読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

家族がいて働いていても、新しい趣味を見つけることはできるのか

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子供がいると気ままに旅へ出たりできない

 

 

趣味なき仕事人間への道……

 僕に趣味というものはあるのだろうか。このブログでは、鉄道のことや本のことや音楽のことなどを書いているから、それが趣味なのではないか、と問われれば否定はできない。しかし、僕のイメージする趣味というのは、それに没頭する共通の仲間とか、あるいはなにか習得するための投資とかがありそうなものだ。本など誰でも読んでいるし、しかもそれは一部僕の仕事なのであって、げんみつには趣味とはいえない。鉄道について言えば、鉄道を趣味にしている人はあえて鉄道に乗りに行ったり、あるいは写真を撮りに行ったりするのであって、僕のように通勤を記録するなど趣味とは言えない。音楽も特定のジャンルやアーティストが好きなわけではなく、楽器もひかないから趣味とは言えない。

 いずれも、それを趣味にしているような人はその活動に積極的に取り組むことで、その方面に知り合いができたりするようなことがあるほどなのであって、単にブログのネタとして書いているだけのような僕のような関心の寄せ方は、まぁ趣味とは言えない。言うとしてもせいぜい、程度の低い趣味、としか言えないだろうし、そう表現するならむしろ、趣味がないと言うほうがいくらかマシな気がする。

 ブログの書き方をまとめたりしてわかったが、僕はブログを趣味にしているわけでもない。これは仕事の余録、あるいは日記のようなものだ。仕事のための基礎体力づくりといってもいい。日記を毎日つけていても、私は日記をつけるのが趣味です、と公言する人はあまりいないのではないか。相当貧困な趣味か、あるいはどれほどすごい日記をつけているのか、と思われるだろう。僕は前者である。

 僕に比べれば、僕のパートナーなんかは多趣味だ。色々と習い事をしたり、趣味のために遠くの島や海外に行ったり、その発表会があったりして、趣味を楽しんでいるようだ。そこへくると僕は、習い事など小学校で終わったし、発表会も小学校で終わったし、趣味の繋がりとかはないし、知り合いはほとんど大学までの友人だし、平日も休みも、仕事か子守りで他の繋がりは全くない。これでは老後行き場のない仕事人間そのものではないか。そういう危機感が突如湧いてきた。こういった話は「既婚子持ちゆえにつまらない人間になる恐怖 - 読んだ木」でも切々と書いてきたことだが、今回は趣味の問題にフォーカスして考える。

趣味を作るにあたっての二つのハードル:時間とカネ

 なんで僕に趣味がないのか、ということは昔、やはりブログに長々と考察し、あまり趣味になりそうなことに強い関心を示せない僕の性格が悪いのではないか、という話を書いた。しかし、これは上部構造論であって、実際の要因は、強い関心を示してじっくりと取り組まなければ趣味も作れないような僕の置かれた経済的社会的状況、つまり下部構造にあるのではないかと最近は思っている。

 一体、趣味というのに取り組むにはずいぶん高いハードルがあるのであって、その二大阻害要因は時間とカネである。相当ホワイトな企業に勤めていて時間が有り余っているというなら別だが、家族がいて普通に働いている人で、週に1時間でも外でぶらぶら自分だけの時間を使えるような人がいるだろうか。今はコロナだからまだしも、その前は平日昼間と夜の数時間は残業含めて働き詰め、そのあとは営業や他人のフォロー、終わってない打ち合わせのために「懇親」と称する仕事。早く帰っても遅く帰っても家事はあり、朝起きたら仕事へ行くまでは家事。休みの日は子守り。研究の世界に移ってからはさらにワークライフバランスなど程遠く、毎週土日のどちらかが学会や研究会の仕事で潰される。その分の家事分担でまた揉める。研究の世界もせめて民間並みにダイバーシティを認めてほしいが、個人プレーでの弱肉強食ゲームの世界なのでそういうことを言ったが最後、この世界からはさようならだ。民間に移れる人はいいが、そうでない人は病院か自殺の二択になり、見ていると結構シビアである。

 非正規で働いていたころは、まだ時間の余裕はあった。別にシフトに出ようが出まいが会社に億千の損害が出るわけでもないし、代わりはいくらでもいるからだ。しかし非正規の時はカネがない。稼いでくるために必要な特定人材と、そうでない人材との落差が非常に大きい。まぁ資本主義の論理では仕方がないところだが。これが嫌なら欧米のようにみんなが非正規とまではいかなくても流動的な雇用になるしかないからだ。とはいえそれは悪いことではない。むしろ、非正規の地位をさらに低いところから支えさせられている技能実習生という最低の制度を早く廃止して、雇用の流動性を高めて弱い企業が淘汰されて格差が拡大しつつも頑張れば稼げる人がより増える社会の方が、資本主義としては正しいと思う。ただ、資本主義がいいかどうかというのはまた別の話だが。ともあれ、そうでなくて現状の制度のもとでも、やはり非正規だと趣味などやっているような金銭的余裕は生まれない。

 そうすると、趣味に興じるために必要な時間とカネがあるような人間というのは、ホワイトな企業に正社員として勤めてそれなりのお給金をもらっている人に限られる。それは、ずっと非正規やらハードな中小企業やらを渡り歩いてきた僕には望みえない立場である(なお、いまも非正規である)。

人が流れがちな趣味:パチンコとかスマホゲームとか

 ただ、そういう僕にも昔は少しく趣味があったのであって、それは第一に登山である。年に一度か二度だったが、山に登ってリフレッシュする。そこでは普段は全く会わないような人や動植物、景色に会えたし、趣味ならではの専門性とそれにまつわる会話をするコミュニティもあった。しかし、もう本格的な登山はしないと思う。色々な理由があるが、やはり子供がいると休日家を空けたりすることは難しいし、子供ができたときにサインした保険契約にも、登山が趣味でないことを確認させられたりしているし、落ちて死んだりしたら家族に多大な迷惑がかかる。あるいは、大学生ぐらいまではお遊び程度に楽器を触っていたのであるが、それはサークルだったから場所も安く借りられ、学生だったから時間もたっぷりあったということだ。当然、今のように都会の集合住宅にいては全くできないことであって、年に数回の登山とは違って、コンスタントに練習する時間が取れなければオケやアンサンブルに入ることもできない。そういえばヒトカラ(一人でカラオケ)も好きだったが歳取るにつれて声が出なくなって嫌いになったな。

 大体、金と時間がない人ができる趣味など限られていて、そういう趣味は労働者の遊戯人口が多いことで知られている。想像してほしい。営業の合間の数十分とか1時間とかに千円だけ使って駅前でできるような趣味しか、働いている人はできない。それは何か。パチンコとスロットである。そこにマッサージ、エステ、ヘルスなども含められるだろう。いずれにせよ、やはり経済と地理、時間と資本の配分というのは合理的にできているものだとつくづく感じさせられる。主婦がパチンコをするなら住宅街の真ん中にパチンコ屋ができただろうが(実際には都市計画法があるので難しいけれども)、主婦はわざわざそんな短時間で興奮するような趣味など必要とするような環境にいない。住宅街を歩くと、本当にああいう家の庭とか、玄関の置物とか、行き届いた掃除とか、ずいぶん趣味に事欠かないだろうなと思う。パートぐらいでしか働きに出ない主婦がいる家でないと、一軒家の管理というのは難しい。これは自分で空き家になった実家を管理した経験則でしかないものの、下男下女を雇うというのでなければ、実際に家の管理というのは暇でないとできない。その逆の例で言えば、ゴミ屋敷になる人は、ゴミ屋敷になる前に経済的困難などに直面しているのが通例だ。

 家族がいて働いている人は、男女問わず、趣味を作るのが非常に難しい。それゆえ昔は皆パチンコしていたのだが、最近はスマホゲームに移っているそうだ。確かに、スマホゲームなら場所も問わないし、細切れの時間でもできるし、やはり一回に数千円しか使わなくても楽しめるだろう。流行りのサウナなんかも、忙しくても金がなくてもパッとできる趣味だ。結局そういうところに落ち着くわけだ。まぁ僕も、パチンコ屋スマホゲームはしないものの、銭湯に行ったりするのは好きだから似たようなものかもしれない。がしかし、もうちょっとなんというか、気の利いた趣味が欲しいものだ。いくら町の銭湯に行っても、暇を持て余した年金生活者の考えるもっとも正しい風呂の入り方に即した振る舞いを自分がしているかどうかを気にするばかりでは、あまりいい趣味とは言えない。

 子供達が巣立ったら、再び登山に戻ろうとは思っている。問題はそれまでの20年間だ。僕の人生が、再び登山に戻れるまで続いている可能性もそれほど高いわけではないのだし。このブログのように色々書くのも、趣味としてまぁ悪くはないのだが、ややその動機が趣味にそぐわない(ブログを書く動機とその目標、指標 - 読んだ木)。上に書いたように、日記のようなものであって趣味とは言い難いと思う。何かこう、せっかく趣味なら、純粋に楽しみにやるものであってほしい。確かにパチンコとかは、楽しいものだと思う。僕は数回しかやったことがないが、興奮がある。スマホゲームは流石にやったことすらほとんどないが、でもゲームだから楽しいのだろう。楽しくてやりすぎて、ちょっと罪悪感を覚えるぐらいが趣味としてはいいのではないか。

家族がいて働いている人(僕)の趣味の候補は色々ある

プラモデル、鉄道模型ペーパークラフト

 昔は鉄道模型とかやりたかったけど、今やったら絶対すぐ飽きるとわかっているからやらない。鉄道模型やプラモデル、あとペーパークラフトなんかは、ゆっくりちまちまやっても進展があり、また達成のポイントが細かく存在するやり込み型の趣味なので、時間と金のない働いている人でも楽しめる趣味だと思う。ただその、性格の向き不向きはある。こう、やり込まなくちゃいけないので。エントリーはしやすい(ネットで一つなんか買ってみるだけ)ので、トライしてみる価値はある趣味だ。

語学やプログラミング、資格取得

 案外、語学やプログラミング、資格取得なんかも働く人の趣味として人気があるらしい。これらは入り口で挫折さえしなければ、新しい分野の知り合いもぐんと増えるし、自分の知識や可能性も広がるからよいものだ。ただ、この入り口で挫折しないというのが難しい。プログラミングも、アプリを一つ作る、というところまで行くのが難しい。語学も、挨拶して話せるというところまで頑張るのができない。資格取得も、資格試験の申し込みまで行ければいいのだが、それがいけない人が多い。つまり、趣味の要件である「楽しい」状態が長続きしないわけだ。僕も昔のプログラミング言語はある程度趣味として身につけたが、今から新しい言語やSDKを習得するのは抵抗がある。語学はやりたいんだけどね……独学だと話せるところまでいけず、会話教室だとコストが高く時間の調整が厳しいというジレンマがある。

レーニング、ジム通い、ランニングやサイクリング

 あとはやはりトレーニング、ジム通いだろう。「エニータイム・フィットネス」というジムが流行っているほど、ジムでのエクササイズ、トレーニングは時間も場所も問わず楽しめる趣味だ。あるいは家の近所でのランニングやサイクリング。僕はそういうものに全く楽しみを見出さないので通うことはない。粛々と家で筋トレをしている(リーズナブルで高機能な体重計(体組成計) - 読んだ木)。他人についている筋肉というものが嫌いなんだと思う。筋肉は色々なことを可能にし、色々なことを肯定するため、懐疑がない感じを受けてしまうのだ。筋トレは精神の安定にいいものだが、安定した精神ほど気持ち悪いものはない。しかし一般に、これは趣味の有力な候補の一つである。なお、僕は昔、1年間ぐらいジムに通っていたことがあるが、そこで新しい知り合いができるようなことは全くなかった。

オンラインサロンや自己啓発、占いやスピリチュアル

 オンラインサロンや自己啓発、果ては占いやスピリチュアルに趣味としてハマる人もいる。別にいいと思うけれど、僕はそういうところとはあまり関わろうと思わない(はてなブログ読者10人到達 - 読んだ木求職者が頼るべきは適性診断か、タロットカードか - 読んだ木)。単に受信者であるような形での趣味というのは、僕にとってはストレスである。僕が楽しいと思うことはもっと創造的で、しかも色々な人と双方向に繋がれるようなものだ。

俳句や短歌

 年老いてくると(これは比喩的表現)、俳句や短歌を作っては新聞に投稿する人というのもいる。意外と採用されるらしく、採用されて評者のコメントがついたりして、読まれるものなら趣味者冥利に尽きるだろう。コツコツ書き溜めておくだけでも、達成感があって楽しい。日記やブログと違って、こう色々型に合わせて工夫したりとか、そういう人目に触れるチャンスがあったりだとか、楽しめる広がりがあるので趣味としていいだろう。僕は仕事に近すぎるのでちょっとだめだけど。

今後の課題

 色々候補を挙げてきているが、僕が楽しいと思うことはあまりなさそう。とはいえ、ちょっと挙げただけでも色々思いつくところからして、働いていても新しい趣味を見つけることは十分に可能である、という意識をまず持たねばならないだろう。スマホゲームで時間と金を浪費してしまうぐらいならよりいい趣味を作れそうなものだ。しかし僕は、何かを面白いと思う感受性が落ちてきているのだろうか。茨木のり子に怒られるな。最近、話してて面白いと思う他人もいなくて会話も面倒に思っていたが、それは自分の感じ方に問題があるのかもしれない。今後も色々趣味について考えてみて、これというものがあったらここに追記し、遠からず自分の趣味を作りたいものだ。

 

  

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