読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

雑想(2022.9.12)

 ナショナリズムに、排他的なものと包摂的なものという相反する二つの方向があるとすれば、排他的なものは民族主義へ向かう道であり、包摂的なものは帝国主義へ向かう道である。

 日本のナショナリズムの限界は、中国を模倣して五族協和を唱えるところまでは行ったものの、多民族国家の中国とは異なり、単一民族の血族的紐帯を軸とした国家として近代を出発したために、自民族中心主義を抜けることができなかったことにある。つまり帝国を自称せずむしろ漢民族中心のナショナリズムで共和国を目指しながら、実質的に清という帝国を引き継がざるを得なかった中華民国に対し、日本は帝国を自称しながら他民族を包摂できないまま武力でしか領土維持をできず、植民地人民に帝国の一部としての自覚を与えることができなかったのである。現代中国人の多くが、戸籍上の少数民族としてのアイデンティティをほぼ忘れて中国人を自称しているのとは対照的だ。

 日本の右翼はいまでも帝国主義者になれない。島国根性で隣の島を差別し、あるいは移民を差別し、彼らが自分の意にそぐわなければ、民族の名を騙って自分の感情に基づきこき下ろす。彼らはナショナリストかもしれないが、彼らのやっていることはそのナショナルなものを狭めるだけだ。いつまでもそうやって、子供じみた民族への自己投影を続けていればよい。遠からず、ナショナルなものの定義をめぐって(つまり天皇の跡継ぎを巡って)醜い内部抗争と分裂を呈すだろう。

 右翼に帝国主義者が現れず、排他的定義により自己を民族へ同一化する身振りが変わらなければ、左翼の国際主義も形なしで、空虚な理想の世界市民を追い求める、あるいはそれを他人に強要するだけに終わる。左翼が帝国主義を振りかざすわけにはいかないからだ。しかし、いつまでも大川周明頭山満内田良平も出てこず、右翼がこの体たらくのままなら、左翼の側から右翼に働きかけて、彼らが自己ではなく世界を見、世界を支配する日本民族を目指すよう、喚起しても良いだろう。そのためには、日本というナショナルなものを世界の中で日本のうちから解体されてしまうという危機感を彼らに与えなければならない。それはナショナルなものが日本から他のものへと取って代わられるということではない。むしろ加藤弘之が批判した高橋某の雑婚論のような、ナショナルなものが内から溶け出して世界と同一化してしまうというような論だ。

 それは何かというと、日本を移民国家にすることだ。しかし、移民という言葉は国民の外部にあるように思わせるので適切ではない。移民ではなく、外から来て新たに国民となる人、つまり新国民だ。日本の国民の定義である血統主義憲法で定められているわけではない。憲法上の国民はかなり普遍的な定義を有しており、国民の範疇はいくらでも広げられる。日本は憲法の普遍平和の精神に則る抽象的個物となり、聖霊さながらに人々の心に宿る。この聖霊を有するものが日本国民となる。血統も出自も関係なく、やってきた人々をみな新国民として歓迎し、薫化し、共生するのだ。

 僕はこれを新国民主義と呼んでおきたい。要は表向き、右翼の大好きな自民族主義を突き崩すものでありながら、その実質は戦時下に流行った八紘為宇であって、その聖霊乃至徳の源泉に天皇さえ置いておけば、右翼が心から賛同するイデオロギーとなる。もちろん、左翼が主張する際は天皇を取ってしまって、カントかヘーゲルマルクスか、別のものを上に置いて右翼に訴えなければならないが。こうすれば、右翼は自ずから沖縄差別や移民差別をやめ、左翼に勝って帝国主義に向かうためにどうしたらいいか、真剣に考えてくれるようになるのではないか。

 とにかく、日本はもはや民族差別をして生き残れる国ではないという自覚を左右がもって、日本というもの自体を捨てるか、それをもっと普遍的なものにするか、あるいは換骨奪胎するか、よく考えて議論するようにしてほしいものだ。僕の希望は、中国に革命が起こって自由主義的な共和政の国になり、然るのちに日本も中国の一部になることだが、こんなことを言っていたらあちこちから刺されてしまいそうなので口をつぐんでおこう。