読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

嗚呼耐え難き大型連休

 平日には子守りしなくていい。昼間は保育園が見ててくれるから。平常時なら授業は特定の時間にしか行わない。子守りと授業がない時間は、思う存分研究に充てられる。

 

 この連休、保育園が休みであるから当然子守りをする。しかし、緊急事態宣言に伴うオンライン授業化で、飛び石の平日にある授業はその前の休日中に録画する必要があり、さらに学生に個別対応してるから、子守りの合間をみては資料を漁ってカメラの前で喋らなければならない。もっと早く宣言が出ていれば準備もできたものを、発令の週がゴールデンウィーク開始の週だったからなにも仕込めなかった。しかし、この連休には元から入っていた研究会や打ち合わせの予定がある。その結果、普段以上に余裕のないまま時間が過ぎていく。

 なにかアウトプットできることがあればいいのだが、ルーティンをこなすだけで精一杯だ。気持ちは常に急かされている。しかし子守りを頼れる人はおらず、授業は自分でやらなければだめだし、僕の研究は僕しかできない。こういうとき、チームプレイできる優良な企業がうらやましくなる。口を開けば愚痴を言い、口を閉じればイライラし、このブログも完全にその吐け口になってしまっている。吐き出したところで誰も助けてくれないからなおさら辛いのだが。

 

 根源的な理由はもっと他にある。それは閉塞感だ。誰もいない職場と家しか行かない日々。外の世界はパソコンの画面を覗き込むことでしか見ることができない。パソコンの向こうでは、人々は自由に楽しい生活を送っているように見える。この1年間、一度しか他人と対面で酒を飲む機会はなかった。その前の半年間も、家の事情でずっと家に居ざるをえなかった。色々な人と話し、学び、考えることを人生の糧にする僕にとって、この1年半は苦行そのものだ。その間に知り合いたちは引っ越していなくなったり、連絡がつかなくなったりした。

 昨年の大型連休が蒸発してしまったから、今年は色々と連絡をとってリユニオンを、という気持ちもあった。見通しが甘かったというわけだが、いつまで僕は家族以外の誰にも会えない生活を続けるのだろうか。その間に疎遠になる友達は増えれども、新しい友達は見つからない。寂しいことだ。

 

 歴史を振り返れば、災害や戦乱で長い間苦痛を味わうことになっても、死なずに正気を保ってその期間をやり過ごせば、いつかは生きて明るい時代を迎えられることは確かだ(例えば人は『播磨灘物語』に描かれた牢に繋がれた黒田官兵衛を思い出すだろう)。それはそうなのだが、その間に失われる人生については、あまり顧慮することがなかった。その間に耐えられず死んでいった人々は、未来の希望より、現実の絶望の方が重かったのだろう。ここを乗り越えて自由になれば、本当に幸せなのか。それはなんとも言えない。なんとも言えないが、おそらく乗り越えて再び明るい時代を享受してから死にたいところである。

 あせって自由に振る舞おうとすればあっけなく死ぬ。それも、どの時代も同じだ。耐えねばならぬ、耐えねば……

 

 

 

今週のお題「おうち時間2021」