は、おそらくこの、もう卒業しなくてよい最終地点である。そのゴールがあるからこそ、旅立てる。行き先がなければ、旅立ちもないのだ。そして人は出会い損ね続けて、また旅立つのだ。

 

心の旅

心の旅

  • 発売日: 2010/10/01
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 アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」の対極にある歌として、チューリップの「心の旅」があるだろう。あの曲は、旅立ちによって愛する人と離別する悲しみを歌った歌だが、なぜ相手を「抱いていたい」のが「今夜だけ」なのか。それは離別の時にならなければ、その人との離れがたさ、その人がいかに大切な相手だったかということを、人は自覚できないからだ。そのことに気づきさえすれば、われわれは旅立つ必要はないのだ。しかし、旅立つ必要がないことに気づくことは、もはや死である。それは、その時間、その瞬間の関係性を閉じ込め、凍らせて、そのまま続けようとする意識だ。相手も変われば自分も変わる。その人との離れがたさは、その一瞬前までのその人との離れがたさであって、その瞬間からのその人との関係は、まだわからない。だから、結局は、そこに時間(持続と言った方が正しいだろうが)という不可逆的な流れがある限り、僕らは常に旅立っている。現在という過去から旅立っている。僕らが抱きしめるものは常に過去であり、常に敗北である。

 つまり、僕らは常に旅立つという旅立ちの中にあり、その旅立ちの繰り返しが終わりなき旅なのだ。永劫回帰、唯一の反復。「旅立ちの唄」が繰り返し歌われるという「終わりなき旅」であり、何度「心の旅」に出ても、結局は別の場所で「遠くで汽笛を聞きながら」佇んでいるだけだ。「卒業」とは、その回帰をわかりやすく人々の人生に刻み、あるいは自己に理解可能なものとするためのくさびである。それは、次々に通り過ぎていく卒業の中から自分の記憶に留めておきたい、あるいは誰かの記憶に刻んでおきたい卒業だけを取り出して、飾り付けて、記念品や式典や飲み会などをやって「卒業」に仕立てているものである。そうして僕らは、過去を過去のものとして切り離しつつ、ちゃんと忘れずに抱きしめられるような厚みのあるものへと整え、それを引きずっていくのだ。

 

差異と反復 上下合本版 (河出文庫)