読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

人を殴ってはいけない

 人を殴るのは気持ちいいことなのだろうか。生まれてこのかた、あまり人を殴ろうと思ったことがない。とはいえ、煽りに煽られて拳を振り上げたことは、人生で3回ほどあるから、殴りたいと思うような心性が自らのうちに潜んでいることは否定し得ない。

 殴るというのは、拳によってのみなされるものではない。言葉でも、人を殴ることができる。僕も小さい頃は、「死ね」とか「うざい」とか散々言った。言われた方は傷ついていただろう。親からも含め言った分の百倍は言われているので、言われた方の苦しみはよくわかる。しかし、言いたくなることを全くないようにする、ということはできないだろう。

 道ですれ違いざまにぶつかってしまうように、それと気づかず殴ってしまうこともある。これはもう事故、自分の不注意のせいだから、気づいたらただちに謝るしかない。しかし、気づいたり気づかせてもらったりして、謝ることができるならまだよい。殴られた、ぶつかられたほうもすぐには気づかず、後から痛みがやってくるようなのだと、そのことに気づく機会も、謝る機会も逸してしまう。

 小さい子供のうちなら、走り回ってぶつかったり、腕を振り回しているうちに誰かを殴ってしまったりしても、まだ許される。しかし、大きくなればそんなことは先刻承知でよく注意しておかなくてはならない、という責任がうまれる。腹が立ったからといって死ねェと言ってぶん殴ったらいけない。だれだれちゃんが嫌いとか、気持ち悪いとかということを思っても、それを小学生のように公言してはいけない。

 そんなことは当然だが、なぜいけないのか。それは、さまざまな殴られ方によって苦しむ人の苦しみを理解し、それに寄り添わなければ、社会生活が成り立たないからだ。ぼこぼこ人を殴っている人はいいが、殴られた人はどうなるか。痛いし、怪我をするし、辛いだろう。ぼこぼこ人を殴るような人がのさばって、そのせいで苦しむ人がたくさんいるような社会に生きたいとはだれも思わないだろう。私たちには「憐憫」(ルソー)や「共感」(スミス)という能力がある。苦しむ人を見れば、その苦しみをまるで自分も味わっているかのような体験をする能力だ。自分以外でも、苦しむ人は少ない方がいい。もちろん、その範疇はさまざまな動植物や無機物にも広がりうるが、とりあえずここでは無前提ながら人に絞って話をする。苦しんでいる人はいないほうがいい。自分もそういう目にあって苦しみたくない。たしかに人を殴ればその刹那はスカッとするだろうが、殴られた人の苦しみが直ちに自分の心を締め付けるだろうし、その苦しみに比べれば殴ることを我慢することは苦しみでもなんでもない。人を殴らずサンドバッグでも殴れば同じスカッとする効果が得られるから、そういうもので代替するという賢さも人は備えている。そういうわけで、無闇矢鱈に人を殴らないようにしよう、ということになっている。

 どんな人が殴られてよいかは、権力が決めている。個人は、基本的には、殴られるべき人を公に申し立てることでしか、その人が殴られる状態を作り出せない。そうすることによって、個人間の殴り合いを回避するのだ。対等な立場の殴り合いならまだいいが、集団リンチや、福沢諭吉の言ったように相撲取りが赤子の手をひねるような殴り合いなら、なおさら回避しなければならない。では、殴ることを影で扇動する、あるいはその思いを影で吐露する場合はどうだろうか。直接殴っていはいないし、思想信条の自由があるのだから、誰かを殴りたいと思うことは自由だ。しかし、それを表明する場合、その責任は負わなくてはならない。たとえば、要職にある政治家を「殺す」と一部の身内にのみはっきり明示した場合、その身内から外部にその意図が漏れれば、これは犯罪として認められる場合があるし、そうでなくても要注意人物とみなされるだろう。ある人を根拠なく貶めることを、これも身内のみに明示したとしても、そのことが外部に漏れれば、その身内の範囲によっては名誉毀損にあたる。

 しかし、そんなことよりも重要なのは、人を傷つける可能性のある拳を、本人の前でなくても、振り上げてしまうような考え方は、それが振り下ろされた相手の痛みを十分に斟酌していないということだ。殴られた時の痛みを知る者は、例えその拳が人に当たらないと分かっていても、拳を握りしめた瞬間にその痛みを先んじて感じ、拳を緩めてしまう。しかし、痛みを感じずに生きてくれば、そのような痛みを先んじて感じることは難しいだろう。痛みを知らないできた期間が長ければ長いほど、そうだろう。そのような人は、軽い気持ちで拳を振り上げ、時には振り下ろしてしまう。

 誰しも心中に、誰かを嫌ったり、排除することで自分を守ろうとする心の働きを抱えているものだ。そのこと自体に石を投げることはできない。では、痛みを知らなかったことについてはどうか。それはその人の生き方に一抹の憐れみを感じるだけだ。では、痛みを知らずに拳を振り回してしまった場合はどうか。これも、無知は罪とはいえ、知ることが権力であることも考えれば、痛みを知ることを諭した上で無罪放免にすべきであろう。最後に、痛みを知らずに拳を振り回し、それが当人の意図によるかよらぬかを問わず、誰かを殴ってしまったとしよう。この場合は、もう殴られた痛みが生じている。ゆえに、殴ってしまった人はその罪を負わなくてはならない。拳を握りしめた時点で、誰にもその罪を犯す覚悟を負う責任が生じる。

 だから、さまざまな人の苦しみや考えを知ることは大事なのだ。自分はいつどこで、危険な拳を振り回しているやもしれない。それを振り回しているが当たっていない、という頃合いのうちに、誰かにそれを教えてもらわなくてはならない。傘を振り回して歩いてはいけない、コンドームをせずに挿入してはいけない、気に食わない部下に威圧的な態度で接してはいけない、等々。簡単なことではない。どれも、言われてみればそうかと思うが、言われるまではわからないし、言われてもわからない時がある。だからこそ、人の話はよく聞き、人のふり見て我がふり直し、常に相手の気持ちをよく考えなくてはいけないのだ。小学校で繰り返される警句のようなこれらのことも、その真意を踏まえれば、決して蔑ろにできるものではない。

(この記事を書いた背景にある具体論については歴史研究者と差別意識 - 読んだ木/続きとしては批判はよくない、と言うけれど - 読んだ木

 

道徳感情論 (講談社学術文庫)

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