読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

宮﨑駿「君たちはどう生きるか」感想殴り書き

君たちはどう生きるか」を観てきた

 

 観た後なのでネタバレ有り。

 

 

 TOHOシネマズで宮﨑駿の「君たちはどう生きるか」を観た。面白かったが展開が早すぎてもっと説明してくれないと頭の回転が追いつかない。何回観たらええんや。

君たちはどう生きるか」はどんな感じか三文で

アニメーションはこれまでのジブリ総決算という感じで、個人的には『もののけ姫』で出てきたような描写が多く出てきたのがよかった。バネや継ぎ目の発する細かい音を再現しているのもすごくよかった。物語は村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』みたいだと思った。

 

吉野源三郎君たちはどう生きるか』との関係

 観た後、たまたま立ち寄った書店で岩波文庫吉野源三郎君たちはどう生きるか』が積まれていたので、思わず買ってしまった。数十年前に読んだきりだが、改めて読むと、解説代わりの丸山の回顧録も含めて感嘆することしきりだった。

 吉野『君たち』を読むと、宮﨑「君たちはどう生きるか」の物語の重要な補助線が一つ理解できる。つまり、主人公の眞人君(かわいいので彼だけ君付けで)が吉野『君たちは』を読んで涙したのはどこだったか、ということだ。シーンを見返すことができないので裏を取っているわけではないが、それはおそらくコペル君が自分の卑小さと誤りに向き合い、それを悔い改めようとして受け容れられた場面であろう。眞人君があの時泣いたのも、そこで自己の誤りというものを認識したからであり、それから新しい継母を受け入れ、新しい家族を生きるべく冒険に出るという決断をしたのであったわけだ。しかし、それを映画の中で説明せず、『君たちは』を読む一瞬のシーンに丸投げしてしまうとは、不親切も大概である。

2回の感情の描写

 「風立ちぬ」の主人公堀もそうだったが、主人公の眞人君は表情が少なく、何を考えているかわからない。わからない以上、周囲のさまざまなものでその感情を説明してくれないと、鑑賞者がそれを汲み取るのは非常に難しい。眞人君の感情の描写は実質的には二回しかない。一回目は、母の妹が妊娠した異母弟の胎動を触らされる時。二回目は、『君たちはどう生きるか』を読んだ時。一回目で継母夏子への拒絶がはっきりする。二回目で、継母夏子との和解を目指すことがはっきりする(ここで「僕はどう生きるか」が既に固まってしまっている)。

 で、それ以降眞人君の方向性が変わらないまま物語が進んでいく結果、最後のシーンがほかのジブリ作品と全く異なっている。最後のシーンでの、積み木世界創造の拒絶と現実回帰のシーンは、ほかのジブリ異世界系の作品なら一番盛り上がるところのはず(特に漫画版『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』はこれが決定的なシーン)なのに、眞人君の場合にはもう絶対拒絶することが明らかなので、大叔父と眞人君との間の話はぜんぜん盛り上がらない。大叔父もそれを既に受け容れている。だからインコ大王がそれをわざわざ壊してコミカルに話を進めてやらなきゃいけない状況になる。まさに、「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」(実際は何度目かわからないが笑)ということだ。

 眞人君は『君たちは』を読んでから物語が終わるまでずっと、夏子との和解だけをほぼ無言で目指している。なのに作中でそれを全然説明しない。これが、この物語が多くの鑑賞者にわかりにくくなっている理由だと思う。眞人君の中で「自己の誤りと向き合って自分の人生を生きること」=「まず夏子さんと和解して共に生きること」という等式が『君たちは』を読んだときに成立した、という前提がわからないと、眞人君はなんで夏子さんをそんなに頑張って探すのだろう、ママが欲しいのか? という解釈になってしまう。というか、『君たちは』を読んでいない人がそういう解釈に流れるように誘導しているのじゃないかと思うぐらいだ。

 君生きバードが眞人君の産みの母親を模造して眞人君に見せるのも、眞人君の感情を揺さぶり、その贖罪の感情をくじけさせてトラウマの方へ引きずろうとするからだが、眞人君はそれをかなりあっさり乗り越える。その先にある夏子さんとの和解という目標が大きいからだ。しかしその目標が大きいものとしてあることを知らないと、なんでそこそんなに簡単に乗り越えられるのか? というモヤモヤが残る。そしてその目標こそ、眞人君が「僕はこう生きる」を獲得するためのステップなのだが、それを『君たちは』を読んで涙するシーンだけで片付けるなんて、なんて不親切なんだ!(二度目) しかし、それは多分、『君たちは』を読め、ということなのだろう。(このあとは、あしたの晩、また書きます。)

 

うめくさ

・眞人君の寝顔かわいすぎる 尊死する

・アレの名前が覚えられない。ざわざわ?ぽよぽよ?ふにふに?

・墓はなんだったん

・父親の扱い。悪徳の体現者のような父親との共存を眞人君が受け入れる、ということが夏子との和解にはセットになっている。父殺ししてないから父親への屈従の問題は解決してないけど、そこは大叔父を乗り越えたからいいのか? それでいいのかパヤヲ?

・最後の戦後のシーン、ぼーっと観てたらすぐ終わり、そこで見てなきゃいけなかった弟を見過ごしてしまった。2回目には必ず……

関東鉄道DD502の思い出

水海道駅1番線に停車するDD502

実家を整理していたら、関東鉄道DD502の写真が出てきた。
日付は2002年10月14日、つまり鉄道の日の写真だ。

 

関鉄の鉄道の日のイベントはだいたい9月末ごろの土日に開催されていて、この日、関鉄では特にイベントがなかったのだが、まだ小学生か中学生ぐらいの僕は、なにを勘違いしたのか父に頼み水海道駅へ行ったのだった。

当然、水海道駅では何も行われておらず、一人の鉄道オタクも鉄道好きの子供も来ていなかった。それどころか、列車を待つ一人の乗客もいなかった。高速バス全盛期で、つくばエクスプレス開業前の、常総線のいつもの風景だった。僕は、ガランとしたホームに立ちすくんだ。

そんな僕を不憫に思った職員の方が、わざわざ車庫からこれ、つまりDD502を引っ張り出してくれて、僕は一人で独占して写真を撮らせてもらったのだった。いまでも僕は、本当にそんなことがあったのか? もともとDD502を水海道まで機回ししてくるダイヤがあったのではないか? と疑る気持ちがあるのだが、しかし僕の記憶ではそういうことである。

もし本当に、予定になかったのにDD502を僕一人のために回してきてくれたのだとすれば、本当に有り難く申し訳ないし、またずいぶん大らかな時代だったのだと思わずにはいられない。当時を知る人もまだ水海道にいるだろうから、真実のほどをきいてみたいものだ。

 

* * *

 

これが入線時の写真だ。水海道2番線から信号場方面をみたものである。今より空が広い感じがする。そういえば、昔は普通列車も信号場で一旦停止していた。

DD502は単機ではなく、2両編成のキハ300形の廃車体を牽いてきた。窓が一部抜けるなど、かなりボロボロだった記憶がある。車番まではわからない。いまも1編成、水海道車両基地の工場2番線のあたりに、さび付いたキハ300形が置いてあるようだが、僕にとっては常総線の象徴のような存在なので、ぜひ何か保存してもらえたらうれしいものだ。

水海道駅1番線に入線するDD502+キハ300

一旦1番線に止まったDD502牽引のキハ300形は、下り方本線へ出て、折り返して水海道駅の留置線へ入った。というのも、後退で走ってきたので、このままだと正面が見えないから、キハ300形を切り離してきて正面が見えるようにしてあげよう、というわけである。なんというサービス精神だろう!

水海道駅の留置線にてDD502+廃車体の300形。ところどころ窓が抜けているのがわかる。

 

キハ300形は留置線で切り離してそこに置きっぱなしにされた。DD502は下り方の本線で折り返して1番線へ戻ってくる。

そして、冒頭の写真だ。これは単なるDD502の写真ではない。僕の記憶が正しければ、機関士さんが僕を運転席に載せてくれたところを、僕の父か誰かが写真に撮ってくれたものである。僕はところが、興奮というか、恐縮と緊張で十分に楽しめなかった。返す返すも惜しい気持ちである。もっと機器類などじっくり眺めて、なんなら写真を撮って、せめてベタベタ触っておけばよかったと思う。

水海道駅1番線のDD502

ここまでの写真を見てもわかるように、水海道駅1番線には誰もいない。それでDD502をここに置いて僕に写真を撮らせてくれているのだから、やはりこれは僕のための、あまりに気前のいい水海道の皆さんのサービスだったとしか考えられない。なんという貴重な経験だろう! いまになってそのことを深く感じ入っても仕方がないのだが。

そうしているうちに、水海道行きの下り列車が駅の手前の停止信号で待ちぼうけを喰らっていたらしい。ダイヤ上にない機関車が1番線を塞いでいたからである。運転士が駅事務室に怒りの無線を入れた。機関車はすぐ動かせないので、駅員は2番線を開通させて到着させた。後ろにはホキと、廃車体のキハ300形が見える。

水海道駅1番線のDD502と2番線の2100形

まだフィルムで撮影していた時代だ。それでもこんなにパシャパシャ撮っていたのだから、やはり相当の興奮があったのだろう。改めて、水海道駅車両基地の皆さんに感謝したい。

 

* * *

 

この経験は、やはり僕に強い印象をもたらしたといえる。

僕は中学生の時の職業体験先として関東鉄道を選んだ。これがまた贅沢な職業体験で、1日は水海道車両基地の見学、1日は新守谷駅の1日駅員体験で、後者には新守谷駅3番線入線ポイント切り替え体験が含まれていた。駅に備え付けられている連動制御盤のスイッチをひねるだけだが、ひねるとポイントが切り替わり、信号が切り替わる。ドキドキの体験だ。朝6時台に4両編成のキハ300形が始発で発車していったこの3番線も、今は廃線となってしまった。つくばエクスプレス開業を数年後に控えた時期で、駅員さんへのインタビューで、せめて守谷までの直流電化はしないのか、とか、TXが開通したら取手まで乗り通す人が減って廃線になってしまうのではないか、とか、まぁ中学生らしい阿呆なことを色々と聞いた記憶がある。

また、「総合」の時間の自由研究でも関東鉄道の乗客サービスを研究した。確か交通バリアフリー法の制定直後だったのだと思う。今でも覚えているが、その時に僕が指摘したのはホームと車両ドアの間の段差の大きさの解消であった。僕の研究とは関係なく、10年後ぐらいにホームのかさ上げが行われた。スロープもついた。

さらに、大学時代に就職活動をやろうとしたとき、僕は密かに関東鉄道に電話を掛けていた。というのも、その年は採用がなかったからである。直接コンタクトを取れば、なにか採用の道があるのではないか、と思ったのだった。電話を取ってくれた女性社員は困った声で、「今はうち採用してないかんねぇ」といい、僕もすごすごと引き下がったのであった。

 

それから10年以上が経った。実家に帰るとき、久々に取手から常総線に乗ったが、乗客の多さに驚いた。取手を発車するときには席が全部埋まっていて、立ち客がちらほらいるほどだ。守谷まで入れ替わりがあるが、しかし守谷へ行く客も乗ってくるので乗客が減るわけでもない。守谷に着いてようやく席が空いたけれども、そこからベビーカーで乗車する人などもいて、この地域の人口増加を思わせた。TXの開通で、関鉄はむしろ利用が底打ちして増加に転じているようだ。

関東鉄道は1両編成で20分に1本、というと非常なローカル線のようだが、20分に1本であればそれほど不便ではない。路線バスと同じようなものだと思えばよいのである。バスより速く、渋滞はないので絶対に遅れず、取手〜水海道間であれば取手か守谷のどちらかには10分以内に出られる。取手から上野、守谷から秋葉原はどちらも40分前後で始発も多い。東京の西側で言えば、所沢駅町田駅までバスで10分のところに住む、というのが、関東鉄道常総線の沿線に住む、というのと同義である。都会の空気に擦れた西側に比べれば、田園都市の趣深い旧北相馬郡の地域の方がよっぽど住みやすいように思う。これは地元びいきであるが。

昔は2両、ラッシュ時は4両編成で、守谷から取手まで30分くらいかかり、昼間は30分近く来ない時間帯もあったように思う。その頃に比べれば、だいぶ便利になった。

 

* * *

 

最後におまけで小絹駅で撮ったキハ300形とキハ310形。前者はもうなく、後者もまもなく引退とのことだが、この二つが僕の関鉄のイメージだった。

小絹駅にて(2002年秋)

 

 

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坂口ふみ『〈個〉の誕生』読みながらメモ

 

 

 坂口ふみ『〈個〉の誕生』が岩波現代文庫になったので発売当日に買った。読みたかったんだけど文庫じゃないと持ち歩けず、持ち歩けないと読む暇ないので、文庫化はとてもありがたい。ティリッヒ著作集 第3巻 哲学と運命も読みたいけど単行本なので読めてない。

 読んだら期待通りのことが書いてあってウキウキしている。それでちょっと普段考えていることなんかもまぜてTwitterに書き殴った物をここに整理のメモ。

 

* * *

 

 なぜプラトン古代ギリシャの哲学者たちは執拗に「正しさ」や「善」「美」に固執したのか。それは、それらが世界の安定、自分の立場の確立、ひいては自分の喜び、幸せに結びついていたからだ。今の時代ではちょっと考えにくい。スコットランド啓蒙以降、資本主義社会に生きる人間としては、私悪も公益、正しかろうが間違っていようが儲かれば幸せ、法はルールであり徳ではない。美しさは人それぞれで、違っていることに価値がある。だから、「正しさ」や「善」や「美」が自分の幸せにつながることがわからない。喜びをもたらすことと正しさが結びついているという想念がなければ、そもそも正しさに向かう動機がわからない。正しさが神であり世界の秩序であることの感覚がないと、正しさにより未来をよい方向に操作でき喜びを生み出せるという論理も導けない。

 あるのかないのかという存在論が先にあるのではなく、正しさが先にある、さまざまな正しさの中で、あることの正しさを求めるのが存在論であり認識論であって、存在論や認識論が先立つわけではないような気がする。存在とか認識とかはどうでもよく、自分が喜びを得られる正しさ、良さこそが問題なのだ。神がいて、世界が正しく回っている。この前提があってこそ、正しさを求めることの一端は存在を求めることでもあり、存在を求めることは正しい世界の秩序を知り、それに合わせて自分の幸せな未来を作れることでもあった。哲学が「ある」を問う学問だなんてデカルト以降だけの話だ。哲学はあくまで正しさを(「真」と言ってもいいがそれだとニュアンスが正しく伝わらない)求める学問だ。それも、絶対的普遍的な。

 そこで、正しさは普遍かつ全体から導かれるのだが、その場合自分自身は、その正しさの体現である世界秩序のパーツとして、正しい側に自らを合わせていかなければならない。私は独個の私であってはならず、私は普遍と一体でなければならない。さもなければ「救い」は得られない。

 そうであるはずなのに、個としての私が正しいということ、私が個であることは認められるということは、どうしていえるのか。どうしてそんなことを問題にしてしまったのか。やはりこれは内なるものがあるという経験からしか導けないのか。いや、そうではない。普遍なるものが立ち現れる際に、ではなぜ私は普遍なるものと同一ではないのか、という問題が直ちに生じている。正しくあり、あるいは良くあることで喜びを得て幸せになりたいと思うのに、自分自身は良くあれず、正しくあれない。そのようなあり方のままでどう幸せになれるのか。個である私が正しいとはどういうことか。

 

* * *

 

 ところで理性と行為の能力ある人間にとって、得るということはすなわち次にすることを予め決めてそれを行うことで自然の一部を自らの意に従わせることだ。この未来操作を可能性に、現在を可能にするのが知であり歴史であろう。これを自己の可能性に引きつけるか、世界の秩序に引きつけるかによって心と物の対立が生まれるが、そのことはここではほとんど問題にならない。これが中世という時代なのだろう。このころ世界を作っていたのはイスラムだったのだから。

雑想(2023.1.15)

 敵地反撃能力を保有し、それを必要に応じて行使する。日本政府はそのような方針を諸外国に通達し、日本語で知らされる前に英語圏でその姿勢を好意的に報道するニュースが出回っている。

 このことに対し、憲法を改正していないにも拘わらず、戦争できる国にしてしまうことは問題だ、という意見を見かけたが、それは誤りだ。現在の憲法は米軍を中心とした占領軍の統治下で作られたもので、米軍の存在抜きには成立し得ないものである。故に、大日本帝国憲法天皇を超えられなかったように、日本国憲法も安保条約を超えられない。1947年に施行された憲法のもとで、1950年には海上保安庁朝鮮戦争海上機雷掃討作戦に参加していること、それが憲法違反であったが占領下だったためとして認められていたことは広く知られている。日本はもとより憲法違反をして戦争できる国であるし、戦後も戦争をしてきた国なのだ。戦後、戦争参加したことがなかったかのような印象を与える言説は誤りであり、その誤った日本史理解は訂正されるべきである。論じるべきは、既に戦争できる国である日本を、どうやって戦争しない国にできるか、ということである。そして現在の憲法は、戦争できる国を実現する憲法であるのだから、今の憲法をいくら論じても、それで戦争しない国になるわけではないのではないか。

 もし憲法を用いて、日本が戦争しない国になりたいのであれば、安保条約を破棄し、独自憲法を制定し、そこに不戦の誓いと、それを実現する高度国防体制の確立、それを実現する経済制度および徴兵制が書き込まれている必要がある。自主憲法国防軍を求める運動の方が、よっぽど戦争反対の立場に近い。米軍なしには成立し得ない憲法、特にその第9条を守ろうとする人々は、アメリカによる戦争と日本によるその後方支援を肯定している、つまり日本の不戦だけを求めて世界の戦争を肯定しているに等しい。サンフランシスコ講和で占領軍から解放された後も、日本は1970年代にベトナム戦争が終わるまで一貫して米国の重要な軍事拠点であったし、自衛隊も1990年代のペルシャ湾派遣以降は大手を振って国外派兵を行っている。9条があっても戦争に参加してよい、憲法に違反しないという認識は、国会答弁でも明らかにされ、それが覆されたことはない(最新のものは2015年の第189回国会答弁書第175号)。

 アジア太平洋戦争に敗け、国がなくなった時に、「平和」を掲げて憲法を作った人々の考えは、9条を守って日本だけが助かればいいというものではなかった。それは第一に反米感情から生まれ、特にその戦争に対する考え方、強力な兵器の開発に対して、やややけくそのような形で差し向けられたものだった。しかし、これを現実化せしめんとして、鈴木茂三郎社会党左派はサンフランシスコ講和に反対し、鳩山一郎日本民主党は対米自立のための自主憲法を求めたのだった。鈴木以来の「中立」論は、冷戦構造があったからこそ、その間に丸裸で立ったままでも「中立」があり得た。しかし、ソ連の崩壊は、左派が9条を守ると主張する根拠そのものを失わせしめた。その真ん中を実現させる東西のバランスが崩壊した以上、もはや「中立」は何の意味も持たない。他方、鳩山のような対米自主路線は孫の代で完全に潰されたが、それを涙で見送る左派人士はほとんどいなかった。つまり、憲法と国防という観点からでは不戦という議論はもうできない。憲法を守ったとしても、米に社会主義陣営を対置してバランスを取ることができない以上、日本が丸裸ではいられないし、もし日本が丸裸ではいられないとすれば、安保条約に当面依存しなければならない。憲法を変えて自国軍を作ったとすれば、単に戦前への後戻りだ。日本は原発を改造して核爆弾を作り、それをH2Aロケットに乗せてアメリカに打ち込むことができる。国は自立するだろうが、現実の厳しさは増すだろう。憲法を守ろうが守るまいが、一国のことだけを考えていてはもはや不戦は実現しない。

 もっと国際的な視野が必要だろう。軍なくして世界を平和にするためにはどうすべきか。石原莞爾の最終戦争論は、超強大な軍事力の完成がそれを実現すると考えたが、我々には情報を扱う能力があり、星全体を行き来する技術がある。星を殲滅する技術より、人間を納得させ合意させる技術の方が容易ではないか。テロリストはテロリストではなく、国家は国家ではない、それぞれが対等なコミュニティであり、その合議によってさらによい世界を実現するという理想を目指し、もって日本の非武装化、世界の不戦を目指すことができる。戦前のようにそれを神同士の戦いで実現する、神の合一による人類の共存を目指すのではなく、神の共存による人類の合一という境地を目指す。なぜいつまでも19世紀ヨーロッパで生まれたインターナショナルの残滓のようなものを尊崇しなければならないのか。日本から21世紀のそれが生まれてもよいように思うが、そうした動きが生まれ得ないのは、憲法の周りで椅子取りゲームをしていた方が楽しい人々ばかりだからだろう。その間にも人が死んでいく。死なせる前に人々を啓蒙し、生の素晴らしさを謳歌できるような世界にしなければならない。

2022年の振り返りと2023年の抱負

2022年12月中旬に供用開始されたJR武蔵小杉駅3番線プラットフォーム

 昨年末に「2021年の振り返りと2022年の抱負 - 読んだ木」を書いてから、一年が経った。今年も同じように、昨年の振り返りをして、今年の見通しを立てていきたい。

2022年の振り返り

 まず2022年の振り返りから。「2021年の振り返り〜」では「〔2021年〕9月末に緊急事態宣言が解除されたあたりから子供も普通に保育園へ行けるようになり、そのおかげで僕は急激に忙しくなることができた。〔……〕今年は終夜運転もあるらしく、徐々に平常の生活が戻ってきているようだ」と書いて、2022年にはコロナ禍が終わり、ある程度平常通りに仕事ができているという見通しを立てていた。

 ところがどうだろう。年明け1月から3月まで子供たちが保育園へまともに登園できた日はほとんどなく(「今、子育て世帯がどのように苦しんでいるか」2022.2.19)、ようやく感染が落ち着いてきたと思った6月に一家でコロナ感染しておよそ1ヶ月を棒に振った(「新型コロナ感染、40度発熱」2022.6.22)。2022年の前半はコロナと共に過ぎた。

 コロナ感染から快復した7月に、新たに子供が産まれた。出産立ち会いはできず、さらに保育園が学級閉鎖になるというダブルパンチを食らった(「コロナは続くよどこまでも」2022.8.9)が、これをなんとか乗り越え、9月から12月まではかなり頑張って働いた。2022年の仕事上の成果は、年の最後の三分の一の期間で出したものだけと言っても過言ではない。それまでの期間が何もできなすぎた。

2023年の抱負

 もうコロナはいい。勘弁して欲しい。この2022年の最後の4ヶ月間、せめてこの状態が続いて欲しい。仕事をしたい。

 ただ、困ったことに今度は仕事がない。2020-2022年の間の成果がその次の職に直結しており、この間の成果は最後の4ヶ月間を除いてコロナ禍で完全に終わっていたので、次の職に就けなかった。今年1年間、正確には来年度の1年間は、僕は実質フリーターである。フルタイムで働いて、年収200万円くらいを見込んでいる。ほぼ最低賃金だ。そんなことってある?と自分でも思うが、現実は厳しいので仕方がない。

 抱負としては、有り体にいって時間も金もない状態になるので、できるだけ頑張らないこと。金がない時に頑張ると金がなくなったり報われなさに絶望したりして潰れてしまうので、頑張ってはいけない。頑張らない状態で、コツコツと足場固めをする。これである。挑戦とか飛躍とかをしない。とにかく足場を固める。貧乏になるとムーンショットとか言い始めるのは最もいけないことだ。そういうことはめちゃめちゃいけてる時にやるべきで、自由のきかない貧乏な時は、とにかく奇をてらわず基礎を大事にして、確実に成果の出るスモールサクセスを積み重ねることが定石である。

 頑張らず、足場を固める。これは今年に限らず僕の基本スタンスで、じゃあいつ挑戦し飛躍するのか、という疑問が生まれるが、そういうのはチャンスが転がり込んできた時にやるのだ。チャンスというのは、毎年くるレベルのものもあれば、10年に一回のもの、人生に一回のものもある。自分から派手に動いても、チャンスというのはそうそうやってくるものではない。むしろ、ある時突如現れる貴重なチャンスをしっかりとつかみ取るべく、日頃から準備ができているかどうか。これが人の人生を分ける、ある種の岐路になっているように僕には思える。その結果、チャンスがめぐってくることなく終わる人生でも、それはそれでいい。所詮一度しかない人生だ。見果てぬ夢をみたい。

 

 

(特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと」に参加しました)

東急バス渋43系統は便利なのか?

11月1日の開業を控えて設置された高輪ゲートウェイ駅バス停(東急バス)。仮設バス停と変わらない簡易な設置だ。

 

渋43系統 渋谷駅〜品川駅経由高輪ゲートウェイ駅 爆誕ッ!

 どこでもそんな情報を見たことがなかったのでびっくりしたのだが、東急バス渋43系統高輪ゲートウェイ駅〜品川駅〜新馬場駅〜大崎駅〜大鳥神社中目黒駅〜渋谷駅というバス路線が2022年11月1日(火)に運行開始するらしい。担当営業所は目黒営業所だ。

▲運行開始を知らせるチラシ

www.tokyubus.co.jp

▲公式のお知らせ

 

 渋43系統は高輪ゲートウェイ駅を発着する初めての路線バスになる。並行する第一京浜には都バスとちぃばす富士急行)が走っているが、東98でやや離れた桜田通りを走っている東急バスがしかも新系統を作って先に乗り入れることになるとは。

 

路線概要

運行頻度

 平日は朝晩(6-9時台、16-20時台)のみ、基本は渋谷駅〜高輪ゲートウェイ駅で、夜の一部入庫運用が清水行き、本数は1時間に4本程度。

 休日は9-19時台の運行で、1時間に3本程度の運行。平日と同じく基本は渋谷駅〜高輪ゲートウェイ駅で、夜の一部入庫運用が清水行きとなる。

 

transfer.navitime.biz

 

運行経路

 渋43の経路は、渋谷駅〜新馬場駅前までは渋41(渋谷駅〜大井町駅)と同じく、山の手通りを南北に結ぶ。

 渋41は新馬場駅前にある北品川二丁目交差点で第一京浜を右折して南下するが、渋43はこれを左折して第一京浜を北上する。

 新馬場駅前から品川駅までは品94と同じで、途中停留所は北品川のみである。都バスの八ツ山橋や、港区コミュニティバスちぃばすの高輪四丁目などには停車しない。

 品川駅の次はノンストップで高輪ゲートウェイ駅に着く。その間にある高輪北町や泉岳寺前など、都バスのバス停には停留所が設置されない。

停留所と乗り換え情報

 

渋43系統を便利に使う

 渋43系統が高輪ゲートウェイまで行くのは、利便性というよりも、免許を先取りして、高輪ゲートウェイが発展した時にそこに乗り入れるための免許維持路線という意味合いが大きいように思える。後に書くように、高輪〜品川間は港区の南端で住民が多く、競合する路線もバス・鉄道ともに多くある。まだ更地の高輪ゲートウェイ駅前にあえて乗り入れるのは、他社より先に路線を押さえないと、不要路線として免許が下りない可能性もあるからだろう。それゆえ、当初は高輪ゲートウェイ〜品川駅間はほとんど使われないことも考えられる。

 とはいえ、沿線住民にとっても、これまでの渋41が品川・高輪方面へと路線を延ばすことによるメリットは少なくない。

山手通り沿いに住んでいる人々にとってのメリット

 渋43のメリットは、目黒川西岸の山手通り沿いの住民が、河岸段丘を登って山手線の駅まで行かなくても品川に出られるという一点が非常に大きい。品川駅に出られれば、新幹線に乗れる。京急も普通ではなく快特に乗ることができるし、品川駅周辺のオフィスや商業施設にいけるようになる。渋41の終点大井町駅前に比べれば、品川駅の魅力は一目瞭然だ。

 

 渋43系統の主なバス停から品川駅・高輪ゲートウェイ駅までの大まかな所要時間は次の通り。

 山手通りや目黒川から山手線の駅まで歩いて行くのにどこでも10分程度かかること、あるいは一駅だけ私鉄に乗って山手線に乗り換えるコストを考えれば、中目黒や大鳥神社からでも、恵比寿駅や目黒駅に行かずに東急バスで品川に出る、という選択肢が有力になってくる。

 また、到着地が高輪ゲートウェイであることで、港区のより東側へのアクセスが容易になる。大鳥神社前からルートが近似している、同じ東急バスの東98系統と比較してみよう。同じ高輪方面でも、桜田通り沿いなら東98、第一京浜沿いなら渋43という使い分けが考えられる。

  • 運行頻度
    • 東98→平日朝ラッシュ時は1時間6本、他は1時間2-3本
    • 渋43→平日は朝晩のみ1時間4本、休日は日中1時間3本
  • 所要時間

 新馬場あたりまで南下してきても、渋43をあえて使うケースがあり得るかもしれない。新馬場駅近辺から高輪方面へ、東急バス渋43系統と都バス品93系統、京急線の三つを比較してみよう。

  • 東急バス 渋43 新馬場駅前→高輪ゲートウェイ
    • 所要時間:10分
    • 運賃:220円
    • 乗り換えなし
  • 都バス 品93 北品川二丁目→高輪警察署
    • 所要時間:15分
    • 運賃:210円
    • 乗り換えなし
  • 京急線 新馬場→泉岳寺
    • 所要時間:10分
    • 運賃:136円
    • 乗り換え:品川駅同一ホーム乗換

 品93だと品川駅高輪口から左折してざくろ坂をあがってしまうので、高輪台側に行く時はいいが、第一京浜沿いに行くには長い坂を下りなければならない。京急は便利なようだが、普通電車はほとんど品川駅止まりで乗り換えが必要、しかも泉岳寺駅にはホームから改札階に上がるエスカレーターもエレベーターもなく非常に不便だ。第一京浜沿いに行くなら、時間が合えば渋43が有力な候補になりうる。

 

高輪・三田周辺に住んでいる人々にとってのメリット

 港区の高輪や三田周辺に住んでいる人々にとっては、高輪から山手通り沿いの中目黒や大橋に一本で行けることは、案外大きなメリットとなるかもしれない。

 高輪ゲートウェイから中目黒までを例として考えてみる。

  • 東急バス 渋43
    • 所要時間:35分
    • 運賃:220円
    • 乗り換えなし階段なし、しかも始発
  • 電車 山手線・東京メトロ日比谷線
    • 所要時間:25分
    • 運賃:336円
    • 乗り換えあり、階段あり

 高輪一丁目の伊皿子坂、高輪北町あたりから、目黒川沿いの中目黒や池尻大橋に行く際、特に子連れや身体の自由が余りきかない場合など、バスの方が便利で安いということになるだろう。バスは地上から乗れるので、10分程度の所要時間の違いは帳消しになりうる。

 さらに、白金高輪から中目黒というルートも、場合によっては高輪ゲートウェイからの方がよいということになるかもしれない。

 行き先が中目黒や池尻大橋なら、これまで10分15分かけて白金高輪駅まで歩いて行っていた高輪1丁目や三田3、4丁目あたりの人々も、あえて高輪ゲートウェイ駅に行き、渋43を利用するメリットがある。惜しむらくは、そのあたりのマンションにひしめく膨大な居住者が使えるバス停が、高輪ゲートウェイ駅停留所しかないことだ。

 東急バスはこの路線を単に免許のための線にせず、いま都バスが設置している泉岳寺前と高輪北町バス停(品川・大鳥神社方面のみ)にバス停を設置し、乗客を拾った方が得である。

 第一京浜にある両停留所の南行きは都バス反96系統の御殿山・五反田方面行きしか使っていない。バス停を共用にしてもそれほど運行がバッティングすることはなく、また都バスとの共用は隣の桜田通りの東98系統でもやっており実績がある。あるいは、既存バス停の隣に作るのでもよいだろう。今後の利用状況をにらみつつではあるだろうが、利便性が向上していくことを願いたい。

 

余談

 神奈川東部方面線(相鉄・東急直通線)の開通も近い。これが開通すると、南北線三田線も新横浜・相鉄沿線まで直通する。東急としては、現在は山手線西側に展開している交通を含めた自社サービスを、港区の南側の高輪、白金地域にも広げていく魂胆があるのだろう。このバス路線は、高輪地区住民に東急の存在をより強く印象づけるためのブランド戦略の側面もあるように感じる。今後、白金高輪駅から品川駅までの東京メトロ新線も建設される。いつかは、現在東京メトロと都営の共用になっている地下鉄の白金高輪〜目黒間を東急が買収して、白金高輪以西が東急目黒線となる日が来るかもしれない(これは単に妄想である)。

 

 

 品川駅から高輪にかけてといえばこの小説。

 

 

駅名と言語

2015年から運行休止中の静内駅。2021年に廃線となった(2018.10.7撮影)

 鉄道の日なので、2020年の鉄道の日facebookに書いたことでもアップしておこう。

 

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 全くどうでもいい話だが、JR北海道留萌線に「マップ」駅というのがある。「真布」駅と書く。

残念ながら地図・GIS研究の界隈では知られておらず、いまだに聖地化されていない(聖地化されても行く人はいないだろう)。アイヌ語の地名の一部が切り取られた呼称で意味は判明ではないが、「〜にあるもの」というほどの言葉である。

 留萌線は2016年に留萌〜増毛間が廃止されたが、この駅を含む区間も今年8月に沿線自治体が廃線に合意しており、廃駅になる日は近い。(※追記:2020年にこう書いたが、2022年のいまもなんとか存続しており、来年には必ず廃線になるようである)


 さらにニッチな話だが、アイヌ語の口頭伝承をできる人がいなくなってきているので、AIにそれを代替させるという話がある。

 ところで、北海道の地名はアイヌ語に漢字を当てたものが多く、それが駅名にもなっている(この真布駅もそうだ)。近年中国語圏からの観光客が多いので、JR北海道は中国語でも案内放送を行なっているが、その際に、駅名の漢字をそのまま中国語読みしている。例えば真布駅は「チェンブ」となる。

 これでは元のアイヌ語が影も形もない。せめて地名の音くらい伝承できるように、拼音が適合する漢字を新たに当てるなど、中国語表記を工夫することが望ましいが、その場合異なる漢字が併記されることとなり、混乱を招く。

 この際、日本語の地名は別として、アイヌ語発音の地名の日本語表記は全部カタカナにして、中国語のみ漢字表記を用いればよいとも思うが、それだと日本語表記のアイヌ語に慣れ親しんだ人々のアイデンティティを崩すことにもなるので難しい。


 稚内では樺太(サハリン)からのフェリーが来るので道路表記がロシア語のキリル文字併記となっているが、アイヌ語の日英中露併記となれば、満洲国を彷彿とさせるものがある(例えば新京駅は漢字、英字、キリル文字併記だった)。東京も日英中韓併記がスタンダードになってきたから、多言語表示に違和感はあるまい。とはいえ、わざわざそのようなことをやろうとする人もいないだろうが。(※追記:2018年には稚内コルサコフ間を結ぶ国際フェリーが運航していたが、2019年以降再び運行が停止している)