読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

雑想(2023.1.15)

 敵地反撃能力を保有し、それを必要に応じて行使する。日本政府はそのような方針を諸外国に通達し、日本語で知らされる前に英語圏でその姿勢を好意的に報道するニュースが出回っている。

 このことに対し、憲法を改正していないにも拘わらず、戦争できる国にしてしまうことは問題だ、という意見を見かけたが、それは誤りだ。現在の憲法は米軍を中心とした占領軍の統治下で作られたもので、米軍の存在抜きには成立し得ないものである。故に、大日本帝国憲法天皇を超えられなかったように、日本国憲法も安保条約を超えられない。1947年に施行された憲法のもとで、1950年には海上保安庁朝鮮戦争海上機雷掃討作戦に参加していること、それが憲法違反であったが占領下だったためとして認められていたことは広く知られている。日本はもとより憲法違反をして戦争できる国であるし、戦後も戦争をしてきた国なのだ。戦後、戦争参加したことがなかったかのような印象を与える言説は誤りであり、その誤った日本史理解は訂正されるべきである。論じるべきは、既に戦争できる国である日本を、どうやって戦争しない国にできるか、ということである。そして現在の憲法は、戦争できる国を実現する憲法であるのだから、今の憲法をいくら論じても、それで戦争しない国になるわけではないのではないか。

 もし憲法を用いて、日本が戦争しない国になりたいのであれば、安保条約を破棄し、独自憲法を制定し、そこに不戦の誓いと、それを実現する高度国防体制の確立、それを実現する経済制度および徴兵制が書き込まれている必要がある。自主憲法国防軍を求める運動の方が、よっぽど戦争反対の立場に近い。米軍なしには成立し得ない憲法、特にその第9条を守ろうとする人々は、アメリカによる戦争と日本によるその後方支援を肯定している、つまり日本の不戦だけを求めて世界の戦争を肯定しているに等しい。サンフランシスコ講和で占領軍から解放された後も、日本は1970年代にベトナム戦争が終わるまで一貫して米国の重要な軍事拠点であったし、自衛隊も1990年代のペルシャ湾派遣以降は大手を振って国外派兵を行っている。9条があっても戦争に参加してよい、憲法に違反しないという認識は、国会答弁でも明らかにされ、それが覆されたことはない(最新のものは2015年の第189回国会答弁書第175号)。

 アジア太平洋戦争に敗け、国がなくなった時に、「平和」を掲げて憲法を作った人々の考えは、9条を守って日本だけが助かればいいというものではなかった。それは第一に反米感情から生まれ、特にその戦争に対する考え方、強力な兵器の開発に対して、やややけくそのような形で差し向けられたものだった。しかし、これを現実化せしめんとして、鈴木茂三郎社会党左派はサンフランシスコ講和に反対し、鳩山一郎日本民主党は対米自立のための自主憲法を求めたのだった。鈴木以来の「中立」論は、冷戦構造があったからこそ、その間に丸裸で立ったままでも「中立」があり得た。しかし、ソ連の崩壊は、左派が9条を守ると主張する根拠そのものを失わせしめた。その真ん中を実現させる東西のバランスが崩壊した以上、もはや「中立」は何の意味も持たない。他方、鳩山のような対米自主路線は孫の代で完全に潰されたが、それを涙で見送る左派人士はほとんどいなかった。つまり、憲法と国防という観点からでは不戦という議論はもうできない。憲法を守ったとしても、米に社会主義陣営を対置してバランスを取ることができない以上、日本が丸裸ではいられないし、もし日本が丸裸ではいられないとすれば、安保条約に当面依存しなければならない。憲法を変えて自国軍を作ったとすれば、単に戦前への後戻りだ。日本は原発を改造して核爆弾を作り、それをH2Aロケットに乗せてアメリカに打ち込むことができる。国は自立するだろうが、現実の厳しさは増すだろう。憲法を守ろうが守るまいが、一国のことだけを考えていてはもはや不戦は実現しない。

 もっと国際的な視野が必要だろう。軍なくして世界を平和にするためにはどうすべきか。石原莞爾の最終戦争論は、超強大な軍事力の完成がそれを実現すると考えたが、我々には情報を扱う能力があり、星全体を行き来する技術がある。星を殲滅する技術より、人間を納得させ合意させる技術の方が容易ではないか。テロリストはテロリストではなく、国家は国家ではない、それぞれが対等なコミュニティであり、その合議によってさらによい世界を実現するという理想を目指し、もって日本の非武装化、世界の不戦を目指すことができる。戦前のようにそれを神同士の戦いで実現する、神の合一による人類の共存を目指すのではなく、神の共存による人類の合一という境地を目指す。なぜいつまでも19世紀ヨーロッパで生まれたインターナショナルの残滓のようなものを尊崇しなければならないのか。日本から21世紀のそれが生まれてもよいように思うが、そうした動きが生まれ得ないのは、憲法の周りで椅子取りゲームをしていた方が楽しい人々ばかりだからだろう。その間にも人が死んでいく。死なせる前に人々を啓蒙し、生の素晴らしさを謳歌できるような世界にしなければならない。