読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

孤独なブロガーの独言

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 インターネット上には色々な界隈があるらしいけれども、僕はあまりそのどこにも属さず来てしまった(その葛藤の系譜は「2012年の以前と以後のインターネット - 読んだ木」に書いた)。そのため荒らしにもなれず、ネトウヨにもなれず、陰謀論にも染まれていない。現実ではフェミニズム日本史学に近いところに身を置いているが、ネット上でそういったフェミニストとして活動している人々や、やはりネトウヨ然とした日本史のコミュニティにも、逆にリベラル然とした欧米史学社会学界隈にも関わったことがない。昔はスタートアップにいたが、ITベンチャー社長や芸能人とその取り巻きというようなコミュニティにも接続していない。それゆえ、このブログもふくめ僕のインターネット上のつながりというのは非常に少ない、おそらく片手で数えられるほどの人としか繋がっていない。要は数名の知り合いがこのブログを読んでいるだけ、ということだ。

 ありとあらゆるネット上にある、ある界隈に属することで認められたいという気持ちが自らの心中に生まれ、それを否定することはできない。しかし、界隈同士で立場の異なる界隈をお互いに批判しているさまを見ていると、双方に主張の分があり、また問題があるようにも思える。だから、そういった界隈のいずれの立場を取ろうとも思えない。また、そこで晴れてインフルエンサーとして多くの人に承認された人たちが、自分の名声のため、あるいは支持者に惑わされたため、はたまた金銭の取得のために、ある特殊の立場を強調した発言をするように傾向づけられていくさまは、それはある場合にはフォロワーたちをある種の困難に陥れ、あるいは世論を擾乱させることになるとしても、そのような人たちの責を問おうという気を起こさせるものではないし、逆に自らがそれについていこうという気はさらさら起きない。

 

 例えば、右翼と左翼との間の対立で、右翼の側は人種差別、政権与党の称揚を行い、左翼の側はそのような差別に対する批判、政権与党の政策批判を行う場合が多いように見受けられる。しかし、右翼の人種差別の根底にある、異なる文化への忌避感、あるいは経済的に没落したこの国にあって、代わりに経済的成功を享受している国に対する嫉妬、そして、根拠なく自国が優位であると願う気持ちというのは、それ自体として人心のうちに発生することは否定できない。そういった心情が発生する背景には、自らの個人の個性に十分に自らを委ねることができず、民族や国家というものを支えにしてしまうということを余儀なくさせる社会状況や生い立ちがあるのかもしれない。あるいはそういったものがなくても、そもそも友-敵という区別が認識されればその時点で、我の方に加担したくなるのは自然な心情というべきものではないだろうか。だとすれば左翼の側が、人種差別、民族差別、あるいは出自等による差別を否定し、万人を平等に尊重するべきだという主張は、自らのうちに生じる差別意識を自ずから否定する、自己批判して乗り越えなければならないということを意味している。そしてそのことを可能にするには、他者を妬んだり、先入観で差別したりしないように、第一に、客観的かつ具体的に差異を捉え、それを各個人の尊厳の評価に用いないようにし、かつ第二に、自らの感情の高揚を自ら抑制することが必要である。第一のことは、相当な教育を受け、あるいは教養のある環境で育った人でないと難しいだろう。第二のことは、それに加え、他者を妬まなくて済む程度には自尊心を持たねばならず、またそれを常に鍛錬の方向へとストイックに動機づけなければならないということで、これもそれを可能にする環境は限られている。

 ミソジニーフェミニズムの間の対立も同様であろう。ミソジニストは既存の女性差別ジェンダー構造に依存し、それを変更することには抵抗を感じている。このような現状維持の性向が人間に元来存しているものであることは心理学等で何度も明らかにされてきたところである。さらに、ジェンダー構造で被っている自らの損害を耐えているという点でもって、被差別者も同様に差別により被る損害を耐え忍ぶべきだと主張する。もちろんここに損害の軽重の議論がないことは指摘できるが、しかし個人におけるその損害をいかに計測できるであろう。社会的なその格差と、個人の心情とはまた別のものである。ここでも同様に、そのような個人の心情を乗り越えたところで客観的かつ具体的に差異を捉えることで差別の実態を把握しなければならず、さらに、自らの損害を殊更に申し立てるようなことがない程度には自らの置かれた立場に自尊心がなくてはならない。言うは易しだが、実生活の中でそういったことを実践することは簡単ではない。

 

 人種や民族、国籍や生い立ち、あるいは性別などの壁をあえて設けず、人間として個人の誰もが平等に尊重され、なんらの枠組みも与えられず自由に活動し、交流するという理念そのものを否定したいという人は少ないだろう。しかしそういった差別が生じるのは、そういった理念を考えたり、実現しようと望む余裕がないまま、見かけの差異を捉えて、自らが恵まれていないこと、十分な自尊心を得ることができない環境にあることを主張したくなる、あるいはそういった多くの人に適用可能な普遍的理念を実現するのではなく、むしろ自分が知っている社会構造や政治、経済、文化のあり方に適合的な範囲での理念の実現を目指したい、と考えたくなるような、人々の心情にある。そしてそのような心情の発露と拡散を助長する、二つの要素がある。

 一つは、誰もがわかるように、そしてこのブログ自体そうであるように、個人の心情の吐露が簡単な媒体が増えたということだ。紙とペンを用意し、何度も推敲し、雑誌に投稿し、運良く認められ、掲載され、その雑誌の購読者に限ってそれを読んでくれる、という時代とは隔世の感がある。今や、風呂でも散歩中でも仕事場でも、ふと思いついたことを、あるいは思いつかないうちから書いて世界中に発信し、あまつさえ何も考えなくてもカメラがそれを流出させてくれる時代である。そして、そういった言葉は、発信される前にさまざまな人の目に触れ、あるいは訂正されあるいは批判されてから出てくる文章が身につけているような普遍性は持たず、個人が個人の経験のうちから短い時間で書かれた個人的な文章とならざるを得ない。もちろん、今現在リベラルで大所高所から大層なことを主張する人々も、10秒や1分でツイートを考えてツイートしろと言われれば、何か個人の立場からの言葉が出てきて、それはあるいはあるカテゴリの他者を傷つけるものとなるかもしれない。そういったことがないように、さまざまな虐げられた、あるいは環境の違う人々のあり方を想像しながら、より普遍的な言葉を発するということをしなければ、そもそも個人が発する言葉や議論というのは、個人的、それゆえ他の立場を前提としない差別的なものだ。自然に普遍的な言葉しか出てこないような人というのは、神父か牧師か坊さんか、あるいは隠棲している革命家かといった、日々の生活からして超然としていて具体性の低いものであるような人に限られるだろう。このブログも、誰かの検閲を受けているわけではないから、もちろんその想像の及ぶ範囲は僕一人の経験と知見の範囲に限られ、その限りで差別的なものになりうるだろうし、それを訂正するために批判や批評がなされるべきであるが、ともあれ、そもそも左翼とかフェミニストとか、ちょっとカテゴリの雑さは論旨のいきがかり上なので勘弁してもらいたいが、そういうリベラルな、より普遍的な立場から現状を良くするために変えていこうという考えを持つ人々の発言は、ある程度の知見や経験の広さが必要であるし、さらにそれが言語化されるプロセスにおいて意図に沿うように言語化されるための手続きや時間が必要だ。

 もう一つは、社会が硬直的であるため、左翼的立場の人々であるとか、あるいはフェミニストであるとか、普遍的な主張をする側が絶対的正義になってしまいがちなことである。もしこれが、しばしば保守党と労働党が入れ替わるような国であれば、左翼的立場の人が主張する普遍性、現政権への批判はそのまま自分に返ってくることになる。左翼的立場は自らが主張する普遍性を実現するためにさらに困難な政策を案出する責任を負うことになるし、さもなければ空想家として馬鹿にされるだけだろう。ジェンダー格差やジェンダー差別ももう少し緩和されてくれば、今度は男性の中でもジェンダーに基づく差別を受けている人の姿にクローズアップがなされてくるだろうし、女性の中でもミサンドリーやトランスフォビアの人々に対する批判が生じてくるだろう。しかし、社会が硬直的であると、こうしたことが起こる可能性が低いままである。そうすると、左翼の側の主張、あるいはフェミニストの主張は、ずっと正しいままということになる。右翼の人やミソジニーの人、あるいはそうでなくても、特に何も考えずにつぶやいたことがいつも批判されるような人は、永遠に自らは誤った考えや主張をする存在だと根拠付きで言われ続けるので、鬱屈した気持ちを抱えることになる。

 しかし本来、そんなに多様な人のことを尊重して発言するなど誰もができることではない。迂闊な発言は意図せず他人を傷つけるのだから、そもそも考えなしの言葉をインターネット上で世界に発信するべきではないのだ、と今更いっても遅い。前から書いているように、昔のインターネットはいいところだったが、それはインターネットにアクセスする人数が少なかったからで、その時代に迂闊な発言をしても読む人は少なかった。しかも、嫌なら読まなければよかったのだ。しかし、今は「バズ」という言葉があるように、他人の感情を逆撫でし、嫌な気持ちにさせるようなものほど人々に広がるようになっている。つまり、人を傷つける言葉をできるだけ傷つく人に届くような仕組みができている。なぜなら、嫌でも読んでもらうこと、むしろ嫌なものを読んでさらに「痛い!」と悲鳴を上げてもらうことが、広告収入で生きるIT企業の戦略だからだ。十分に多様な立場に配慮され、発言の範囲の限界を踏まえた文章など、見向きもされない。昔のいいインターネットで交流していた人はいなくなったが、昔のいいインターネットの悪い側面である、あまりに無配慮、無遠慮な発言や、グロ、いじめ、ポルノ画像などがジャカジャカ流れてくるという機能は今日さらに強化されている。大手のウェブメディアでも、政治の問題や国際関係の問題など重要なニュースについては取り上げず、ネットで話題になった特定の個人の発言を追うとか、上述したような普遍的な見地ではなく個人の印象のようなものを社会問題の風体で載せるといった手法が見られる。流石にポルノ画像を使った広告はないとはいえ、血がダラダラ流れるようなグロ画像や大人が怒鳴っているような画像を、漫画の広告とかと称して流したり、身体からの排泄物のような画像を掲示して健康食品の広告とかと称するものが流れてくる。

 

 僕は、ブログも好きだし、思いついたことをインターネットにそのまま流せるのはいいことだと思うし、それを知り合いの間で楽しむのもいいことだと思う。発言が誰かを傷つけるようなことがありそうだったら、鍵をつけておくとか、裏アカウントを作るとか、閉鎖的なSNSを使うなどのバリエーションも増えてきた。これは見えにくい場所で差別や陰謀論を助長するという見方もあるけれど、それはそれでいいと思う。というのも、それまで禁止してしまったら、明らかに言論の自由の制限だからだ。差別的な発言も、極端な性嗜好も、それを知って不快になる人がいるようなところにポスターとして掲げるようなことがなければ、自由にしたらいいだろう。昔の人はそれを「私」の領域として不問に付した。しかし、これに対して「公」の領域であるオープンな場、しかも政治的な論議が展開されうるような場であれば、より公益に資するような、つまり一人でも多くの人が、そして同時に最も苦しい立場にいる人が、より生きていきやすい社会にするための議論が、人々の注目を集めるような仕組みがあったほうが良いのではないかと思う。本当は新聞やテレビなど社会の公器と言われるようなメディア媒体がそのような目利きをしてくれれば楽だが、そんなことはこの資本主義社会で望むべくもない(減税措置などやめるべきだ)。本来は、みんなが自分は民主主義社会に生きる一員であるという自覚をもって、プライベートな悩みで共感でき、癒しを与えてくれるような記事ばかりでなく、より世の中を良くしていくためにはどうしたらいいかということを真摯に考え、具に分析しているような記事に注目することが望ましい。

 現実としては、皆が自分の共感しやすい記事に反応するので、それぞれの属性に応じてそれぞれの界隈へと分化し、対立するということになっている。僕なんぞは共感できる記事が全然ないので、ただ一人でブログに引きこもって孤立している。そしてそれぞれの界隈から、違う界隈で燃えそうな案件を「トレンド」とかいってお立ち台に引き上げることで、ネット媒体各所が儲かる。そんなことのためにみんながパソコンを買い、スマホを買い、ネットを契約して時間を費やしているとすれば、かなり悲しい社会だが、少なくとも僕は「そんなことのために」それをやっているとしか言いようがない。ブログを書くことがなければパソコンは会社支給のものだけで済むし、スマホSNS巡回のためだけに使っているようなものだ。その間、誰かが時間を費やして社会を良くするために何かをしてくれているのだったらいいのだが。

 自分の社会を生きやすくするためには、自分が時間を費やしてそのための努力をしなければいけないのだろうか。もう何もかもに満足して、自分の生きる社会には何も期待しないという人も多いだろう。そういう人は、文句を言ってくる他人を「自己責任」の一言で蹴り落とせばいい。ただ僕は、これは個人の心情として、もうちょっとみんなが生きやすい、より良い社会にできないものかと考えている。そしてそれを考えるためには、Twitterでのハッシュタグをつぶやくとか、差別的発言をしたアカウントを見つけては叩くとか、支持率アンケートが出るたびに何かの支持者に対してアホとかタコとかいう罵り合いをやるとかではなく、その分じっくりと時間をかけて色々な書物を読み、色々な立場の人に思いを巡らせ、しかるのちに一定の所見を表す、とまぁこういうふうにしたいと思っている。だから当面のところは、どこの界隈にも属さないで、しかしそれぞれの界隈で主張されていることに学びながら、孤独なブログを続けるだけということになる。

 

 

ねこ

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