読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

5月のシャルル・ド・ゴールと6月の小池百合子

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 (なんかタイトルが羽海野チカさんの漫画のような感じになってしまった

 

 小池百合子東京都知事が静養というニュースが流れている。これを聞いて、5月革命の時のシャルル・ド・ゴールを思い出した。

 ド・ゴールといえば、パリに飛行機で行ったことのある人なら必ず聞いたことのある名前だろう、シャルル・ド・ゴール空港の名前の由来となった人物だ。あるいは、原子力空母の名前としてもよく知られている。ド・ゴールは1890年生まれ、軍人として知識と経験を積み、フランス軍最年少の49歳で少将となり、第二次世界大戦中1940年にパリが陥落するとロンドンで亡命政府「自由フランス」を結成し、44年には連合軍とパリを奪還する。戦後46年まで臨時政府の首相を務め、58年に第五共和政を成立させると、大統領に就任した。それ以来69年に辞任するまで、ド・ゴール主義と呼ばれる強力なリーダーシップでフランスの経済成長へと導いた。

 ド・ゴールの辞任の契機となったのが5月革命である。フランス内政では経済成長が頭打ちになり、格差が拡大する中で若者の鬱憤が溜まっていたこと、国際的には文化大革命が一世を風靡し、また反戦運動が盛り上がっていたことなどから、ド・ゴール体制に批判的な風潮が強まっていた。そんな中、1968年5月に起きた大学でのトラブルが、学生主導でのストライキ、そしてフランス全土のゼネストへと広がっていった。これを5月危機とか5月革命とかと呼ぶ。

 ド・ゴールは初動を誤り、事態が悪化していくのに対し後手後手の対応となった。5月末、進退極まってなかば亡命のようにして向かったのが、バーデン=バーデンの郊外だ。そこには当時、西ドイツ駐留フランス軍司令官のジャック・エミール・マシューがいた。マシューは第二次世界大戦では西部戦線で活躍した英雄的軍人であり、第五共和制ド・ゴールが大統領になるにあたって支持を表明し、その就任の立役者であった。しかしその後、ド・ゴールアルジェリアに対する民族自決政策に反対して落下傘師団長を解任され、ド・ゴールとの間にはわだかまりがあった。

 ド・ゴールはこの時、混乱の最中に勝ち目のない国民投票を提案して、自らが一敗地に塗れることになってでも事態の幕引きを図ろうと考えていた。しかし、1ヶ月近く混乱が続くパリを抜け出し、ヨーロッパ有数の温泉地として知られるバーデン=バーデンの自然豊かで静かな環境に身を置き、改めて考えを整理したことで、考えを改めた。そして、事態の鎮静化はやはり自分の全うすべき責務と考えなおし、マシューに軍隊の出動を要請した。マシューは過去の対立を水に流し、政治的取引を提示しつつ、ド・ゴールの大統領留任を支持すること、大隊と連隊を動かすことに合意した。その知らせが伝わるや否や、フランス本土の軍隊もこの騒動の鎮圧のための準備を整えた。

 翌日、ド・ゴールはパリに戻った。ポンピドゥー首相の説得もあり、国民投票の案は撤回して突如議会の解散を宣言した(ポンピドゥー首相はかのポンピドゥー・センターの立案者だ)。いまや、主導権はド・ゴールの手に戻っていた。目指す革命の像も、混乱の出口もわからないまま1ヶ月も続いた騒動に国民たちも疲弊しきっていた。それゆえ選挙では皆、この騒動からフランスを救った功労者として、ド・ゴールのために票を投じたのであった。そうしてド・ゴールは、大統領の座を守ったのだった。

 ただ、ド・ゴール主義的な体制に限界が来ていたのは確かで、この1年後の69年にはド・ゴールは大統領を辞任し、その座をポンピドゥーに譲ることになる。そして70年、79歳で没した。

 小池百合子都知事も、厳しいコロナ禍対応と五輪をめぐるさまざまな問題で矢面に立たされ、5月末のド・ゴールのようになっているのだろう。ここで静養して復活し、都議選を戦うとなると、ますますド・ゴールと同じように見えてくるというわけだ。小池知事にとってのバーデン=バーデンは伊豆か箱根か、はたまた軽井沢か、僕には知るよしもないが。

 一方、僕にとってのバーデン=バーデンは、ベルリンの都市鉄道の技術によって東京都心に建設されたアーチ型の煉瓦造りの高架鉄道の、ガード下に入っている有楽町のドイツビール屋である。願わくば、庶民もバーデン=バーデンで安らかな時間を過ごせる日々が早く戻ってきて欲しいものだ。