読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

「なにかいいことないかな」という想起に対処する

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果報は寝て待て、待てば海路の日和あり、という諺を胸に

 なにかいいことないかな、と思う時がある。

 言語というものの性質上、何か定型的な想起がある時は大抵共通する背景があるもので、「なにかいいことないかな」と思うときには必ず二つの要素が付随する。その第一は、いいことがないということであり、第二は、いいことがあるはず(あるいはあるべき)である、ということだ。

 

 いいことがない、ということについては、しばしば主観的解決がアドバイスとなる。つまり、「いいことは日常の中にあふれていて、それに気づけていないだけないんだよ」と。確かに、自分より良くない条件に行きあたっている人と比較していいことを定義しようとすれば、自らを取り巻く環境のあらゆる点から一つを切り出せば、自分より条件の悪い人がいるような「いいこと」は当然あるはずであって、どんな人でもその「いいこと」だけにフォーカスすれば溜飲を下げることができる、というわけだ。これはまぁ一種の詭弁である。想像上の他人から見て「いいこと」であるであろうポイントに注目することによって自分に「いいこと」が起こっていると考えることは、自分の「いい」「悪い」の価値観や感性を無視している。

 人生を生きていく中では、どんどん悪いことが起こるので、例えば近親者の死を経験すれば、近親者が元気で生きているだけで本当にありがたく、「いいこと」だと感じるだろう。しかし、それは近親者の死を経験するという深い悲しみがその人のうちにあるからそう感じることであって、何も経験していない人に生きているだけでありがたいなどと説いて回るのは詮ないことだ。最初から深い絶望の対にある「いいこと」という、非常に低いレベルの「いいこと」で満足するように自らを訓練してしまえば、どうしてそれ以上の努力をしようと考えるようになりうるだろうか。「いいこと」のハードルを低く設定し、より大きな「いいこと」が実現するように願わずにいられるような人は、単に現世を諦め、時間を無為に過ごしている人である。いいことがないことの辛さを諦めに置き換えて無為に日々を過ごすぐらいなら、いいことがないことの辛さを十分に味わいながら日々琢磨した方が、より大きないいことを手にする可能性も高まり、またそれを手にしたときの喜びも大きいものとなるだろう。日常にあふれているいいことのありがたみなど、辞世の句を読むときにでも思い出せばそれでよいではないか。それよりも、もっと大きな「いいこと」が起きてほしいという自分の感情を大切にするべきだ。

 

 いいことがないことを苦しむことの必要性はそこにあるのだが、いいことがない時にいいかげんいいことが起きてほしいと思うのは人情である。もう、いいことが起きてもいい頃合いだ、というわけだ。その場合は、自分の考える「いいこと」のゴール設定をよく吟味することだ。大抵、そういうことを考える時というのは、十分に努力が蓄積され、本当にいいことが起こるべきタイミングが来ている、というわけではなく、むしろそれなりに努力しているがまだ先があり、しかし自分は疲れていて、できれば労せずしてさっさとゴールに辿り着きたいと思っている時である。そういう時が、もっとも、成功者やプロフェッショナルと、挫折者やアマチュアを分けるタイミングとなる。疲れているので、確かにもう労力をかけたくない。しかし、そこで楽して「いいこと」の到来があることを欲求してはいけない。労力を最小限に絞りつつでも、「いいこと」のゴールに向かう歩みを止めてはいけないのだ。

 そこで、いいことが起こらないからと投げ出したり、逆に早くいいことを起こそうと加速すると、大体ロクなことにならない。アマチュアはそのどちらかになってしまう。投げ出せばもう終わりだし、加速すれば挫折してやはり終わってしまう。しかしプロは、そこで出力を三割、なんなら一割に絞りつつ難局を乗り越えて、そのさきの地平に辿り着く術を知っている。なぜならプロは、明日も、来月も、来年も、数年先も、自らの仕事を止めるわけにはいかないからだ。当面の数日や数ヶ月、仕事量を絞ったとしても、その長期的なスパンに大した影響はない。極力手を抜くことで、いいことがないことの苦しみをできるだけ軽減し、かつちょっと気を紛らわせたりしつつ、努力が再び可能になる、いいことが近づいてくるタイミングを待つ。僕はこれを、『老人と海』に教えられ、麻雀に学び、登山で訓練した。負けが立て込んでいる時に、卓を離れてしまえば、その損は確定する。しかしやけくそになって一発逆転を狙えば、さらに大損する。そういう時は、まず捨て牌をよく吟味し、振り込まないようにすること、次いで、どんなに安い手でもいいから和了れるように、丁寧に打ち込むことだ。そして、形勢が挽回されるまで粘る。しかしこれが最も難しい。

 

 あまりそのような粘り強さがなく、安易に日常にいいことを見出そうとすると、自分のなかに深い欲求不満を繰り返し蓄積していくことになる。しかし表向きは、自分にはいいことがあるという暗示をかけているので、自分の内面にある欲求不満に気づけない。そうして人は、日本が急に戦争をして勝つとか、明日わけもなく数十億円が振り込まれるとか、自分の身に降りかかる災難は全て社会の陰謀だとか、といった荒唐無稽な妄想に取り憑かれていくことになる。しかも、彼ら彼女らは、その妄想の実現に向けた努力を積み重ねることができないので、大声でそれを叫び回るという形でしか鬱憤を晴らせない。妄想でも努力すればある程度実現する可能性はあるのだが、悲しいかな、努力の仕方を知っている人はそもそもそういった妄想に囚われることはない。「いいこと」などそうそうないことを知っているからだ。しかし、妄想に囚われる人を責めるわけにもいくまい。そういう人々はそもそも環境に恵まれておらず、努力が報われなかったり、努力する契機を得られなかったのだ。本人のせいではない。努力しなくても「いいこと」がたくさん起こる人も、少なくない。つまり、社会には「いいこと」の格差があるのだ。ただ、そこにつけ入って、日常にいいことを見出す諦念に導くことで欲求不満を高まらせ、そのような心理不安を抱えた人々を顧客にして栄えるビジネスや、逆に粘り強くなくても一発逆転できるというような騙しによる詐欺まがいのビジネスが繁栄することもある。

 

 これまでのことを踏まえれば、大切なのは、自分の中での「いいこと」を見失わず、それにフォーカスすることであり、処世術としては、「なにかいいことないかな」と思った時にすべきは、今やっていることについては手抜きをしつつしかし打ち切らずに継続し、気分が好転するまで流し運転する、ということになるだろう。うまく手を抜いて、自分の気持ちと取り組みとの間の折り合いをつけるところが重要だ。あまりに平板な結論で、わざわざ書くのも恥ずかしいほどだ。しかしこれは重要なことであり、自分のために何度でも振り返っておきたい。

 一方、より社会的な問題としては、もっと教育を受けたりチャレンジしたりできる環境を整えて、努力が報われる社会にしていくべきだろう。努力しても現在自分がいる場所から違う場所へはいけない、という諦念の蔓延った社会ほど怠惰な社会はなく、逆に努力せず一発逆転があるという信仰が栄える社会ほど狂った社会はない。コツコツ努力すれば、まぁ数年では難しいだろうが、10年20年で報われていくことは確かだ、という社会になってほしいものだ。逆に言えば、10年20年のスパンで「いいこと」を待つような、鷹揚な心を持つことが必要だ、ということでもある。「なにかいいことないかな」と言いながら何かにコツコツ取り組んで、あるいは色々と首を突っ込んでフラフラしていれば、それがいかに小さなことであっても、数十年後には本当に「いいこと」があるだろう。「なにかいいことないかな」という不満を心中に抱え、それに向き合い続けることができるかどうかが、人生を充実させることができるかどうかの分かれ目なのではないか。あるいはそれは、悟りを開けない凡俗の業かも知れないが。