哲学入門書としてはアリストテレス『形而上学』を読むべきであった
僕にとっての哲学入門書
ごくごく個人的な回想になるが、僕にとっての最初の哲学入門書はジル・ドゥルーズの『差異と反復』だった。この本は、書かれたのも翻訳されたのも新しいから、ということもあるかもしれない(僕が読んだのは財津理訳の河出文庫のやつである)。二、三人の友人と定期的に輪読する形で、要約を作りながら1年ちょっとかけて読んだのだった。
フランス現代思想の哲学書、と紹介されることもあるが、内容は哲学入門に近いものだと僕は感じていて、確か彼がリセ(フランスの高校)で教えていた哲学の授業の内容をベースにしたのではなかったか。あまりそういった書誌的なところはわからないが。
内容はこうだ。哲学史をざっと眺めてみると、普遍的に「反復」するものとして信じられるような実存や真理を追求しようという取り組みが色々挫折してきているというところから、ドゥルーズとしてはそれを、外部の何がしかの「強度」が渦巻く世界を感覚が捉えたものから「差異」を作り出す働きとして理解してみたい、とする。そうすると結局、「反復」するものは我々が存在するところとしての世界そのものだけであって、われわれが認識するいかなるものも絶対的に「反復」したりなんかしないんだよ、という話である。
最初読んでいくと、色即是空的な捉えられ方をされている現実そのものの捉え方の感覚が掴めなくて難解な感じがする上に、フランスの著作でよくある、どこに向かっているんだかわからないまま色々なものを否定していって何も確固たるものが掴めない、という叙述スタイルに戸惑うけれども、話としてはそれほど難しいものではない。色即是空と永劫輪廻といった、仏教では馴染み深い感覚で哲学を捉え返してみた、という程度のものだ。ドゥルーズの主張はだからあまり重要ではなく(少なくとも僕にとっては)、むしろそこで説明されている、プラトン以来の(パルメニデスなども出てくるからさらに遡ることは可能だが)哲学者における実在や真理の捉え方の整理が非常に参考になるのである。どう整理されているかは読めばわかる。
僕はまさにこういうフランス現代思想にかぶれた人たちが書いたものにかぶれた世代なので、古くは浅田彰の『構造と力』(末尾の図表だけ見れば読んだ気になれる)とかに始まって、佐々木中の『夜戦と永遠』に多大なる感銘を受け、東浩紀の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』みたいなものも読み、千葉雅也の『動きすぎてはいけない』あたりまでは大真面目にフランス現代思想紹介本を読んでいた。その流れで『差異と反復』もそうだし、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』も読んで(これなんかは訳がわからないなりに楽しかった)果てにはラカンの『エクリ』まで読もうとした(当然読めず、代わりにラカン入門を読んで溜飲を下ろした)。僕にもそういう時代があったのだ。
哲学入門にはアリストテレス『形而上学』がよい
ただ、最近思うのは、こんな現代思想なんてそれほど、あるいはまったくのところ、重要じゃない、むしろ若いうちに読むべきものではないのではないか、ということである。むしろ、日々自己と自由と性の悩みに苦しむ高校生大学生が読むべき思想書は、プラトンの『饗宴』であり、『パイドロス』であり、『国家』ではないか、と気づいたのだ。性や美に悩む人は饗宴を、知性や他人とのコミュニケーションに悩む人はパイドロス(ファイドロス)を、社会について悩む人は国家を読んだらいい。饗宴は薄いからすぐに読めるし、プラトンの著作はどれも対話篇(古代ギリシャの登場人物が哲学問答している)なので読みやすい。それに岩波文庫だからクオリティは高いのに格安、やはり古典には古典であるだけの理由があるのだ。
そして、もし哲学入門のようなものを読みたいなら、何を差し置いてもまず、アリストテレスの『形而上学』を読むべきである。もうこれは、本当に声を大にして言いたい。デリダもフーコーももちろん、ヘーゲルもカントも後だ。まずアリストテレスの『形而上学』である。プラトンもアリストテレスもソフィストたちも、哲学の系譜として出てくるにあたってはアリストテレスの「哲学史観」とでもいうべきものに色濃く影響されて後世に伝わっている。「古代ギリシャの哲学が〜」とかいう話が出てくる全てのソースのもとを辿れば、必ずアリストテレスの『形而上学』に辿り着く。高校時代に『形而上学』を読んでおけば、大学のどんな人文学系の授業も没问题,明白了である。
近代の哲学について考える場合
そもそも、近代以降の哲学は、先にやるにはちょっと敷居が高い、義務教育を終えたばかりの人間には抽象度が高すぎる。それで相当誤解が生まれている部分があると思う。哲学というのもまず、世界の原理は水なのか、火なのか、風なのか、それとも土なのか、といったところから始めた方がわかりやすい。まさにポケットモンスターの世界だ。そこから哲学は始まるのである。その意味でポケットモンスターはあながち侮れないところがある、あれはエンペドクレスの哲学にも比すべきところがあって、さしずめアナクサゴラスがミュウツーと言ったところか。そういうところをプラトンがイデア論であの世へ飛ばして、アリストテレスが現実に引き戻してくるのだが、『形而上学』にその流れが書いてある。大体ここまでわかれば哲学の半分はわかったも同然である。残りの半分は精神というか、自己というか、要は自分自身のことについて知る、という問題なのだが、これは哲学には何もわかっていないも同然である。半分しか書かれていない『存在と時間』をありがたがって、世界が人間精神の目から見るとどれほどわからないかを明らかにした本が売れている時点で、要はそういうことなのである。
で、僕が思うに、こういう哲学を学ぼうと思うのは大変結構だが、最初からこれに取り付くのはちょっと観念的にすぎるのではないか。ある日うちの前にナポレオンが来ましたというぐらいの緊張感の中で取り組むというなら別だが、あー意識についてそういう理解もあるのねーぐらいの感慨しか生まれないのが普通だろう。それなら僕は、むしろヒュームの『人間本性論』とかを読んだ方が、まだこう社会の中に生きる人間の普通のリアリティから想像できるかな、という気がする。ドイツ観念論に行くのはその後でもいいのではないか。
ヒュームから始めるというのは、ドゥルーズのアイディアでもある(彼は「縮約」という概念に注目する)。ヒュームの背景には「公益」や「徳」について考えるスコットランド啓蒙の系譜があり(この流れを知るには例えば『社会思想の歴史』が参考になる)、その先にいるのが経済学の父と呼ばれるアダム・スミスであるから、近現代、現在の社会へ至るまでの流れもわかりやすいだろう。ヘーゲルをいくら読んでも、ヘーゲルの時代はまだ到来していないから(そして多分到来することはあるまい)、現代までの流れは取り出せない。ちなみにこれはマルクスの思想にも言えることであって、それゆえマルクスの思想をロマン主義とみなす人々もいるほどだが、ここでそれについて言及する余裕はない。とにかくいずれにしても、まずは地に足のついたものから、という趣旨でヒュームを推すのである。
社会と哲学
最後に、社会について哲学的なアプローチを考える場合、例えば、マルクスがどういう哲学史的文脈の上にあるかを知りたい、という場合だが、これはとにかく、そういうことを考えない方がいいというのに尽きる。マルクスは哲学史上に位置する人物ではあるが、ヘーゲルをいくら読んでも、そこにマルクスが出てくるわけではない(逆に、プラトンを読めばヘーゲルの所在もわかる)。むしろ廣松渉でも、あるいは入門としては内田義彦の『資本論の世界』を読むのがいい。個人的には、これだけは光文社文庫でいいので『経済学・哲学草稿』とか、あるいは読み物として面白いという点で『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んだらいいと思う。
あるいは、フランスから出てきた社会学の系譜について思想史的に知りたいという場合、これを哲学史的に整理したもので読みやすいものというのは(あるのかもしれないが)僕はまだ知らない。『〈社会的なもの〉の歴史: 社会学の興亡 1848-2000』という分厚い本が先頃東大出版会から出て、ある側面の全体像が見えてきたとは思うが、これでもフランス革命からの系譜や空想社会主義の話は範疇外だし、なら市野川容孝『社会』や、ややトリッキーだが『「社会」の誕生』を読んでみるという手もあるが、どうも包括的な整理という感じではなくて悩ましいというか、自分の中で、ああこういう流れか、としっくりくることがない。まぁここ300年ぐらいの流れというのは直近すぎてまだまだ整理が進んでいないのだ。
こうしてみると、僕も一から学び直したいと思う気持ちを強くするが、過ぎてしまった時間は戻らない。まぁポモ(ポスト・モダンを略してこんな呼び方をした時代があった、今となっては「ポスト・モダン」とは?という感じだが)にかぶれてウェイウェイ言ってた時代も、懐かしくいい思い出ではある。いずれにしても、これだけ訳書も揃い、安価な文庫も出ているのだから、読める余裕のあるときにどんどん読んでおかないといけない、ということだけは確かだ。少年老い易く学成り難し、とはよく言ったものである。
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