読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

Do Everything Possible to Stop the War

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Screenshot from NBC News live on YouTube

Source: LIVE: Russia Begins Military Operation Against Ukraine - YouTube

Channel: https://www.youtube.com/channel/UCeY0bbntWzzVIaj2z3QigXg

(並行してロイターのLiveもみた。こっちは安保理そのまま配信してるだけ LIVE: U.N. Security Council holds emergency meeting on Ukraine crisis - YouTube

 

 こういう時こそ動じずに日々の仕事に専念すべきとわかっていながら、昼休みに安保理をずっと観てしまった。

 ウクライナのキスリツァ国連大使が最後まで、戦争を止めるために全力を尽くしてくれ、(議長国であるロシアのネベンジャ国連大使に対して)プーチンに、ラブロフに今すぐ電話して止めろ、と強い怒りを必死に抑えつつ訴えているのに対し、ネベンジャ国連大使が何も言わず、議長として会議を無情に止め、休憩にする様は、ほとんど絶望の感をもたらすものだった。

 休憩の後、ポルトガルのグテーレス事務総長が、過ちを再び繰り返してはいけない、プーチン大統領は今すぐ武力行使を止めるべきだ、と呼びかけていたのは心休まるものであったが、この状況下においてはそのような正論は虚しく響くばかりでもある。そんなことはみんなわかっているのだ。

 安保理が何もしなければ、国際連盟第二次世界大戦を止められなかったのと、あるいは帝国日本の横暴を止められなかったのと、同じような展開を辿るかもしれない。安保理は、自らを制する能力がない、帝国支配を正当化するためのサークルではないか、ということになってしまう。そうなって欲しくはない。しかしネベンジャ国連大使がここでどんなやり取りをしようと、それでプーチンの決定が覆るとも考えられない。

 日本が安保理の一員になるべきだという意見もあるようだが、日本が何をできるのか。軍事力で脅すことも、経済力で牽制することもできない。平和への希求を開陳するだけなら、事務総長だけで十分だ。あるいは武力を乗り越えるような新たな論理をこういう時に提示できるのだろうか。そして、ほぼ不可能に思えるようなそういうことが、しかし日本に求められるようになれば、本当の意味で過去の戦争の反省、その乗り越えということになるのだろう。こういう緊迫した状況に接しているからこそ、そうした夢想的な平和論への現実的希求に対する強い意志を新たにする。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 

追記。

 この事態を前に、憲法9条を揶揄するような論評も多く出るだろうが、それが制定された経緯、そして昭和天皇や議会の議論の中での「平和国家」論、その後50年代にかけての「平和」あるいは反武力に基づく反米、反帝イデオロギーがいかに軍事的牽制力になったかを考えれば、そのような表層的批判は意味を成さないだろう。それは、68年後の運動の挫折の必然性にもつながっていく。つまり、武力があったところで勝てない小国である場合、何を以って大国の武力と対抗するのか、ということだ。日本は小国である。どれほど軍備を増強しても、米中の谷間で両大国に勝てるわけがない。そのことを考えれば、平和への希求を単に述べるだけでない、むしろ人類を盾にした「平和」論、ユーラシアを灰に帰すことを厭わない立場からの「平和」論の意味がある。憲法9条は、それがなければ我々は人類絶滅を目指す、という極限的立場においてこそ意味がある。

 それは、ウクライナにおいても同じだろう。自国が焦土になり、自国民が絶滅しても抵抗する、もし欧米が助けてくれないなら欧米をも敵に回して攻撃するという立場。ウクライナが立場を転じてロシアと組んでドイツやバルカン半島を目指すことも辞さない、そうした立場においてこそ、「平和」は意味を成すのではないか。いつか近代日本史の重要な一側面として詳しく論じたいが、憲法9条とは、そういう意味を持つもので、決してこういういう時局に託けて、軽んじて批判してよいものではない。

 

追記2。

憲法9条があるからこそ、日本は原子力技術もアメリカに教えてもらえたし、ロケットは飛ばせたし、しかも国防はアメリカが担ってくれるという形で経済発展してこれた。もし9条がなければ、軍を持っていても常に監視され、原子力技術は教えてもらえず開発すれば牽制され、ロケットなんて、とてもではないが飛ばせなかっただろう。今の日本が9条を廃したら、一番恐怖に駆られるのはアメリカだ。人口、技術力、反米感情、どれをとっても北朝鮮どころの騒ぎではない。しかし憲法9条がある限り、どんな首相が出てきても、日本がアメリカに銃口を向けることはないという保証があるわけだ。そしてそれは日米安保と表裏一体であり、どちらかだけを選択するわけにはいかない。もし選択するとしたら、米軍の代わりに人民解放軍に守ってもらうという場合だけだろう。

ウクライナに9条があっても守られない、のではなく、日本は9条があるからアメリカに守られている、のである。この日本史の前提を理解せずに9条について喋々することは、どこまでいっても床屋談義の域を出ない。

逆に、9条を失うものは日米安保も失うということを忘れてはいけない。日本が9条を失うときに、日本に核武装大陸間弾道ミサイルの準備ができていなければ、敵前で最も強い味方を失うに等しい。9条を変えたければ、9条のあるうちに核開発と宇宙開発、そしてできれば航空機の内製化を進めることだ。円を刷って海外に円建てでどんどん貸し付けることも必要だ。自主憲法やら何やらは実力が身についてから口にすればよい。

もちろん、そんなことをするよりは、憲法9条を金科玉条として護りながら、平和や反原発戦没者慰霊などを建前に右翼左翼両翼の反米感情をちらつかせつつ、アメリカの核の傘に収まっていた方が、楽で安全に決まっているが。