読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

わたしの部屋がない

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子供部屋はある


 自分の部屋がなくなってからどれくらい経つだろう。

 

 今の家に唯一ある個室は、最初から子供部屋の扱いだった。前に住んでた家ではそもそも個室がなかった。その前の家までさかのぼると、まだ子供もいなかったし、自分の部屋があった気がする。あれは何年前だろう、2015年だから7年前のことか。ただ、そこには1年しか住んでいなかったはずだ。そのさらに前には、家がなく転々としていた時期があって、そのより以前の時期、2013年から1年ぐらいは1人でワンルームに住んでいた。ただそれでも、数ヶ月はルームシェアしている時期があった(広めのワンルームだったのだ)。考えてみると、ここ10年で自分の部屋があったのは、全部合わせてせいぜい1年ぐらいしかなかったということか。

 

 部屋があるということはどういうことか。自分の意のままに維持できる空間があるということだろう。自分が置いたものは、次に自分が動かすまでそのままに置いてある。自分がしまったものがなんであるか、他人は全く知り得ない。そういった空間だ。ただ、もっとも重要なことは、その空間が自分自身であること、つまり、自分自身がどういう空間で生きている人間であるか、少なくともそうありたいか、を体現する場であるということだ。部屋の色、部屋の飾り、部屋に置く家具、部屋の散らかりよう、それらのものが他者に見せるためでなく、まさに自分が自分であるために作り上げられる。あるいはこういってもよい、自分の部屋のあり方こそが、その部屋にふさわしい人物としての自分を作り上げるのだ、と。

 逆に、部屋がないというのはどういうことか。自分が身に纏っている衣服の内側にあるもの以外のものが、全て他人に開示されている状態だ。自分が生きる空間は他人が、あるいはせいぜい他人とともに、作り上げた空間であって、自分ひとりのあり方を規定する空間ではないし、自分がそこにありたいというイメージを投影した空間でもない。自分は常に、どこまでいっても、他人が作り出した、あるいは関与したイメージの中に配される客体であり、異邦人である。所有物はあっても他人に開示されており、あるいは他人がそれに自由に触れることができる。自分が置いたものはいつしか別の場所に移され、自分がしまったものを他人が知らないうちに借り出す。これが部屋のない状態である。部屋あるいはいかなる空間も、自分が望む自分のありたい場所とは関係なく構築され、自分は他人の作り出した空間にうまく適合するために常に変化していく。

 

 自分の部屋があるということは、部屋と一体に自分を構築することだと考えれば、逆に、部屋のある人が部屋を出た場合、その一部分は部屋に置いてきているということになる。例えばピンクの部屋に合うようなピンクの服を着て外に出たとしよう。黒いアスファルトと青い空、灰色のビルディングにピンクの服がミスマッチとなるかもしれない。それは、空間も含んで構築された自分というものの一部が、部屋として取り残されているということだ。整頓された部屋できっちりと整えた髪が、繁華街ではビル風で乱され、その雑踏の中で異彩を放つかもしれない。その時その人の一部分は、やはり部屋の鏡の前に少しばかり取り残されているのだ。自分の部屋がある人は、自分の部屋とともに完成する。

 自分の部屋がない人は、その人だけである。その人の在り方は、常に他者との関わりの中で形成され、空間に拡張された完全なその人自身というものは成立しない。なぜなら、他者というものは当然ながら、その人が考えることとは違う考えを持ち、予測不可能な形で動き続けるからである。他者との場所で、自分の置いたものが永遠に動かないように他者の動きを制限することはできない。それが可能ならば、その空間は自分の部屋となっているはずだから。

 

 自分の部屋がない人は、他者の空間への適合を比較的しやすいだろう。自分が自分の外へと拡張していかず、それゆえ他者に何も求めることがないからだ。部屋が散らかっていようが整頓されていようが、それは自分がいかなる人物であるかとは関係がない。なぜならそれは、その空間を構築している他者との関係、あるいはその空間を支配する他者そのものであるからだ。ある他者と散らかった部屋を構築し、他の他者とは整頓された部屋を構築する、ということが、部屋なき者にはあり得る。逆に、自分の部屋を持ち、日々それを丁寧に隅々まで整頓して暮らしているような人は、果たして散らかった部屋を喜んで享受できるだろうか? おそらく無理だろう。それは、整頓された空間が——仮にそれを部屋に置いてきたとしても——自分の一部になってしまっているからだ。異なる他者をどこまで受容できるか。それは、空間の観点からすれば、「わたしの部屋」をどこまで捨てることができるか、にかかっている。その問いは究極的には、服も捨て、言葉も捨て、肉体的な痛みを伴わないすべてのものを捨てるところまでゆきつく。しかし、そこで捨てられない自己があると気づく。肉体的な痛みを伴い、自己自身を捨ててしまったら、異なる他者を受容する私という主体がなくなってしまうので、それはできない。その手前まで、全て捨てることができ、自分が残る。この意味で、子供を持った人々が、特に妊娠出産を経験した人が、その後変わっていくという過程でしばしば起こる、「わたしの部屋」を失うという契機は、比較的大きい事柄のようにも思われる。妊娠を経験していれば、お腹の中ですら「わたしの部屋」ではなくなってしまうわけだ(これはパートナーの男性には経験し得ないことで、しかし理解が求められる部分だ)。自分の部屋をとことん手放して、しかし自分があるという存在論的肯定が、わたしの部屋の非存在ということに見出せる。我部屋なし、故に我あり。自分の部屋がないことこそ、自分が他者に開かれ、世界に開かれ、自己の自己たる所以を悟る道なのだ!

 

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 ところで、今週のお題は「わたしの部屋」だそうだ。自分の部屋が欲しくて広い家に引っ越したいと思っている僕にはタイムリーな話題である。「わたしの部屋」がある人はいいなぁ。