読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

ルーティンの日々と波瀾万丈の日々

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 最近は生活がルーティンになっているので気が楽だ。だからブログの記事更新もちょこちょこ進んでいる。ある程度ルーティンの時期もないといけない。毎日が予想のつかない波瀾万丈な日々のまま何年も進むのは辛いものがある。スタートアップで働いている時はまさにそんな感じで、誰かが評して曰く「崖から落ちていきながら飛行機を組み立てるものだ」云々と。僕はそのまま組み上がらずに墜落した身の上なので何をか言わんやである。実際、スタートアップで働いている人はまさにそんな感じだろうから、大したものだと思う。最近必要に駆られて孫文などを読んでいるのだが、革命家なども同じ部類に入るであろう。

 ベンチャー社長や革命家などが波瀾万丈な毎日を乗り越えられるのは、大局的な視点に立っているからだろう。世界を変えることに比べれば、日々のよしなしごとなど大したことではない、大損、敗北、人の死、これみな海のさざなみの如し、というわけだ。大きな事業を成し遂げる人というのも、そういった大局的な視点を維持したまま、運も良く何年もそれを続けられたというような人であることが多い。僕のように糸の切れた凧のごとくあっちへふらふら、こっちへふらふらではなにも成し遂げられないまま人生が終わってしまう。

 

 

 人生というのは何が起こるかわからず、また、何かが起きたことを語り得るのは生き残ってしかもそれを語るほどの余裕に恵まれている人だから、人生について考える時に人生について書かれたものを手に取ろうとすると、かなりバイアスがかかる。本当のところ、多くの人は、何も痕跡を残すことができないまま、気づいたら死んでいるものだ。去る者は日々に疎し。死んだらもう自分自身にも、他人にも忘れられるのみである。

 そこで、この世から去るという一事をもって、ベンチャー社長や革命家の志にも匹敵するような人生の大局とみなし、満足する死たる生の極地に向かって崇高に生きようというのがセネカの言ったことであり、ストア派の哲学であり、ショーペンハウアーの人生論であるかもしらん。ザッハに帰れと訴えたウェーバーの意図するところも、日々のちまちました体験を求めるのではなく、日々の仕事を極めたところにこそ偉大さはある、という趣旨ではなかったか。

 

 

 

 

 平穏なルーティンの日々はそれはそれで愛しいものではあるが、このまま死んでいいかと問われれば、まだやりたいことが色々ある。そう思えば、波瀾万丈な日々が恋しくなってくる。ルーティンの日々は波瀾万丈な日々に疲れたときのペースメーキングのために挿入するぐらいでよい。しばらくこの心の安静を楽しんだら、またギアを入れ替えて頑張ろう。

 思うに、ペースメイクのためのルーティンの日々と、波瀾万丈の日々とを、自らがダウンせず、さりとて怠惰にならないようにうまく配分する、というような自己コントロールができることが、自分の心身の健康のためにもっとも大切なことではないだろうか。ただ、これをやるためには自己の個というものに向き合い、自己を社会や他者から切り離す必要があるので、簡単なことではない。これを自分の理性のみでやること能わず、みなヨガや自己啓発に頼るのであろうが、それでは自己コントロールではなく呪術による自己制御に落ち込みかねない。技術としてそれらを取り込みつつも、あくまで自己の死即生に向き合う中で、もっとも伸びやかな自己の可能性の伸展を試みたいものだ。