読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

原発の大艦巨砲主義が招いた電力不足

2011年9月、飯館村

 当事者でなくても理解し、継承していかなければならないのが歴史の記憶であり、歴史から得られた教訓である。このことは、相当の刹那主義者でもない限り、誰もが承知することだろう。温故知新、過去の蓄積からの学習があってこそ、一部地域に限られるとはいえ現在の我々の平和、安全の生活の実現がある。

 しかし、歴史的記憶の継承の度合い、あるいはその教訓を重視する度合いというのは、経験の差、あるいは誰かの経験が生じた地点からの距離といったものに応じて、変わってくる。例えば、日本における太平洋戦争の記憶と言っても、それは陸上戦を経験した沖縄とそれ以外の地域では全くその継承の内容と質が異なる(現状の差がまさにその歴史的事象の差に起因することは言うまでもない)。本土に限っても、空爆を経験した都市部と農村では異なる。遡れば戊辰戦争の記憶は会津西南戦争の記憶は鹿児島で脈々と息づいているが、その他の地域ではほとんど記憶されていないだろう。
 まだ記憶している人物が多いであろう阪神淡路大震災についても、関西圏ではまだ継承されているが、それ以外の地域ではもう過去の話となっている。東日本大震災の記憶は、未だ新しいとはいえ、やはり東北・関東圏以外では過去の話である。福島第一原発事故も同様である。飯館村南相馬市の当時の状況を経験し、また現状を見れば、地震が起きるような地域で、地上に発電設備をさらすような形で原発を稼働するというのは、やや信じ難い暴挙であるように思われる。しかし、多くの人は事故の被災地を見たこともなければ、福島に行ったこともない。この歴史的経験、記憶を継承するのは簡単ではない。

 さらに問題なのは、新聞社のようなところに勤めている全く不勉強な若い記者などが、話題にして儲けるためか政治的意図があるのか知らないが、そうした経験、記憶を無視して知ったようなことを書き、人々を惑わせることである。新聞というのはえてしてそういうものだ、と言えばそれまでだが、それにより第二第三の悲劇が起きた時、果たして発言の責任を取れるのか。過去の素晴らしい記者たちの威光に縋って、責任を取らない気軽な立場で、特に勉強もせず適当なことを言う現在の記者たちは、将来的にはそのメディアの破綻という形で責任を取るのだろうが、しかしそれによる災禍は小さくなく、人の命や暮らしに関わることだ。目先の反響を追わず、発信者としての責任として、人の命や暮らしに向き合って、自らの能力が許す限り誠実なことを書こうとするのが、記者の在り方であってほしい。

 

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 原子力発電所の事故を経験した国として、我が国の原子力政策は二つの方向を並行してとるべきであった。一つは当然ながら、原子力に依存しないエネルギー戦略である。もう一つは、壊れても被害が最小限にとどまるような原子力発電設備の開発である。

 しかし政府は、まず既存の原子力産業を維持する方向をとった。国内の原子力発電所は丸々温存され、国は再稼働の方針を取り続けた。しかし、アベノミクスの看板政策にまでした原子力発電所の海外へのプロモーションは完全に失敗し、原子力メーカーは膨大な赤字を計上することになる。当然の結果として、原子力に依存しないエネルギー戦略に舵を切ることはできないまま、再エネ関連産業ははじめドイツ、その後中国や韓国、台湾といった日本以外の東アジア諸国が総取りの形となり、太陽光発電、電気自動車、蓄電池など、20世紀までは日本が先行していた産業分野が国内では全て潰れ、工場や技術が海外へ持っていかれることになってしまった。

 壊れても被害が最小限にとどまるような原子力発電設備の開発については、小型原発という形でビル・ゲイツも意欲的に取り組んでいることで知られる。日本はどうすれば原発が致命的に壊れるのか、壊れたらどういう事態が発生するのか、ということについて豊富な知見を手に入れたのだから、これをそうした壊れても大丈夫な小型原発の開発へと活用することは、強力な技術的優位を手に入れることにつながる。しかしこれは、市場として見ると再エネの技術開発と食い合うことになる。再エネ政策は対原発、あるいは反原発の文脈で出てきているので、そこに原発を入れると人々の理解を得られにくい。しかし既存の原発政策は大型原発の運用を中心とし、もんじゅなどむしろ大型でさらに技術的にも高いハードルにチャレンジしようとしていたため、ここに小型原発を入れることも難しい。結果的に、既存技術をベースとした安全性の高い原発の技術開発という方向性に舵を切ることができず、いわば原発大艦巨砲主義を貫いてしまったのである。

 そうしているうちに、もんじゅは廃止が決まってしまい、既存原発の整理は進まず、再エネは技術も市場も頭打ち、系統の調整力もどっちつかずで整備できないまま、電力不足の危機という最悪の事態を迎え、エネルギー政策全体が座礁することになってしまった。なぜ日本は、いつも敗戦濃厚になった時に撤退できないのだ、と叫びたくなる気持ちである。こうなることは、電力産業に携わっている人間なら、2011年にわかっていたことではないか。どこかで原発大艦巨砲主義を転換できていれば、再エネ産業の成長か、安全性の高い小型原発の開発か、あるいは系統調整力としての蓄電池導入か、どれかは達成できていたはずだ。そして、どれかひとつだけ達成できていれば、現在の電力不足の危機などは招来されなかったのではないか。

 

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 再エネは原発に頭を抑えられ、原発は改良されずに動かせなくなり、系統は電源が分散型か集中型か決まらないのでコストの大きい調整力を導入できず、現在のエネルギー政策は三すくみの状態である。そしてそれは、エネ庁の中で、電力・ガス事業部と省エネルギー・新エネルギー部との睨み合いと、その間に挟まれている系統事業者である大手電力との三すくみである。電ガ部はメーカーと組んで政治家にロビイングして原子力を維持し、省新部は脱原発をチラつかせながら新興企業と組んで予算取り、系統事業者はその結果を受けてほどほどに設備投資をし、ほどほどに発電事業者を制限する、という構図になっている。しかし、この三すくみではもうたちいかない、全国的な電力不足になってしまいそうだ、まずいぞ、というのが現在である。

 そこでどういうことが起きているか。原発大艦巨砲主義を選択するか、分散型の電力システムを選択するか、という人命と国家を人質に取った大バトルである。

 電事連がやっているのは露骨な原発大艦巨砲主義の推進で、でかい原発がドーンと立ってないとやっていけませんよ、というアピールである。新聞、CM、あらゆるものを総動員しており、原発動いてないのによくそんな金があるなと感心しきりだが、これを選択するなら原発立地自治体は腹を括らなければいけないし、次の原発事故が起きたらその電力を使っていた人々は、自分はその危険性を知らなかった、騙されたで済まされない。我々は「安全神話」に一度騙されているのである。同じように平地にカプセル建てただけの原子力発電所を使って壊れたら、そりゃ壊れるの知ってたでしょ、ということになる。

 分散型の連中は分が悪い。国や政治家と強いパイプがあるわけではないので、そんなにプロモーションするようなお金はない。これまでなかった分散型の電力システムを、高い調整力、蓄電池や揚水発電、なんなら火力を絡めて推進します、ということでこれは分かりにくい。再エネのために火力を動かすのでは本末転倒だ、と批判されるだろう。また、分散型の系統運用が本当にうまくできるのか、当人たちも半信半疑である。また逆に、原発大艦巨砲主義になっても、その周辺で細々とビジネスを進めていくことができる気がしているので、あまりやる気がない。ただ、例えば原発が10基20基再稼働する、というような形で原発大艦巨砲主義が遂行されたら、既に稼働している発電所を含めて、相当数の風力・太陽光発電は停止させられる、あるいは膨大な追加投資(調整力としての蓄電池を追加設置)が必要となる。しかし、小口の発電事業者が多いので、その危機感が足りず、産業団体としても力がない。ただ、国の中心にいる良識のある人たちが大艦巨砲主義に抵抗している、という印象だ。

 こうしたことを、わかりやすく整理して伝えるのが、メディアの役目だ。いたずらに電力不足の危機を煽って、背景も何も知らないで、ただ使えるグラフだけ並べてそれらしいことを言うだけなら、ネットの方がよっぽど信頼できる情報を集められる。

 

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 最後に個人的な考えを述べる。僕は当面、分散型の電力システムに移行するべきだと考えている。その場合、論点となるのは調整火力のコストである。これは原発事故が起こるよりまし、と考えて、原発の立地助成金などをそちらに振り向ければよい。国内の原発は、本当に安全だと立証できた数基を残して、全て潰す。再エネはもう中国に勝てないので、新省部やNEDOはしょうもない再エネ技術に投資するのをやめて、小型原発や原子炉の非常停止技術に投資した方がよい。これは国策として、エネ庁だけでなく経産省の別の部署の予算でやってもよい。文科とも連携できるだろう。原子力産業の人員をこちらで受け止める。足りなければ、アメリカやイスラエルから人や金を受け入れる、あるいは送り出すこともできるだろう。人材をあぶれさせないようにした方がいい。

 太陽光、風力、原子力、水力を組み合わせた分散型のグリッドにしておいた方がよいというのは、原発を追い出すためではない。これから人口が急減し、電力需要は地方でなだらかに減っていく。しかし、大型発電所ではその発電容量をなだらかに減らすと言うわけにはいかない。段落としのようになる。分散型なら、需要に応じてなだらかに発電容量を減らしていくことができる。人口減少社会で電力料金を適切に維持するためにも、分散型の電力システムが求められている。