読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

雑感——日々の自分の仕事に対する

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 校正を待っているゲラ、その手前に脱稿前のチェックを待っている原稿、その下に報告用に短縮されなければいけない原稿、その横に英訳を待つ日本語原稿、それを取り巻く論文化されるのを待っているたくさんの資料、先行研究、紙切れの束……これらのものたちが僕を捉えて離さないために、僕はこの薄暗い部屋から出ることができない。

 僕らが過ちを犯すのは、正しいことがなんであるかを示唆するものは膨大にあるにもかかわらず、それらを全て理解して正しいことを知ることができるような知能が人間に与えられていないからだ。僕らはそれが過ちであることを理解することはできる——正しい方法はわからないにしろ。僕ができるのは、膨大な知の山の一角を見渡して、もっとも遠ざけるべき過ちについて考察することだけだ。しかしそれも、沢沿いに行くか、尾根を辿るか、山頂を目指すかコルを目指すか、という漠然としたことしか描けず、その論証としては過去に登った人の記録とか、足元にある岩のサイズとか、沢の流れの強さを引き合いに出すだけである。沢と尾根の間にありうる無限のルート選択について詳細に考察することはできないし、いわんや山の裏側や山へ向かわないことについて考えることなど到底できない。とにかく、人間の、いや、少なくとも僕の知能は、そんなことが全くできないくらい低級に抑えられているのだ。

 しかしだからといって、目の前の資料の山をおざなりにしてよいということではない。確かに沢か尾根かの選択は、間違っていることもあるだろうし、その二択ではないと考えることも可能だが、漠然と選ぶのではなく、少なくともその二択に絞ることで、人々の選択になんらかの考え方の枠組みを与えることができ、その対比に依拠することで選択がよりよいものになる可能性は高まるはずであるし、もしその二択における選択の合理性についての推論が全く現実の複雑性に及ばないがために、その選択の結果すら単に偶然の産物でしかあり得ないという立場を取る場合でも、その説明を人間理性に与えることで人間は自ら納得した選択を行うことができる。納得せず全て偶然に任せるという場合、そこには主体性がなく、ひいては個人の自由もなく、人間は人間であることをやめてしまうだろう。だから、たとえわずかな貢献であっても、そして結果としては無意味な貢献であっても、意味ある貢献をすべく奮闘すること自体には意味がある。単に批判や疑義を呈するところで留まり続ければ、それは蒙昧への道である。それらの批判や疑義は、それに基づく新たな判明さへの入り口でなければならない。

 もう一つ付け加えるなら、すでに判明であることには忠実でなければならない。たとえ、判明であることに逆らっている人々を批判する立場においてであっても。これは逆説的な注釈かもしれないが、既に判明であることに逆らう可能性を否定するために、既に判明であることに逆らっている人々を批判する立場にあっては、もし批判が挫折すれば——つまり、既に判明であることに逆らうことが社会的に容れられてしまう場合——その挫折自体がその判明であることがらに逆らう根拠になってしまうからだ。ここに転向へと簡単に向かってしまうことができる陥穽がある。しかし批判自体は理性によってではないもので挫折させられうるものであって、だからこそ批判から先の追及がなければならないともいえる。批判はそれが社会的に挫折した時に終わるのではなく、批判の非正当性が論証された時に終わるのである。それまではたとえ挫折したからといって批判を諦め、亡きものにしてはいけない。

 現在の僕らの知能は、僕らが何か正しいことを知るにはあまりに不足であるとしても、将来的には、本一冊を数分、いや数秒で深く理解し、読解するような能力が人間に備わることもあり得るだろう。そうすれば、現在より広汎な知識から物事に対する予測をたて、求める方向へ状況を推移させることが可能になり、より正しいことを知り、それへと向かうことができる。図書館に入っている数十万の資料は、現在の読者にはあまりにも膨大な情報量と思われるかもしれないが、1世紀後、あるいは1千年後の読者には大した情報量ではないかもしれない。思い起こせば、数世紀前には世界のほとんどの人々は文字すら読めなかったのだ。それを考えれば、数十万の本が将来簡単に読まれうるというのも、取り立てて突飛な想定ではあるまい。僕が調べて書いたことも、今の人にはまったく読まれないが、数世紀、あるいは数千年後に、多少の役に立つかもしれない。その可能性は僕がそれをやらなければ開かれない可能性であり、自分が未来に対して可能性を開くことを人類の一員として課されているのであれば、やはりこの仕事の僕にとっての意味は小さいものではないといえるだろう。たとえ僕の知能が今現在においてはいくら無力であったとしても。