読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

新型コロナ感染、40度発熱

自治体から届いた自宅療養セット

 

発症の経過

発症から-1日

 金曜日、上の子が38度の熱を出して保育園を早退してきた。当時、保育園ではRSウィルスが流行っていて、下の子も軽く上気道炎様の症状が出ていたので、それが移ったのだろうと軽く考えていた。

発症から0日

 土曜日になっても上の子の熱は38度台を推移していたが、夜には37度台まで落ち着いてきた。夕方、子供のために蜂蜜と大根を買ってきて大根飴を仕込む。妻も咳と鼻水の症状が出始めた。どうも、僕自身まで喉が変な気がしてきた。大根飴を舐めて寝る。そしたら今度は、その日の夜から僕も熱が出始めた。

発症から1日

 日曜の朝。子供は熱が下がったので病院へ連れて行きたいが、今日はかかりつけ医は休み。一方、僕は体温を測ると38度。非常にだるい。改源を飲み始める。1包にアセトアミノフェンが300mgも入っていて、気つけのためか無水カフェインも入っている、漢方なんだかなんなんだかよくわからない解熱鎮痛剤である。その日は関節痛も強く、倦怠感と寒気と暑さに繰り返し襲われるような感覚で布団から動けず、昼には40度に達し、昼過ぎには最高40.5度に到達した。これは前にアデノウイルスに罹った時よりも高い、物心ついてから最高の発熱だと思う。気分は最悪だ。夜になっても39度あり、全然熱が引かない。

発症から2日

 月曜の朝。子供は咳がひどく、保育園を休ませて病院へ行きRSウィルスの検査をするが陰性、PCR検査をする。この時になっても、僕はこれをRSウィルスだと考えていた。僕の熱は38度台まで下がる。ふらふらするがなんとか身体も動く。昼頃には37度台まで下がったので、近所の内科に行くと、喉が真っ赤だ、これはウィルスではなく細菌性の風邪ですね、と言われ、特に検査もなく抗生物質とロキソプロフェン(と一緒に出される胃薬)とカルボシステイン(このサワイのジェネリックカルボシステインを僕は大人用ムコダインと呼んでいる)、咳止めが出された。僕は素直なので、医者の言うことを信じた。おそらく溶連菌か何かなのだろう。熱は下がったがだるさが取れず、この日も1日横臥して過ごす。家族が一人PCR検査をしたということで、上の子だけでなく下の子も保育園を早退させる。

発症から3日

 火曜の朝。僕の熱自体は大体下がった。しかし、子供のPCRの検査結果が陽性だ、という電話がかかってくる。上の子は陽性、僕と妻は検査、下の子は症状がないのでひとまず濃厚接触者として、全員自宅療養。上の子は発症から4日、僕は発症から3日経っている。妻も咳と鼻水に悩まされている。下の子だけ元気。

発症から4〜8日

 水曜から週末まで、陽性になった上の子と僕、妻は咳と鼻水に悩まされる。加えて、上の子と親たちの発症から丸1週間経った2週目の土曜になって下の子が発熱。ずっと家にいるので、家族からコロナ感染した以外に考えられる風邪の感染経路はない。月曜日にPCR検査を予約。

 自宅待機辛い、などと考えたのは昔の話、もはや何も感じない。ただ仕事をしないで子供といる。それだけである。自分の評価とか収入とか、もはやどうでもいい。これは運命である。自分の人生などどうでもいい、意味のないものだ。昔からわかっていたことではないか。ただ座して死を待つだけである。そういう諦念に達すれば、子供に八つ当たりすることもなく、ただただ日々をやり過ごすことができる。

発症から9〜11日

 上の子は3週目の月曜(金曜発症、発症から10日)が自宅療養最終日、親二人は3週目の火曜(土曜発症、発症から10日)が自宅療養最終日で、水曜から上の子は保育園、親は下の子の面倒をみつつようやく活動開始。

 上の子が先々週の金曜日に早退してから12日が経過した。久々に家を出たが、外が怖い。人も怖いし動きのあるものはみんな怖い。感染したことで、本当はもう感染のリスクがぐんと下がっているはずなのに、感染への恐怖というのが逆に増えてしまっている。

発症から12〜18日

 3週目の月曜日に検査した下の子は発症した2週目の土曜起点で計算され、4週目の火曜日まで自宅療養である。他の家族は全員陽性になったので、下の子以外は行動制限はない。とはいえ保育園に行けなければ誰かが見ていなくてはいけないので、代わる代わる親が家にいるしかない。

 

ワクチンの効果

 結果、1週目の金曜から4週目の火曜まで、19日間の行動制限を受けることになった。ワクチン3回も打って40度の熱が出て3週間近く座敷牢とは、全く参ってしまう(ただ、3回目のワクチンの発症回避効果は、発症する人のうち2/3程度である)。今回の発症に限って言えばワクチンの効果はなかったといっていいが、しかしここまで発症せずにやってこれたのは、ワクチンのおかげということもあるだろう。

 

yondaki.hatenadiary.jp

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子育て世帯はコロナで多くを失い、それらを取り返すことはできない

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 2020年の春からもう丸2年以上経ったのに、まだまだコロナに悩まされる日々は続く。子供がいなければこれほど大変ではなかったのだろうが、まぁ仕方がない。独身や子供のいない人たちと同じ土俵で仕事で戦うことはできず、ゆえに仕事量の差が流石に色々なところに表出してきておりうんざりするが、これがこの国で子供を育てるということだ。子供に対する政策支援がなされると、独身税だという揶揄が飛び交うが、その独身の人自身、子供時代にはそういった政策の恩恵を受けているのであって、子供向けの政策はあくまで子供のためのものである。子育てする親は、子供を持っていない人に比べれば自己の収入から時間からあらゆるものを限りなく犠牲にして子供に捧げているのであって、多少の子供向け政策が子供の属する世帯を経由するからといって、それは親が独身のように身軽になることを全く意味しない。誰しも子供時代、自らはほとんど全く納税せずにさまざまな政策的恩恵を受けて来たのだから、自分が大人になってそれを納税で返す筋こそあれ、それを批判して子供のための政策の条件を厳しくしようという筋合いはなかろう。ただでさえ格差が広がっているこの社会で、子供を育てることの厳しさが普遍的に共有されず、国を通じた老幼の支援が不平等だというなら、実際誰が子供を育てようか。誰も育てないだろう、ということになっているのが、現在の少子化の状況である。どうにも致し方がない。

原発の大艦巨砲主義が招いた電力不足

2011年9月、飯館村

 当事者でなくても理解し、継承していかなければならないのが歴史の記憶であり、歴史から得られた教訓である。このことは、相当の刹那主義者でもない限り、誰もが承知することだろう。温故知新、過去の蓄積からの学習があってこそ、一部地域に限られるとはいえ現在の我々の平和、安全の生活の実現がある。

 しかし、歴史的記憶の継承の度合い、あるいはその教訓を重視する度合いというのは、経験の差、あるいは誰かの経験が生じた地点からの距離といったものに応じて、変わってくる。例えば、日本における太平洋戦争の記憶と言っても、それは陸上戦を経験した沖縄とそれ以外の地域では全くその継承の内容と質が異なる(現状の差がまさにその歴史的事象の差に起因することは言うまでもない)。本土に限っても、空爆を経験した都市部と農村では異なる。遡れば戊辰戦争の記憶は会津西南戦争の記憶は鹿児島で脈々と息づいているが、その他の地域ではほとんど記憶されていないだろう。
 まだ記憶している人物が多いであろう阪神淡路大震災についても、関西圏ではまだ継承されているが、それ以外の地域ではもう過去の話となっている。東日本大震災の記憶は、未だ新しいとはいえ、やはり東北・関東圏以外では過去の話である。福島第一原発事故も同様である。飯館村南相馬市の当時の状況を経験し、また現状を見れば、地震が起きるような地域で、地上に発電設備をさらすような形で原発を稼働するというのは、やや信じ難い暴挙であるように思われる。しかし、多くの人は事故の被災地を見たこともなければ、福島に行ったこともない。この歴史的経験、記憶を継承するのは簡単ではない。

 さらに問題なのは、新聞社のようなところに勤めている全く不勉強な若い記者などが、話題にして儲けるためか政治的意図があるのか知らないが、そうした経験、記憶を無視して知ったようなことを書き、人々を惑わせることである。新聞というのはえてしてそういうものだ、と言えばそれまでだが、それにより第二第三の悲劇が起きた時、果たして発言の責任を取れるのか。過去の素晴らしい記者たちの威光に縋って、責任を取らない気軽な立場で、特に勉強もせず適当なことを言う現在の記者たちは、将来的にはそのメディアの破綻という形で責任を取るのだろうが、しかしそれによる災禍は小さくなく、人の命や暮らしに関わることだ。目先の反響を追わず、発信者としての責任として、人の命や暮らしに向き合って、自らの能力が許す限り誠実なことを書こうとするのが、記者の在り方であってほしい。

 

* * *

 

 原子力発電所の事故を経験した国として、我が国の原子力政策は二つの方向を並行してとるべきであった。一つは当然ながら、原子力に依存しないエネルギー戦略である。もう一つは、壊れても被害が最小限にとどまるような原子力発電設備の開発である。

 しかし政府は、まず既存の原子力産業を維持する方向をとった。国内の原子力発電所は丸々温存され、国は再稼働の方針を取り続けた。しかし、アベノミクスの看板政策にまでした原子力発電所の海外へのプロモーションは完全に失敗し、原子力メーカーは膨大な赤字を計上することになる。当然の結果として、原子力に依存しないエネルギー戦略に舵を切ることはできないまま、再エネ関連産業ははじめドイツ、その後中国や韓国、台湾といった日本以外の東アジア諸国が総取りの形となり、太陽光発電、電気自動車、蓄電池など、20世紀までは日本が先行していた産業分野が国内では全て潰れ、工場や技術が海外へ持っていかれることになってしまった。

 壊れても被害が最小限にとどまるような原子力発電設備の開発については、小型原発という形でビル・ゲイツも意欲的に取り組んでいることで知られる。日本はどうすれば原発が致命的に壊れるのか、壊れたらどういう事態が発生するのか、ということについて豊富な知見を手に入れたのだから、これをそうした壊れても大丈夫な小型原発の開発へと活用することは、強力な技術的優位を手に入れることにつながる。しかしこれは、市場として見ると再エネの技術開発と食い合うことになる。再エネ政策は対原発、あるいは反原発の文脈で出てきているので、そこに原発を入れると人々の理解を得られにくい。しかし既存の原発政策は大型原発の運用を中心とし、もんじゅなどむしろ大型でさらに技術的にも高いハードルにチャレンジしようとしていたため、ここに小型原発を入れることも難しい。結果的に、既存技術をベースとした安全性の高い原発の技術開発という方向性に舵を切ることができず、いわば原発大艦巨砲主義を貫いてしまったのである。

 そうしているうちに、もんじゅは廃止が決まってしまい、既存原発の整理は進まず、再エネは技術も市場も頭打ち、系統の調整力もどっちつかずで整備できないまま、電力不足の危機という最悪の事態を迎え、エネルギー政策全体が座礁することになってしまった。なぜ日本は、いつも敗戦濃厚になった時に撤退できないのだ、と叫びたくなる気持ちである。こうなることは、電力産業に携わっている人間なら、2011年にわかっていたことではないか。どこかで原発大艦巨砲主義を転換できていれば、再エネ産業の成長か、安全性の高い小型原発の開発か、あるいは系統調整力としての蓄電池導入か、どれかは達成できていたはずだ。そして、どれかひとつだけ達成できていれば、現在の電力不足の危機などは招来されなかったのではないか。

 

* * *

 

 再エネは原発に頭を抑えられ、原発は改良されずに動かせなくなり、系統は電源が分散型か集中型か決まらないのでコストの大きい調整力を導入できず、現在のエネルギー政策は三すくみの状態である。そしてそれは、エネ庁の中で、電力・ガス事業部と省エネルギー・新エネルギー部との睨み合いと、その間に挟まれている系統事業者である大手電力との三すくみである。電ガ部はメーカーと組んで政治家にロビイングして原子力を維持し、省新部は脱原発をチラつかせながら新興企業と組んで予算取り、系統事業者はその結果を受けてほどほどに設備投資をし、ほどほどに発電事業者を制限する、という構図になっている。しかし、この三すくみではもうたちいかない、全国的な電力不足になってしまいそうだ、まずいぞ、というのが現在である。

 そこでどういうことが起きているか。原発大艦巨砲主義を選択するか、分散型の電力システムを選択するか、という人命と国家を人質に取った大バトルである。

 電事連がやっているのは露骨な原発大艦巨砲主義の推進で、でかい原発がドーンと立ってないとやっていけませんよ、というアピールである。新聞、CM、あらゆるものを総動員しており、原発動いてないのによくそんな金があるなと感心しきりだが、これを選択するなら原発立地自治体は腹を括らなければいけないし、次の原発事故が起きたらその電力を使っていた人々は、自分はその危険性を知らなかった、騙されたで済まされない。我々は「安全神話」に一度騙されているのである。同じように平地にカプセル建てただけの原子力発電所を使って壊れたら、そりゃ壊れるの知ってたでしょ、ということになる。

 分散型の連中は分が悪い。国や政治家と強いパイプがあるわけではないので、そんなにプロモーションするようなお金はない。これまでなかった分散型の電力システムを、高い調整力、蓄電池や揚水発電、なんなら火力を絡めて推進します、ということでこれは分かりにくい。再エネのために火力を動かすのでは本末転倒だ、と批判されるだろう。また、分散型の系統運用が本当にうまくできるのか、当人たちも半信半疑である。また逆に、原発大艦巨砲主義になっても、その周辺で細々とビジネスを進めていくことができる気がしているので、あまりやる気がない。ただ、例えば原発が10基20基再稼働する、というような形で原発大艦巨砲主義が遂行されたら、既に稼働している発電所を含めて、相当数の風力・太陽光発電は停止させられる、あるいは膨大な追加投資(調整力としての蓄電池を追加設置)が必要となる。しかし、小口の発電事業者が多いので、その危機感が足りず、産業団体としても力がない。ただ、国の中心にいる良識のある人たちが大艦巨砲主義に抵抗している、という印象だ。

 こうしたことを、わかりやすく整理して伝えるのが、メディアの役目だ。いたずらに電力不足の危機を煽って、背景も何も知らないで、ただ使えるグラフだけ並べてそれらしいことを言うだけなら、ネットの方がよっぽど信頼できる情報を集められる。

 

* * *

 

 最後に個人的な考えを述べる。僕は当面、分散型の電力システムに移行するべきだと考えている。その場合、論点となるのは調整火力のコストである。これは原発事故が起こるよりまし、と考えて、原発の立地助成金などをそちらに振り向ければよい。国内の原発は、本当に安全だと立証できた数基を残して、全て潰す。再エネはもう中国に勝てないので、新省部やNEDOはしょうもない再エネ技術に投資するのをやめて、小型原発や原子炉の非常停止技術に投資した方がよい。これは国策として、エネ庁だけでなく経産省の別の部署の予算でやってもよい。文科とも連携できるだろう。原子力産業の人員をこちらで受け止める。足りなければ、アメリカやイスラエルから人や金を受け入れる、あるいは送り出すこともできるだろう。人材をあぶれさせないようにした方がいい。

 太陽光、風力、原子力、水力を組み合わせた分散型のグリッドにしておいた方がよいというのは、原発を追い出すためではない。これから人口が急減し、電力需要は地方でなだらかに減っていく。しかし、大型発電所ではその発電容量をなだらかに減らすと言うわけにはいかない。段落としのようになる。分散型なら、需要に応じてなだらかに発電容量を減らしていくことができる。人口減少社会で電力料金を適切に維持するためにも、分散型の電力システムが求められている。

投稿のすゝめ 人文系査読雑誌に掲載されるために

不採用の十や二十、貰ったってどうということはない

 人文系の査読とはどういうものなのか。どうしたら通るのか。これは、人文系に進んだ大学院生や若手研究者から受けるものの中で、最も頻度の高い質問だ。それだけ皆、論文を投稿したいと思い、またそれをしなければならないと焦っているわけだ。

 あの雑誌が通りやすいとか通りにくいとか、あるいはあの人がどうでこの人がどうとか、ハウツー的なアドバイスもあり得るのかもしれないが、僕からするとそれは瑣末な問題に過ぎない。人文系の査読雑誌(学会誌など)に載せるには、日本語でも英語でも、やることは決まっている。論文の形式に即して論を書き、その論に適した雑誌に投稿することだ。それさえできれば、載らない論文はない。なんとなれば、学会や編集委員会の側では、いい論文投稿が無くて困っているほどなのだ。

 僕もせっせと論文を「生産」しているが、(このブログを読んでいる人なら先刻承知の通り)あまり研究に時間を割けない身の上でもあるから、いい研究をしているのにあまり論文を出さない人々に、どんどん投稿するよう訴えたい。また、大学院生などから受ける同じような質問に答える便も考えて、ここに人文系の査読がどんなものであるか、どうしたら通るかということを整理して書いておこうと思う。

 

査読の基準は大きく分けて二つ

 査読といっても人間のやることで、査読コメントに大したことが書いてあるわけではない。査読する人が投稿者の論文を読んでわかる範囲で、知っていることを書いているだけだ。

 査読の細かい基準は学会によって異なる。コテコテの人文系の学会では完全に査読者のお気持ちに委ねられていたり、逆に文理融合的な分野だと細かく審査基準が決まっていたりする。しかし、いずれにしても査読の基準は大きく二つに分けられる。第一に、査読者が読んで、その論に何が書いてあるかわかるかどうか。第二に、査読者の知っていることが、その論に書かれているかどうか。この二つだ。前者を便宜的に、「書き方の問題」、後者を「研究の文脈の問題」と括り、以下それぞれ説明しよう。

 

書き方の問題

書き方の問題とは何か

 査読者が読んで、これは何が書いてあるかわからないな、と思う場合、そこには「書き方の問題」がある。

 僕らが何かをコトバにするとき、そのコトバはどんな機能を持っているだろうか。最もプリミティブな形態としては、喃語、つまり「バブー」「ウエーン」というような、本人には意味があるが他人には何もわからないコトバがある。そこから、コトバの通じる範囲は徐々に広がっていく。家族にだけわかるコトバ、クラスにだけ通じるコトバ、いわゆる「若者言葉」、といった具合に。あるいは、学者の間では学者の間だけで通じる「学者言葉」がある。これはいい意味での用法だと理解してほしい。つまり、田舎のジーチャンバーチャンには伝わらないが、指導教授や学会の同僚には伝わる、というものだ。その言葉は限定や定義が非常に多く、日常の中で話者共通に自明な事柄を前にやりとりするには煩雑すぎるが、異なる文化や対象を離れた場所で物事をより厳密に伝えるために重要な役割を果たす。

 論文も同様に、論文固有の言葉遣いがある。論文は出版されたり公開されたりするという関係上、個人のツイッターやブログよりも多くの人に時代を超えて広く読まれることを想定されている。さらに、研究に貢献するという価値を有さなければならないので、他の研究との連続や、今後の反証に使える必要がある。論文は、そうした機能や目的に相応しい形式を有していなければならない。つまり、論文の「書き方の問題」とは、論文が読み手にわかるように、それにふさわしい形式で書かれているかどうか、ということだ。

 

論文の書き方

 読み手にわかるような論文の書き方、つまり論文の有するべき形式については、巷に沢山の本や手引きが溢れているので、ここに詳しく繰り返すまでもないだろう。

 要は、次の3点を満たしていればよい。(1)一つの論文では一つのトピックだけを取り扱う。(2)冒頭では序論(はじめに)で問いを立て、本論で論証し、結論(おわりに)で冒頭に立てた問いに答える。(3)引用・参照・他の研究を援用して定義や論証を省く部分については適切に注をつける。

 これに沿って書かれていないものは、どんなに興味深いトピックであっても、査読者を混乱させる。どんなに書き手が詳しく調べ、そして正しいことを言っていたとしても。

 あるいはこう言ってもよい。あなたが書いたものは、出版されれば1世紀や2世紀の先にも残る価値あるものかもしれない。そしてそれを、「論文」の体裁に合わせてバラバラにしたり、組み替えたりすると、価値がなくなってしまうかもしれない。しかしそれでも、雑誌の掲載に向けて査読するという立場においては、この論文の形式を投稿者に守らせることを優先せざるを得ない。なぜなら、それが雑誌やその学問分野全体をそれたらしめている形式であるからだ。

 だから、査読者は必ず、この論文で論じられ、明らかにされようとしているただ一つのトピックは何か、という見地から投稿者の論文を読み始める。シャーロック・ホームズが別々の殺人事件を同時並行で分析せず、個々の事件として描かれるか、あるいは連続殺人事件という一つの事件として扱うように。もし二つの全く別の事件を——実際の弁護士がそうであるように——並行して手がけている様をそのままに書いたら、読者は混乱してしまうだろう。論文もそれと同じだ。

 つまり、投稿者は、いかなる思いがあっても、査読誌に投稿する以上は、論文にするための文章を作らなければいけない。形式の奴隷にならなければならない。そこでの主人は、真理を記述するために備えられるべきとされている形式である。

論文の書き方はどこで学ぶか

 ただし、この形式は投稿規定に書いてあるわけではない。投稿規定に書いてあるのは、こうした論の組み立て方、論文の形式がわかっていることを前提に、その枝葉末節のことが規定されているだけだ。「だけだ」とはいえ、細部に神が宿っているので(注のスタイルや、レイアウトや、番号の振り方など……)、それもやはり真理、真理とまではいかなくてもその学問分野で正しいとされることを言葉で記述するために必要な「書き方」なのだが。

 こうした、投稿規定に書かれていない、論文の組み方の基本は、先に言ったように色々な本があるが、やはり一度訓練を受けてそれが書けるようになることが望ましい。その訓練こそ、大学院の修士、あるいは博士の1、2年で受けるべき事柄である。そして、査読に回ってきて論文の書き方がなってない人というのは、大学院でちゃんとした訓練を受けていない人であることが多い。この訓練を、大学院の外で受けるのは結構難しい。大学院にもう一度入って指導してもらうか、面倒見の良い小さい研究会で何度も指摘修正をしてもらうか、という形で、頑張って訓練するしかない。

論文の書き方がダメになってしまう人

 最近見受けられるのは、時間をかけて取り組めばちゃんと書けるはずなのに、やっつけ仕事でやっているために論文の書き方がダメになってしまっている人だ。僕自身、急いでいる時やあまり力の入っていない論文では、書き方がなっていない論文を投稿してしまうことがある。そしてこの、「やっつけ仕事のダメな論文特有の形式」というのがある。

 これは、大した研究をしていないのになんとか論文として出そうとすることによって生じる。自分のオリジナルの研究の部分が少ないので、例えば本論が3章あるなら、そのうち1、2章は他人の研究を自分なりに整理したもの、3章に、自分がやったちょっとした研究を足してもっともらしい論文の体裁にしている、というようなものだ。ちょっとした研究、というのは、文学なら1冊しか扱わず比較対象のない作品分析、社会学なら標本の少ないアンケートや一人だけの聞き書き歴史学なら二次資料の分析、経済学ならデータ量が少なく新規性も乏しい標本を用いた統計分析、などだ。こうした研究に与えられる査読結果は決まっている。「1、2章は先行研究整理として序論で紹介するにとどめ、第3章の内容をより掘り下げて本論とし、序論と結論を含めた論文の全体を再構成してください」というものだ。

 現在、多くの大学院生や若手研究者が、金も時間もないのに論文はどんどん出版しろというプレッシャーを受けているがために、こうした論文投稿が増えている。まぁ先行研究整理だけでも、システマティックレビューという形でやって貰えば意味があるのだが、こうした即席論文での先行研究分析が網羅的なわけもなく、アドバイスには頭を悩ます。投稿を急いでいるのはわかるし、それが自分の就職、つまり自分の生活や結婚出産、留学生なら日本にいられるかどうか、家庭事情によっては実家の支援、ひいては皆、自分が研究者であり続けられるかどうか、といったことに直結する問題であるという深刻さも痛切に理解する。ただ、なんとか一つでもテーマを誰よりも掘り下げて突破してくれないと、論文にはならないし、逆に一つでもそうしたテーマを手に入れられれば、その後一定程度の期間は航行し続けられる。

 昔、増田で若手研究者問題を書いてホッテントリに入った時も書いたのだが、こうした問題は若手で協力しあって、分業するなり融通するなり議論するなりすることで突破するしかない。国の金や支援を頼るのは僕は賛成できない。若手研究者がゼミや大学の枠を超え、もっと協力して細かくやり取りするようになるだけで、研究の量も質もぐんと深まるはずである。そうすれば、良い研究は国内外で誰かが認めてくれる(そのために「出版」=公的なものにするわけだ)。今の日本では、人文系の研究と研究者が枯渇状態なのに、優秀な人が研究者になる前に市場から追い出され、必要な人材がいないという歪んだ状況だ。僕の周りは非常勤を無茶苦茶掛け持ちさせられている人が多く、僕のところにもじゃかじゃか来るのだが、皆これを回す先がないので困っている。若手が協力して自ら質の底上げをしていくべきだ。ツイッターなどやっている場合ではない。おっとこれは諸刃の剣。

 

研究の文脈の問題

押さえるべき三つのポイント

 めでたく査読者がちゃんと論文を読めた、という場合、その論文は修正すればいつか必ず掲載される。修正にあたって向き合わねばならないのが、「研究の文脈の問題」である。

 この問題は、次の三つのポイントを押さえる必要がある。(1)自分の研究の扱うトピックが、投稿した雑誌の研究の文脈に乗っているかどうか。(2)研究の文脈を、十分に参照し、踏まえているか。(3)研究の文脈において、新規性があるか。

 そして、読める論文になっている場合は、この三つのポイントを順繰りにクリアしていけば、必ず掲載される論文が完成する。以下、順に説明していこう。

(1)自分の研究の扱うトピックが、投稿した雑誌の研究の文脈に乗っているかどうか

 そもそも研究というのは、その研究をした人独自のものであって、研究分野なんてものは、後からくっついてくるものだ。なんなら読む人が勝手につけるものだ、といってもいい。しかし、雑誌や学会など、たくさんの研究をくくったくくりで人々が交流し、研究が認められることを考えれば、その研究を発表する際に、なんらかの括りを選ばなくてはならない。

 しばしばあるのは、査読結果に、絶対不可能な修正要求や、見当違いのコメントがきて絶望してしまうパターンである。しかしだからと言って、査読者を批判したりしてはいけない。むしろ、査読者と投稿者の間にある差異に着目することが重要だ。

 研究が価値あるものとして認められることは、その研究がある種の「確からしいと認められうる要素」を有していることによってのみ、可能となる。査読者は、あくまで「この雑誌」「この学会」「この学問分野」という規定されたあり方のもとで査読のコメントを書いている。あなたの靴がどれほど綺麗だとしても、日本の家屋に入るときは、「靴を脱いでください」と言われるだろう。それはあなたの靴が綺麗か汚いかを問うているのではない。「靴が脱がれている」ということが、家に迎えられるに足る人間として認められる要素である、ということなのだ。同じように、ある分野でなにか確からしいと認められるためには、確からしさを証する要素が論文に入っている必要がある。ある分野では、詳しい統計の分析が必要かもしれない。ある分野では実際の肉声の聞き取りが重視されるかもしれない。ある分野では誰も見たことのない古い文献が重要かもしれない。ある分野では卓越した厳密さを有する数式かもしれない。そして、論文の投稿者は、投稿先の雑誌で認められる種類の確からしさを証明する要素を、論文に入れておかなければならない。そして、それを準備できない場合は、潔く引き下がるしかないし、論文の投稿先を選ぶときは、自分の論文の証明方法とマッチした論理構造を確からしさとして認めてくれる雑誌を選ばなければならない。 

 例えば、「中華料理店の経営史的分析」という論文を書いたとしよう。内容は、東京の中華料理店をその味の地域ごとに(四川や広東や福建など)分類して、その地域ごとの日本進出の理由を資料から集めて、統計にして分析する、というものにしよう。台湾や福建省中国東北部からの出店なら、どちらも背景に日本の植民地だったことがあるだろう。四川からは日本での四川料理ブームを狙って進出したのかもしれない。上海など広東からの出店は、華僑以来の長い歴史がある、などなど。

 この内容は、経営史として経済史系の雑誌に投稿したらよいかもしれない。そう思って投稿したら、「日本進出の理由を集めた統計がしょぼいのでダメです」という査読結果がきた。しかし、中華料理店の日本進出の理由を集めたデータなど都合よくあるわけがない。日本進出の理由を中華料理店それぞれに聞くにはあまりに手間がかかりすぎる。アンケートを送るか? しかし何語で? 予算はどうする? 考えるとキリがない。こうしてドツボにハマる人がよくある。こういう時は頭を切り替えるのである。ないものはないので、別のアプローチを考えるのだ。

 中華料理がテーマなので、料理や食生活をテーマにした学術誌に投稿してみよう。投稿したら、それなりに面白く読んでくれたという回答が来た。しかし今度は、「料理の区分をちゃんと食材や調味料で定義してください」と来た。確かに四川料理ならこの調味料、広東料理ならこの食材、北京料理ならこの味わい、というのがありそうだ。とはいえ僕は、中華料理屋で食べるのは好きだが、料理をしたことはない。調味料は甜麺醤と豆板醤しか知らない。これから中華料理屋に弟子入りするか……? いや、この線も却下だ。

 そもそも僕は中華料理店が出店した背景を分析したのだった。これは歴史と言えるかもしれない。そこで近代日本史の雑誌に投稿してみた。すると、着眼点は素晴らしいという回答だ。だが、やはり分析に問題があるらしい。「全体の統計ではなく、特定の地域の出店者に絞って分析してはどうでしょうか」という助言が添えてあった。特に、植民地の研究が進んでいるので、それを踏まえて北京料理店の日本での展開を論じてはどうかということだ。これならできるかもしれない……

 これは一つの、今思いついた例である。しかし、こうしたことはよくあると思う。査読コメントで、それはできないよ、という修正要求が来た場合、それを無視して他のところだけ修正して再投稿するか、別のところに投稿することになる。色々試行錯誤は必要だが、日本語で書けば、ありがたいことに投稿する先がないということはまずない。日本はだいぶ凋落したとはいえ、多様な学問分野が細々と生き残っていて、研究の裾野は広い。ciniiでキーワードで検索したり、先行研究が投稿している雑誌などを見てみて、自分が論文として完成させられそうな分野の雑誌を見つけられれば、第一段階はクリアだ。

 なお、査読者の方も、この研究は面白いが、この雑誌にマッチしない、という場合は、その旨はっきり書くべきだ。アメリカの雑誌では、その辺は編集委員会で示してくれる場合が多いが、日本の場合は編集委員会の機能が弱く、どうも曖昧なことがしばしばである。絶対これは無理だろうという査読者の要求をそのままパススルーして、あとは投稿者任せではかわいそうである。雑誌にマッチしないならマッチしないと書いて、まぁ他の雑誌を推薦するまではしないにしても、マッチしそうな分野をサジェストしてあげたら良いだろう。

 

(2)研究の文脈を、十分に参照し、踏まえているか

 査読者が大好きなのは、自分は読んだことがあるけど投稿者は読んだことのない資料をこれ見よがしに指摘して、それがないのでダメです、とやることだ。本当にうざい。しかし、研究の文脈を網羅的におさえた上で自身の論を展開することは、多くの人々の研究を集めた研究一般への寄与、という点では本当に重要である。

 その時、先行研究の抑え方が、ナウでヤングなものをあちこちからかき集めてきて並べ立てるというやり方をする人がいるが、これはダメだ。研究には文脈がある。どの研究も先行研究を参照しており、その先行研究も先行の先行研究を参照している……ということだ。むしろ、自分の研究に近い重要そうな研究をまず手に取り、それが引用している主要な研究をも手に取り、と繰り返していき、その研究のここ100年ぐらいの展開を抑えるのがよい。

 注と参考文献というのは、ハイパーテキスト(HTMLで書かれた文章のように、リンク構造を持ったテキスト)だと思えばいい。今では、あるサイトを読んでいてわからなかったり気になることがあれば、そのリンクをクリックすればさらに詳しい情報や関連情報に移動できる。しかし昔はクリックなどできなかったので、注を見て参考文献を図書館に探しに行ってそれを読む、という手間をかけていたのだ。Twitterのレスバトルを見るには、一つのツイートをクリックすればズラーとツリーが出てくる。しかし、学術論文上のバトル(いわゆる「論争」)を見るには、ある論文の冒頭で槍玉に挙げられている他の論文をメモして、その論文が掲載されている雑誌を探しにいき……とやる必要がある。そしてそれをやらずに一番新しい論文だけを先行研究として並べても、それはレスバトルのツリーを読まずに最新の1ツイートに脊髄反射しているだけのような、残念な論になってしまう。

 最新の研究をあちこちから引くのではなく、重要な先行研究とそれが出てきた背景の文脈を押さえること、これが研究の文脈を知ることである。そしてそれを集めてくるのが研究の大きな仕事ではあるのだが、いくら情報化社会といえど、これをやるのは骨が折れる。こういう時に役に立つのが学会や研究会で、他の人から、あるいは先行研究を書いたその人から直に、何を読めばいいのか教えて貰えれば、これほど楽なことはない。他の人は、先行研究整理など誰がやっても同じだし、むしろ誰か他人がそれをやって論文にしてほしいと思っているくらいだから、喜んで教えてくれる。

 研究の文脈が押さえられていれば、査読者もその文脈において論文が意義あるものかどうか、という絞り込んだ観点から評価できるので、有意義なコメントを与えることができる。その文脈で見落としている研究はこれです、と具体的な本や論文を査読コメント内で示してくれればしめたものだ。それを参照して論を補強すれば良いのである。

 逆に査読者の方も、読んだことがある論を適当に示すのではなく、丁寧に研究の文脈を教えてあげた方が有意義だ。わざわざ抽象的にコメントして、投稿者の頑張りに委ねるのではなく、投稿者も同好の士、あるいは戦線を同じくする学徒であることに鑑みて、最大限その人の助けになるよう査読コメントを書きたいものだ。

 

(3)研究の文脈において、新規性があるか

 先行研究の文脈を踏まえ、また査読で指摘された研究を参照すると、自分の研究はすでに他の人にやられていた、ということもある。あるいは査読で、「あなたの研究は他の研究とあまり違いがなく、新規性に乏しい」というコメントがある場合もある。これにはもっと酷い表現があり、「面白みに欠ける」と書かれることもある。こういうことを書く査読者においては、面白みに欠ける査読コメントを自省して、ちょっと表現を工夫してほしいものだ。

 しかしこれは、研究がゴールに近づいている証拠だ。研究が先行研究と被っているということは、先行研究と同じような問題意識を共有し、またそうした問題に取り組んできた人たちと連帯しているということである。被っている先行研究者は競争者ではなく、同じ謎を解決しようとしている同志である。「早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ皆で進め」というアフリカの諺の通り、同じ謎に取り組む人が多ければ、より深い研究ができる。

 では、カブリからどうやって脱却し、自らの道を進み得るのか。一番いいのは、研究が被っている人と話すことだ。学会や研究会でその人と会えるといい。同じ研究をしていることを喜んでくれ、また色々な論点を共有することができるだろう。しかし、その人がすでに死んでいたり、会う機会がないといった場合は、被っている研究と、自分の研究とをよく見比べ、そこにある差異を探すことだ。他の人間が書いているので、絶対に差異がある。わずかでもいいので見出した差異を、同じ対象を見ているのになぜそのような差異が生まれたのだろう、と掘り下げていけば、自分の独自性、新規性なるものは、実は容易に取り出せるのである。

 

人文系の査読に通るのは、面倒だが簡単である

 大学院で論文の書き方を学べば、あとは全く研究会などに出なくても、査読コメントだけで論文掲載に持っていくことはできる、というのが僕の考えだ。自分ができる範囲での修正を求めてくる雑誌を探し、それを見つけたらその分野の研究の文脈に自分の論文をうまく位置付け、その文脈における新規性を打ち出す。これを、査読者のコメントとのキャッチボールで(ずいぶん気の長いキャッチボールになることは否めないが)やっていくことだ。いちいち査読に対応するのは面倒だが、しかし自分の可能な範囲でコツコツ取り組めば、いつかは突破できる。その意味では、難しい実験を成功させたり未知の新現象を観測しなければいけないというのではないから、非常に簡単である。言葉を操れるなら誰でもできる。

 研究をブラッシュアップするのには、査読ではなく、研究会や学会で直接やりとりすればより手っ取り早い。ただし、そのような場でのコメントは、編集委員会がチェックし、また雑誌の方向性に基づき、書かれたものとして一応は完成される査読コメントとは違う。研究会などで受け取る、他人からのある種無責任なお気持ちばかり斟酌していると、かえって書けなくなる場合もある。ポジティブな、自分を応援し、良い方向へ持っていこうとするようなコメントだけを聞いた方が良い。あるいは、面倒なコメントにはその場で反論し、喧嘩した方が良い。

 個人的には、あまり口頭のコメントは気にせず、どんどん査読論文を投稿すべきだと思うし、それを通じて査読する側のレベルも上がっていくのが良いと思う。査読コメントを書くのは骨の折れる仕事だが、これこそ研究者の仕事だ。僕は査読コメントを書くたびに、新しいことを教えてくれる投稿者に感謝している。批判的なやりとりの場合、書いたものの方が内容は精査されるし、書かれたものを見返して言い回しを修正できる。査読は、有意義で効率的な形で批判的なやり取りを行い、研究の質を高めていける素晴らしいシステムだ。

 昔は論争も雑誌や手紙でやっていた。会うのがなかなか難しかったからだ。今やなんでもオンラインで気軽にやり取りできるが、その分、考えを深め、きちんと合理的で有意義なことを伝える、という機運に乏しい。言葉は便利な道具だが、それを磨いて「学者言葉」にするのは案外簡単ではない。お気持ちだけを言葉に乗せてやり取りするなら誰でもできるが、そのノリを研究に持ち込むことはご法度だ。人文系であればこそ、言葉の持つ力を最大限引き出せるような形でやり取りすることが望ましい。

 ただし、このブログはそんなことはお構いなしに、ぼくのさいきょうのおきもちを垂れ流しているだけであるから、そこはご寛恕願いたい。

 

 

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香江『神探福邇』很有意思(香港の『神探福邇』が面白い)

『辮髪のシャーロック・ホームズ』表紙(ただしこの絵はイメージと異なり過ぎる)

 五月病である。仕事をする気が起きず、神保町でコーヒーを飲んだり本屋を覗いたりして過ごしていたら、面白そうな本があって手に取った。『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』という本だ。タイトルだけなら惹かれなかったが、そのポップと帯に、香港を舞台にした名探偵ホームズだ、と書いてあって心惹かれた。僕はホームズの方にはてんで詳しくないが、香港のエキゾチズムに一方的な思い入れがあるのだった。

 読んでみたら非常に面白く、一気に読み終わってしまった。のみならず、読んだことを誰かに言いたくてブログ記事を書きたくなり、夜中にパソコンを開いてしまった。

 

 本書はホームズの名作を同時代(1880年代)の香港に移した内容だ。確かにその通りだが、同時に香港の時代の雰囲気をよく表す描写に富んでいるところは本書の独自の面白さであり、香港のモダンだが猥雑な雰囲気に惹かれる者としてはたまらない。

 主人公の福邇(フー・アル)は、福爾摩沙(ファームス=ホームズ)、つまりシャーロック・ホームズの中国語表記をもじった名前で、その通りホームズ役である。和訳のタイトルがわかりにくいが、原題は『神探福邇、字摩斯』なので、直訳すれば『探偵福邇ホ・オ、あざ名は摩斯ムス』というわけ。台湾訳ではタイトルの頭に「香江」(香港)と付けている(『香江神探福邇,字摩斯』)から、「辮髪の」、ではなく「香港の」、と書いてくれればよかったのだが。辮髪のシャーロック・ホームズなら、北京か中国東北部にいるような気がしてしまう(清の時代だから南方でも辮髪ではあるのだけれど)。「神探」もそのままにしないで和訳して、「探偵」とすれば探偵小説だとわかる。さらに今後売れて続巻もあることを考えれば、この前後は逆にした方がいい。つまり、『探偵福邇の事件簿 香港のシャーロック・ホームズ』ならだいぶ手に取る人が増えるのでは、と思う次第。

 ホームズのパスティシュだと訳者もいう(要はパロディ)本書である。確かにトリックなど仕掛けの部分はその通りだが、北京官語や広東語、さらには満州語、閩南語など中国(当時の中原王朝は清)の地域ごとの言葉——これを方言というにはあまりに異なっている——や、植民地宗主国である英仏語が入り混じって、それが事件解明の手がかりになるところは、元のホームズに出てくるような、ギリシャ語などヨーロッパ諸語の対比とは異なる重層性があって面白い。さらに、同時代の中国をめぐる政治状況が色濃く反映されていて、さらにはそもそも福邇が満洲人で開明的清ナショナリストであるところなど、(これは僕の職業柄)本当にそそられるところがある。

 

 あまり書くとネタバレになってしまうのでやめておこう。本書の舞台となる時代は清仏戦争ベトナムが取られる頃までだが、今後辛亥革命あたりまで書いて全4巻にする予定だというから、孫文や日本人も絡んでくるかもしれない。確か宮崎滔天が初めの頃に孫文と会ったのも香港だったはずだ(『三十三年の夢』)。

 当時香港を通る日本人といえば、まだシベリア鉄道がない頃なので、欧州へ向かう知識人や官僚、横浜などから織物を輸出する業者など、西洋に向かう人は誰でも通ったことだろう。逆に、東遊運動で日本に向かうベトナム人ファン・ボイ・チャウ(『ヴェトナム亡国史 他』)や、インド独立運動で日本に逃れたラース・ビハリー・ボース(『中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義』)なども、いっとき寄港しただけとはいえ香港を通ってきただろうと思う(ただしボースが日本に来たのは辛亥革命より後か)。中国史、アジア史はもちろん、日本史にも触れるエキゾチックな歴史推理小説、続編が待ち遠しい。

 

 ざっと読んだところだし、まだ出版されたばかりで話題になるのはこれからだろうから、細かいことはさておく。一言で言えば、現在の完全に現代化した香港からは考えられないような、優雅な早茶(モーニング・ティー・タイム)と怠惰な阿芙蓉(アヘン)の醸し出す香りがたまらない探偵小説だ、というところか。

 

辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿

 

* * *

 

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女性が守りたくなる男性

男性が前線に立って女性や子供老人を守る映画の例

 ユーミンにはいろいろな名曲があるが、「守ってあげたい」はよく知られているものの一つだ。「You don't have to worry worry 守ってあげたい」というサビのリフレインが頭の中にこだまする。僕はたまに、この替え歌で「I don't have to worry worry 守ってください」と歌っている。僕には他人を守るほどの甲斐性がないのだ。

 

「男性が守りたくなる女性」vs「女性が守りたくなる男性」

 ユーミンのこの曲はしかし、ある意味で非常に特殊な曲である。そのことを説明するために、まずは以下のGoogleの検索結果を見てほしい(なお、Google および Google ロゴは Google Inc. の登録商標であり、同社のルールに則って使用しているつもりである)。

「男性が守りたくなる女性」(完全一致)の検索結果

 これは、「男性が守りたくなる女性」と完全一致するフレーズでの検索結果で、ヒット数は約38万件となっている。いかにも馬鹿馬鹿しい、くだらない記事ばかりだが、「赤字国債」(約29万件)よりもよっぽど多いヒット数であり、人々はこういうことに関心があるのだと勉強になる。いや、感心している場合ではない。これはジェンダー格差により女性が男性の奴隷化されることを推奨する記事が蔓延していることの証左で断固戦わなくてはいけない。しかし今はまだ話の途中なので、まずはユーミンの話を続けさせてほしい。

 ここで、もう一つのGoogleの検索結果を見てほしい(なお、Google および Google ロゴは Google Inc. の登録商標であり、同社のルールに則って使用しているつもりである)。

「女性が守りたくなる男性」(完全一致)の検索結果

 こちらは先ほどの逆、「女性が守りたくなる男性」というフレーズと完全一致するサイトを検索している。結果は「一致はありません」、つまり0件である。ゼロ、googleの検索能力では何一つ見つけられないということである。先ほどの検索フレーズとの違いは、「男」と「女」が入れ替わっているだけで、他は何も変えていない。「男性が守りたくなる女性」では38万件、「女性が守りたくなる男性」では0件。もちろん、google以外の、例えばダークウェブと言われる.onionのドメインのサイトを検索するとか、あるいは今は亡きYahoo!ジオシティーズを探すとかすれば、もしかしたらあったのかもしれない。しかし、ひとまずgoogleだけで考えると、やはりこれは大きな違いと言わざるを得ない。これは女性が男性を守ってくれないということではなく、男性が女性差別をしているから女性に男性を守る余裕がないという社会のジェンダー構造の表れであってこれに対しては断固闘わなければならないが、それはそれとして、ユーミンの話である。

女性が男性に向けて「守ってあげたい」と歌うことの特殊性

 ユーミンの歌は、歌詞の物語の主人公の性別が明示されていないとはいえ、僕の勝手な考えから言えば、それは女性である。女性が同い年か年下の可愛い彼ピッピに向かって歌っているのが「守ってあげたい」だと僕は思っている(これはあくまで私的な考えでありこれを他に強制するものではなく、現実世界とは隔絶された創作の世界における解釈について論じているため自由な解釈を与えることを許してほしい)。女性が男性を「守ってあげたい」と歌う、これは上記のgoogle検索結果に現れたるジェンダー格差に鑑みて、非常にリベラルな状況ではないだろうか(馬鹿馬鹿しいほど大袈裟にくだらないことを言っているが、これはそういうふうに言わないとどこから刺されるかわからないための用心に用心を重ねた言い回しである)。

昨晩お会いしましょう
▲「守ってあげたい」収録アルバム「昨晩お会いしましょう」。今でもLP、CDが売っている。両方うちにあるが、LPの方が心なしか声が若く聞こえる

 この歌が出たのは1981年で、その時の社会的な男女関係がどうだったのか僕はよくわからないが、こんな歌が出るくらいだから、「女性が守りたくなる男性」で検索しても多少のヒットがあるような世の中だったのであろうか。当時はgoogleどころかyahooもnetscapeもない時代だが。あるいは、現代と同じように男女差別が強く、逆転の発想で書かれた歌詞だったからユーミンが受けたということだろうか。多分後者だろう。*1そのことが、この曲が昔も今も特殊であり続けている所以である。

ヒモ、もとい女性に守ってもらえる男性は結構いる

 僕は悲しいことに男に生まれてしまったので、守ってくれる異性を探しても、検索上は0件である。しかし、この記事がgoogleにクロールされれば、1件になるかもしれない。そう思ってタイトルを「女性が守りたくなる男性」にした。

 しかしこれはあくまで検索上の話で、現実には、女性に守られている男性はそれなりにいる。それはあのいかがわしい「母性」とかいう話ではなく、男性が女性に対して「守る」というのと同じ意味で——経済的であったり、権力や腕力であったり——のことだ。ネットには、マスに受けることばかり転がっていて、googleで見つかることは「ネットユーザーの考えた最強の一般論」でしかなく、それは案外、現実の多様な層とはかけ離れている。芸術と言ったら仰々しいが、ユーミンの歌詞などがそういった「ネットの真実」を簡単に覆すのは、やはりある種の、芸術の力というものなんじゃないだろうか。

 なお、余談だが、女性に守られたい男性は、「ヒモになりたい」で検索すれば望みの検索結果は得られるが、「男性が守りたくなる女性」で紹介されている女性の振る舞いをそのまま女性に対してやるのでもいい。はっきり言って「男性が守りたくなる女性」だのなんだのという、いちいち「男性」「女性」でくくって振りかざされる一般論は、両方「人間」にしても差し支えないし、あるいは「部下」「上司」の組み合わせにしたり、「学生」「教師」の組み合わせにしたり、何でも成立する。ただ、読む人が興奮してクリックしてくれるという小学生ばりの理由で、「性」という言葉が入っているだけなのだ。ネットの世界はかくも悲しい。それにしても、ヒモ女性(?)には「男性が守りたくなる女性」というかっこい表現があるのだから、今後はヒモ男性も「女性が守りたくなる男性」と呼び習わしてはどうか。

 

 

*1:「守ってあげたい」と歌っている本人も、松任谷正隆に収入がなくなったら守ろうと思ったかどうか怪しいものである。いや、そもそもその歌が自分の実生活における心情と何ら関係ないということも十分あり得る(ユーミンはこの曲を出す5年前に結婚したのだが、その当初専業主婦になろうとしたとかいう話があった気がする)。

事件は中華料理屋で起こっているわけではない

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 中国語教室への通学を開始して半年ちょっと。週1のペースで、途中保育園が閉まって行けなかった期間などもあったので、それほど目覚ましい進捗があったわけではない。日常会話ができるようになるには、あと半年ぐらいかかるだろう。

 ただ、勉強の成果は日々感じる。その一つは、中華料理屋での会話が聞き取れるようになったことだ。

 

* * *

 

 中華料理屋は安くて美味しく料理も多い、しかもどこに行ってもあることから、僕にとっては昼食の第一候補のようなものだ。しかし中華料理屋に行くと、しばしば厨房とフロアで怒鳴り合いが起きている。今日だったら、

フロア「スーヨンリンジー!イーフイグォーロゥ!」
厨房「ア?ドーシャオヨンリンジーマ!」
フ「スー!」
厨「スーヨンリンジーバ!」
フ「シャア!」
厨「ジーティエンヘンマンナー!アー?」
フ「ドヤー!」

みたいな感じである。落ち着いて食べたいというほど高級なものを食べているわけではないが、あぁ?とかあ゙ー!とか言って喧嘩しないでほしい、というのが正直なところだ。いくつかよく行く中華料理屋があるのだが、どこも大抵、厨房が男性でフロアが女性、夫婦か何かのような雰囲気があって、夫婦喧嘩を聞かされているような気になる。

 しかし、中国語を学んで、僕はわかったのである。彼等は喧嘩しているわけではなかった。今なら彼らがなんと話しているか、理解できる。

フ 〝四油淋鸡,一回锅肉“(油淋鶏四つ、回鍋肉一つ)
厨 〝啊,多小油淋鸡吗?“(はいよ、油淋鶏がいくつ?)
フ 〝四“(四つ)
厨 〝四油淋鸡,吧“(油淋鶏四つね)
フ 〝是啊“(そうだよ)
厨 〝今天很慢呢。啊?“(今日は忙しいね)
フ 〝对“(ほんとね)

普通の定食屋で交わされる会話と変わらなかったし、彼らは全く喧嘩してなかった。なんならお互いを労う暖かさすら感じられるレベルのやりとりだ。考えてみれば、(日本語話者的には)喧嘩しているような勢いで喋った終わりに、はっはっは!みたいな感じで笑い合ってたりしてたし、喧嘩ではないのだ。

 僕は悟った。事件は中華料理屋で起こっているわけではない。口の中でボソボソとしか喋らない日本語話者たる僕の誤解によって僕の中でのみ起こっていたのだ、と。

 

* * *

 

 ただ、ある中華料理屋のやりとりだけは、中国語を勉強しても全くわからないままだ。その中華料理屋というのは、餃子の王将である。

「ソーハンイガー、テンハンダイイーガー!リャンーガーコーテー!ヒトツヨクヤキィ!」

これは日中両語を融合した新しい言語と言って差し支えない。

 いずれにしても、新しい言語を学び、今までわからなかったやりとりがわかるようになるのは嬉しいものだ。ウォーのワールドのグレートなエキスパンドを感じる。なんのこっちゃ。

 

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Amazonアソシエイトの停止と再開

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Amazonアソシエイトの停止(2021年9月)

 9月になった。
 気温がぐっと下がってきて、急に秋がやってきたような感じがする。とはいえそれまでも、日影にいれば何となく秋らしい風が吹いてきていたのだが。

 この間、このブログに起きた変化といえば、Amazonアソシエイトの停止である。

 はてなブログ100記事到達とその後 - 読んだ木の記事の最後の方で、Amazonアソシエイトの売り上げが発生したということを書いたが、あのワンショットだけしかこのブログからの売り上げは発生していない。

 Amazonアソシエイトは利用を始めてから180日間に3回の個別の売り上げが発生しなければならない、というのが申請条件なのだが、このブログではこの間1回しか売り上げが発生しなかったので、その条件に基づいてAmazonアソシエイトは停止された、ということである。

停止と復活を繰り返して

 ちなみに、僕の利用しているAmazonアソシエイトアカウントが停止されたのはこれで多分3回目くらいである。別に停止されたからといってペナルティがあるわけではない。あなたのブログがもう少しアクセスされるようになったら改めて申請してね、ということになる。売り上げが上がるブログにリンクを貼ってもらう分には、Amazonとしては何も不満はない。ただアクセスもない売り上げもないブログに貼られるアカウントを管理し続けるコストが大きすぎるので(というのもそれはアフィリエイトフィーを振り込む決済システムと接続されているからだ)、不活発なアカウントについては削除させてもらう、というスタンスなのである。

 改めて申請した場合、アソシエイトIDが変更になるので、既に貼ったリンクのアドレスは全部変更する必要がある(確かそうだったと思う)。Wordpressなどで作成していて、FTPからさっとダウンロードしてオフラインでコマンドを打って全て置換できるような人はいいのだが、僕のようにブログサービスを利用しているだけの場合は結構厄介である。昔、ライブドアブログで使ってたアカウントが停止され、後から再発行した時は、結局古いリンクは更新しなかったんじゃないかな。でも新たに書いた記事で売り上げが上がってたから気にしなかったのだったか。

 停止することが分かっていても、やっぱりブログを始めるときにはAmazonアソシエイトのアカウント申請をしてしまう。これは何というか、モチベーションのための作業という部分があるのかもしれない。売り上げにつながるなら真面目に書こう、SEOについても考えてみよう、という気分になるからだ。売り上げが上がろうが上がるまいが——上がるわけがないのだが——そのモチベーションは生まれるのである。

 逆に、真面目に売り上げを上げたいなら、最初からAmazonなど使わずに、A8.netなど、よりアフィリエイトの収入が上がりやすく、またそのアカウント維持のハードルが低いものでアフィリエイトを始めるのがよい。確か楽天なんかもよかった気がする。ちょっとかなり昔の話なので、最近どうなんだか、僕にはわからないが。

書く内容への影響

 アフィリエイトリンクが切れたことで、書く記事の内容はかなり変わる。これは自分でも驚くのだが、同じように書いているつもりで全く異なる記事を書いている。

 まず、この記事を読んでいる人がいるとしたらおそらく感じていることだろうが、記事の書き方が若干だが冗長になっている。それが読みにくさにつながっているか、あるいは逆に読みやすさにつながっているか、僕にはわからないが、とにかくいつもより整理されていない長めの文章を書いている、という自覚がある。

 それから、記事のネタが商品に結びつけられていない。アフィリエイトをつけていても、あまりそうならないようにしていたつもりではあるのだが、やはりアフィリエイトリンクになりやすいコンテンツに記事の内容が引っ張られがちではある。例えばこの記事の冒頭、「9月になった」とはじまっている。もしアフィリエイトリンクが生きていたら、僕はこう続けただろう。「September...と歌う竹内まりやの歌声が脳内に響いてくる」。そして、竹内まりやのSeptemberが入ったLPアルバム「Love Songs」を実家から持ってきて聴いていたが、盤に傷が入っていてSeptemberが最後まで聴けない——といった話を延々としていたはずなのだ。もちろん、それのアフィリエイトリンクつきで。

 今のところここから何か買う人がいても僕の懐は寒いままだ。ところでこういう、同じようなリンクがたくさんあるんだけど、どれがどう違うのかわからないね。

 三つ目の点として、明らかにブログを書くモチベーションが下がった。これは色々と忙しさや自分の体調や季節にも依存してくる部分ではあるのだが、やはり何かこう、フックが減るとブログも積極的に書こうという気にならないものだ。とはいえ、ブログを書く気が減退しているのは、インターネット年少世代 - 読んだ木とかなぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木とかを書いていた春の頃のような、新しい知り合いを作りたいとかそういった機運が自分の中で完全に消失しているということの方が大きいかもしれないが。

 

* * *

 

 まぁしかし、今後どんなふうにブログが続いていくのか。Twitterのアカウントはずっと減らし続けていて、このブログの記事をツイートしていたアカウントも消してしまった。改めて新しいアカウントを作らねばなるまい。しかし面倒だ。万物が枯れゆく秋を前にして、色々なことが整理され、廃棄されていく、そういうことなのかもしれない。いずれにしても、このブログは続いていくとは思うけれど。

 

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Amazonアソシエイトの再開(2022年4月)

 上の記事を書いてから半年と少し。ブログへのアクセスが安定して増加し、検索流入も増えてきた。また、記事を書くときにAmazonリンクがないと不便だと思うことが増えてきた。これは主に、本に関する記事を書く場合に起こることだが。そこで、Amazonアソシエイトに再び申請し、アソシエイトを再開した。

再開による記事への影響

 このブログはもともと、ただ思ったこと、メモ書きのようなものを垂れ流していた(ブログ名「読んだ木」について - 読んだ木)。しかし時間が経つにつれ、僕の持つどういった情報が、このブログにたどり着く人の、あるいはネットの海を漂っている人の手助けになるのか、ということがなんとなくわかってきた。これは、検索流入が増えてきたことで、検索クエリなどの情報から、このブログの訪問者が求めている情報の傾向が掴めてきたこと(参考:1年かかって総アクセス数5000到達 - 読んだ木)によるものが大きい。これが、再開を決断した大きな理由となった。自分が欲しい本や情報を探している人が、迅速かつ適切に必要な文献に辿り着く、その支援はそれなりに得意とするところだ。

 再開による影響というより、むしろそのようなアクセス情報による影響で、人文学系の情報を探している人、特に学部生のような人を念頭に記事を書いたり、リライトするようになってきている。アソシエイトリンクもカードで貼るのをやめ、文字からのリンクに変えた。ざっと読んでもらって、紹介している内容の全体を理解してもらった方がいい、という判断だ。

復活の手続き

 復活の手続きは、最初に登録する時と何も変わらない。アカウントIDが変わるので、そのリンクのIDを全部書き換えるのが面倒であるが、それだけだ。Amazonの方で何かチェックしているのかいないのか、それすらもよくわからない。もちろん、レポートは表示されるので、アカウントが機能しているか、売上が立っているかどうかは問題なくわかる。このブログで一回停止されたからといって、ペナルティがあるわけでもない。

 あとは180日間でまた売上が建つかどうか、というところである。まぁこのブログは、アフィリエイトで稼ぐとかそういうものではないから(そもそも本など単価が低くて儲からない)、アカウントが停止になったらなったでいい。大事なのは、僕がうまくキュレーションできて、僕の書きたい欲求が多少なりとも誰かの足しになる、ということである。

 

夢の中へ(通常盤)

夢の中へ(通常盤)

  • アーティスト:井上陽水
  • ユニバーサル ミュージック
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