読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

何もない日々

 一日を家で過ごすと、本当に何もない。新型コロナウィルスが広がって、もう一年が経つ。去年の今頃、ボストンへの出張が取りやめになってひどく落ち込んだのだった。この一年の間、一生分くらい家にこもっていた。家にこもって子守りと仕事をしなければならないのだが、あまり捗らず、子供を傍目に布団の上でごろごろする日々が続いた。毎日、何もない。子供に食べさせる分は料理して、洗濯、掃除、ゴミ捨てを嫌々ながらこなし、あとはゴロゴロ。一人であれば、ゴロゴロしながらドストエフスキーばりに思索を巡らすこともできるだろう。しかし家族と一緒だとそうもいかない。それに、家事がひっきりなしに生まれるから、ゴロゴロすることには常に深い罪悪感がつきまとう。だからゴロゴロしているといっても、少し家事をやってちょっと横になり、時間になると次の家事をやって横になり、という感じで、細切れのゴロゴロなもんだから休んだ気がしない。なんか忙しい感じすらある。うちの場合、これ以上なく手抜きしているので、家事で忙しいというのは、仕事で忙しいのに比べればまったく忙しくないのだが。しかし他のことには手がつかない。

 困るのは、家事をやるというのは結局何もやっていないのに等しいので、なにも新しい知識が身につかないし(なにも、と言って言い過ぎならレンジでパスタを茹でるくらいしか、と言い換えてもいいが)、一つのアウトプットも出せないことだ。世の中には、家事育児をやりながら本を書いたりイラストを描いたりハンドメイドクラフトを売ったりするぐらいはお茶の子さいさいの人がたくさんいるが、僕が家事育児をやりながらできるのは、これは断言してもいいが、昼寝だけだ。毎日うちの前を通り過ぎる人がいたとしたら、僕は不治の病にかかっていつも布団に臥せっている患者にでも見えるだろう。違う、僕は怠惰なだけだ。頭はもういかれてしまっているから、不治の病といえないこともない、自己診断で良ければ。

 そうして、本当に何もないまま毎日が過ぎていく。この一年のロス。僕なりに精神の内では葛藤があったのだ。このままではいけない、一文字でも読み、一文字でも書かなければ、と。しかし、その精神の葛藤も、洗濯を一枚干し、皿を一枚洗っている間にどうでも良くなってしまう。ちょっと休みたい、ちょっと休ませてくれ、という気持ちになってくる。これは不思議なものだ。おそらく、家事になんのモチベーションも湧かないからそうなるのだろう。家事育児をしていても、何かになるような一日にすることはできないものか。なぜ家事育児というのはこうもつまらぬ営みなのか。僕が昭和の女性に生まれ、専業主婦になることを運命づけられていたとしたら(もちろん、専業主婦ほど楽な稼業はないだろうし、だから今の若い女性も専業主婦になりたがるのだろう、共働きは本当に大変である、けれども)、僕の人生はいかほどに暗澹たるものだったか。そう思うと、まだ恵まれている身の上なのだから頑張らなければと思うことは思う。

 過ぎてしまえばいい記憶になるのかもしれない。しかしそれは、何事においてもそうである。何事も過ぎてしまえば過去のこと。それだからなおさら、現在の不充実がいかにも耐え難い。気ばかり急いて、手は動かない。それでいてブログばかり書いているのだから、もうどうしようもない。

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 

 なんか一時期、こういう自分も許容できる時期があったんだけど、今はなんかダメだな。すごくストレス。やっぱり1年とか経つと厳しいね。3ヶ月くらいでこう、なんか入れ替わったりするならいいんだけど。