読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

坂口ふみ『〈個〉の誕生』読みながらメモ

 

 

 坂口ふみ『〈個〉の誕生』が岩波現代文庫になったので発売当日に買った。読みたかったんだけど文庫じゃないと持ち歩けず、持ち歩けないと読む暇ないので、文庫化はとてもありがたい。ティリッヒ著作集 第3巻 哲学と運命も読みたいけど単行本なので読めてない。

 読んだら期待通りのことが書いてあってウキウキしている。それでちょっと普段考えていることなんかもまぜてTwitterに書き殴った物をここに整理のメモ。

 

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 なぜプラトン古代ギリシャの哲学者たちは執拗に「正しさ」や「善」「美」に固執したのか。それは、それらが世界の安定、自分の立場の確立、ひいては自分の喜び、幸せに結びついていたからだ。今の時代ではちょっと考えにくい。スコットランド啓蒙以降、資本主義社会に生きる人間としては、私悪も公益、正しかろうが間違っていようが儲かれば幸せ、法はルールであり徳ではない。美しさは人それぞれで、違っていることに価値がある。だから、「正しさ」や「善」や「美」が自分の幸せにつながることがわからない。喜びをもたらすことと正しさが結びついているという想念がなければ、そもそも正しさに向かう動機がわからない。正しさが神であり世界の秩序であることの感覚がないと、正しさにより未来をよい方向に操作でき喜びを生み出せるという論理も導けない。

 あるのかないのかという存在論が先にあるのではなく、正しさが先にある、さまざまな正しさの中で、あることの正しさを求めるのが存在論であり認識論であって、存在論や認識論が先立つわけではないような気がする。存在とか認識とかはどうでもよく、自分が喜びを得られる正しさ、良さこそが問題なのだ。神がいて、世界が正しく回っている。この前提があってこそ、正しさを求めることの一端は存在を求めることでもあり、存在を求めることは正しい世界の秩序を知り、それに合わせて自分の幸せな未来を作れることでもあった。哲学が「ある」を問う学問だなんてデカルト以降だけの話だ。哲学はあくまで正しさを(「真」と言ってもいいがそれだとニュアンスが正しく伝わらない)求める学問だ。それも、絶対的普遍的な。

 そこで、正しさは普遍かつ全体から導かれるのだが、その場合自分自身は、その正しさの体現である世界秩序のパーツとして、正しい側に自らを合わせていかなければならない。私は独個の私であってはならず、私は普遍と一体でなければならない。さもなければ「救い」は得られない。

 そうであるはずなのに、個としての私が正しいということ、私が個であることは認められるということは、どうしていえるのか。どうしてそんなことを問題にしてしまったのか。やはりこれは内なるものがあるという経験からしか導けないのか。いや、そうではない。普遍なるものが立ち現れる際に、ではなぜ私は普遍なるものと同一ではないのか、という問題が直ちに生じている。正しくあり、あるいは良くあることで喜びを得て幸せになりたいと思うのに、自分自身は良くあれず、正しくあれない。そのようなあり方のままでどう幸せになれるのか。個である私が正しいとはどういうことか。

 

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 ところで理性と行為の能力ある人間にとって、得るということはすなわち次にすることを予め決めてそれを行うことで自然の一部を自らの意に従わせることだ。この未来操作を可能性に、現在を可能にするのが知であり歴史であろう。これを自己の可能性に引きつけるか、世界の秩序に引きつけるかによって心と物の対立が生まれるが、そのことはここではほとんど問題にならない。これが中世という時代なのだろう。このころ世界を作っていたのはイスラムだったのだから。