読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

影響されやすい

もう村上春樹なんて読みたくない

 僕はどうも色々なものに影響されすぎる。だから映画を観ない、というほどだ。酒の飲み過ぎで二日酔いになるならまだ翌日が辛いだけだが、ちょっと心にくる映画でも見ようものなら一週間はその余韻を引きずって、仕事や生活に支障を来してしまう。

 とにかく僕は春が嫌いだ(ref. 春への苛立ち - 読んだ木)。僕に影響を与える一番のものは気候である。人間の身体のみならず心理についても、9割型は気候で決まるというのが僕の持論である。冬はピリッとしていて何事にも集中して前に進めていこうと気になるのに、春になるとどうも気が抜けてやる気が出ず、そのくせ腹が減ったり道ゆく美人に目を奪われたり、変な欲求が盛んになってくる。変質者の気持ちもわかる。春には変質者向け臨時変態収容施設などを作って、積極的にマスターベーションをさせて公衆での性犯罪を減らすべきではないか。変態も犯罪を犯す前に、春は変態化の季節と心得て自らを律するべきである。

 気候を除けば、僕に影響を与えるのは広義の人文学・芸術ということになろう。蓮實重彦ではないから映画は見なければいいのだからいいが、書物は読まなければ仕事にならない。

 最近、津田光造ついて調べている。日本で初めての全国的な農本主義団体として知られる日本村治派同盟を立ち上げた人物だが、元は二宮金次郎を研究していて、組合主義のアナーキストになり、その後ダダイストになったかと思ったら出家して坊さんになり、その後日本主義者になったという、どうもこう見ると節操のない人物だ。日本村治派同盟の運営もしっかりしておらず、団体は有名無実のまま消滅したといわれてきた。彼の書くものは、勢いはいいがどうも論の掘り下げや展開が弱く、凡庸である。しかしそれは彼自身の能力如何にのみ帰されるものとも言えず、彼は30歳前後で妻に先立たれ、後妻に迎えた女性の兄の辻潤に散々振り回され、出家して腰を据えて論述をしようと下中弥三郎平凡社から本を出したら下中の政治進出のための走狗としていいように使われてしまう、という、タイミングの悪さや付き合う人のまずさがあった。彼の変節も、むしろ彼の思想のみに生きられない現実に対する真面目さ、実直さということが背景にある。死んだ先妻との間には5人の子がいたというから、そういうことも関係しているのだろう。

 津田のことについて書いたものなどほとんどないので、近いところにいた辻潤に関係したものを読むことになるのだが、辻潤というのはダダイストと目されるだけあって、破天荒な人物である(『風狂のひと辻潤―尺八と宇宙の音とダダの海』)。大杉栄の自由恋愛事件というか、辻潤の妻であった伊藤野枝と、神近市子との間の三角関係で神近に刺された日影茶屋事件はよく知られているが、野枝を失った後の辻潤と比べれば大杉はむしろ恋愛において真面目、2本ではあるが筋を通しているとすら思えてくる。辻潤は女とくればすぐ口説く、口説かずとも犯そうとする、色々な人の家を転々として、家主を追い出して酒を飲み狼藉を働く、それなのに売れっ子作家だからどんどん女性が押しかけてくる、すぐ関係を持つ、破天荒そのものである。まだ田舎では妾を持つのが男のなんとか、みたいな時代だから、その貞操観やジェンダー構造など全く今日とは比べるべくもないのだが、その性関係の無秩序さ(自由さとは敢えて言わぬ)は読んでいて興味深い。自分の保守堅牢波風立たぬたたぬ古座川の一枚岩然とした性生活に比して考えるに、自分ももっと自由に振る舞ってもいいのではないかと思ってしまう。自分の岩的性生活で十分満足幸福であるのに、そういう余計なものを読まされることで、無駄に欲求が生まれてしまう。リベラルの人たちが、正しくあるために、さまざまな表現物を規制しようという気持ちもなるほどよくわかる。変質者になりたくなければ、あるいは変質者になりそうな人を止めようと思ったら、変質者になりそうな契機を徹底的に潰すのがよいという考え方だ。ダダイズムなんて危険千番、辻潤なんてすぐに牢屋か病院行きである。実際に辻潤は病院送りになったが。

 ところで最近、『ドライブ・マイ・カー』(Drive My Car)がアメリカで盛り上がっているという話が日本で盛り上がっている。

 

森博嗣だったら『ドリヴ・マイカ』とでも書くだろうが、これは村上春樹原作だ。盛り上がっているので、にわかに周りで観ようとする人が出てくる(上映されているのか?)。のみならず、原作の村上春樹の『女のいない男たち』を読もうとする人が出てくる。さらには、『女のいない男たち』を僕から借りようとする人が出てくる。村上春樹作品なら僕が持っているに違いないという先入観が広まっているのだ。やれやれ。あいにく僕は『1Q84』以降の村上春樹作品を購入していない。それはだから、大人になったことで、あまりああいう精子がじゃぶじゃぶ出てくる小説をダラダラ読んで、頭の中で自分の行動をいちいち文章化して気取ったBGMをつけて教養主義的な注釈で日々を彩ろうという気持ちが萎え、そういうものに精神的な影響を受けたくないという気持ちでいるからなのだ。しかし、辻潤の生涯を知った後なので、なんだか村上春樹も読んだらいいかもしれないという気分になり始めてきた。

 

 

 さらには偶然、こういう時には偶然が重なるものなのだが、早稲田大学に行く用事ができた。早稲田大学というのは浄土真宗にとっての本願寺、IT起業家にとってのサンフランシスコのようなもので、村上春樹文学のメッカである。僕が普段生活圏としているオフィス街では、皆スーツを着たりビジネスカジュアルな身なりをしたりという、落ち着いた無気色な雰囲気が漂っていて、僕もノマド・ワーカーが集うカフェで、黙々と辻潤のエロ話を読んでメモを取っている。これに対して、早稲田大学なんか行ったらもう、なんか革ジャンみたいなのを着た女子大生と、雑居ビルの1階に変な木や段ボールでできた看板を出している飯屋と本屋と、貧乏そうな男子大生と、都バスの車庫に都電の駅である。いいじゃないか。匂いがする。小便と精子の匂いがする。と言ったら言い過ぎだが、村上春樹がこう、ちょっと距離を置いたつもりになりつつどっぷり浸かっているこの雰囲気、バンカラな雰囲気が漂っている。僕は当然、影響されてしまう。ブログ記事に堂々と「精子」と書きたい気持ちになってくる。やれやれ。村上春樹でも読もう。

 それで、『1Q84』以降の代表作、『女のいない男たち』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を買ってしまった。これを早稲田の古書店で買ったと言ったらオチがつくのだが、あいにく買ったのは飯田橋ブックオフである。これから読むから内容は知らない。『ドライブ・マイ・カー』も観たことがないが、聞き齧った話を総合すると、疲れた中年男性が若い女性にセックスとか面倒なことはしないでしかし性的に癒される、という話らしい。それってポリコレなの?という疑問と、性欲が減らないまま中年になった男性の理想ってこれだよな、きも……という感想と、僕の中にも年若い女性にセックスしないで性的に癒されたい欲望めっちゃあるな、きも……という自己嫌悪とが入り混じって、やっぱり映画は絶対観ないぞ、という気持ちを新たにしている。

 

(追記:そしてこの日の夜、『女のいない男たち』を読み終わった。「性欲は若い頃とあまり変わらず盛んなのに若い女性から相手にされない中年男性」を文学的に言い換えたものが「女のいない男たち」ということらしい。たぶん。そういう中年男性は欲求不満になり、10代の甘酸っぱい恋愛を思い出したりいつまでも過去の別れた記憶を引きずる、という凡庸な話を繰り返し春樹タッチで——つまり何度もセックスする描写を用いながら——書いていて、色々辛かった。)