読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

投稿のすゝめ 人文系査読雑誌に掲載されるために

不採用の十や二十、貰ったってどうということはない

 人文系の査読とはどういうものなのか。どうしたら通るのか。これは、人文系に進んだ大学院生や若手研究者から受けるものの中で、最も頻度の高い質問だ。それだけ皆、論文を投稿したいと思い、またそれをしなければならないと焦っているわけだ。

 あの雑誌が通りやすいとか通りにくいとか、あるいはあの人がどうでこの人がどうとか、ハウツー的なアドバイスもあり得るのかもしれないが、僕からするとそれは瑣末な問題に過ぎない。人文系の査読雑誌(学会誌など)に載せるには、日本語でも英語でも、やることは決まっている。論文の形式に即して論を書き、その論に適した雑誌に投稿することだ。それさえできれば、載らない論文はない。なんとなれば、学会や編集委員会の側では、いい論文投稿が無くて困っているほどなのだ。

 僕もせっせと論文を「生産」しているが、(このブログを読んでいる人なら先刻承知の通り)あまり研究に時間を割けない身の上でもあるから、いい研究をしているのにあまり論文を出さない人々に、どんどん投稿するよう訴えたい。また、大学院生などから受ける同じような質問に答える便も考えて、ここに人文系*1の査読がどんなものであるか、どうしたら通るかということを整理して書いておこうと思う。また、査読をする側になった人にもぜひ読んでもらいたい。僕が思うに、大して論文投稿の経験がない——つまりリジェクトされた経験もあまりない——まま査読する側に回る人は、非常に稚拙で攻撃的な査読コメントをする傾向がある。どのような査読コメントを書けばいいのかは、この記事を立場を変えて読めば自ずと明らかになろう。

(2023.12.26 X(旧Twitter)上の話題を見てこの記事を思い起こし、細部修正しました)

 

査読の基準は大きく分けて二つ

 査読といっても人間のやることで、査読コメントに大したことが書いてあるわけではない。査読する人が投稿者の論文を読んでわかる範囲で、知っていることを書いているだけだ。

 査読の細かい基準は学会によって異なる。コテコテの人文系の学会では完全に査読者のお気持ちに委ねられていたり、逆に文理融合的な分野だと細かく審査基準が決まっていたりする。しかし、いずれにしても査読の基準は大きく二つに分けられる。第一に、査読者が読んで、その論に何が書いてあるかわかるかどうか。第二に、査読者の知っていることが、その論に書かれているかどうか。この二つだ。前者を便宜的に、「書き方の問題」、後者を「研究の文脈の問題」と括り、以下それぞれ説明しよう。

 

書き方の問題

書き方の問題とは何か

 査読者が読んで、これは何が書いてあるかわからないな、と思う場合、そこには「書き方の問題」がある。

 僕らが何かをコトバにするとき、そのコトバはどんな機能を持っているだろうか。最もプリミティブな形態としては、喃語、つまり「バブー」「ウエーン」というような、本人には意味があるが他人には何もわからないコトバがある。そこから、コトバの通じる範囲は徐々に広がっていく。家族にだけわかるコトバ、クラスにだけ通じるコトバ、いわゆる「若者言葉」、といった具合に。あるいは、学者の間では学者の間だけで通じる「学者言葉」がある。これはいい意味での用法だと理解してほしい。つまり、田舎のジーチャンバーチャンには伝わらないが、指導教員や学会の同僚には伝わる、というものだ。その言葉は限定や定義が非常に多く、日常の中で話者共通に自明な事柄を前にやりとりするには煩雑すぎるが、異なる文化や対象を離れた場所で物事をより厳密に伝えるために重要な役割を果たす。

 論文も同様に、論文固有の言葉遣いがある。論文は出版されたり公開されたりするという関係上、個人のツイッターやブログよりも多くの人に時代を超えて広く読まれることを想定されている。さらに、研究に貢献するという価値を有さなければならないので、他の研究が参照する際や、今後の反証に使える必要がある。論文は、そうした機能や目的に相応しい形式を有していなければならない。つまり、論文の「書き方の問題」とは、論文が読み手にわかるように、それにふさわしい形式で書かれているかどうか、ということだ。

 

論文の書き方

 読み手にわかるような論文の書き方、つまり論文の有するべき形式については、巷に沢山の本や手引きが溢れているので、ここに詳しく繰り返すまでもないだろう。有名どころでいえば清水幾太郎の『論文の書き方』から小熊英二の『基礎からわかる 論文の書き方』まで、もっと初歩的なところでは本多勝一日本語の作文技術』、あるいは各学問領域、各言語での論文の書き方指南本は枚挙に暇がない。それほどそれぞれの分野において固有の書き方の形式があるということだ。

 とはいえ基本的には、次の3点を満たしていればよい。(1)一つの論文では一つのトピックだけを取り扱う。(2)冒頭では序論(はじめに)で問いを立て、本論で論証し、結論(おわりに)で冒頭に立てた問いに答える。(3)引用・参照・他の研究を援用して定義や論証を省く部分については、適切に注をつける。

 これに沿って書かれていないものは、どんなに興味深いトピックであっても、査読者を混乱させる。どんなに書き手が詳しく調べ、そして正しいことを言っていたとしても。

 あるいはこう言ってもよい。あなたが書いたものは、出版されれば1世紀や2世紀の先にも残る価値あるものかもしれない。そしてそれを、「論文」の体裁に合わせてバラバラにしたり、組み替えたりすると、価値がなくなってしまうかもしれない。しかしそれでも、雑誌の掲載に向けて査読するという立場においては、この論文の形式を投稿者に守らせることを優先せざるを得ない。なぜなら、それが雑誌やその学問分野全体をそれたらしめている形式であるからだ。

 だから、査読者は必ず、この論文で論じられ、明らかにされようとしているただ一つのトピックは何か、という見地から投稿者の論文を読み始める。シャーロック・ホームズが別々の殺人事件を同時並行で分析せず、個々の事件として描かれるか、あるいは連続殺人事件という一つの事件として扱うように。もし二つ以上の全く別の事件を——実際の弁護士がそうであるように——並行して手がけている様をそのままに書いたら、読者は混乱してしまうだろう。論文もそれと同じだ。

 つまり、投稿者は、いかなる思いがあっても、査読誌に投稿する以上は、論文にするための文章を作らなければいけない。形式の奴隷にならなければならない。そこでの主人は、真理を記述するために備えられるべきとされている形式である。

論文の書き方はどこで学ぶか

 ただし、この形式は投稿規定に書いてあるわけではない。投稿規定に書いてあるのは、こうした論の組み立て方、論文の形式がわかっていることを前提に、その枝葉末節のことが規定されているだけだ。「だけだ」とはいえ、細部に神が宿っているので(注のスタイルや、レイアウトや、番号の振り方など……)、それもやはり真理、真理とまではいかなくてもその学問分野で正しいとされることを言葉で記述するために必要な「書き方」なのだが。

 こうした、投稿規定に書かれていない、論文の組み方の基本は、先に言ったように色々な本があるが、やはり一度訓練を受けてそれが書けるようになることが望ましい。その訓練こそ、大学院の修士、あるいは博士の1、2年で受けるべき事柄である。そして、査読に回ってきて論文の書き方がなってない人というのは、大学院でちゃんとした訓練を受けていない人であることが多い。この訓練を、大学院の外で受けるのは結構難しい。大学院にもう一度入って指導してもらうか、面倒見の良い小さい研究会で何度も指摘修正をしてもらうか、という形で、頑張って訓練するしかない。

論文の書き方がダメになってしまう人

 最近見受けられるのは、時間をかけて取り組めばちゃんと書けるはずなのに、やっつけ仕事でやっているために論文の書き方がダメになってしまっている人だ。僕自身、急いでいる時やあまり力の入っていない論文では、書き方がなっていない論文を投稿してしまうことがある。そしてこの、「やっつけ仕事のダメな論文特有の形式」というのがある。

 これは、大した研究をしていないのになんとか論文として出そうとすることによって生じる。自分のオリジナルの研究の部分が少ないので、例えば本論が3章あるなら、そのうち1、2章は他人の研究を自分なりに整理したもの、3章に、自分がやったちょっとした研究を足してもっともらしい論文の体裁にしている、というようなものだ。ちょっとした研究、というのは、文学なら1冊しか扱わず比較対象のない作品分析、社会学なら標本の少ないアンケートや一人だけの聞き書き歴史学なら二次資料の分析、経済学ならデータ量が少なく新規性も乏しい標本を用いた統計分析、などだ。こうした研究に与えられる査読結果は決まっている。「1、2章は先行研究整理として序論で紹介するにとどめ、第3章の内容をより掘り下げて本論とし、序論と結論を含めた論文の全体を再構成してください」というものだ。

 現在、多くの大学院生や若手研究者が、金も時間もないのに論文はどんどん出版しろというプレッシャーを受けているがために、こうした論文投稿が増えている。まぁ先行研究整理だけでも、システマティックレビューという形でやって貰えば意味があるのだが、こうした即席論文での先行研究分析が網羅的なわけもなく、アドバイスには頭を悩ます。投稿を急いでいるのはわかるし、それが自分の就職、つまり自分の生活や結婚出産、留学生なら日本にいられるかどうか、家庭事情によっては実家の支援、奨学金などのしかかる借金、ひいては皆、自分が研究者であり続けられるかどうか、といったことに直結する問題であるという深刻さも痛切に理解する。ただ、なんとか一つでもテーマを誰よりも掘り下げて突破してくれないと、論文にはならないし、逆に一つでもそうしたテーマを手に入れられれば、その後一定程度の期間は航行し続けられる。

 昔、増田で若手研究者問題を書いてホッテントリに入った時も書いたのだが、こうした問題は若手で協力しあって、分業するなり融通するなり議論するなりすることで突破するしかない。国の金や支援を頼るのは僕は賛成できない。若手研究者がゼミや大学の枠を超え、もっと協力して細かくやり取りするようになるだけで、研究の量も質もぐんと深まるはずである。そうすれば、良い研究は国内外で誰かが認めてくれる(そのために「出版」=公的なものにするわけだ)。今の日本では、人文系の研究と研究者が枯渇状態なのに、優秀な人が研究者になる前に市場から追い出され、必要な人材がいないという歪んだ状況だ。僕の周りは非常勤を無茶苦茶掛け持ちさせられている人が多く、僕のところにもじゃかじゃか来るのだが、皆これを回す先がないので困っている。若手が協力して自ら質の底上げをしていくべきだ。ツイッターなどやっている場合ではない。

 

研究の文脈の問題

押さえるべき三つのポイント

 めでたく査読者がちゃんと論文を読めた、という場合、その論文は修正すればいつか必ず掲載される。修正にあたって向き合わねばならないのが、「研究の文脈の問題」である。

 この問題は、次の三つのポイントを押さえる必要がある。(1)自分の研究の扱うトピックが、投稿した雑誌の研究の文脈に乗っているかどうか。(2)研究の文脈を、十分に参照し、踏まえているか。(3)研究の文脈において、新規性があるか。

 そして、読める論文になっている場合は、この三つのポイントを順繰りにクリアしていけば、必ず掲載される論文が完成する。以下、順に説明していこう。

(1)自分の研究の扱うトピックが、投稿した雑誌の研究の文脈に乗っているかどうか

 そもそも研究というのは、その研究をした人独自のものであって、研究分野なんてものは、後からくっついてくるものだ。なんなら読む人が勝手につけるものだ、といってもいい。しかし、雑誌や学会など、たくさんの個別の研究をくくったある「くくり」で人々が交流し、研究が認められることを考えれば、その研究を発表する際に、なんらかの括りを選ばなくてはならない。

 しばしばあるのは、査読結果に、絶対不可能な修正要求や、見当違いのコメントがきて絶望してしまうパターンである。しかしだからと言って、査読者を批判したりしてはいけない。むしろ、査読者と投稿者の間にある差異に着目することが重要だ。

 研究が価値あるものとして認められることは、その研究がある種の「確からしいと認められうる要素」を有していることによってのみ、可能となる。査読者は、あくまで「この雑誌」「この学会」「この学問分野」という規定されたあり方のもとで査読のコメントを書いている。あなたの靴がどれほど綺麗だとしても、日本の家屋に入るときは、「靴を脱いでください」と言われるだろう。それはあなたの靴が綺麗か汚いかを問うているのではない。「靴が脱がれている」ということが、家に迎えられるに足る人間として認められる要素である、ということなのだ。同じように、ある分野でなにか確からしいと認められるためには、確からしさを証する要素が論文に入っている必要がある。ある分野では、詳しい統計の分析が必要かもしれない。ある分野では実際の肉声の聞き取りが重視されるかもしれない。ある分野では誰も見たことのない古い文献が重要かもしれない。ある分野では卓越した厳密さを有する数式かもしれない。そして、論文の投稿者は、投稿先の雑誌で認められる種類の確からしさを証明する要素を、論文に入れておかなければならない。そして、それを準備できない場合は、潔く引き下がるしかないし、論文の投稿先を選ぶときは、自分の論文の証明方法とマッチした論理構造を確からしさとして認めてくれる雑誌を選ばなければならない。 

 例えば、「中華料理店の経営史的分析」という論文を書いたとしよう。内容は、東京の中華料理店をその味の地域ごとに(四川や広東や福建など)分類して、その地域ごとの日本進出の理由を資料から集めて、統計にして分析する、というものにしよう。台湾や福建省中国東北部からの出店なら、どちらも背景に日本の植民地だったことがあるだろう。四川からは日本での四川料理ブームを狙って進出したのかもしれない。上海など広東からの出店は、華僑以来の長い歴史がある、などなど。

 この内容は、経営史として経済史系の雑誌に投稿したらよいかもしれない。そう思って投稿したら、「日本進出の理由を集めた統計がしょぼいのでダメです」という査読結果がきた。しかし、中華料理店の日本進出の理由を集めたデータなど都合よくあるわけがない。日本進出の理由を中華料理店それぞれに聞くにはあまりに手間がかかりすぎる。アンケートを送るか? しかし何語で? 予算はどうする? 考えるとキリがない。こうしてドツボにハマる人がよくある。こういう時は頭を切り替えるのである。ないものはないので、別のアプローチを考えるのだ。

 中華料理がテーマなので、料理や食生活をテーマにした比較文化研究の学術誌に投稿してみよう。投稿したら、それなりに面白く読んでくれたという回答が来た。しかし今度は、「料理の区分をちゃんと食材や調味料で定義してください」と来た。確かに四川料理ならこの調味料、広東料理ならこの食材、北京料理ならこの味わい、というのがありそうだ。とはいえ僕は、中華料理屋で食べるのは好きだが、料理をしたことはない。調味料は甜麺醤と豆板醤しか知らない。これから中華料理屋に弟子入りするか……? いや、この線も却下だ。

 そもそも僕は中華料理店が出店した背景を分析したのだった。これは歴史と言えるかもしれない。そこで近代日本史の雑誌に投稿してみた。すると、着眼点は素晴らしいという回答だ。だが、やはり分析に問題があるらしい。「全体の統計ではなく、特定の地域の出店者に絞って分析してはどうでしょうか」という助言が添えてあった。特に、植民地の研究が進んでいるので、それを踏まえて北京料理店の日本での展開を論じてはどうかということだ。これならできるかもしれない……

 これは一つの、今思いついた例である。しかし、こうしたことはよくあると思う。査読コメントで、それはできないよ、という修正要求が来た場合、それを無視して他のところだけ修正して再投稿するか、別のところに投稿することになる。色々試行錯誤は必要だが、日本語で書けば、ありがたいことに投稿する先がないということはまずない。日本はだいぶ凋落したとはいえ、多様な学問分野が細々と生き残っていて、研究の裾野は広い。ciniiでキーワードで検索したり、先行研究が投稿している雑誌などを見てみて、自分が論文として完成させられそうな分野の雑誌を見つけられれば、第一段階はクリアだ。

 なお、査読者の方も、この研究は面白いが、この雑誌にマッチしない、という場合は、その旨はっきり書くべきだ。アメリカの雑誌では、その辺は編集委員会で示してくれる場合が多いが、日本の場合は編集委員会の機能が弱く、どうも曖昧なことがしばしばである。絶対これは無理だろうという査読者の要求をそのままパススルーして、あとは投稿者任せではかわいそうである。雑誌にマッチしないならマッチしないと書いて、まぁ他の雑誌を推薦するまではしないにしても、マッチしそうな分野をサジェストしてあげたら良いだろう。

 

(2)研究の文脈を、十分に参照し、踏まえているか

 査読者が大好きなのは、自分は読んだことがあるけど投稿者は読んだことのない資料をこれ見よがしに指摘して、それがないのでダメです、とやることだ。本当にうざい。しかし、研究の文脈を網羅的におさえた上で自身の論を展開することは、多くの人々の研究を集めた研究一般への寄与、という点では本当に重要である。

 その時、先行研究の抑え方が、ナウでヤングなものをあちこちからかき集めてきて並べ立てるというやり方をする人がいるが、これはダメだ。研究には文脈がある。どの研究も先行研究を参照しており、その先行研究も先行の先行研究を参照している……ということだ。むしろ、自分の研究に近い重要そうな研究をまず手に取り、それが引用している主要な研究をも手に取り、と繰り返していき、その研究のここ100年ぐらいの展開を抑えるのがよい。

 注と参考文献というのは、ハイパーテキスト(HTMLで書かれた文章のように、リンク構造を持ったテキスト)だと思えばいい。今では、あるサイトを読んでいてわからなかったり気になることがあれば、そのリンクをクリックすればさらに詳しい情報や関連情報に移動できる。しかし昔はクリックなどできなかったので、注を見て参考文献を図書館に探しに行ってそれを読む、という手間をかけていたのだ。Twitterのレスバトルを見るには、一つのツイートをクリックすればズラーとツリーが出てくる。しかし、学術論文上のバトル(いわゆる「論争」)を見るには、ある論文の冒頭で槍玉に挙げられている他の論文をメモして、その論文が掲載されている雑誌を探しにいき……とやる必要がある。そしてそれをやらずに一番新しい論文だけを先行研究として並べても、それはレスバトルのツリーを読まずに最新の1ツイートに脊髄反射しているだけのような、残念な論になってしまう。

 最新の研究をあちこちから引くのではなく、重要な先行研究とそれが出てきた背景の文脈を押さえること、これが研究の文脈を知ることである。そしてそれを集めてくるのが研究の大きな仕事ではあるのだが、いくら情報化社会といえど、これをやるのは骨が折れる。こういう時に役に立つのが学会や研究会で、他の人から、あるいは先行研究を書いたその人から直に、何を読めばいいのか教えて貰えれば、これほど楽なことはない。他の人は、先行研究整理など誰がやっても同じだし、むしろ誰か他人がそれをやって論文にしてほしいと思っているくらいだから、喜んで教えてくれる。

 研究の文脈が押さえられていれば、査読者もその文脈において論文が意義あるものかどうか、という絞り込んだ観点から評価できるので、有意義なコメントを与えることができる。その文脈で見落としている研究はこれです、と具体的な本や論文を査読コメント内で示してくれればしめたものだ。それを参照して論を補強すれば良いのである。

 逆に査読者の方も、読んだことがある論を適当に示すのではなく、丁寧に研究の文脈を教えてあげた方が有意義だ。「近代の研究を網羅的に確認して……」「まずは誰々研究の先行研究を包括的に踏まえ……」「何々学の先行研究をきちんとチェックし……」などのように抽象的にコメントして、投稿者の頑張りに委ねるのではいけない。「まずは誰々『何々の云々』以降積み上げられてきた研究の文脈を押さえ……」といったように、文脈が欠けていると思った根拠となる、投稿者が参照していない文献を具体的に一つ二つ示してやってほしい。投稿者も同好の士、あるいは戦線を同じくする学徒であることに鑑みて、最大限その人の助けになるよう査読コメントを書きたいものだ。

 

(3)研究の文脈において、新規性があるか

 先行研究の文脈を踏まえ、また査読で指摘された研究を参照すると、自分の研究はすでに他の人にやられていた、ということもある。あるいは査読で、「あなたの研究は他の研究とあまり違いがなく、新規性に乏しい」というコメントがある場合もある。これにはもっと酷い表現があり、「面白みに欠ける」と書かれることもある。こういうことを書く査読者においては、面白みに欠ける査読コメントを自省して、ちょっと表現を工夫してほしいものだ。

 しかしこれは、研究がゴールに近づいている証拠だ。研究が先行研究と被っているということは、先行研究と同じような問題意識を共有し、またそうした問題に取り組んできた人たちと連帯しているということである。被っている先行研究者は競争者ではなく、同じ謎を解決しようとしている同志である。「早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ皆で進め」というアフリカの諺の通り、同じ謎に取り組む人が多ければ、より深い研究ができる。

 では、カブリからどうやって脱却し、自らの道を進み得るのか。一番いいのは、研究が被っている人と話すことだ。学会や研究会でその人と会えるといい。同じ研究をしていることを喜んでくれ、また色々な論点を共有することができるだろう。しかし、その人がすでに死んでいたり、会う機会がないといった場合は、被っている研究と、自分の研究とをよく見比べ、そこにある差異を探すことだ。他の人間が書いているので、絶対に差異がある。わずかでもいいので見出した差異を、同じ対象を見ているのになぜそのような差異が生まれたのだろう、と掘り下げていけば、自分の独自性、新規性なるものは、実は容易に取り出せるのである。

 

人文系の査読に通るのは、面倒だが簡単である

 大学院で論文の書き方を学べば、あとは全く研究会などに出なくても、査読コメントだけで論文掲載に持っていくことはできる、というのが僕の考えだ。自分ができる範囲での修正を求めてくる雑誌を探し、それを見つけたらその分野の研究の文脈に自分の論文をうまく位置付け、その文脈における新規性を打ち出す。これを、査読者のコメントとのキャッチボールで(ずいぶん気の長いキャッチボールになることは否めないが)やっていくことだ。いちいち査読に対応するのは面倒だが、しかし自分の可能な範囲でコツコツ取り組めば、いつかは突破できる。その意味では、難しい実験を成功させたり未知の新現象を観測しなければいけないというのではないから、非常に簡単である。言葉を操れるなら誰でもできる。

 研究をブラッシュアップするのには、査読ではなく、研究会や学会で直接やりとりすればより手っ取り早い。ただし、そのような場でのコメントは、編集委員会がチェックし、また雑誌の方向性に基づき、書かれたものとして一応は完成される査読コメントとは違う。研究会などで受け取る、他人からのある種無責任なお気持ちばかり斟酌していると、かえって書けなくなる場合もある。ポジティブな、自分を応援し、良い方向へ持っていこうとするようなコメントだけを聞いた方が良い。あるいは、面倒なコメントにはその場で反論し、喧嘩した方が良い。

 個人的には、あまり口頭のコメントは気にせず、どんどん査読論文を投稿すべきだと思うし、それを通じて査読する側のレベルも上がっていくのが良いと思う。査読コメントを書くのは骨の折れる仕事だが、これこそ研究者の仕事だ。僕は査読コメントを書くたびに、新しいことを教えてくれる投稿者に感謝している。批判的なやりとりの場合、口頭ではなく書かれたものの方が内容は精査されるし、書かれたものを見返して言い回しを修正できる。査読は、有意義で効率的な形で批判的なやり取りを行い、研究の質を高めていける素晴らしいシステムだ。

 昔は論争も雑誌や手紙でやっていた。会うのがなかなか難しかったからだ。今やなんでもオンラインで気軽にやり取りできるが、その分、考えを深め、きちんと合理的で有意義なことを伝える、という機会に乏しい。言葉は便利な道具だが、それを磨いて「学者言葉」にするのは案外簡単ではない。お気持ちだけを言葉に乗せてやり取りするなら誰でもできるが、そのノリを研究に持ち込むことはご法度だ。人文系であればこそ、言葉の持つ力を最大限引き出せるような形でやり取りすることが望ましい。

 ただし、このブログはそんなことはお構いなしに、ぼくのさいきょうのおきもちを垂れ流しているだけであるから、そこはご寛恕願いたい。

(2022.5.30記、2023.12.26細部修正)

 

 

 

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yondaki.hatenadiary.jp

yondaki.hatenadiary.jp

*1:なお、僕がここであえて人文系というのは、科学ではないということだ。社会科学や自然科学の分野では、実証のプロセスが非常に重くなる。実証というのは技術であり、思考より技術などのパラダイムに依拠する部分が大きい。科学という実証を重んじる営みに比べれば、人文学はどんなに偏ってもなお偏りの少ない学問だとすらいえる。人文系は実証する学問ではない。厖大な先行研究を踏まえてそこに新たな一歩を加えればよい。実証が必要な学問とは異なる査読プロセスがそこにはある。それはしばしば科学系の研究者が思う通り、実証的でないという点では恣意的な側面が科学より強いが、しかし単に恣意的なものではない学問の論理がある。