読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

どうやってプライベートを充実させるか

 既婚子持ちの中年男性。自由などない。金も時間もない。基本的にいいことは何も起こらない。しかし、そのまま生きていくのは辛い。なんとかしてプライベートを充実させたい。そういうことを考える記事。

 

不安をめぐる過去・未来・現在

 毎日毎日嫌なことばかり考えてダウナーな記事を書きまくっている、こういうことはよくない。新年度に向けて、何かポジティブな整理をしたいものだ。自分をどこへ持っていくべきか。何を目指して日々の仕事に取り組むか。その自覚がないまま漫然と過ごすと、あとで後悔する。漫然と過ごしていても、その漫然さになんでもいいから自分で意義をこしらえて付与してやると、それがどんなに奇抜なこじつけでも、後から振り返ればなんだか意義があったように思えて後悔しなくて済む。もちろん、漫然に過ごそうが充実して過ごそうが、過去になっちまえばその時間を再度同じように体験することはできないので、実際はどちらでも大して違いはない。

 また、未来について計画を立てると、未来が不明であることに対する不安を忘れていられる。もし明日太陽が昇らなかったら、などと考え始めると気が狂うが、未来に不安がある人間のやることはだいたいこれと変わらない。明日太陽が昇らなくても自分が死ぬまで生きていることには変わりなく、それを変えることはできないのだから本当のところは未来を予測しても仕方がない。未来の不安というのは、明日太陽が昇らなかったらどうしよう、ではなく、明日太陽が昇らなかったら何をしよう、ということである。人間はやるべきことがわからない、暇である、という状態に不安を抱くものだ。どんなに追い詰められていても、やるべきことがわからず何もしていなかったらそれは暇であるということだ。逆に、どうでもいいことでもずっと休みなく何かに取り組んでいるのなら、その人は暇ではないだろう。明日起きてやることが決まっていれば、不安はない。それをやると腹を決めるだけのことだ。要はそういうことだ。

 一番いいのは——それはある人にとって良いかどうかではなく、不安なことを考えないためにという意味でいいことだが——、現在が、そういう不安なことを考えるような暇がないくらい忙しいことだ。だいたい暇だから考えが広がって、色々考えて不安になってくる。忙しい時はそんな未来や過去や周りのことなど考えられないものだ。しかし、様々な理由で忙しくない現在を過ごしている人間にとっては、やはり何か湧いてでてくる不安や苦悩をなんとか処理しなくてはならない。だいたい、毎日こんなブログをだらだらと書いている人間が暇でないわけがない。確かに色々と追い込まれているが、それに向き合っていないので時間があるのだ。多くの人が、そういう経験をしたことがあるだろう。僕の人生は常にそんな感じだ。

家族持ち中年男性の悲哀

 なぜ僕がこれほど暇かといえば、子守りをしているからだ。仕事に没頭している時はこんなブログなど書く暇はない。子守りは、とにかく全てのことがぶつ切りになり、子供が寝ている間や一人で遊びたい時という、数十分の空き時間がちょこちょこと出てくる。そのような時間は、仕事をするには、準備もできないし十分に集中して取り組むことができず、かといって何もしないでいるわけにもいかないから、庶務を片付けながらブログを書くことになる。ブログは何も考えないで書けるので、細切れでも多少進捗が感じられて良い。自分は何もやっていないわけではない、という自覚をもたらして精神を安定させるためにブログをやっているのである。

 さて、ポジティブな整理ということだが、僕は細かく計画を作っているので、ある意味ではすでにそれはなされていると言える。一応、長期、中期、短期(概ね週次で年間)、と計画があり、それに基づいて毎日のスケジュールを組み立てている。中長期計画に立ち戻れば、そこには一応壮大で前向きな目標が立てられている。ただ、そこに書かれているのは、なんというか、パブリックな自分についてだ。僕が多分悩んでいるのは、自分のプライベートについてである。加齢に伴い、白髪や加齢臭が自らをアイデンティファイし始めるようになり、視野が狭く価値観が古くなっていく中で、家族がいるために時間も場所もない状況下、どうやって自分のプライベートの充実を図るか。それをポジティブに整理する必要がある。

 ここで家族に何かを求める人がいるが、それは僕は賛成しない。家族といえど、それぞれ一個の独立した人格である。それぞれ自分のやりたいことがあり、特に親は、子供のやりたいことに対して、子供の必要に応じて呼び出されれば良い。親が自分のプライベートあるいはパブリックな期待を子供に押し付けたら、子供が辛い思いをするだけである。だから、自分のブライベートの充実は、逆説的だが家族の外側において見いだすことで、むしろ家族も良好にいくのだ。しかし、時間も資本もない中で、どうやってそれを実現していくか。

プライベートを充実させるための考え方

 おそらくその答えは、仕事とは違う自分の興味関心の向く対象に、あまりリソースを投下せずにしかしコツコツと取り組んでいく、という形が理想的だ、ということになろう。

 金があれば、家で子供たちと遊ぶ合間に愛車をチューンするとか、時計やカバン、タイピンなどの小物に凝る、というのがその一つだろう。鉄道模型やプラモデルなどもこの類に入る。家族との時間を削れないので、時間が細切れでも少しずつ進めていくことができ、しかもゴールがないような、いくらでも追求する余地があるような趣味だ。

 家族と一緒に楽しむということで、ディズニーやジブリなど家族向けコンテンツの中に魅力を見出し、一緒に遊園地に遊びにいったり配信コンテンツを視聴したり、コレクションを集めたり、という方法もある。これは家族、特に夫婦が一致して同じ対象に関心がある場合、非常に良い効果をもたらすプライベート充実のための方法だ。

 もし家族をあまり顧みないのであれば、子守りは誰かに任せてゴルフや登山、フットサルなどのサークルに参加する、という手もある。あるいはアイドルのコンサートなどもこの類に入るだろう。月に1日、あるいはもし状況が許せば週に1日だけ、それに時間を割くことを許容してもらえる環境がある、などの場合は、実際これはよい気分転換の機会となるし、同好の士との間に新たな繋がりも増えて、非常に充実したプライベートの環境を得ることができるだろう。

 しかし、多くの人がSMクラブや女装バーのようなところに行くことなどを勘案すれば、おそらく人々が望むプライベートの充実は、こんなチンケなものではないのかもしれない。自分の肩書きも立場も会社や家庭での役割も、場合によっては性別や年齢すらも飛び越えた自分、本当にパブリックなものから完全に切り離された自分になって初めて、自分の内面に即したプライベートなものが作り出せるということなのかもしれない。西村京太郎が『変身願望』という小説を書いているが、プライベートな自分を解放することは、日常の自分からすれば変身に近いようなことではなかろうか。不倫や仮面舞踏会の隆盛も、性欲のなせる技というよりかは、このような変身願望、家庭ですらパブリックな、つまりそこで求められる像に適した振る舞いをするような自分から脱却したいという思いの結果だろうと思う。もしそのようなプライベートの充実が叶う環境にいるのであれば、それがプライベートに止まっている限りにおいて、それは他のいかなるプライベートの充実の形よりも、視野が広がり、学びがあり、より深くその満足を得られるだろう。しかし、それをポジティブな計画として立てられる人は、おそらく多くないと思うが。

 

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 僕個人はといえば、もう少し広い家に移るなどして、空間が得られれば、また鉄道模型でもやってみたいものである。子供たちがそれに興味を持つなら、一緒にカメラや楽器に興じるのも、現代的でいいかもしれない。いつかそういったプライベートの充実がもたらされる日がくるというポジティブな信仰を持つことで、現下の不安は多少なりとも払拭される。実際の未来は子供が不登校になったり、自分と口を聞いてくれなくなったり、家がもっと狭くなったりするのだろう。しかしそれはそれでいいのだ。まず今、前向きな展望があることが大切である。さすればそれを元に、明日の朝やることを決めることができ——例えば、鉄道模型のレイアウトを考えてみるとか、『RMモデルズ』(鉄道模型の雑誌)を買いに行くとかだ——、それによって不安を脇に寄せておくことができる。こうして日々を前に進めていくしかないのだから……