読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

劉慈欣『三体』三部作、ここがすごい

f:id:tsukikageya:20210724220344j:plain

『三体』全三部日本語訳は全5巻

 

『三体』を読むまで

 全世界で空前のヒットとなった現代中国SF『三体』。ついに日本語訳も完結し、僕も母語で全巻を読み通すことができた。

 まずその書誌情報を記載しておこう。

 原著は刘慈欣《三体》、《三体Ⅱ·黑暗森林》、《三体Ⅲ·死神永生》の三冊で、第一部《三体》は2006年に雑誌《科幻世界》に連載。2008年1月に《三体》、5月に新たな書き下ろし《三体Ⅱ·黑暗森林》が書籍として刊行される。さらに、2010年11月に《三体Ⅲ·死神永生》が出版され、完結した。完結後、全体に「地球往事三部曲」という別名も付されている。中国や日本では『三体』三部作と呼ばれている本三部作は、英語ではRemembrance of Earth's Past (地球往事)というシリーズとして知られている。

 この本がここまで著名になったのには、英訳版が大きく寄与している。アメリカで出された英訳書の訳者はKen Liu(日本語ではケン・リュウ)で、2014年11月にThe Three-Body Problem (三体)、2015年8月にThe Dark Forest (黑暗森林)、2016年9月にDeath's End (死神永生)と、1年ごとに訳書を出して大きな話題をさらった。その間の2015年に第一部がヒューゴー賞長編小説部門(SF界のアカデミー賞で、長編小説部門はその代表格)を受賞したことで、その名声は確立したといってよい。

 2013年の韓国語を皮切りに、14年の英語も含め2018年までに18の言語に翻訳されていたが、日本では翻訳が遅れ、『三体』が訳出されたのはようやく2019年7月になってからだった。2020年6月に『三体Ⅱ 暗黒森林』(以下、『暗黒森林』と略記)、2021年5月に『三体Ⅲ 死神永生』(以下、『死神永生』と略記)が訳出された。訳は、中国国内向けにアレンジされた中国語版からの訳と、オリジナルに近い英訳版を照らし合わせるなどして、原作により忠実な訳となるよう工夫されている。

 さて、僕が最初に第一作目の日本語訳『三体』を手にしたのは、それが出版された直後である。そのタイミングは僕にしてはかなり早く、売り出された数週間後ぐらいだったように思う(僕が発売直後に本を買うことはまずない)。発売当初からネットではかなり騒がれていて、僕の友人の誰かも僕におすすめしてくれていたようにも思う。機会があれば読もうと思っていたら、何かの折に暇つぶしに立ち寄った銀座シックスの上にあった蔦屋書店で平積みされていて、早速買い求めたのだった。当時『三体』が騒がれていたのは、単にこれが面白いSFだからというだけでなく、少し前の2018年末に筑摩書房から出版された韓国の小説チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』斎藤真理子訳が大きく話題になっていて、それらをひっくるめてアジアの文学が面白い、というムーブメントがあったからだ。

 

 

 僕が『三体』を手にした棚も、アジア文学のブックフェアをやっていたのだった。日頃SFなど全く読まない僕がわざわざそれを買おうと思った理由の一つに、それを買った数日後にあった、ある大学でやっていた近代日本とアジアの歴史を扱った講義の、夏休み前の最後の授業で紹介しようと考えたことがある(『キム・ジヨン』の方はすでにざっと目を通していたから買わなかった)。しかし、実際に買って読んでみたら、そのあまりの面白さにのけぞった。しかも、原語ではこの後二冊もあるという。だが、日本語には翻訳されておらず、それがいつ出るかもわからない。もどかしい気持ちを抱いたまま日々は過ぎていった。

 さて、次の『暗黒森林』が出た時、世の中は新型コロナウィルスで混乱しており、僕は何もできないが暇もない、という状況だった。8月にあった感染の二回目の山が落ち着いてきて、子供の保育園登園を再開させる見込みが立ったので、読めるかなと思って8月末に『暗黒森林』上下巻をamazonで購入。amazonで買ったのは、書店で買えるような状況ではなかったからだ。しかし、世の中がコロナ明けを信じて動き始めたために、仕事も忙しくなって読む暇がないまま時間が過ぎていった。

 そして今月(2021年7月)。突如、友人Kがブクログに『暗黒森林』の読了報告を上げたという通知ツイートが流れてきた。そういえば僕も、積読のままだったな……と思って『暗黒森林』を読み始めたら止まらなくなり、すぐに本屋で『死神永生』を買ってきて、昨日(7/23)最後まで読み終わったところである。その友人がこのタイミングで読み始めたのも、『死神永生』の訳が出たからかもしれない。

『三体』三部作の凄さを一言で(ネタバレなし)

 ネタバレせずにこの三部作を評すれば、第一部が一番好き、第二部が一番面白い、第三部が一番すごい、ということになるだろう。

 第一部が好きなのは、それが現代中国をネタにした展開であるため、僕自身の研究と被っていて、当時のリアルな雰囲気を感じさせるような趣があるからである。中国人が書いた20世紀後半以降の中国を舞台にした作品というのは、僕は『三体』以外に読んだことがなく——そもそも僕はアジア・太平洋戦争後に中国人が書いた小説を読む機会が全くないのだが——、その意味ですでに面白かった。また、第一部はまだSFと推理小説の中間ぐらいで、雰囲気としては僕が昔好きだった森博嗣とも似たところがある。つまり、最先端の科学技術や知識をもとに、あまり陽の当たらないところにいる大学教授や研究所職員みたいな人が大活躍する、という流れだ。

 第二部が一番面白いのは、これは完全にそのプロットがコンゲームだから、ということに尽きる。第一部と異なり、こちらははっきりとサイエンス・「フィクション」になっており、そのコンゲームを人類の全てのリソースを注ぎ込むような規模で宇宙的に展開するから、その駆け引きの巧みさとスケールに圧倒される。しかも『三体』のストーリーにきちんと決着がつくので、読者は納得の読後感を得ることだろう。SFにあまり親しみのない読者は、ここで読むのをやめてしまってもよい。

 第三部が一番すごいのは、空前絶後の、SF史に残るような時空間的展開の限界に挑戦している点だ。この展開が好きでも嫌いでも、この第三部がSF史に一つのメルクマールを残したという点は議論の余地がないだろう。しかしここで、これ以上のことを語ることはできない。詳しくは以下、ネタバレありのパートで書くので、未読の人はまず買って読んでほしい(末尾に各巻の購入リンクをつけた→購入リンクまとめ)。

 

 * * *

 

各パートの面白さ(ネタバレあり)

 ようやくここから書きたいことが書けるぞ!

 

『三体』(第一部)

 上で中国現代史だから好き、と書いたが、あれは嘘だ。この本が好きな理由は、これが文化大革命のリアルな惨劇をまるで見てきたかのように描いているところからスタートするからだ。

 この本を読む1ヶ月前、僕は68年の世界的ムーブメントのことについて講義していた。文化大革命は、そのムーブメントの一つの核となる事態であった。しかし、どの研究書も文化大革命の事象については描いており、虐殺があったことも記されているものの、それに参加した若者たちのリアルな心情や、巻き込まれた知識人たちの置かれた状況、そしてその現場の描写についてつぶさには書いていない。あくまで、誰かが死んだとか、誰が政権の座から追われたとか、もっぱらそういうことに終始している。だから、講義も文革の概略について説明するにとどまり、実際の雰囲気を伝えるまでにはいかなかった。むしろそれが、なぜか世界で若者のムーブメントとして強いインパクトを及ぼした、というやや飛躍を感じさせる説明になってしまった。

 

 

 しかし、そのリアリティが突如、『三体』によって目の前に描き出された。大学のキャンパス内で、興奮した若い学生たちによって血祭りに上げられ、文字通り踏みつけられて殺される知識人。その描写のどこまでが正しいのか、僕には判断しようがない。しかし、そういうことを書いていない研究書と突き合わせたとき、それらの描写は符号する。研究書には、何百人もの知識人が家に踏み入れられ、家を逐われ、虐殺された、とだけ書いてあるが、その虐殺の風景が、この『三体』の描写以外のものであったとは考えにくいだろう。まさに研究書がそれを書かないために、四角四面の政治闘争の問題のみフォーカスしているのだ、とすら想像される。これに比較すれば、日本の大学で起きた68年の学生闘争はそのような中国の闘争を知っていたから起こったことだと理解できるし、しかもそれは劣化版であって、中国と違って独裁体制ではなく自由主義体制、しかも社会主義ではなく資本主義である日本において、中国と同じ温度感で盛り上がることは不可能であった。それでも丸山眞男を大学から追い出すぐらいの力はあったわけだが。

 よくこんな描写が、現代中国で書けたものだと感心する。もちろん、文革が間違っていたというのは現在の中国共産党の公式見解ではあるものの、未だ地方農村では毛沢東の支持は強く、文革が間違っているとはっきりということは憚られる部分もある。いずれにしても政治色が強すぎるテーマであり、だからこそ多くの中国関連書籍で、たとえそれが研究書であっても、具体的に描き出されることはなかった。実際、『三体』の書籍刊行時にもそれは問題になり、中国語版『三体』では「文革当時を描く過去パート(第一部の「狂乱の時代」「沈黙の春」「紅岸(一)」の三章分)の出だしは、本書一三七ページの真ん中あたりに移されている」(【#三体ニュース】いよいよ発売! 翻訳・大森望氏によるあとがきを公開!|Hayakawa Books & Magazines(β))。つまりあの衝撃的な文革のシーンが冒頭ではなく中ほどに隠されている、というわけだ。これは戦前日本の検閲対策にも使われた手法で、単に思想的立場から読まずに批判したい人や政府の検閲などでは冒頭と結論部分しか詳しく読まれないので、中間部分に書いたことはあまり問題にならないのである。まぁ、この本が最初に出た2006年という時期が良かったとも言える。まだ胡温体制(胡錦濤温家宝)で、自由経済を弱めて国家主導の科学技術に根ざした経済成長へとシフトしたことが功を奏した時代であった。劉は無尽蔵なほどの財政出動を描いているが、折しも中国では2008年11月の四万亿(4兆元(約60兆円)の財政支出)と扩大内需十项措施(内需拡大10大政策)が行われるところであった。これらの政策は当初経済学者からの批判を受けたものの、実際には相当の成功と経済発展を中国にもたらし、それが習近平体制を支えるシャフトにもなっているのである。

 逆に、文革後の歴史についてうまく処理されてる点も個人的には面白かった。70年代後半の「北京の春」の民主化運動や、80年代終わりの天安門事件については一切触れず、文革後は誰もが何かをロスしているという設定となっている。つまり、新しい民主主義も、新しい高度成長も手に入れられないまま、ニヒリスティックな雰囲気の中で誰もが文革という過去に向き合い続けている。それが、『三体』の主題へと繋がっているのだ。それは、科学技術による急速な経済発展がそこから人々を救済できる、という胡錦濤的なスタンスとも親和的であり、鄧小平以来の改革開放政策の成功と経済発展、それによるマルクス主義的ドクトリンに基づく統治が脆弱化していることに対してあまりいい顔をしていない習近平体制を刺激しないという効果ももたらしているだろう。なお、経済発展と平和、それによる人民の「平和ボケ」に対する批判も、この『三体』シリーズに通底する志向と言ってよい。もちろんそれは、共産党の指導というより著者本人の思想であろうけれども。

 

『暗黒森林』(第二部)

 『三体』の物語自体は、この本で完結していると言っていい。コンゲームの面白さについては特にいうべきことはない。史強かっこいい。解説でも言い訳されていたが、羅輯のパートナーの女性の描き方がチープすぎて笑う。森博嗣が描く西園寺萌絵みたいにキャラ作り込んでくれたら引き込まれたのにな。とはいえ、それは話の筋とはあまり関係ないので別に気にならなかった。『三体』の中では一番面白かったが、『三体』特有のポイントがあるというより、物語の構成自体が面白かった。ここで終わっていれば、『三体』は面白い話だったが、歴史に残るほどではない、有名なSFの一作、それも中国から出た稀な——という位置付けで終わっていただろう。

 

『死神永生』(第三部)

 永い時間の認識といえばインド哲学の専売特許だが、SFではないのであまり現実感がない。世間でよく知られている長い時間といえば、落語『寿限無』の「五劫の擦り切れ」だろうか。これは仏教に出てくる時間の長さを表す言葉をもとにしたもので、ウィキペディアによれば一劫が40億年強ということだから(劫 - Wikipedia)、大体200億年ぐらいだろう。

 キリスト教千年王国(ミレニアリズム)はたったの一千年だから、西洋中世における時間認識は随分と短いように思える。しかし19世紀にはいると、人類学や民族学の発展が野蛮時代や古代という時代区分でその尺度を後ろに伸ばし、ヘーゲルマルクスの歴史哲学はそれを一線的に未来へも投射した。その時代の極地は、シャルル・フーリエが8万年の尺度で人類史を捉えていたことだろう(『増補新版 愛の新世界』)。これは当時の西洋思想において画期的な尺度であったと思われる。人間の過去・現在・未来の長さは、こうして徐々に学術的な形でも長い時間的距離において把握されるようになってきた。

 20世紀に入ると天体物理学の発達などによって時間の尺度は飛躍的に伸びた。それを如実に示すのが、イギリスの作家オラフ・ステープルドンSF小説最後にして最初の人類』(1930)だ(原書:Last and First Men: A Story of the Near and Far Future。まもなく映画にもなるという(映画『最後にして最初の人類』公式サイト))。この作品の描くタイムスケールは20億年以上であり、距離にして地球から43億km先の海王星のその先までを展望する。20世紀において、これを超える時間的感覚を持ったSFはないだろう。あったとしても、荒唐無稽なものになっていただろう。

 

 

 これに対して、『死神永生』は、物語の終盤まではたった6世紀しか進まないものの、最終盤で2000万年を稼ぎ、最後には100億年を超える時間軸、あるいは客観的な時間軸を超えた時間を扱った。距離についても同様、2次元と4次元を含む超越的な距離を扱い、主人公は500光年の距離を旅した。しかもそれを、単に空想の宇宙旅行ではなく、相対性理論に基づく一応の合理性を示唆しながら描いた。その意味で、この書の果たした役割はSF史において一定の価値がある。そのことが可能になったのは、1世紀前の理論がようやく人口に膾炙したということかもしれない。(とはいえ、僕が特殊相対性理論を理解しているかといえば全くそういうことはないのだが。)

 また、最終盤を除く『三体』全体の物語の時間の流れは6世紀しかなく、それだけ見るとステープルドンより短い時間軸だが、ステープルドンの時代よりも指数関数的な技術発展が見込まれている。そのため、ステープルドンでは生物学的進化により10億年経たなければ海王星にも住めなかったが、三体では数百年で海王星どころか冥王星に宇宙基地を建設している(冥王星の発見はステープルドンの本が出たのと同じ1930年)。ステープルドンの時代には月面着陸どころかまだ人工衛星も実現していなかったのだから、当時それを想像すること自体すごいことである。他方で、ステープルドンが『最後にして最初の人類』を書いてから百年足らずで、今や探査機を火星に到達させ、毎月のように宇宙に物資を飛ばしている人類の技術発展から想像すれば、『三体』の時間軸もそれほど違和感はない。

 ただ、ステープルドンのような人類史的な、あるいは生物史的な感覚は『三体』著者の劉にはない。その辺の社会構造は『三体』では近代文明に基づく現代社会からそう遠くない描き方しかされていないので、そのあたりに不満がある人もいるかもしれない。それでも小松左京ばりのディストピアと、鉄腕アトム並みの高度化された未来社会の両方が描かれるので、SFとしては全く申し分ない。

 なお、『暗黒森林』と同じく、女性の描き方がちょっと僕の感覚とはズレていて、『死神永生』の程心の描き方もどうもしっくりこない部分がある。「母性」という表現が出てきた時には笑ってしまった。雲天明陰キャぶりと相まって、何となく劉の女性観が窺い知れる(笑)

 最終盤はそのままハッピーエンドにしても誰も文句言わなかったと思うが、そこをもう一捻り加えて着地させるのがにくい。だからこそ最後の時間の跳躍があり、その先への壮大な展望が拓けるので、そここそ著者の面目躍如といったところか。

 

* * *

 

いずれにしても、一読の必要あり

 細かいポイントはさらにいろいろあり、回収されていないプロットも多い。「外伝」的なストーリーも複数出ていて、それらの翻訳も待たれるところだ。

 原作が出版された国の事情で、あまり哲学的、思想的問いの深みがないという批判はあるだろうし、それは前に書いた通り、このストーリー全体が近代的社会に立脚するという前提は崩していないものとして読んで楽しめば良いと思う。むしろこの本の思想的楽しみがあるとすれば、すでに相対性理論が提示されてから百年以上経つのにもかかわらず、科学研究の中でのみ議論され、世間では不問に付されてきたブラックホールの中での存在論、あるいは他次元での存在論やその有用性と倫理、あるいは宇宙の終わりを超えて存在することへの問いといった事柄を、わかりやすく市井の読者に伝えたという点にあると思う。

 本作は近くドラマ化されるらしいが、これが売れるようなことになれば、これまでは地球上の条件を基本に作られていたガンダムエヴァを超える、新たな宇宙戦隊モノの可能性が開かれるだろうと思う。だって水滴だぜ、水滴。ウェルズの『宇宙戦争』で火星人がアレに勝てなかったというレベルを超えたインパクトがある。

 

 

 

 結論としては、エヴァの新劇を最初から見直して、それと比較してまた考察したい、というところですかね。まだ見てないんだよな……コロナ禍の渦中に映画館行けない系の仕事してるので……だいたい前作のQの内容も完全に記憶から抜け落ちてる。あとは友人K(僕は友人だと思っているが先方はどう思っているか知らない)にビール奢っていろいろ感想聞きたい。このブログ読んでないだろうけど。

 

(おまけ)『三体』購入リンクまとめ

▼『三体』まとめ買い
▼『三体』
▼ 『三体Ⅱ 暗黒森林』上下巻
▼『三体Ⅲ 死神永生』上下巻
▼中国語版『三体』
▼英語版『三体』