読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

批判はよくない、と言うけれど

 アメリカだったかな、最近のポリティカル・コレクトネスに関するインタビューで、ある人が「自分は男性で白人で中高年であると言うだけで文句を言われてかなわない」という趣旨のことを言っていたのを聞いた覚えがある。その気持ちはよくわかる。というのも、僕もジェンダー差別が激しいとされるこの国の権力側である男性だからだ。説明する相手の性別によって、同じことを説明してもマンスプレイニングだと言われ、存在がキモいとか目つきが変態とか批判され、中年に近づけば臭い汚いキモいと批判される。これらは、僕がいるだけで不快になる人々からの申し立てだ。なぜ男だからというだけでそんなことを言われなければいけないのか。

 近年とみに、著名人をはじめ、差別や他人を不快にさせるような発言をした人に対して、容赦ない批判が浴びせられるようになった。その批判の結果、その批判の対象となった人が仕事を辞めさせられるなど、社会的地位を逐われることも少なくない。

 それに対して、差別発言をしたり、そこまでいかなくても他人を不快にさせる発言を不用意にした人を、徹底的に批判することは、言論の自由を不当に弾圧することである、という意見や、それでもってその人をある地位から追い出すことは「キャンセル・カルチャー」である、という意見も多数出ている。たしかに、多様な弱者に寄り添い、あらゆる差別のあり方を知悉し、巧みな語学力でもって、誰にも批判されないような発言しかしない人、というのは、そういう人自体がそのような能力を身につけられたある種の権力者であるし、そういう能力を身につけることのできなかった多くの人は、そのような「正しい」権力に恐れをなすことは当然である。

 ただ、批判が言論の自由を奪うものだ、という指摘はおかしい。では、批判したいという気持ちを抑えなくてはならないのか。意識的であれ無意識的であれ差別したいと思ってそういう発言をする人は許されて、それを批判したい人は許されないような言論の自由など、ちょっと想像し難い。言論の自由というなら、両方許されなければならない。差別発言もいいし、それに対する批判もよい。それが言論の自由だ。では、その先はどうか。もし差別や不快にさせる発言が、その批判を受けるほどでない、批判が妥当でない、というなら、反論すればよい。存在がキモいとか、加齢臭を擁護するのは間違っている、という批判は、それは不当だろう。加齢臭を消すのにどれだけ金がかかることか。だれがその金を稼いでくれるのか。なぜ金がないだけでキモい汚い臭いと言われるのか。ふざけるな!と反論すれば良い。反論が妥当なら、批判に対する反論がまた膨れ上がって、その批判が撤回されるだろう。中年男性だからと避けたり無根拠に批判するのはおかしいよね、となるだろう。

 批判に対する反論が妥当でないならどうか。例えば鼻をほじって鼻くそを机に擦り付けるのがキモいとか、雨の日に革靴で歩いてきた足を机の上に乗せていて臭いとかいう批判であれば、これはいくら反論しても厳しい。鼻くそを気持ち悪がる価値観が悪いとか、足を上げないと血行が悪くなる、など反論の方法がないわけではないだろうが、誰も妥当だとは思うまい。そしたら批判を受け入れるしかない。批判を受け入れるなら、批判される原因を撤去しなくてはなるまいし、批判の通りに対応しなくてはならないだろう。ティッシュを用意し、足は靴にしまうかなにかで拭くべきだ。接客業なのにそんなことをしている人は、左遷されても文句は言えないだろう。

 差別発言、人を不快にさす発言をすることは自由だが、その発言に対する責任は自分で負わなくてはならない。正しいと思って差別発言をするなら、最後までそれを貫くことだ。女性差別発言は批判するくせに、天皇をボロクソに言う人はどうなんだ、という意見がある。そう思うなら、その天皇を貶す発言を批判すれば良い。その批判が正当なら、その人はその発言を撤回するし、その立場を逐われるだろう。もしその批判が正当でなく、天皇への暴言等が認められるものとされれば、その人は発言を撤回しないだろうし、その立場に留まるだろう。もとより、天皇を公然と批判するような人は、この国が憲法天皇を象徴に据えているうちは、それほどの地位には上がれまい。それに限らず、然るべき地位にある人は、誰かを差別したり、不快にさせる発言は慎んでいることを、我々は知っている。そして、そういうことをした場合は、原則的には強い批判を受け、立場を逐われ、より広い視座から、人を差別したり不快にさせるようなことをしない人が選ばれる。まさに、キャンセルのおかげで不快にさせられていた人が救われるのだ。それでまた新たに不快にさせられる人がでたら、その人が声を上げて、また人が変わる。完璧などないが、それを繰り返すことでしか誰かを不快にさせないようにするほうへと向かうことはできない。一足飛びに誰もが快適になるなんて無理だ。言論が自由であるおかげで、批判の応酬が起こり、最も妥当な見解とそれを有する人が然るべき地位につく。これこそ民主主義の数少ない美点だ。批判を封じ、誰かにとって不快な人がある地位を占め続ければ、その人のために不快な思いをし続ける人が生まれる。言論の自由は、そういったことを極力生じせしめないよう、担保されているというわけだ。

 ここに、不当な批判に反論したいが、それほどの言論の技術を持っておらず負けてしまう、とか、確かに批判は正当だが、そもそもこれがそんな批判を受けるようなことだとは知らなかった、そんなことは教えられなかった、という人もいるだろう。そういう人は、言論の自由を否定し、既存の差別を温存すべきだとか、文句を言わずに従え、と言ってよい。もちろん言ってよいのだ。そして、もし言論が一部の口達者な人の占有物になれば、言論の自由なんかいらないという人ばかりになり、口達者な人の意見など誰も聞かなくなるだろう。大学なんていらない、知識なんて金持ちが振り回す権力でしかない、ということになるだろう。そうなったら、言論の自由を求める人は、慌てて口を閉じ、それまで黙っていた周りの人に謝り、言論の自由を担保するために必要な技術を誰でも使えるように工夫するとか、あるいは言論以外の形で自由を実現する方法を必死で考えるだろう。言論が自由であるということは、それ自体を否定することも自由でなければならない。むしろ、言論の自由を求める人々こそ、言論の自由を否定する人々の声を(勝手に代弁するのではなく)聞こうとしなければいけないのだ。

 

ソクラテスの弁明 クリトン (岩波文庫)
 

 

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