読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

ガーシュウィンとクラシック音楽としての「トムとジェリー」

f:id:tsukikageya:20210326220444j:plain

トムのようなすらっとして俊敏そうな猫には会ったことがない

 最近、子供に付き合ってトム・アンド・ジェリーを観ている。改めて観るとすごい。喋りはほぼなくて、全部がオーケストラの生演奏によるBGM兼効果音によって表現されている。つまり、作曲家がアニメに合わせて全部楽譜を書いて、オーケストラがアニメーションに合わせて演奏しているのだ。今からすると大変贅沢な仕立てだと思うし、1940年代から作られたにもかかわらず、今でも変わらぬ面白さと笑いを提供してくれているのがすごい。40年代に作られたものは日本では著作権が切れているので、視聴コストがかからないのもありがたい。

 

トムジェリとガーシュウィンとそのころのアメリ

 その中でも秀逸な一作は、1947年に公開された「猫のコンチェルト」。ハンガリー狂詩曲第2番を猫のトーマス(トム)がピアニストとして演奏するのだが、ピアノに住んでいたネズミのジェローム(ジェリー)が演奏に伴うピアノの動作により叩き起こされたために、トムの演奏を邪魔しようとして両者の間に小競り合いが引き起こされる、というシナリオだ。

 

トムとジェリー2 ピアノ・コンサート [DVD]

トムとジェリー2 ピアノ・コンサート [DVD]

  • 発売日: 2017/10/28
  • メディア: DVD
 

 

 演奏中に茶々が入ると、同じ部分が何度も繰り返されたり、急にジャズ調のメロディが挿入されたり、原曲にはないカデンツァが入ったりする。その時には曲の正しい進行が壊されているはずなのだが、アニメを観ているとそんな気はしない。むしろ、トムとジェリーの間のやりとりの中で、曲が次々に構築される、創造されているという印象を受ける。予定調和ではなく、色々な出来事を積み重ねることで全く新しい曲が生み出される、そんな風に聴こえるのだ。

 それはいわば、ジョージ・ガーシュウィンの曲のようなものかもしれない。ガーシュウィンの代表曲で「のだめカンタービレ」のアニメによっても有名になった「ラプソディ・イン・ブルー」は、1924年に書かれたものだ。その時はガーシュウィンが書いたものをファーディ・グローフェがジャスバンド向けにアレンジした楽譜であった。26年にグローフェが編曲したオーケストラ版が出て、最終的な版として現在まで流通することになるのは、1942年(ガーシュウィンはすでに37年に没している)にフランク・キャンベル=ワトソンが編曲したものだという(ウィキペディア情報)。

 

ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー、パリのアメリカ人、他
 

 

 どういう経緯でこんな素っ頓狂な曲ができたのかよくわからないが、この24年から42年という時期のアメリカの特異な雰囲気は、前の記事(雨の日のラヴェル、アメリカのラフマニノフ、道化のショスタコーヴィッチ - 読んだ木)でも書いたように、非常に興味深いものだ。つまりこの時代は、西洋の優美で繊細なクラシック音楽(定義が曖昧なのはご容赦あれ)や、それを書く作曲家たちが、ロシア革命ナチスの台頭に伴って荒々しく否定されていた時に、アメリカではアフリカ音楽や各地の民族音楽にルーツを持つ楽曲が渾然一体となって演奏されていて、ある意味で「正しい作曲」なんてものがなくなってしまった時代だった。ラヴェルも、ラフマニノフも、自分がそれまで培ってきた価値観が根底から掘り崩され、戸惑いながらアメリカを訪れたのである。当時のアメリカの音楽は、ある意味自由であったし、ある意味無秩序だと思われるようなものだったのではないか。確固たるスタイルもなければ、バンドやオケの編成もばらばら。音楽の真理を追求するのではなく、その場に即して最もエモーショナルなものを提示できたものが正しいという価値観。1898年にニューヨークで生まれたガーシュウィンはまさにそのような空気の中で育ち、20年代から38年に早逝するまでそこで作曲家として活躍していたのだった。

 

ラプソディ・イン・ブルーの「コレジャナイ」録音たち

 その意味でいえば、ガーシュウィンの曲そのものだけでなく、その演奏も、それまでのヨーロッパにおける「正しい演奏」を目指して演奏された録音は面白くない。Apple Musicで色々な演奏が聴けるが、例えばスロヴァキア放送交響楽団の1990年の演奏など正しすぎてひっくり返ってしまう。 

Gershwin: Rhapsody In Blue / Piano Concerto

Gershwin: Rhapsody In Blue / Piano Concerto

  • 発売日: 1990/07/02
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 音のつぶ一粒一粒がはっきりと聴こえ、しかも和音が進むにつれての楽器の積み重ねがはっきりわかるように演奏されている。和音が綺麗で、クラリネットのビビリ音が全然ないし、金管のビブラートが揃っている。なんか小節の頭拍がはっきりしていて、楽譜が見えるようだ。金管の登場が輝かしい。きわめつけは、途中のアドリブっぽい演奏が本当に……間抜け。確かにクラシック音楽の演奏技法としては正しいのだが、コレジャナイ感がすごい。

 2016年にリリースされた、郎朗(ランラン)の演奏したラプソディ・イン・ブルーは、いかにもアジア人が解釈して手を加えたらこういう演奏になりそうだ、という印象を受ける。ジャズをタバコ臭いバーで強い酒に朦朧としながら自分をなんらかの快感に持っていくために聴くというのではなく、それが録音されたLPやCDで日本製のオーディオ機器から聴いている人々は、ジャズにある種の「美しい」イメージを抱いている。静かなカフェのBGMになるほどの扱い、というわけだ。もちろんそれは、スムースジャズフュージョンなどが出てきた20世紀終盤以降のジャズについては適合的な理解だが、それを第二次大戦前のガーシュウィンに当てはめてはいけない。

ニューヨーク・ラプソディ

ニューヨーク・ラプソディ

  • アーティスト:Lang Lang
  • 発売日: 2016/09/14
  • メディア: CD
 

 

 著名な指揮者でしばしばこの曲を振っているのは、レオナルド・バーンスタインだ。バーンスタインは1919年生まれ、ユダヤアメリカ人で、10歳上のカラヤンと並んで名を馳せた。あの世代で近現代の曲を振る指揮者としては、彼がもっとも優れていたように思える。これまでに紹介した曲の中では、「雨の日のラヴェル、アメリカのラフマニノフ、道化のショスタコーヴィッチ - 読んだ木」で引いたショスタコーヴィチ交響曲第5番の録音が彼の指揮だった。

 彼が振った中で、ロサンゼルス交響楽団の演奏のものがある。

  この演奏は、冒頭のクラリネットがよくわかっていて、音を潰して、いくつかの音をビビらせることで雰囲気を出すことに成功している。ただ、テンポが遅いとまでは言わないけど、進行がどうももったりしていて面白くない。ジャズのリズムではない。スウィングがない。

  その点、やはりニューヨークフィルと演奏したこの演奏に勝るものはない。

  一目ならぬ一聴瞭然だが、ジャズらしい突っ込みと引き伸ばしの、スウィングのリズムが曲の全編にわたって継続している。そのおかげで、変に細工しなくとも曲に躍動感が出て、ラプソディ・イン・ブルーのもつ魅力がグッと引き出されている。そのリズムによって出る音引く音が自然に見えてくる。なぜみんなこういう風に演奏できないのか。最近はウィーンのニューイヤーコンサートでも、ウィンナワルツのリズムがどうもはっきり乗れなくて流れが作れてないと感じる演奏がある。みんなノリが悪い。もっと体を揺らしていこうぜ。

 

ガーシュウィンの弾くラプソディ・イン・ブルー

 じゃあそうすると結局、一番いい演奏はもうこの、「スムース」になる前の時代にしか残ってないという話になるわけだ。この、Gershwin Plays Gershwinに入っている、SP盤を聴いているかのようなひどい音質の録音である。

Rhapsody In Blue

Rhapsody In Blue

  • 発売日: 2010/12/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

  これがとにかく至高である。リズムも無茶苦茶、音もぐちゃぐちゃ。なのにすごくエモーションを掻き立てられる。楽器の状態が悪いからとにかく吹き込んで音を出さなきゃいけない。だからクラリネットのビビり音が入ったりする。ピアノも響かないから音が丸っこい、それに躍動感をつけるために、タッチが速い。音を出すために力強いのではない、音が出ないピアノでそれをやると単に重くなるだけだ。逆にポップにするために軽くひいたら、音が出ない。だからしっかり引くけど、早く鍵盤から指を跳ばす。跳ぶように引く。オケは、弾いているうちにどんどんリズムが早くなってしまう。だからレントのところでしっかりテンポを落とす。それで緩急が生まれる。作曲技術が単純で、主題の展開などが凝ってないから、聴いていると飽きそうになる。だからすぐ全く違う表情のメロディに移行する。それぞれのメロディは単純だけど、どんどん展開するから楽しい。言ってみれば、ヨーロッパの正統なる音楽教育を受けて形作られた高度な音楽と、多額の費用と大勢の観客を集めて維持されるようなオーケストラではないからこそ、生まれた音楽なのだ。だから、どんなにすごいオケがやってもいい音楽にならない。むしろ、いい技術を持っているがへそが曲がっているので売れたりはしないような場末のビッグバンドなどがいい演奏ができそうだが、もちろんそれゆえに素晴らしい演奏が録音される、ということはないかもしれない。録音されて世に出ているものがいつも最高なわけではないのだ。

 

クラシック音楽としての「トムとジェリー

 

 47年のトムジェリの、いわば「ハンガリー狂詩曲第2番による変奏曲」も、そのようなヨーロッパの音楽をアメリカナイズする文脈の上にあるような気がする。だからこれはこれとして、クラシックのある一曲として尊重されるべきだし、この作曲を手がけたスコット・ブラッドリーなどは近代音楽を代表する作曲家としてもっと評価されるべきだろう。言葉の世界でいう宮沢賢治のようなものであって、音楽で動きを表現する天才である。擬態語ならぬ擬態音というわけだ。動物を音楽で表現することはバロック時代から前例があるけれども、彼ほどそれをダイナミックに成し得た作曲家はそれまでには存在しないといえよう。

 放送開始から80年を経たトムジェリや、あるいはそのほかの劇場音楽などが、1世紀ぐらいの時を経て歴史となり、伝統あるオケで単独演奏され、録音される日も遠からず来るだろう。その時にはもう、西洋のクラシックが中心となるような音楽史解釈は崩壊しているだろう(今はまだ根強い)。その時には、本当に新しい、聴いたことのない音楽が生まれてくるに違いない。それまで生きて、そんな新たな音楽を楽しんでみたいものである。