読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

僕のパワハラ気質

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 僕は怖いらしい。色々な人にそう言われる。受け持っている授業の学生にそう言われるし、昔一緒に仕事していた人からもそう言われたことがある。保育園では怖いお父さんというポジションでネタにされるほどだし、僕が外からみて他人に対して怖いように振る舞っていることに間違いはなさそうだ。ただ、同世代や僕より歳上の人にはそのような評価を受けたことはないので、僕は弱いものイジメをしているのではないか? という恐ろしい疑念もある。パワハラ気質なのだろうか。

 僕の一体何が怖いのか。学生や仕事のスタッフは、僕に色々指摘されるのが怖いと言っていた。子供に対しても、僕は他の親に比べて時間や行動にはっきり指示を出し、それを守らせるので、それが怖いように見えるのだろう。これはたしかにパワハラ気質ということだろう。もっと自由にやらせてやって、遠くから見守った方がいいというわけだ。しかし、小学生の図工ならともかく、自由にやらせてニコニコ見守っていては学生は学ばないし、子供に何も言わなければいつまでも家に帰らず、すぐに道路に飛び出してしまう。実際、周りの子供たちがぐずっている間、後から出てきたうちの子が僕に脅されてさっさと帰る、ということはよくある。

 

 僕は短気で、しかも自分の計画した行動をかき乱されるのが本当に嫌いときている。それで普通の仕事ができずに個人プレーの仕事をやっているわけだし、たとえ我が子であっても他人のことを悠長に待つことはできない。吃音に育て方は関係ないともいうが、うちの上の子の吃音は僕が怖いせいではないかと勘繰ってしまう(だから話す時だけは何も言わず悠長な風を装って待つが、子供にはそれも早く言わなければならないという無言のプレッシャーになってるのかもしれぬ)。

 このような僕の性質は、もちろん僕の有する価値観や考え方に由来する。僕は表面的には平等と平和を志向しているが、心理の根底においては、優勝劣敗的価値観を有している。つまり、競争に基づいて自分の立ち位置が決まっているという考え方だ。これは僕の親の教育の賜物であるが、この考え方が確固たるものとして揺らがないのは、僕自身の自分に対する自己否定的感情がいくら拭っても拭い難く染み付いているからだ。優勝劣敗はほとんど運に左右されるとはいえ、もし改善したいのなら自分の努力によってしかなし得ない、逆に言えば努力なしには僕は淘汰され存在を否定されるという恐怖が常につきまとっている。こういった自己責任論は、氷河期以来の若者に共通する意識だとも言われる。実際助けてくれる人などいないのだから、それは正しい。存在を肯定してもらうためには、達成すべき目標があり、そのための計画があり、それに即して努力しなければならない。その努力の契機が削がれれば、そこで自分の足元が掘り崩されるような恐れを抱いている。その恐れが、他人にも自分の考えているのと同じように振る舞い、目標を達成させてほしいという働きかけにつながり、しかもそれを僕は当然そうすべきだと考えているので、他人にとっては怖さになる、たまったものではない。僕より上の立場の人間にとっては、前に書いたように怖さではないが、面倒臭さになる。僕の考えを変えさせ、周りと協調させるために、説得や懐柔など相応の手間がかかるからだ。そうしてみんな僕から離れていくのだが。

 

 例えば人の言うように、学生に無理して勉強させることはない、あるいは、子供をもっと自由にさせてやれ、という考え方に僕が馴染めれば、僕の怖さは溶解するだろう。しかし、勉強しない学生のためになぜ教員が必要であろうか。子供を管理せず自由にしておいてよいのなら、別に親が毎日面倒を見なくとも、昔のようにどこかで遊ばせておけばよいだろう。いずれの場合でも、僕は不必要であるはずだ。僕はそう考える。それが正しいかどうかということではなく、その場における自分の有用性に問題をすり替えることで他人の話に耳を貸さなくなるところに僕の問題はある。

 人も別に根拠なく無責任に言っているわけではない。どうせ社会関係の中で学生と教員とに分かれて布置されているのだから、その構造の中で楽しめばよい、というように構造の問題にしたり、あるいは子供の主体性の発露が尊いものであり、そこに参画できることを喜ぼうではないか、というように相手の主体性に問題の軸を持っていけば、僕が必要か不必要かということなど問題にならない、というロジックが成り立つだろう。これは一例で、いくらでも考え方を変えれば、相手に怖さを与えずに関わるということは難しくない。とはいえ、僕はそのように言われたとしても、やはりその構造に自分が参画していること、相手に対峙している自分の主体性ということなどを考えてしまう。そこでやはり自分に着せられる責任があり、果たすべき役割があるのではないか、それを正しく把握して実現するべきではないか、と思わずにはいられない。そう考え始めてしまうと、全ておしまいだ。結局自分の軸を押し付けることで相手を怖がらせることになる。

 

 自分のこういう考え方とそれに付随する問題を僕は昔からぼやいていて、僕のことをよく知る人たちはいつも、あなたは生きるのが大変ね、と笑ってくれる。あなたは真面目すぎるのよ、と。真面目に見当違いのことをやって大ゴケするのが僕の人生芸というところもある。しかし、人をあまり怖がらすようでは、この芸風も改めなければなるまい。怖くない、人畜無害で優しい人間になり、ポリティカル・コレクトな発言に終止する。さういうものにわたしはなりたい。しかし、本心ではそうはなりたくないのだから、厄介だ。染み付いた自己否定を乗り越えられないうちは、常に自らの言動を意識して、パワハラ的気質を隠す必要がある。

 あるいは、周りが僕の怖さを乗り越えて、対他的に僕を否定してくれれば、その否定を媒介にして自己否定意識を否定し、乗り越えることができるかもしれない。そうすれば僕は他人にも寛容になれるだろう。その時が本当の僕の成長の機会だろうが、そんなことをしてくれるほど周りも暇ではない。実のところ、誰にも相手にされなくなって自己否定を拗らすのが関の山だ。やれやれ、とかくに人の世は住みにくい。この世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。そう書いたのは夏目漱石であったか。僕がブログを書き続ける本当の理由も、おそらくその辺りにあるのだろう。