読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

カウンダの死——中国とアフリカ横断鉄道(タンザン鉄道・ベンゲラ鉄道)

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ザンビアの物流——アフリカ横断鉄道の背景

ザンビア建国の父、ケネス・カウンダ

 今朝(2021年6月8日)、ポッドキャストで英国放送を聴いていたら、ケネス・カウンダの死について報じていた。カウンダはザンビアの初代大統領で、1964年のザンビア独立とともにその座に就き、1990年ごろまで社会主義政策のもと独裁的な国家経営を進める一方、周辺国の独立を後押しした。80年代から銅価格の落下とそれに伴うオランダ病(天然資源輸出依存に伴う国内産業の衰退や国内のインフレ、失業率上昇、財政の不透明化など)の顕在化で国民の不満が高まり、91年に民主化を実行。それに伴う選挙により下野。そのあとも与党となった反対勢力から執拗な弾圧を受け、2000年に政界を引退。大要こんな経歴が、ウィキペディアで紹介されている。(本なら、『ザンビアを知るための55章』が詳しいようだ。)

内陸国ザンビアの輸出ルート

 先だって、ひょんなことからSさんというザンビアから来た知人ができた。彼は交通の専門家なのだが、彼曰くザンビアの交通政策上の課題は、港からの輸送であるという。ザンビア内陸国であるため、海上からの輸入品は隣国タンザニアのインド洋に面した港ダル・エス・サラームに運ばれて、そこからトラックに積まれ、ザンビアまで陸路を行くことになる。首都ルサカまで、距離にして2000キロだ。

 さて、ここで二つの疑問が生じる。一つは、ダル・エス・サラームより近くに港湾を整備できなかったのかということ。もう一つは、陸路なら鉄道の方が輸送効率がよいのではないか、ということだ。

抜けられない南東のジンバブエと東のモザンビーク

 直線距離で行けばもちろん、ジンバブエ経由でモザンビークの海岸に出ると近いように思える。しかし、これは釜山からウランバートル瀋陽へ行くのに北朝鮮を真っ直ぐ突き抜ければ近い、というような話だ。60年代に独立したザンビアと違い、1980年代まで独立戦争と内戦に苦しめられたジンバブエやモザンビークに、十分な貿易港を整備する余裕はなく、またそれだけの需要や経済的ポテンシャルもなかった。

再整備中の南アフリカへのルート

 結局、インド洋側沿岸の南で抜けられる先としては南アフリカのダーバン港が一番近く、こちらもザンビアからは2000キロ近い距離がある。イギリス植民地時代は南アフリカまでを結ぶ鉄道があったが、独立後の反アパルトヘイト、反資本主義による南アフリカとの関係悪化とジンバブエの独立前後の紛争により、このルートは数十年に亘り使えなかった。

 現在ようやく舗装が少しずつ進められている段階で、その一部には日本のODAも使われている。(南北回廊北部区間道路改修計画 | ODA見える化サイト

破壊されたアンゴラへのルート(ベンゲラ鉄道と道路)

 大西洋側はどうか。ザンビアの西隣はアンゴラで、その首都ルアンダから南500キロのところにロビトという大西洋に面した港町がある。ここからザンビアまで陸路が整備されていた。このルートはローデシア時代からザンビアにとって重要な輸出入ルートであった。過去形なのは、それが1975年よりおよそ四半世紀にわたって続いたアンゴラ内戦によって全く破壊されてしまったからだ。

鉄道建設と中国

タンザン鉄道の建設

 さて、ここまで来れば鉄道の話もみやすい。イギリスおよびその支配下にあった南ローデシア南アフリカとの対立とその地域の内戦によって、南方への鉄道ルートは閉ざされた。また、アンゴラ内戦で西へ抜ける鉄道(ベンゲラ鉄道)は破壊された。

 前後して、ザンビアと同じタイミングで独立し、やはり社会主義国家の建設を目指したのが、タンザニアであった。そして、両国の支援役を買って出たのが、中華人民共和国である。このころの中国といえば、建国から20年ほど経ち、大躍進政策の失敗が明らかになった後であった。アフリカ諸国への介入を行なった背景には、西側諸国との対立とソ連との対立が深まる中で、諸外国、特に新興社会主義国との関係深化に取り組んでいたことがあるだろう。それらの国も、国連では同じ一票を持つ。そして党内では、毛沢東文化大革命運動で巻き返しを図っていた頃だ。

 ウィキペディアによれば、口火を切ったのは中国だったとあるが、その前にはタンザニアザンビアが西側諸国に支援を申し入れ、断られていたという。1965年にタンザニア大統領ニエレレが訪中した際に、タンザニアザンビアを結ぶ鉄道建設の提案を受ける。1970年に建設に合意する調印を3カ国で行い、中国が建設して75年に完成、76年に両国へ引き渡された。名前はタンザニアザンビアの中国語表記の頭文字をとってタンザン鉄道(坦賛鉄道)という。

赤字を垂れ流すタンザン鉄道

 この鉄道建設の成功は、その後の中国とアフリカの深い結びつきに先鞭をつけた。ただ、その後の鉄道経営とインフラ維持ができなかった(村上享二「その後のタンザン鉄道 ―中国の関与を中心として―」『国際問題研究所紀要』150号に詳しい)。当初の数年間は稼働したものの、そののち損傷する路盤、走らない機関車、効率の悪い車両運用などさまざまな運用上の困難で、80年代には道路輸送に押され始め、半世紀近くが経ったいまでも莫大な赤字を抱えている状況である。

ベンゲラ鉄道の再建とアフリカ横断鉄道の誕生

 2014年、DRC経由でアンゴラに抜けるベンゲラ鉄道も、中国の支援によって再建された。タンザン鉄道と合わせてインド洋からザンビアを経由して大西洋までが鉄路で結ばれ、2019年にそれを走破する豪華列車が走った時には、アフリカ横断鉄道を中国が建設したと大々的に宣伝された。

 しかし実際は、それを利用する貨物も少なければ、それを運用する十分な体制もできていない。過去のタンザン鉄道と同じ轍を踏まないためには、主力であるザンビアからの銅輸出のための貨物輸送に支障がない程度にはしっかりとした運用体制を築き、維持すること、そしてザンビアからの下り列車だけで折り返しが空荷では儲からないので、上り列車を輸入貨物の運搬にも使えるよう、登坂能力がしっかりとした機関車を導入し、また自動車との競合に鑑みて、海上コンテナや小口荷物を運べるような貨車の操車と荷積みがスムーズにできるようにすることなど、いくつかの課題を乗り越えなければならない。

アフリカ大陸横断鉄道の地図

カウンダ亡き後のザンビアとアフリカ横断鉄道

 それらの課題を克服し、鉄路を維持するためには中国の継続的な支援が欠かせない。しかし、カウンダが率いた社会主義的独裁政党の統一民族独立党はもはや議席を持たず、反中国路線(ゆえに日本へのリップサービスも行う)をとる左派の愛国戦線が近年与党の座を占めている。未だ権威的な社会主義体制によって国家が維持されているが、カウンダ亡き後、なんらかの変化が生じるのかどうか。

 現下の経済不安を背景に、さらに自由主義寄りの国家開発統一党が支持されるようになることにでもなれば、中国との結びつきがますます減退するだろう。その場合、西側諸国(今更この表現もないが)が鉄道支援に力を入れるのでなければ、アフリカ横断鉄道の復活は実のないものとなる。習近平の一帯一路政策で実現したアフリカ横断鉄道、タンザン鉄道とベンゲラ鉄道の未来は、ザンビアの行く末に委ねられている。