読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

コロナ禍で子供とのお出かけはどこまで許されるのか問題

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子供の時間の流れは大人の比ではない

 

はじめに

 緊急事態宣言(が発出される期間)がまた延長になるらしいが、東京などの大都市では緊急事態宣言・蔓延防止措置発出期間の方が、そうでない期間より長いほどであって、これでは戦前の常態化した「非常時」とそう変わらない。欲しがりません勝つまでは、と同じで、おうち出ません勝つまでは、というわけだ。確かに日本のこの国民精神のようなもの、軍事力や法の力などを動員しない、単に同調圧力にのみ基づく全国的な行動変容というのは、他国に比べても非常に強いと思う。それは戦時中にも、英米よりも強い精神力でどうのこうの、という形で称揚されたことである。残念なのは、そんな国民の精神力や同調圧力をどれだけ動員しても、戦争には負けるし、コロナ禍は広がるし、経済は停滞する、という現実である。日本国民の精神がどうであれ、災に勝てるのは科学と合理的な法の力である。

 コロナ禍における子育ての困難に対する時にも、精神力や同調圧力よりも、科学的合理性を重視するべきであることは言うまでもない。法律で許され、科学的に十分に安全であると考えられる限りで最大限、子供の貴重な時間を子供自身の自由の発露、心身の発達、学習に活用できるようにし、かつ、それに携わる保護者の充実になるべく資するようにしなければならない。子供の1年はもとより、我々大人の1年とは比すべくもない。大人の事情で子供の自由が長期に亘って不当に制限されるようなことは、可能な限り回避しなければならない。そのことから鑑みて、初めにここで前提として強調しておきたいのは、感染症を拡大させないよう十分に配慮された子供とのお出かけは、不要不急ではなく、必要な行為である、ということだ。それは我慢したり回避したりすることで特に不利益が発しないものでは全くない。子供が外出を我慢し、自由な遊びが不可能になるということは、紛争地域、難民の子供たちを見ても明らかなように、子供の成長に著しい悪影響をもたらす。

 現実問題として、各家庭を悩ませているのは、平日においては前の記事に書いた子供を自主的に休園・休校させるべきかどうか問題(感染症の拡大と子供の自主休園・休校判断を考える - 読んだ木)であり、休日においては本記事で取り上げる、コロナ禍で子供とのお出かけはどこまで許されるのか問題であろう。僕は緊急事態発出前日に子供と箱根に行ったりしている(子供と一緒に箱根周遊コースとその沿線 - 読んだ木)。この旅行が交通機関と関連施設以外では、食事の時ですら建物の内部に入ることのない、安全に徹底的に配慮した旅行であったことはいちいち付言するまでもないが、何が「不要不急の外出」で、何がそうでないのか、子供とのお出かけは緊急事態宣言、あるいは蔓延防止措置、あるいは平時の感染拡大状況下で、どこまで世間様に言い訳が立つのか、ということは、はっきりと示されていないと子連れの家族の悩みは終わらない。また、それをはっきりと言語化する、あるいはその定義をめぐって議論することがなければ、いつまで経っても子供と一緒に家篭りして辛い日々を送る家族が救われない。

場所別・お出かけ許容度の検討

近場の公園(屋外)

 もっともお出かけ許容度(お出かけしても感染のリスクが問題にならない度合い)が高いのは、自宅や生活圏内から徒歩圏の公園(屋外)である。屋外であるから、相当近くで密集して長時間立ち話をするということでもない限り、感染のリスクを恐れる必要はない。欧米でのロックダウンでは、公園を利用禁止にし、日本でも最初の緊急事態宣言の時にも、わざわざ児童公園の遊具にテープを貼って利用不可としていたが、これなど全くの過剰反応というべきで、直ちにやめるべき愚策である。(ただし、欧米のロックダウンで公園の施設利用を禁じた際には、日本の若者の路上飲みのような、比較的成人に近い未成年や成人が密集する機会を回避するという意味があり、子供の利用に特化され整備された日本の児童遊園とは一概に比較できない。)子供が大勢でぎゅうぎゅうになって叫びながら滑り台を滑っていたとしても、子供の動きの速さ(1箇所にじっと止まることはない)や肺活量の小ささを鑑みれば、感染のリスクは無視できるほど小さいというべきである。各世帯の居住区画内に子供が遊べる庭や設備がない日本の住宅環境に鑑みれば、児童公園などの公園は子供の生活の一部に組み込まれた必要不可欠な施設というべきで、近場の公園(屋外)は、どんなに厳しい緊急事態宣言下でも利用可能と考えるべきであることを、強く主張したい。

近場の児童施設・商業施設(屋内)

 児童館や体育館、商業施設内キッズパークのような、屋内型の児童施設は、雨の日や乳児が公園の代わりに行ける遊び場として重要である。そういった機能を鑑みて、十分な感染対策を心がけた上で、緊急事態宣言下も開館している施設は少なくない。ただし、屋内であることから、公園とは異なる配慮が必要である。感染状況が非常に拡大しており、近隣にも感染者が頻発しているような状況で施設を利用する場合、屋内で遊ぶ子供達やその保護者たちが基本的に静粛であること(乳幼児のみが使える施設など)、運動量が少ないこと、人数制限により疎になっていること、そして十分な換気が行われていること、が守られていなければならない。体育館など、5歳以上の子供や保護者が大声でやりとりしながら、特に複数の保護者が、子供を追いかけて走り回っているような場所、それでいて換気が十分でなく、あまり外気や風を感じないという場合、実はそこは、感染の可能性が高い場所になっている可能性がある。そういった施設の利用は、緊急事態宣言下では回避したい。蔓延防止措置のような、地域内で感染者が出ているものの、自分の近場で感染者が出たという話は聞かない、というぐらいの感染状況であれば、それほど恐れる必要はない。子育て世代は、飲みにいく、あるいは大人数で集まる会に参加する機会などがそうでない人に比べ少ないため、幸いなことに感染するリスクは低い(家庭での二次感染が基本)からだ。

少し遠い公園(近隣の市区町村)

 屋外型の公園であれば、感染リスクが低いことはどこでも一緒である。問題は公園自体ではなく、公園に行く間の移動、および、遠いことから自宅外で食事などをする必要が生じることである。少し遠い公園でも、自転車や自動車、電車などで移動し、昼食や夕食を取るために自宅に戻れるという場合は、近場の公園と同等に考えてよい。もし、戻れない場合でも、公園で昼食を取るなど、屋外で全ての行動を済ませることができ、かつ特に他の人と密接に交流する機会がなければ、例え緊急事態宣言中であっても問題ない。また、近隣の市区町村が都道府県境をまたぐ場合、緊急事態宣言下で県境を越える移動の自粛が呼びかけられていたとしても、それはまたいでも構わない。憲法学で、憲法22条の移動の自由に対する制限が、生命権(同13条)、生存権・公衆衛生(同25条)および公共の福祉(同13条)によって認められるという解釈があるが、前述した通り子供にとって公園で遊ぶ権利が剥奪されることは生命権及び生存権に係る重大な事態であり(例えばずっと屋内で過ごすことで身体機能の健康な発達が阻害される、など)、同じく13条および25条に基づいて、より広い公園やより自由に遊べる公園への子供の移動がやむを得ないものとして認められるべきだからだ。

 もし、少し遠い公園に遊びに行って、食事を取るためにどこかのレストランなどに入る場合はどうか。そのレストランが十分な広さを有し、適切な感染症対策が取られている場合は、緊急事態宣言下でも利用に問題はない。それは行政のルールとしてもそうなっている。ただ、行政の要請に従わず、従業員などがマスクをしていなかったり、酒類の提供をして大声で話している人がいたりする場合は、利用を避けた方がよい。

少し遠い屋内施設(近隣の市区町村)

 これも前述の、近隣の児童施設・商業施設と同様の考え方を取るべきものだが、少し遠い場所を選択する場合、代替可能性の検討が必要である。つまり、同じ機能を有する近隣の施設はないか、ということを検討しなければならない。例えば、乳児を遊ばせる児童施設であれば、遠方に行く必要はなく、自分の生活圏の自治体が提供する施設でも同じ機能を利用できる場合がある。その場合、近場の施設を利用することが望ましい。これに対し、博物館や美術館など、特定の機能を持ち、そこでしか学習等ができない施設であれば、少し遠い場所でもそこに行く必然性が認められるだろう。子供は多様性を有しながら、その多様性に見合う財サービス、特に学習ツールの選択においては十分な柔軟性を有していない。つまり、例えば昆虫が好きで科学博物館や昆虫が取れる森に行きたい場合、それが少し遠方にあるため、例えばテレビゲームや手元の図鑑で代替する、ということが、大人と違ってできない場合がある。そして、その代替ができないからといって、子供の好奇心や学習意欲を阻害することは、子供の発達成長において望ましくないことである。それゆえ、近隣市町村にある代替可能性のない施設(屋内)を利用することは、遠方であっても必要なこととして許容されるべきだ。

 ただし、緊急事態宣言のような感染症対策が逼迫している状況下で、運動施設などで換気が悪い場合や人が密集する場合、あるいは利用する子供自身が怪我をするリスクがある高度な運動などは、近隣の児童施設・商業施設と同様、もし代替可能性がない場合であっても、子供の希望を制限し、その利用を回避することはやむを得ない。

宿泊を伴うほど遠方の公園・施設

 宿泊を伴うほど遠方にある公園や施設を利用する際は、前述したような、子供の興味関心や学習意欲が他の施設では満たされないという点に加えて、その緊急性についてもよく吟味する必要がある。例えば来月、再来月ではどうか。来年ではどうか。コロナ禍が数ヶ月しか継続していなかった頃なら、全ての宿泊を伴う遠出を制限するということも受容し得たが、それが1年半、2年と続いていくことが見込まれる現在においては、もはや考え方を改める必要がある。1年に1回か2回程度、感染状況が落ち着いた頃合いを見計らって宿泊を伴う移動を行うことは、例えば遠方に住む肉親との交流や、貴重な経験を子供に与えるという観点から、当然認められるべきことである。戦争など死ぬ確率が著しく高い状況が数年間続いているというならともかく、十分に予防すれば危機をある程度回避可能な状況であるにもかかわらず、数年間訪問を避けた結果永遠に生き別れになってしまうようなことは避けたい。緊急事態宣言中でも、緊急性ある外出の場合、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えない。

 今後、県境を跨ぐ移動にはワクチンを必須とするようなルールも政府で検討しているようだが、他国で国内の移動にワクチンを必須とするようなルールは聞いたことがない(僕の不勉強によるものかも知れず、ないとは言えない)。国内の移動の自由を、ワクチン接種という、国によって恣意的に差別された人々(例えば自治体の不手際で希望しているのにまだ接種できていない特に16歳以下の人、そもそも接種できない12歳未満の子供たち)を、さらに差別する理由にするとは、言語道断である。子供に冷たい国と言われてきたが、こうも公然と子供に対する差別となりうる政策が議論されるとは、開いた口が塞がらないとはこのことである。不特定多数の人が使う民間サービスの利用にワクチンをその民間事業者の判断で義務付けることは構わないが、公的な権力で国内の移動を著しく制限し、子供たちに不利益を与えるようなことを許してはならない。県境を越える移動に際してのワクチン接種が、罰則がなく努力義務程度になるのであれば、子供のいる家庭は堂々と無視して構わない。罰則がつく法令になる場合は、悪法もまた法なりということで、それは守らなくてはならないだろう。そうならないためにも、子供への権利侵害を許さないということをはっきりと主張していく必要はある。

 だからといって、ワクチンを打っていない子供を連れて、宿泊を伴わなければならないほど遠方の地域に県境を超えていくことを自由にして良いというわけではない。あくまで、そこにいくことが近隣の地域の施設では代替できず、しかもそれが年に一度とか、他にない機会であることが必要だ。ただ、これは思うほど厳しい考えではない。例えば、子供がスキーをしたいなら、それは冬に、スキー場でしかできないのであり、冬に一度スキー場へ泊まりで行くのは認められるべきということになる。では、子供が海で遊びたい時はどうか。夏に海水浴場へ行かねばならない。夏に一度、家族で海辺のバカンスをするのは認められなくてはならない。そう考えてくると、季節に一度くらいは、泊まりでどこかへ遊びに行くのは、子供のためにも許されてよいと考えられることになる。泊まり先が十分に感染対策を講じており、また人数制限などにより密集を回避する施策が行われていれば、感染のリスクは学校の体育館でやる部活よりよっぽど低い。ただし、親戚の集まりは、大勢で一つの卓を囲んだり、年長者が飲酒したり、大声で話すなど感染に結びつく危険な行為が発生しがちなので、緊急性が高いと考えられる場合でも、許容できない。むしろ、どこかホテルや旅館に宿泊し、第三者に十分な感染予防を促してもらいつつ、少人数で親戚間の親交を温める方がよいかもしれない。感染対策に対する考え方を容れられない親戚や友人とは、宿泊を伴う接触を回避せざるを得ない。3家族4家族が一堂に会するような会も、緊急事態宣言中や蔓延防止措置中には回避すべきだ。

コロナ禍における子供とのお出かけ許容度一覧表

 以上のことをまとめると、だいたい以下のように考えるのがいいのではないかと思う。僕は法学者でも弁護士でもないので、もし外出による感染拡大を利用に民事訴訟を起こされたときにこれで抗弁できるかどうかは担保できないが、一般的に判断する上の目安としては、上述の理由を踏まえれば、十分説得的な整理になっているのではないかと思う。

  緊急事態宣言発出中 蔓延防止措置下 平常の感染状況
近場の公園(屋外) 不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、自由に利用してよい 不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、自由に利用してよい 自由に利用してよい
近場の児童施設・商業施設(屋内) 屋内で遊ぶ子供達やその保護者たちが基本的に静粛で、運動量が少なく、人数制限により疎になっており、十分な換気が行われている場合、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、利用してよい 不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、自由に利用してよい 自由に利用してよい
少し遠い公園(近隣の市区町村) 食事などを含め屋外で全ての行動を済ませることができ、かつ特に他の人と密接に交流する機会がなければ、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、自由に利用してよい 不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、自由に利用してよい 自由に利用してよい
少し遠い屋内施設(近隣の市区町村) 屋内で遊ぶ子供達やその保護者たちが基本的に静粛で、運動量が少なく、人数制限により疎になっており、十分な換気が行われている場合で、かつ、近隣に代替可能な施設がない場合の利用は、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、利用してよい 近隣に代替可能な施設がない場合の利用は、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、利用してよい 自由に利用してよい
宿泊を伴うほど遠方の公園・施設 (屋内の場合は子供達やその保護者たちが基本的に静粛で、運動量が少なく、人数制限により疎になっており、十分な換気が行われており、)他の人と密接に交流する機会がない場合で、かつ、年間を通じて一回程度しか機会がないという緊急性があり、近隣に代替可能な施設がない場合の利用は、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、利用してよい (屋内の場合は子供達やその保護者たちが基本的に静粛で、運動量が少なく、人数制限により疎になっており、十分な換気が行われており、)他の人と密接に交流する機会がない場合で、かつ、近隣に代替可能な施設がない場合の利用は、不当に感染を拡大させて他人の生命を脅かす行為とまでは言えず、子供の生存に必要で急を要するものと認められるので、利用してよい 自由に利用してよい

 

 まぁ何にせよ、お互い大変だけれども健康で過ごしていきたいものだ。その上で、子供の権利と自由を、保護者として最大限守りたい、それが責務だと考える。

 

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