読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

はてなブログ読者10人到達

f:id:tsukikageya:20210713174509j:plain

 気づいたら、このブログの読者が10人を超えていた。100人ではない。10人である。10人というと大したことがないと思われる向きも多いだろう。実際、僕が見かけるはてなブログで、ある程度コンスタントに更新し続けているもので読者が10人を下回っているブログはあまりない。しかし、Twitterですらフォロワーが10人を超えない僕にとっては、10人もブログの読者がいるというのは感嘆すべき事柄だ。10人いればお茶会や飲み会でもそれなりの規模になるし、ふたチーム作ってバスケットボールの試合もできる。

 

数値的な観点から見た読者数

 はてなの読者システムは、アクセス数とは違って定量的に計測し、予測することが難しい。読者二桁到達が「はてなブログ100記事到達 - 読んだ木」とほぼ同じタイミングだったのは偶然ではないかもしれない。リンク先の記事で書いた通りこのブログはひと月20記事のペースで書いているから、10記事で読者一人という増加ペースではある。とはいえ、もっと記事が少なくて読者数が多い人はたくさんいるので、読者が増えるのにはなんらか別の要因があるのだと思う。

 その要因とは、表現するのが難しいのだが、決まったテーマでのコンテンツ性があるかどうか、ということではないか。例えば、新しいガジェットのレビューであるとか、メンタルヘルスのようなある特定の分野の専門知識を定期的に更新しているとか、そういったことだ。占いやスピリチュアル、投資など、専門的だが人員が飽和していてしかも専門性が掘り下げられていないような分野では、それほど読者もつかないかもしれないが……

 (※この記事を書いてからしばらく後に、読者の数の「別の要因」は、Twitterのffと同じシステムであることに気づいた。それほど記事数が多くないのに読者数の多いブロガーは、コンテンツが特に秀でているというわけでは必ずしもなく、しばしば読者を増やすために色々なブログに積極的にスターをつけたり読者になったりするという方法をとっているのだ。これはTwitterでもフォロー稼ぎによく使われる方法である。しかし、短文が流れるだけのTwitterと異なり、数百のブログの読者になったら、一つ一つのブログはほとんど読めないのではないかと思うが……)

 このブログは、僕が好き勝手に書いているだけなので、読者の増え方はかなり鈍い方だと思う。ただ、更新が頻繁であることから、読者になってくれる方がいるのではないか。記事の文字数も、内容がスカスカでも一応1,000文字以上はあるわけだから(逆にそれ以下にするのは難しい)、暇つぶしぐらいにはなるのかもしれない。僕は自分でたまにブログを読み返してみることがあるが、このブログはすごく面白いと思う。書いている人の含蓄や視点の鋭さが伝わってくる。そういったところが評価されて読者の増加につなが……寝言はこの辺でやめておこう。いずれにせよ、増加ペースが低い場合でも、月に20記事、毎回1,000字以上のものを書いていれば、月に2人ぐらいの読者はつく、というわけだ。

 なお、10人程度の読者だと、SEO的な分析、例えばアクティブ率とか、再訪のスパンとか、そういうアクセスにつながる効果については全く計測することができない。それに、アクセス数を気にするならオーガニックな検索流入での上積みを目指すべきであって、数としてはそれほど膨れ上がることのない読者数を気にすることはない。公式の「週刊はてなブログ」ですら読者数は3万に満たないのであって、そもそも読者数をそういった観点から捉えるのは適切ではないように思う。

僕個人にとって読者数の持つ意味

 僕個人にとって、読者がついたということは、そのような数値的な意味合いとは全く異なる重みを持っている。

 確かにまだ双方向の交流が生まれる機運にまでは至ってないとはいえ、記事を書けば誰か読む人がいるという点では、「インターネット年少世代 - 読んだ木」や「なぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木」で書いたような、このブログの求めている見知らぬ他者との繋がりという目標に向かって、これは大きな前進があったといってよいだろう。大変なのはゼロをイチにするプロセスである。読者が10人もいたら、とりあえずそのうちの一人ぐらいは僕が記事を更新すれば読んでくれる可能性が高いのであって、単に雑文しか書かないこのブログでそのような契機に恵まれるというのは大変稀有なことだと言わざるを得ない。

 大正期から昭和初期にかけては、大正デモクラシーの機運や社会主義の広がりによって、個人雑誌というのがたくさん出た。月に一度とか四半期に一度、こういうブログ記事みたいなものを5個や10個寄せ集めて印刷製本して、知り合いや購読者に配って読んでもらう、同人誌である。あまり書くネタがない場合は、より薄いパンフレットやペライチの新聞になった。何か利益が出るわけではないが、特に書き物で食っていく人にとっては重要な自己宣伝の手段であったし、書かずにはいられない人の最も手近な表現ツールだった。僕はブログもそういった性質を備えたものだと考えている。近年のnoteやオンラインサロンというのも多分にそういう傾向を持っているといえるだろう。双方向性が欠けているという点では、むしろ後者の方が個人雑誌に近いかもしれない。

 個人雑誌というのは、せいぜい数百部の発行であって、読む人は数十人といったところ。その中で、たまに寄稿してくれたりする人も現れたりする。つまり、この人数の点から考えればnoteやオンラインサロンほどではなく、はてなブログの読者と似たり寄ったりの世界だ。当時の感覚で行けば、10人程度の読者でも十分に読者コミュニティがあるといえる。数万人を擁するオンラインサロンなどがよく知られている現代では、そういう小規模なネット上のコミュニティに意味を見出す人は少ないかもしれないが。

インターネット上の小規模なコミュニティの価値

 僕は、むしろそういう数人から数十人程度のコミュニティにこそ意味を見出す立場である。というのも、言語の伝わりやすさというのが、あることを言語に乗せて伝えている人の立場への近さに依存すると考えれば、自分の書いていることに共感してくれるような人はそれほど多くないだろうと思うからだ。数万人の登録者がいるオンラインサロンの運営者やアルファブロガーは、こういってよければ、運営者が立つ非常に独特な地位や環境を、それに手が届かずそれを知り得ない立場の人たちに、その現実が「伝わらないように伝える」ことで儲けている。だから、オンラインサロンの受信者、アルファブログの読者は、永遠にその発信者と共感したりする同一の地平に立つことはできず、知らない情報を知らないで居続けるという前提のもので、情報弱者たる受信者の地位に甘んじ続けなければならない。もし、そこに目新しい話がほとんどなく、そうだよね〜と共感するだけなら、わざわざ高い金を払ってオンラインサロンの会員になることはないだろう。

 これに対し、僕のようにむしろ共感と繋がり(笑)をインターネット(笑)に求める立場の人間は、目新しい情報ではなく、そうだよね〜と共感してもらって、発信者と受信者が同じ立場であることを確認し、時にそれが入れ替わったりして相互にやりとりするようなコミュニティを必要としている。これはオンラインサロンやnoteで記事を売るブロガーとは正反対の立場であって、そんな共感が生まれる相手など限られているから数人から数十人のコミュニティにしかならない。しかし、そこに一人でも新しい繋がりが生まれたら、人生が変わるような契機が生まれるような可能性を秘めている。狭くて相互的なコミュニティにあっては、知らない人に会うことで、新しい事業を始めたり、どこかへ転居したり、知らない会社に入っていったりする未知の可能性に開かれている。既婚なのでもう結婚はしないが、生涯の友人を見つけたり、新しい趣味のコミュニティにいざなわれることもあるだろう。要は、浅く広くではなく狭く深くやることに価値を置いているわけだ。そういう可能性に開かれているという点で、やっぱりブログというのは、僕にとっては今でも十分に面白いプラットフォームなのである。