読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

混乱

 正直言って、全てわけがわからないまま進んでいる。

 相変わらず子守りをしている。子供は濃厚接触者である。感染症の猛威は止まらない。仕事などできない。子供は遊べないどころか家も出てはいけないという。子供が家を出てはいけない状況で仕事をしながら子育てをしなければならなくなるなんて、想像もしていなかった。

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 このために、いろいろ考えてようやく始めた趣味の語学学習は、かれこれ1ヶ月ストップしている。仕事すら制限されているのに、もはや趣味に割く時間などない。一体これまでの半年間やってきたことはなんだったのか。

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 それだけではなく、来年度末に控えている契約終了に向けた転職の準備が大幅に制限されてしまっている。予想していなかった。今の3年契約の仕事が決まったとき、まだ世界は2019年末で、2020年には東京でオリンピックが開催されると誰もが予想しており、僕は海外学会での報告をたくさん抱えていた。2020年の4月に3年契約の仕事が始まった時、全ての海外学会の報告は中止か延期かオンラインになっていて、緊急事態宣言下で休園になった子供を家で見ていた。2021年の3月に1年目が終わった時、計画していた実績は一つも実現しなかったどころか中止され着手すらされなかった。僕は計画を1年先送りすることで挽回を図ったが、2021年も状況は変わらず、年末に2022年こそはと気合を入れ直したのだった(「2021年の振り返りと2022年の抱負 - 読んだ木」)。今、2022年の2月である。僕は2020年の4月と変わらず、家に閉じこもって子守りをしている。わけがわからない。仕事は? 収入は? 子供の自由は? 権利は? どうしたらいいのか。わかっているのは、誰も助けてくれないということだけである。

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 侵略戦争が始まっている。授業で教えている20世紀の侵略戦争そのままに始まっている。僕は昔のこととして教えていた。国際連盟の失敗を踏まえて国際連合ができたと説明していた。侵略戦争零戦の時代を経てテロリズムの時代になったと話していたが、全てが崩壊した。対テロ戦争も再び冷戦構造で捉え直しながら説明する必要があるだろう。平和に一歩も近づいていなかったと自分がよく理解する必要があり、結局はヒュームの言ったバランス・オブ・パワーの世界だったということをまざまざと見せつけられている。なぜこんなことが21世紀にもなってまだ起こるのか。わけがわからない。

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 何もかもが、わけがわからない。わけがわからないままに進んでいかなければいけない。こういう時に必要なのが信仰なのだろう。しかしそれもわけがわからないものをわけがわからないという形で肯定するにすぎない。わけがわからないから不安である。こういう時に何かに倚りかかることが最も危険で、こういう時こそ自分の理性のみで立たねばならない。それで一層孤独、一層不明となる。感情に委ねたくなる。何もわからなくても、理性のわかる範囲でやらねばならない。理性は多少はわかっていると信じなくてはならぬ。わけがわからないが、ある程度はわかっているのである。そのこと自体も不安なのである。感染症が蔓延して、侵略戦争が始まって、しかし家に子供と閉じこもっていなければならず、仕事がなくなっても何の手助けもない、それでも戦争や病気になるよりいいのかもしれない、しかしそんなことは比較できない、戦争も病気も何もなくなってほしい、万人のための平和と健康と自由を切実に希求したい、抽象的な綺麗事のようなこの気持ちに、不思議なリアリティが湧いてくる。しかし、実現不可能と思われる綺麗事が実現されなければ心が休まらないなど、そんな不幸なことがあろうか。しかしそのような不幸を引き受けてこそ幸福になれる、それを無視して、自分がジタバタしても、何か幸福が得られるわけではないのだ。わけがわからない状況に、おぼつかない理性をあてがうことしかできることはなく、万人の幸せを念頭に、その理性で戦っていくしかないのだ。もとより戦争紛争は世界中で起こっている。苦しむ人は自分の住む自治体にも多くいる。その誰も彼もを救うことはできない。しかし救うために、この自らが何をできるか、考え抜いて苦しみ抜いて、その中で自らの仕事を見つけ、それに身を捧げるのだ。それしかない。自らの仕事にただ従事するのでも、単に他人の苦しみを引き受けた気になって苦しむのも違う。その両方が交わるところで、万人の幸福を願いながら日々を送ることだ。わからないからと言って混乱することはない、わからないのは当然である。わからないことで断罪されることもあるが、それは自分の罪ではなく人間の愚かさである。人間の愚かさを自らの罪として予め背負っておけば、誰に断罪されても当然のこととして受け入れられる。自分は愚かであるが、人間の愚かさを乗り越えようとしている点でより愚かであり、しかしだからこそ人間の愚かさに安住してはいないといえる。いずれにしても、自分にわかるのは自分にとって自分がなんであることを選択するかということだけだ。そう言い聞かせて目を瞑る。