読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

感染症と休園に苦しむ親たち

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子守りと仕事の両立にかつてない苦しみを感じる2021年度

 このところ、保育園へ行かせている共働きの親は相当苦労しているのではないか。

 去年は緊急事態宣言のおかげで流行らなかった感染症が広がっている上に、再び新型コロナが感染拡大している。そうすると、どこの家でも同じようなことが起こっているはずだ。それというのは、子供が1週間おきぐらいに、やれRSウィルスだ、やれアデノウィルスだということで発熱や呼吸器症状を繰り返し、その度に仕事を休んだり在宅にして、子供を見ていなければいない羽目になる。ようやく安定して通園し始めたと思ったら、今度は園のほうから、新型コロナ感染者が出たので急ですが休園させてください、と言われたりする。一義的にはウィルスが悪いのであって誰が悪いわけではないのだが、だからこそ、ほとほと参ってしまう。

 

 そんなわけで、4月の新年度開始から、海の日まで16週あるのだが、結局その半分、1ヶ月半くらいしかまともに仕事ができないまま、あれ、もう盆前かよ……と頭を抱えている親が多いだろう。

 かくいう我が家も、新年度の頭から、下の子慣らし保育(2週間)→コロナ休園(2週間)→ゴールデンウィーク(1週間)→下の子疲れて発熱(数日)→上の子疲れて発熱(数日)→RSウィルス様症状(1週間)→アデノ様発熱(数日)→アデノ結膜炎(3週間)と来てるから、しめて10週間ぐらいは平日も子守りをしている。

 その恨みつらみは、これまで何度も記事にしてきた通りだ。4月末の「4月の計画丸潰れ - 読んだ木」を皮切りに、ゴールデンウィーク前後の「嗚呼耐え難き大型連休 - 読んだ木」「夜、跨線橋をわたる - 読んだ木」ときて、5月中旬になっても改善しない状況に「「やる気が出る」問題 - 読んだ木」を書き、いっとき平穏が訪れた6月の「ルーティンの日々と波瀾万丈の日々 - 読んだ木」もすぐに去り、7月には再び「生活のペースが崩れる季節 - 読んだ木」となる。それで、苦し紛れに「「なにかいいことないかな」という想起に対処する - 読んだ木」や「家族がいて働いていても、新しい趣味を見つけることはできるのか - 読んだ木」を書いてなんとか耐え忍んでいる、というわけだ。

 

周囲の無理解で子育て世帯の生活は悪化するばかり

 僕は個人プレー中心の職種での非正規雇用なので、労働量を調節して突発的に子守りをすることそれ自体にはあまり問題がない。それによってクビにされたり、同僚からいじめられたりすることもない。ただ、そのツケが後で自分に回ってくるだけだ。来年度には雇用期間が切れるので、このコロナ禍の間仕事をあまり進められなかったことは、次の就職先探しに相当暗い影を落とすことだろう。頭の痛いことだ。

 しかし、僕などまだいい方である。Twitterなどを見ていると、同様に度重なる保育園の休園や子どもの休園で仕事に影響が出ている親の苦しみが次々に流れてくる。「保育園 休園」での検索結果など、惨憺たるものだ。子どもの休みに合わせて休んでいると職場で嫌がらせを受ける人、育休後復帰したのに、休みが多いことを理由に退職勧告されて正社員をクビになった人、配偶者が最低な人間で、育児を手伝わない、果ては実家で育児することを拒否されて苦しんでいるという、なんで離婚しないのか不思議なぐらいの人の例もある。

 

 僕は、職場で周りに休まれる側の経験もあるし、そのマネジメント側の人間の経験もあるし、自分が休む経験もあるからイメージは湧くのだが、こうしたことは要は子育ての周囲の無理解に起因することである。企業側としては、子育て「程度」のことで休んで欲しくない、それよりこの仕事を片付けるほうが先だ、ということになる。その時、企業側の担当者や上司の頭の中に、子供を取り巻く状況についての想像力はない。子供など、誰かが見ててくれるだろう、という甘えや無知が、その人たちを子育て世代に対する迫害者にする。そうした無理解は社会的に予想されていることであり、だからこそさまざまな法制度により子育て中の親が不利益を被らないよう配慮されているのだが、このコロナ禍では国からして脱法的振る舞いを堂々と行なっており(ドイツで政策を見て痛感…日本政府が「法治主義」を軽視しすぎという大問題(横田 明美) | 現代ビジネス | 講談社(1/7))、企業も子育て中の親に対して冷たい態度を平気で取るようになっている。例えば、コロナ禍で不利益をうけた労働者のための補助金である休業手当は、企業を介して払われる形だったが、企業がサボタージュしたため非正規労働者にはほとんど払われなかった(コロナ禍の非正規雇用の休業手当 5割が「支給されなかった」と回答: J-CAST 会社ウォッチ【全文表示】)。このような状況下で、子育て中の親たちはなおさら、不利益を被り続けることになるだろう。

 保育園は、感染症に対する専門的知識のないマネジメント層や保護者による無茶な感染対策の要求、日々態度が変わる行政からの指導により散々疲弊しており、家では親が社会的経済的に迫害され続けている。それで苦しむのは何より子どもたちであるが、社会を構成する多くの人々が子供や子育てに関して無関心であると、子どもの未来は暗い。

 

同じく苦しんでいる人たちのブログ

 この状況を変えるには、「保育園落ちた日本死ね!!!」(これもはてな匿名ダイアリーだったのだ、さすがはてな)のひそみに倣って、このような危機感や苦しみを発信し、共有することが第一であって、まずもってそれを体験している子育て中の広義の親、保護者がそれをするべきであろう。そう思って、僕以外にもこのコロナ禍での子守りと生活の苦しみをブログに書いている人はいないか、と探してみた。

 

休園が1ヶ月近く継続!?

6s-adviser.hatenadiary.jp

 まず見つけたのはこちら。ほぼ1ヶ月休園になってる。これは大変ですね。うちの園は企業経営だったので、休園したときも本社応援の保育士さんが入って一時預かりをやり、2週間で休園から復活できたのだけど、規模の小さい園だと保育士さんの陽性確認にタイムラグがあると最後の方の保育士さんが復職するまで必要人員を確保できなくて休園が延びちゃうんだよね。この方は在宅業務をされているようで、お父さんは普通に勤務されていたということだけれど、もし両方の親が通常勤務だとこういう時に詰むわけです。でも在宅勤務しながらだって、二人見てるのは普通に無理、っていうか勤務しなくても1ヶ月ワンオペで二人見るのは無理っすね常識的に考えて。僕だったら絶対子供殴っちゃいますね、2週間目の終わりぐらいに。あと、「去年の緊急事態宣言下のが耐えられた」「昨年の緊急事態宣言下、一斉休校のときはどのおうちでもこの感じだったので連帯感もあったことと思いますが、今は保育園も幼稚園も小学校も通常通り通っているお子さんがほとんど。ツイッターのタイムラインを見ても、臨時休園がこんなにも続く家はうちだけです。耐えきれない。」っていう部分にめっちゃ共感します。子供いないところと飲食業・観光業でないところでは、なんかもうコロナ前の日常に戻ってて。それが周囲の無理解にも繋がってるし、自分としても耐えきれない。でも長めの臨時休園起きてるの、多分どこも一緒です。タイミングが違うだけで。まだ起きてないところは明日は我が身ですよ、特に都内。

 

毎月、誰かがダウン

kerorimpa.hatenadiary.jp

kerorimpa.hatenadiary.jp

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 こちらも大変ですね。RSウィルスと同じように流行ってるのが、溶連菌とアデノウィルス。下痢の方は多分アデノでしょう。突発性発疹の後の不機嫌期は数日続きますが本当に厄介です。母子ともにダウンして、青森からお父さんが飛んで帰ってきてくれたってのは、本当にいいお父さんです。そりゃ誰だってイクメンになれればいいかもしれませんが、いつも家族と一緒にいたら仕事になりません。仕事にならなきゃおまんま食えない。だから家族と離れてでも家族のために仕事しなきゃいけない、これが家族構成員の最低1名以上に課せられた役務であって、足下の社会状況に合わせるとそれはお父さんが担うことになるわけです。それでも、無理を押して帰ってきてくれる、これはなかなかできない。できないからといって責めてはいけません。まずは社会の不理解を恨み、しかし現状取りうる選択肢の中で合理的な解決を目指すしかない。そして7月も風邪でダウン。いや、こういう同じ苦しみを味わっている人を見ると心からお見舞い申し上げると同時に、うちだけじゃないんだ……という気持ちになって少し溜飲を下ろすことができます。家族全員が元気な期間って実は少ないんだよね。なんで神社とか寺とかで親がわざわざ皆の健康を祈るのか、子どもの頃はわかんなかったけど、今めっちゃ祈りたいもん。みんなの健康。

 

何もなくても緊張感

dlit.hatenadiary.com

 今年度、休園や休みの影響をあまり被っていない人でも、昨年度のトラウマがありますので、常に不測の事態に備えて動く必要があります。また、「陽性になった人が出た園が増えてきているので今一度感染対策の徹底をというお願いもあって,気が重いところではあります」とありますが、これは本当に感じますね。自分が職場で感染してしまうなど、自分ちで感染者が出ると、保育園とそこに通う保護者にめちゃめちゃ迷惑をかけることになるので、気を遣います。なのに職場とかで感染症対策の意識がルーズな人がいたりするとマジでギルティな気持ちになります。それが上司とかだと最悪です。

 

最悪の配偶者

working-mama.hatenablog.jp

 こういう配偶者は問答無用でギルティですね。職場とかで理解がないのはまぁ仕方がないし、そこを変えていこうというのが今の風潮なのですが、自分が親なのに何も状況を理解していない人はさっさと親を辞めて他の人に代わってもらったほうがいいです。自分が応分の負担を回避する場合、少なくとも説明責任を果たす必要があります。

 

* * *

 

 Twitterとか見ると、もっと悲壮な感じの叫びがずらずら出てくるんだけど、まぁちょっとツイートだとプライベートすぎる感じがするの参照は控えよう。いずれにしても、そういう声がしっかり汲み取られ、広がって、多少なりとも子育てしながら働けるような社会になるといいのだけれどなぁ、と祈るばかりである。

 

 

(休園中は子供と遊ぶのも面倒だが、料理も大変だ。しかし、最悪でもバナナと牛乳さえあれば料理はサボれる。どうせ我らも霊長類。)

ワンオペ育児に最適なファストフード、寿司 - 読んだ木という記事も併せてどうぞ)

 

子育て関連記事:子供と遊びに行く場所について

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都会のカブトムシ

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 僕は田舎の育ちだが、野生のカブトムシというのには会ったことがなかった。田舎といっても色々あるが、僕の育った田舎は二つの川に挟まれた平地で、見渡す限り田んぼが広がり、土手が地平線だった。だからカブトムシのいるような雑木林というのはあまりなく、わざわざそういうところへ行って遊ぶこともなかった。

 もし雑木林へ行くことがあっても、カブトムシは夜行性だから、昼間にいくら遊びに行ってもいなかっただろう。カブトムシを見るのは夏休みのお祭りの出店でだけで、それも小さな虫かごに黒光りする害虫みたいなのが1匹入っているだけだったから、そもそもそれほど心惹かれなかった。

 

 ところが先日のこと。あまりに暑いので昼間は家の中に篭り、子供と遊びに外へ出たのは日も暮れかかった夕方だった。公園で一通り遊んで、さあ帰ろうと踵を返した先の木の幹に、いたのである。野生のカブトムシだ。それが冒頭の写真。

 恰幅が良く、きめ細かい羽の表面が西陽を照り返している。樹木の割れ目から樹液が染み出していたのか、はたまた別の理由があったのかわからないが、静かに貼りついて動かない。しかし弱々しさはなく、むしろ人を背にして堂々たる趣すらあった。僕が昔、虫かごの中にいるのを見たものより、一回り大きい気がする。身体に傷はなく、果たして本当に野生なのか、それともどこかで大切に飼われていたものが逃げ出したのか、と訝る気持ちも湧いてきた。

 

 子供たちと一緒にしげしげと眺め、満足して帰る途中、実は近くの別のところでも野生のカブトムシがいたのを見たことがある、という話が出た。どうやら、あのカブトムシは、逃げ出したインコが野生化した、というのとは違うらしい。やはり、野生のカブトムシがこの大都会にはたくさんおり、僕の育った田舎よりもエンカウント率が高いのだろうか。しかし、カブトムシにとっては僕の田舎の方がよっぽど住みやすいのではないか。なぜ田舎では全く会わなかったのに、都会で野生のカブトムシに何度も会うようなことになるのだろうか。

 そんな疑問にまさに正面から答えるブログ記事があった。

mushikisya.hatenablog.com

詳細はリンク先を参照して欲しいが、要は、都会の整備された公園はカブトムシやクワガタムシにとって生息しやすいが故に、実は都会の方が見つかる個体数が多い、という話である。

 実際その記事の中には、新宿御苑で撮影された数多くのカブトムシ・クワガタムシ証拠写真がある。ブロガーさんの名前もまさに「昆虫記者」とあるから、その道のプロの方なのだろう。それにしても、僕の育った緑豊かで水の豊富な田舎より、こんなコンクリートジャングルの方がたくさんの昆虫がいるとは、全く驚きだ。

 

 最後に、もう少し真後ろから撮った写真。白鳥と違って、カブトムシの背は空の青に染まっている。甲虫は嬉しからずや幹の赤空のあをにも染まりやすらふ、というわけだ。

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イズカリオンIZU

暑すぎて頭おかしい妄想してた。

 

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テレビ静岡独占放映

『イズカリオンIZU!』

 

 

*あらすじ*

 イズカリオンは伊豆高原にある伊豆幹線超進化研究所で開発されたスーパーロボ。研究所は恩田と金沢八景にも支部がある。ある日、正体不明の巨大生物が伊豆の海や山に登場。捕縛フィールドを富士山から射出し、イズカリオンが伊豆の平和を守るために戦う。敵の目的は伊豆半島を古代の島の姿に戻して支配することで、手始めに伊東線伊豆急行線駿豆線を略奪しようとしている。果たしてイズカリオンは伊豆半島を守れるのか!?

 

*みどころ*

 温泉が吹き出し、金目鯛が跳ね、ワニが走り回る激しい戦闘に目が離せない! 

 イズカリオン『E261サフィール』とイズライナー『2100クロフネ』のZ合体のほか、イズカリオン『E257オドリコ』とイズライナー『3000ライオンズ』、イズカリオン『651クレイル』とイズライナー『209ボーソー』のZ合体にも注目!

 山での戦闘では東海自動車イズカリオン連絡輸送部との、海での戦闘では東海汽船イズカリオンジェットパトロール隊との連携プレーが必見だ。連絡輸送部の得意技は、イズカリオンが入り込めない山間の地域でのゲリラ戦。ジェットパトロール隊の得意技は、海の上を電光石火で移動する高速戦だ。

 イズライナー3000ライオンズの活躍が光るエヴァとのコラボ回では、破壊されかけた箱根登山鉄道線を防衛しにいく際に70000ロマンスカーと371アサギリとのクロス合体があり、イズカリオンへの電源供給のための変圧器を積んだディーゼル機関車DD51牽引のシキも登場。

 シリーズ後半からは、シンカリオンとのコラボで登場するシンカリオンN700SとザイライナーE259マリネックスとのZ合体に注目。また、最終盤の総力戦では各地方私鉄から東急8000系が集結し、スーパーザイライナー8000ダイトウキュウというオールステンレスの巨大ロボットも。お見逃しなく!

 

(すべて妄想です)

 

yondaki.hatenadiary.jp

yondaki.hatenadiary.jp

コロナ明けの楽しみ

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前時代の暮らしの一コマを象徴する写真。中央の黄色い泡立った飲み物は、麦芽を発酵させたBīru (Beer)というアルコール飲料、隣にあるスナック菓子はO-Tsumamiと呼ばれる塩辛い米菓である。周囲に置かれた白いものはO-Te-Fuki (O-Shibori)、手を綺麗にするための濡れティッシュであるこのようなセットを、1時間分の時給と同じような金額で提供する「Izakaya」という飲食店が各地に存在した。そのような店でのアルコール摂取は、路上で昏倒する、駅で電車に轢かれる、車を運転して事故を起こす、異性を昏睡させてレイプする、感染症を拡大させる、などの行為を誘引することが知られており、大きな社会問題となっていた。しかし、いざ強権によってそのような店が皆閉店すると、それらの問題はIzakayaがなくても起こることが明らかになった。21世紀の人々の暮らしは、そのように辛く厳しいものであった。

 

 

コロナ禍の影響は甚大

 僕の生活圏におけるコロナ禍の影響というのは、明らかに甚大である。

 もっとも影響を受けているのは傍目に見ても飲食業で、職場周りにあったチェーンのカフェは4店舗中3店舗が閉店した。いつも使っていたパスタ屋、中華料理屋も閉店、僕の昼食の選択肢はガクッと減った。伝統ある居酒屋を含め居酒屋は何店舗閉店したか数え切れない。カラオケも2店舗閉店した。一つはほぼ一棟借りのような店舗だったのだが。ブームで5店舗ぐらい急に生まれたタピオカ屋も一つを残して閉店あるいは業態変更している。中島みゆきではないが、「みんなどこへ行った〜」と歌いたくなる(♪地上の星/中島みゆき)。

 飲食店の閉店の後に続いたのは、再開発ラッシュだ。コロナ前にあった大規模再開発だけではなく、むしろ居酒屋などが入っていた雑居ビルの再開発が目立つ。1年足らずの期間で、空き家になったビルが片っ端から解体され、更地になっていった。いま、どこも杭打ちや鉄筋コンクリートの流し込み、鉄筋の組み上げをやっているが、一部にはまだ更地のまま、下手すると廃墟ビルのままのところもある。不動産業、建設業は今も大層儲かっているのだろう。

 日本は先進国やOECD諸国に比べて遅れをとったとはいえ、後1年ぐらい今の状況を耐えれば、今の欧米のような経済回復が見込めるだろう。しかし、コロナ関連の経済政策が後手に回ったので産業へのダメージが大きく、欧米のように回復するための産業的基盤がなさそうだ。アメリカではいま人手不足が問題になっているが、それはコロナ後でも店が生きているからそこが採用をかけるためであって、日本のようにそもそも店がなくなっていたら人手不足になるほど求人も生まれない。

 

アメリカの雇用者増加を引っ張っているのは1月から雇用者が急激に右肩上がりとなっている外食産業、時給の上昇はレジャー産業が顕著である

 

 

 アメリカはいいよなぁ、と指を加えてみている余裕はない。コロナ明け、自由にしていいよと言われた時に、カフェもない飲み屋もないこの街でどう生きていくか、それにコロナ対応の諸々で手元の金も減っている状況で求人も少ないとなれば、どうしたらいいのか。これは日本に生きる身にとっては重大な問題である。

 

コロナ禍以前の僕の楽しみ

 そこで、何かコロナ明けの楽しみを今から用意しておこうと思う。まずは、コロナ禍でできなくなっていたこれまで自分が好きだったことをやりたい。それは、ヒトカラしたり、カフェでお茶をしたり、夜に居酒屋で飲み歩くということだったのではないかと思い当たる。しかしそれらは、コロナ明けとはいえすぐにはできないだろう。まぁカラオケやカフェはこんだけ閉店してしまったら、そもそも復活するまでに時間がかかるだろう。コロナが明けても、人出の戻りを地域ごとに見極めて、いい物件を見つけて融資をつけて設備を入れて、とやっていたらキリがない。外に飲みにいくことについては、感染云々ではなく、そういった行為が家族などに受け入れられなくなるかもしれない。飲み歩かなくても仕事ができることは証明されたのだから、前と同様に家にいて家事を手伝いなさい! ということに当然なる。大体夜中まで家に帰らず飲みまくってた時代がおかしいのであって、アメリカ西海岸とか、そもそも外で夜中まで飲んでる人、少なかったしな。みたいな出羽守も出てきそうだ。というか、コロナ禍以前はほんとにヒトカラ、カフェ、居酒屋が自分の楽しみの中心だったことがしみじみわかるな。前回趣味がない話(家族がいて働いていても、新しい趣味を見つけることはできるのか - 読んだ木)を書いたが、要はこの三つが自分の趣味といえば趣味だったわけだ。

 コロナ禍でできなくなっていたことは他にもあって、それは旅行や出張だ。旅行といっても大層なものではない、ちょっとした小旅行、国内の移動程度の話である。しかしちょっと生活圏を離れるだけで色々刺激はあるものだ。それが自分にとってなかなかいい気晴らしになっていた。仕事でも、何か調べたりつながりを作ったりするためには、やはり現場に行く必要が起こるのであって、出張したくなる。それが、コロナ禍ではできなかったり制限されたりしたため、仕事の効率は下がり、アウトプットは仕事だからしたものの、その質の低下は避けられないところであった。出張できるようになるまで先延ばししたプロジェクトなどもあり、これを再開したいものである。しかし、今度はその予算がない。プロジェクトが今年度で終わってしまうため、コロナ禍が収まる来年以降には、仕事がない。本当は去年今年で次の仕事の仕込みをするはずが、そういった理由でできなかったわけである。これは仕方ないものの、頭の痛い問題であって、いずれにせよコロナ明けすぐにスタートダッシュを切ることは叶わない。

 

コロナ明けの楽しみ

 そうすると、僕はコロナ明けの楽しみを、コロナ禍でできなくなっていたことではなく、まったく新しいことに求めなければならないようだ。ただ、趣味の話とは違って、もっと日常的、刹那的な事柄でよい。

 そもそも、コロナ明けたらできることってなんだろう。マスクをしなくても良くなるとかだろうか。僕は2回目接種から2週間経ったら速攻外したいのだけれども。マスクをつけなくても良くなるなら、それはコロナ明けの楽しみの一つになるな。

 

 コロナが明けて、しかもなんか自民党がまだ元気があって二階幹事長が権力を奮っていたら、Go to 施策が復活するかもしれない。実際、これがもっとも理想的なシナリオである。コロナ禍中に支援しなかったのは最悪だが、コロナ明けたら必ず飲食と観光業を支援しなければならず、そのためにGo toシリーズの施策はいいものである。やるタイミングが早過ぎたのが問題だった。五類に指定替えされたらGo toやる、その間は必ず支える、というような見通しでも出してくれればいいのだが。そういう施策がでれば、お金がなくても税金で支援してもらって旅行し、美味しいものが食べられる。最高だ。その税金を納めるべく、旅行から帰ってきたら頑張って働く。本当なら自分でお金を借りて遊んで働いて返す、というのが資本主義の理想だが、日本で生きていると個人で借り入れを増やすのはリスクが大きいので、国を介してお金を回すようになるのは仕方ない。経済政策ではなく文化的な、経済学用語で言えば非合理性を含む「行動」的な問題だ。

 コロナ明けは、低スキル労働者を吸収できる観光や飲食業、実店舗型小売業を活性化させ、さらに貧困に落ち込んでいる非正規雇用の男女、ひとり親家庭を救うためにお金をもっとばらまいて、国債問題をインフレで乗り越えていくという覚悟が必要だ。若者を貧困に落とし込み、公共事業を制限したことで需要を潰し、数十年が経つ。それでいて、日本は需要不足だとかいうが、笑止千万である。コロナでも同じことを繰り返しているが、同じ轍を踏んではいけないだろう。労働者は質の悪い中小企業者に抵抗し、自殺するのではなくブラック企業を見捨てて転職し、それにより賃金を上げなければいけない。アメリカでは人手不足で賃金がグングン上がっている。従業員を大切にしない経営者を保護する時代は終わりにして、労働者の賃金をあげよう。そうすれば、個人消費も上がり、税収だって増える。

 コロナ明けの楽しみは、まさにこれだ。賃金の上昇。コロナが明けたら急に経済が回りだし、そのギャップで人材不足が生じ、賃金が上がるかもしれない。

 いずれにしても、国の補助金か賃金の上昇でコロナ明けに旅行に行けるというのであれば、これは楽しみである。

 

コロナ明けの楽しみが裏切られる可能性

 テキサスの知人からは、東京はコロナ対策全然進んでないんだね、もうこっちではマスクつけてる人いないけどね、みたいな煽りを受けるほどで、コロナ禍の恐怖が消えればマスクは無くなりそうな気もするが、逆に、アジア圏では文化的に、マスクはワクチン打った後でもしばらくつけ続けそうな気がする。それに関連して、コロナ明け、つまりワクチンが行き渡って、感染者数が全国でもたいして問題にならないような人数になり、感染症の指定が二類から五類へと変更になったとき、改めて「シン・新しい生活様式」が提唱されるのではないか、ということを僕は危惧している。

 先にあげた自民党二階派的なシナリオも、現下の情勢と衆議院選挙が控えていることを鑑みれば、実際には実現しないだろう。逆に、最悪なシナリオは、コロナ明けに緊縮財政派が政権を握っていて、必要な財政支出をせず、終わったコロナ対応の言い訳作りに社会保障費にお金を投下し続けることだ。確かにコロナ後の病院経営の財政は相当悪くなっているところが多いと思うが、それはむしろコロナ禍を避けた長期療養者を抱えている民間病院との間で調整すべき予算的イシューであって、経済のカンフルにもならないのにさらに病院に金を注ぎ込むことはないのだが。そうすると、賃金も上がらないし、個人消費も増えないし、医者の発言が相変わらず珍重されて、病院を圧迫しないようにシン・新しい生活様式をやろう、という話になるだろう。

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▲新しい生活様式

 

 シン・新しい生活様式がどういうものになるかわからないが、現在の海外の事例に照らせば、結局は新しい生活様式と同じようなものになる気がする。これにマッチする楽しみといえば、ゲームしかない。任天堂スウィッチとか、スマホゲームとか、プレイステーションとかを買うのが良いかもしれない。僕は家庭用ゲームとしてはプレイステーション2しか持っていたことがなく、そのソフトときたら電車でゴー2だけであった。しかしどうもテレビゲームや携帯ゲームをする気にならないんだよな。ハードウェアを買うのも高いし。でもゲームを買うとなれば、何かはわからないが楽しみにはなる。

 あとはなんだろう、人に会わずに一人で楽しめるようなことだから、トレーニングとかだろうな。ただこれは既に多少はやっているから(リーズナブルで高機能な体重計(体組成計) - 読んだ木)、コロナ明けの楽しみにするにはいまいちだし、そもそもトレーニングはあまり楽しくない。

 まぁ、そうなれば、またこの愚痴っぽい感じのブログ記事を書き続けることになるかもしれない。それもまた人生か。

 

 

 

僕のパワハラ気質

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 僕は怖いらしい。色々な人にそう言われる。受け持っている授業の学生にそう言われるし、昔一緒に仕事していた人からもそう言われたことがある。保育園では怖いお父さんというポジションでネタにされるほどだし、僕が外からみて他人に対して怖いように振る舞っていることに間違いはなさそうだ。ただ、同世代や僕より歳上の人にはそのような評価を受けたことはないので、僕は弱いものイジメをしているのではないか? という恐ろしい疑念もある。パワハラ気質なのだろうか。

 僕の一体何が怖いのか。学生や仕事のスタッフは、僕に色々指摘されるのが怖いと言っていた。子供に対しても、僕は他の親に比べて時間や行動にはっきり指示を出し、それを守らせるので、それが怖いように見えるのだろう。これはたしかにパワハラ気質ということだろう。もっと自由にやらせてやって、遠くから見守った方がいいというわけだ。しかし、小学生の図工ならともかく、自由にやらせてニコニコ見守っていては学生は学ばないし、子供に何も言わなければいつまでも家に帰らず、すぐに道路に飛び出してしまう。実際、周りの子供たちがぐずっている間、後から出てきたうちの子が僕に脅されてさっさと帰る、ということはよくある。

 

 僕は短気で、しかも自分の計画した行動をかき乱されるのが本当に嫌いときている。それで普通の仕事ができずに個人プレーの仕事をやっているわけだし、たとえ我が子であっても他人のことを悠長に待つことはできない。吃音に育て方は関係ないともいうが、うちの上の子の吃音は僕が怖いせいではないかと勘繰ってしまう(だから話す時だけは何も言わず悠長な風を装って待つが、子供にはそれも早く言わなければならないという無言のプレッシャーになってるのかもしれぬ)。

 このような僕の性質は、もちろん僕の有する価値観や考え方に由来する。僕は表面的には平等と平和を志向しているが、心理の根底においては、優勝劣敗的価値観を有している。つまり、競争に基づいて自分の立ち位置が決まっているという考え方だ。これは僕の親の教育の賜物であるが、この考え方が確固たるものとして揺らがないのは、僕自身の自分に対する自己否定的感情がいくら拭っても拭い難く染み付いているからだ。優勝劣敗はほとんど運に左右されるとはいえ、もし改善したいのなら自分の努力によってしかなし得ない、逆に言えば努力なしには僕は淘汰され存在を否定されるという恐怖が常につきまとっている。こういった自己責任論は、氷河期以来の若者に共通する意識だとも言われる。実際助けてくれる人などいないのだから、それは正しい。存在を肯定してもらうためには、達成すべき目標があり、そのための計画があり、それに即して努力しなければならない。その努力の契機が削がれれば、そこで自分の足元が掘り崩されるような恐れを抱いている。その恐れが、他人にも自分の考えているのと同じように振る舞い、目標を達成させてほしいという働きかけにつながり、しかもそれを僕は当然そうすべきだと考えているので、他人にとっては怖さになる、たまったものではない。僕より上の立場の人間にとっては、前に書いたように怖さではないが、面倒臭さになる。僕の考えを変えさせ、周りと協調させるために、説得や懐柔など相応の手間がかかるからだ。そうしてみんな僕から離れていくのだが。

 

 例えば人の言うように、学生に無理して勉強させることはない、あるいは、子供をもっと自由にさせてやれ、という考え方に僕が馴染めれば、僕の怖さは溶解するだろう。しかし、勉強しない学生のためになぜ教員が必要であろうか。子供を管理せず自由にしておいてよいのなら、別に親が毎日面倒を見なくとも、昔のようにどこかで遊ばせておけばよいだろう。いずれの場合でも、僕は不必要であるはずだ。僕はそう考える。それが正しいかどうかということではなく、その場における自分の有用性に問題をすり替えることで他人の話に耳を貸さなくなるところに僕の問題はある。

 人も別に根拠なく無責任に言っているわけではない。どうせ社会関係の中で学生と教員とに分かれて布置されているのだから、その構造の中で楽しめばよい、というように構造の問題にしたり、あるいは子供の主体性の発露が尊いものであり、そこに参画できることを喜ぼうではないか、というように相手の主体性に問題の軸を持っていけば、僕が必要か不必要かということなど問題にならない、というロジックが成り立つだろう。これは一例で、いくらでも考え方を変えれば、相手に怖さを与えずに関わるということは難しくない。とはいえ、僕はそのように言われたとしても、やはりその構造に自分が参画していること、相手に対峙している自分の主体性ということなどを考えてしまう。そこでやはり自分に着せられる責任があり、果たすべき役割があるのではないか、それを正しく把握して実現するべきではないか、と思わずにはいられない。そう考え始めてしまうと、全ておしまいだ。結局自分の軸を押し付けることで相手を怖がらせることになる。

 

 自分のこういう考え方とそれに付随する問題を僕は昔からぼやいていて、僕のことをよく知る人たちはいつも、あなたは生きるのが大変ね、と笑ってくれる。あなたは真面目すぎるのよ、と。真面目に見当違いのことをやって大ゴケするのが僕の人生芸というところもある。しかし、人をあまり怖がらすようでは、この芸風も改めなければなるまい。怖くない、人畜無害で優しい人間になり、ポリティカル・コレクトな発言に終止する。さういうものにわたしはなりたい。しかし、本心ではそうはなりたくないのだから、厄介だ。染み付いた自己否定を乗り越えられないうちは、常に自らの言動を意識して、パワハラ的気質を隠す必要がある。

 あるいは、周りが僕の怖さを乗り越えて、対他的に僕を否定してくれれば、その否定を媒介にして自己否定意識を否定し、乗り越えることができるかもしれない。そうすれば僕は他人にも寛容になれるだろう。その時が本当の僕の成長の機会だろうが、そんなことをしてくれるほど周りも暇ではない。実のところ、誰にも相手にされなくなって自己否定を拗らすのが関の山だ。やれやれ、とかくに人の世は住みにくい。この世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。そう書いたのは夏目漱石であったか。僕がブログを書き続ける本当の理由も、おそらくその辺りにあるのだろう。

 

 

 

大瀧詠一で真夏を彩る

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 もう、梅雨明けなのだろうか。暑い日差しがアスファルトを熱し、うだるような気候にうんざりさせられる。しかし、日陰で風が吹いてくれば、もうしばらくすれば秋がくることの予感もある。夏だ。

 

 

A Long Vacation

 真夏の始まり、ということでかける曲は、TUBE——ではない。通称ロンバケ大瀧詠一のA Long Vacation である。

  昔はこれ、レコードで聴いてたんだよなぁ。今はちょっと置く場所もないし、子供が走り回って針飛ばしたり盤割ったりしそうなので、実家に眠らせている。レコードで聞くのがなんか夏っぽいんだけどな。とはいえ、Apple MusicでiPhoneから聴くのでも、最近は音質がいい。Lossless とかいって、設定で高音質再生を選択しておくと、例えば「君は天然色」最初のチューニング音に含まれる高い倍音なんかまで聴こえてくるほどちゃんと音が再現される。でもレコードがいいよなぁ。

 レコードがいいのは、このジャケットのイラストもある。レコードのジャケットのイラストでいえば、前に記事にしたリー・オスカー「風をみたかい」の鈴木英人のイラストもイケてる(リー・オスカーのベスト盤「風を見たかい」:「約束の地」「朝日のサンフランシスコ・ベイ」ほか - 読んだ木)。でも、このロンバケのジャケットも相当いけてるし、こっちの方がよく知られているだろう。このイラストは言わずと知れた永井博のものだ。この、海のそばのプールの誰もいない感じ、これが大瀧詠一の歌が描くちょっとアンニュイな雰囲気をよく表現している。

 ▼Amazonでは当時のLPもまだ入手可能らしい。これで子供に割られても安心だ(?)

 

君は天然色

  このアルバムの収録曲の目玉はなんといっても最初の「君は天然色」だが、この歌のタイトル自体が既に色褪せている。僕は結構大きくなるまで、これを「きみはてんねんいろ」と読んでいた。もしかしたらこの記事の読者にもそう読む向きがあるかもしれないが、それは間違いだ。ここでいう「天然色」は「てんねんしょく」と読むのである。しかし21世紀を生きる僕らに天然色なんて言葉は馴染みがなくてな。

 一応補足しておくと、天然色というのは、昔、白黒の映画しかなかった頃に、新たにカラー映画が出てきた時、自然の色みnatural colorだ、ということで「天然色」と打ち出したのである。つまりフルカラーという意味だ。なお、「オールカラー」「総天然色」という表現もあるが、これは一部だけフルカラーの映画があったので、それと区別するためにそう銘打っていたらしい(Wikipedia情報)。

 

 他の曲もそうだが、全体的に海辺のリゾートにいる話であって、だからイラストも海辺の屋外プール付きホテルだと解釈すべきだろう。いまどきこんな綺麗で静かなところはインドネシアにでも行かなければないかもしれないが。歌の登場人物も、血気盛んな若者というより、もう散々遊んで、30代とか40代に突入し、しかし子供などはおらず生活上の余裕があり、まだ遊びたいけどもう元気もないし、という雰囲気を感じる。村上春樹とは違う方向性のアンニュイさだ。こちらは遊び方を知っている、というかね。まぁバブル崩壊後の日本ではちょっとイメージも湧かないような贅沢さがある。

 

カナリア諸島にて

 いやほんと、その贅沢さってのはいいもんで。「カナリア諸島にて」を聴いて、じゃあカナリア諸島はどこにあるのかな、と。

  Googleで検索してみると、アフリカ北西部のスペイン領の群島です、とか出てくる。

 おおー良さげなところだ。なんか洞窟とかもあるらしい。でも日本の歌でこんなところを歌詞にするって、やっぱりそういう時代だったんだよね。日本人が高度成長期で世界各地に出かけて行って、そこで稼いだり遊んだりしてた頃。村上春樹マルタ島について書いたり(スプートニクの恋人 (講談社文庫))、沢木耕太郎ユーラシア大陸縦断してるし(深夜特急1―香港・マカオ―(新潮文庫))、なんか余裕があったいい時代だったよね。今はみんな貧乏旅行か物価の安いところに逃避するしかなくて、先進国のプール付きホテルのリゾートに行くとかはできないからなぁ。余裕のないヒッピー文化がスピリチュアル化して貧乏の忍耐を説くための自己啓発になる、あるいは教祖のためのカモ作りに使われる、みたいなところがあって、やっぱり反資本主義的な文化も資本の支えがないとな……なんて思ったりしてる。ともあれ、今どきの、自分の部屋すら一歩も出ないで世界が変わることを祈るような歌とは違う味わいがある。最近のそういう歌も好きなんだけどね。yama とか聴いてるし。

 ▼yamaで一番すきな曲

 

 

 まぁ、このコロナ禍でそもそも旅行も何もできない時代なので、贅沢とかそういったこと以前の話という感じもするが、なんとか想像力を働かせて、妄想の中だけでも夏を楽しみたいものである。

 

 

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〔季節に合わせた曲の話シリーズ〕

春の訪れを感じた時:「モーツァルト日和 - 読んだ木
春のまだ肌寒い頃「リー・オスカーのベスト盤「風を見たかい」:「約束の地」「朝日のサンフランシスコ・ベイ」ほか - 読んだ木
少し暖かい春の朝:「カーペンターズの朝 - 読んだ木
初夏の空気:「懐かしい吹奏楽曲「セドナ」を聴きながら - 読んだ木

家族がいて働いていても、新しい趣味を見つけることはできるのか

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子供がいると気ままに旅へ出たりできない

 

 

趣味なき仕事人間への道……

 僕に趣味というものはあるのだろうか。このブログでは、鉄道のことや本のことや音楽のことなどを書いているから、それが趣味なのではないか、と問われれば否定はできない。しかし、僕のイメージする趣味というのは、それに没頭する共通の仲間とか、あるいはなにか習得するための投資とかがありそうなものだ。本など誰でも読んでいるし、しかもそれは一部僕の仕事なのであって、げんみつには趣味とはいえない。鉄道について言えば、鉄道を趣味にしている人はあえて鉄道に乗りに行ったり、あるいは写真を撮りに行ったりするのであって、僕のように通勤を記録するなど趣味とは言えない。音楽も特定のジャンルやアーティストが好きなわけではなく、楽器もひかないから趣味とは言えない。

 いずれも、それを趣味にしているような人はその活動に積極的に取り組むことで、その方面に知り合いができたりするようなことがあるほどなのであって、単にブログのネタとして書いているだけのような僕のような関心の寄せ方は、まぁ趣味とは言えない。言うとしてもせいぜい、程度の低い趣味、としか言えないだろうし、そう表現するならむしろ、趣味がないと言うほうがいくらかマシな気がする。

 ブログの書き方をまとめたりしてわかったが、僕はブログを趣味にしているわけでもない。これは仕事の余録、あるいは日記のようなものだ。仕事のための基礎体力づくりといってもいい。日記を毎日つけていても、私は日記をつけるのが趣味です、と公言する人はあまりいないのではないか。相当貧困な趣味か、あるいはどれほどすごい日記をつけているのか、と思われるだろう。僕は前者である。

 僕に比べれば、僕のパートナーなんかは多趣味だ。色々と習い事をしたり、趣味のために遠くの島や海外に行ったり、その発表会があったりして、趣味を楽しんでいるようだ。そこへくると僕は、習い事など小学校で終わったし、発表会も小学校で終わったし、趣味の繋がりとかはないし、知り合いはほとんど大学までの友人だし、平日も休みも、仕事か子守りで他の繋がりは全くない。これでは老後行き場のない仕事人間そのものではないか。そういう危機感が突如湧いてきた。こういった話は「既婚子持ちゆえにつまらない人間になる恐怖 - 読んだ木」でも切々と書いてきたことだが、今回は趣味の問題にフォーカスして考える。

趣味を作るにあたっての二つのハードル:時間とカネ

 なんで僕に趣味がないのか、ということは昔、やはりブログに長々と考察し、あまり趣味になりそうなことに強い関心を示せない僕の性格が悪いのではないか、という話を書いた。しかし、これは上部構造論であって、実際の要因は、強い関心を示してじっくりと取り組まなければ趣味も作れないような僕の置かれた経済的社会的状況、つまり下部構造にあるのではないかと最近は思っている。

 一体、趣味というのに取り組むにはずいぶん高いハードルがあるのであって、その二大阻害要因は時間とカネである。相当ホワイトな企業に勤めていて時間が有り余っているというなら別だが、家族がいて普通に働いている人で、週に1時間でも外でぶらぶら自分だけの時間を使えるような人がいるだろうか。今はコロナだからまだしも、その前は平日昼間と夜の数時間は残業含めて働き詰め、そのあとは営業や他人のフォロー、終わってない打ち合わせのために「懇親」と称する仕事。早く帰っても遅く帰っても家事はあり、朝起きたら仕事へ行くまでは家事。休みの日は子守り。研究の世界に移ってからはさらにワークライフバランスなど程遠く、毎週土日のどちらかが学会や研究会の仕事で潰される。その分の家事分担でまた揉める。研究の世界もせめて民間並みにダイバーシティを認めてほしいが、個人プレーでの弱肉強食ゲームの世界なのでそういうことを言ったが最後、この世界からはさようならだ。民間に移れる人はいいが、そうでない人は病院か自殺の二択になり、見ていると結構シビアである。

 非正規で働いていたころは、まだ時間の余裕はあった。別にシフトに出ようが出まいが会社に億千の損害が出るわけでもないし、代わりはいくらでもいるからだ。しかし非正規の時はカネがない。稼いでくるために必要な特定人材と、そうでない人材との落差が非常に大きい。まぁ資本主義の論理では仕方がないところだが。これが嫌なら欧米のようにみんなが非正規とまではいかなくても流動的な雇用になるしかないからだ。とはいえそれは悪いことではない。むしろ、非正規の地位をさらに低いところから支えさせられている技能実習生という最低の制度を早く廃止して、雇用の流動性を高めて弱い企業が淘汰されて格差が拡大しつつも頑張れば稼げる人がより増える社会の方が、資本主義としては正しいと思う。ただ、資本主義がいいかどうかというのはまた別の話だが。ともあれ、そうでなくて現状の制度のもとでも、やはり非正規だと趣味などやっているような金銭的余裕は生まれない。

 そうすると、趣味に興じるために必要な時間とカネがあるような人間というのは、ホワイトな企業に正社員として勤めてそれなりのお給金をもらっている人に限られる。それは、ずっと非正規やらハードな中小企業やらを渡り歩いてきた僕には望みえない立場である(なお、いまも非正規である)。

人が流れがちな趣味:パチンコとかスマホゲームとか

 ただ、そういう僕にも昔は少しく趣味があったのであって、それは第一に登山である。年に一度か二度だったが、山に登ってリフレッシュする。そこでは普段は全く会わないような人や動植物、景色に会えたし、趣味ならではの専門性とそれにまつわる会話をするコミュニティもあった。しかし、もう本格的な登山はしないと思う。色々な理由があるが、やはり子供がいると休日家を空けたりすることは難しいし、子供ができたときにサインした保険契約にも、登山が趣味でないことを確認させられたりしているし、落ちて死んだりしたら家族に多大な迷惑がかかる。あるいは、大学生ぐらいまではお遊び程度に楽器を触っていたのであるが、それはサークルだったから場所も安く借りられ、学生だったから時間もたっぷりあったということだ。当然、今のように都会の集合住宅にいては全くできないことであって、年に数回の登山とは違って、コンスタントに練習する時間が取れなければオケやアンサンブルに入ることもできない。そういえばヒトカラ(一人でカラオケ)も好きだったが歳取るにつれて声が出なくなって嫌いになったな。

 大体、金と時間がない人ができる趣味など限られていて、そういう趣味は労働者の遊戯人口が多いことで知られている。想像してほしい。営業の合間の数十分とか1時間とかに千円だけ使って駅前でできるような趣味しか、働いている人はできない。それは何か。パチンコとスロットである。そこにマッサージ、エステ、ヘルスなども含められるだろう。いずれにせよ、やはり経済と地理、時間と資本の配分というのは合理的にできているものだとつくづく感じさせられる。主婦がパチンコをするなら住宅街の真ん中にパチンコ屋ができただろうが(実際には都市計画法があるので難しいけれども)、主婦はわざわざそんな短時間で興奮するような趣味など必要とするような環境にいない。住宅街を歩くと、本当にああいう家の庭とか、玄関の置物とか、行き届いた掃除とか、ずいぶん趣味に事欠かないだろうなと思う。パートぐらいでしか働きに出ない主婦がいる家でないと、一軒家の管理というのは難しい。これは自分で空き家になった実家を管理した経験則でしかないものの、下男下女を雇うというのでなければ、実際に家の管理というのは暇でないとできない。その逆の例で言えば、ゴミ屋敷になる人は、ゴミ屋敷になる前に経済的困難などに直面しているのが通例だ。

 家族がいて働いている人は、男女問わず、趣味を作るのが非常に難しい。それゆえ昔は皆パチンコしていたのだが、最近はスマホゲームに移っているそうだ。確かに、スマホゲームなら場所も問わないし、細切れの時間でもできるし、やはり一回に数千円しか使わなくても楽しめるだろう。流行りのサウナなんかも、忙しくても金がなくてもパッとできる趣味だ。結局そういうところに落ち着くわけだ。まぁ僕も、パチンコ屋スマホゲームはしないものの、銭湯に行ったりするのは好きだから似たようなものかもしれない。がしかし、もうちょっとなんというか、気の利いた趣味が欲しいものだ。いくら町の銭湯に行っても、暇を持て余した年金生活者の考えるもっとも正しい風呂の入り方に即した振る舞いを自分がしているかどうかを気にするばかりでは、あまりいい趣味とは言えない。

 子供達が巣立ったら、再び登山に戻ろうとは思っている。問題はそれまでの20年間だ。僕の人生が、再び登山に戻れるまで続いている可能性もそれほど高いわけではないのだし。このブログのように色々書くのも、趣味としてまぁ悪くはないのだが、ややその動機が趣味にそぐわない(ブログを書く動機とその目標、指標 - 読んだ木)。上に書いたように、日記のようなものであって趣味とは言い難いと思う。何かこう、せっかく趣味なら、純粋に楽しみにやるものであってほしい。確かにパチンコとかは、楽しいものだと思う。僕は数回しかやったことがないが、興奮がある。スマホゲームは流石にやったことすらほとんどないが、でもゲームだから楽しいのだろう。楽しくてやりすぎて、ちょっと罪悪感を覚えるぐらいが趣味としてはいいのではないか。

家族がいて働いている人(僕)の趣味の候補は色々ある

プラモデル、鉄道模型ペーパークラフト

 昔は鉄道模型とかやりたかったけど、今やったら絶対すぐ飽きるとわかっているからやらない。鉄道模型やプラモデル、あとペーパークラフトなんかは、ゆっくりちまちまやっても進展があり、また達成のポイントが細かく存在するやり込み型の趣味なので、時間と金のない働いている人でも楽しめる趣味だと思う。ただその、性格の向き不向きはある。こう、やり込まなくちゃいけないので。エントリーはしやすい(ネットで一つなんか買ってみるだけ)ので、トライしてみる価値はある趣味だ。

語学やプログラミング、資格取得

 案外、語学やプログラミング、資格取得なんかも働く人の趣味として人気があるらしい。これらは入り口で挫折さえしなければ、新しい分野の知り合いもぐんと増えるし、自分の知識や可能性も広がるからよいものだ。ただ、この入り口で挫折しないというのが難しい。プログラミングも、アプリを一つ作る、というところまで行くのが難しい。語学も、挨拶して話せるというところまで頑張るのができない。資格取得も、資格試験の申し込みまで行ければいいのだが、それがいけない人が多い。つまり、趣味の要件である「楽しい」状態が長続きしないわけだ。僕も昔のプログラミング言語はある程度趣味として身につけたが、今から新しい言語やSDKを習得するのは抵抗がある。語学はやりたいんだけどね……独学だと話せるところまでいけず、会話教室だとコストが高く時間の調整が厳しいというジレンマがある。

レーニング、ジム通い、ランニングやサイクリング

 あとはやはりトレーニング、ジム通いだろう。「エニータイム・フィットネス」というジムが流行っているほど、ジムでのエクササイズ、トレーニングは時間も場所も問わず楽しめる趣味だ。あるいは家の近所でのランニングやサイクリング。僕はそういうものに全く楽しみを見出さないので通うことはない。粛々と家で筋トレをしている(リーズナブルで高機能な体重計(体組成計) - 読んだ木)。他人についている筋肉というものが嫌いなんだと思う。筋肉は色々なことを可能にし、色々なことを肯定するため、懐疑がない感じを受けてしまうのだ。筋トレは精神の安定にいいものだが、安定した精神ほど気持ち悪いものはない。しかし一般に、これは趣味の有力な候補の一つである。なお、僕は昔、1年間ぐらいジムに通っていたことがあるが、そこで新しい知り合いができるようなことは全くなかった。

オンラインサロンや自己啓発、占いやスピリチュアル

 オンラインサロンや自己啓発、果ては占いやスピリチュアルに趣味としてハマる人もいる。別にいいと思うけれど、僕はそういうところとはあまり関わろうと思わない(はてなブログ読者10人到達 - 読んだ木求職者が頼るべきは適性診断か、タロットカードか - 読んだ木)。単に受信者であるような形での趣味というのは、僕にとってはストレスである。僕が楽しいと思うことはもっと創造的で、しかも色々な人と双方向に繋がれるようなものだ。

俳句や短歌

 年老いてくると(これは比喩的表現)、俳句や短歌を作っては新聞に投稿する人というのもいる。意外と採用されるらしく、採用されて評者のコメントがついたりして、読まれるものなら趣味者冥利に尽きるだろう。コツコツ書き溜めておくだけでも、達成感があって楽しい。日記やブログと違って、こう色々型に合わせて工夫したりとか、そういう人目に触れるチャンスがあったりだとか、楽しめる広がりがあるので趣味としていいだろう。僕は仕事に近すぎるのでちょっとだめだけど。

今後の課題

 色々候補を挙げてきているが、僕が楽しいと思うことはあまりなさそう。とはいえ、ちょっと挙げただけでも色々思いつくところからして、働いていても新しい趣味を見つけることは十分に可能である、という意識をまず持たねばならないだろう。スマホゲームで時間と金を浪費してしまうぐらいならよりいい趣味を作れそうなものだ。しかし僕は、何かを面白いと思う感受性が落ちてきているのだろうか。茨木のり子に怒られるな。最近、話してて面白いと思う他人もいなくて会話も面倒に思っていたが、それは自分の感じ方に問題があるのかもしれない。今後も色々趣味について考えてみて、これというものがあったらここに追記し、遠からず自分の趣味を作りたいものだ。

 

  

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この記事は以下の続きっぽい話。

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