前の記事でビリー・ジョエルのピアノ・マンについて触れたんだけど(沈丁花 - 読んだ木)、彼の歌で好きなのは、マイ・ライフ。
このブログに、その時代的な雰囲気を踏まえたすごくいい対訳があるので貼っておくね。
lyriclist.mrshll129.com
なんていうのかな、自分の人生にいろいろ言ってくる人いるし、しかも善意で心配して言ってくる人いるけど、僕の人生なんだから口出すなっていうのをここまではっきり歌ってくれるとスカッとするというか。この歌詞最初に読んだ時に、親か親戚に言われてんのかと思ったけど、この訳見ると昔の友達って設定なんだね。まぁ似たようなものか。
ビリー・ジョエルじゃないけど、同じような状況で、いや、おまえは自分の道を信じて頑張れよ、いつか田舎のママンもわかってくれるさって励ましてくれる、この歌も好き。
ノリがたまらないよね、すごく元気出る。現実にもこんな感じでぐっと背中を押してくれる人がいたらいいのだけれど……笑
話を戻して、マイ・ライフは東海岸を捨てて西海岸のロサンゼルスに行った人の話だけど、東海岸は東海岸で大変だった。衰退する鉄鋼業の街で荒む若者の心を歌ったアレンタウンも味わい深い。
歌詞は、このブログに対訳があるのでご紹介。
neverendingmusic.blog.jp
ここに歌われている70-80年代のアレンタウンの状況は、日本でいえば室蘭のたどったようなものだ。ここに住む人々は代々アメリカの産業発展の恩恵を享受してきた。製鉄業で栄え、歌の中にもあるように、第二次世界大戦に従軍して日本を打破し、悠々と凱旋した。しかし、当時の若者たちには、もう産業もなにも残っていなかった。街を出ていくしかなかったが、残らざるを得ないものたちには、苦しい経済状況の中を生き抜くための相応の覚悟が必要であった。
こういう、同時代のアメリカを反映しつつ人生の不如意さを歌った歌は、ビリー自身の経験に即していたらしい。ナチスに追われてアメリカに移住したユダヤ人のもとに生まれたビリーは、中流階級だったが真面目な勉学のコースは取らず、真面目なミュージシャンの道を突き進んで、それこそピアノ・マンのようにバーでピアニストをやっていた。鳴かず飛ばずだったが、マイ・ライフの主人公と同じくロサンゼルス移住後にリリースした1973年のアルバム『ピアノ・マン』のヒットが彼を表舞台に押し出したのだった。
彼もまた、1940年代生まれのミュージシャンである(1940年代生まれの音楽家たち - 読んだ木)。49年生まれだから、73年にヒットしたときはまだ若い24歳か。前の記事にも書いたかもしれないが、彼が生まれたロングアイランドは、ラフマニノフが晩年、作曲をやっていた場所でもある。
今のパートナーと婚姻するずっと前、出会った頃にビリー・ジョエルのリサイタルが日本であって、2人で行こうかという話になったことがある。ただ、その時はなんでだったか、多分忙しかったのだろう、行かずじまいで、結局一度もビリーの歌声を生で聴いたことはない。もうさすがに、日本に来ることはないかもしれないな。1940年代生まれのアーティストの話になると、いつもこういう締めくくりになってしまう。会いたい人には会える時に会っておかねば、短い人生はあっという間に過ぎて、全て幻のままに了ってしまう。