読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

「〜的」の用法に悩む

中華的カフェか、中華風カフェか、それとも……

 

 「〜的」という表現は、特に研究者が好んで使う語法だが、これの意味が案外よくわからない。最近中国語を勉強するに至って、中国語の「〜的」の用法も日本語のそれと若干、いや、結構違っていることがわかり、ますます混乱してきている。

「〜ティック」が「〜てき」に

 ある時、なぜscienceの訳語は「科学」なのか、その語源について調べていたのだが、その過程で興味深い記述に行き当たった。近代日本で初めての日本語辞典である『言海』を編んだ大槻文彦が、「〜的」という表現が翻訳の過程で出てきたことを紹介しているのだ。

 大槻曰く、ある席で翻訳家たちが集まって雑談しているときに、ふと誰かが、systemは「組織」と訳せるが、systematicは訳しにくい、ついては最後の「-tic(てぃっく)」の部分が中国の「的(てき)」というのに発音が似ているから、これを訳語にあてて「組織的」としたらいいではないか、という議論を提起したらしい。そこでみんなが面白がってそのようにしたというのだ。この話は1902年の大槻文彦『復軒雑纂』(広文堂書店)に収録されている、「文字の誤用」と題された大槻の講演で出たものである。*1大槻は続けて、こんなのは抱腹ものだが、実際に使われるようになってしまって閉口した、自分は使わない、というようなことを言っている。現在ではこちらの用法がスタンダードになっているのだから言葉というのは面白い。(なお、大槻の『言海』は「読む辞典」と言われるほど面白く、筑摩がちくま学芸文庫にしてくれたので手に取りやすい(字は小さいが)。また、大辞典として『大言海』がある。国語辞典は『広辞苑』のみにあらず。)

 その後、また別のものを書いているときに、「西洋的」と書こうとしてふと思いとどまった。「西洋的」は英語ではWesternであり、Westicではない。それに、「西洋的」というのはいかにも西洋なるものが具体的に捉えられるような感じがしてしまう。ここは「西洋風」とした方がいいか……などと考え込んでしまった。確かに、「ミラノ風ドリア」なら美味しそうだが、「ミラノ的ドリア」だと「ミラノ」的要素がかなり尖ってそうで気後れするし、「反ミラノ的ドリア」も存在しそうだ。「日本風の接し方」だとエキゾチックな感じがするが、「日本的な接し方」だと文化批評という感じがする。日本とは何か、と小一時間問い詰めたくなる。

「〜的」の語源と用法

 そういうことを考え始めるともう書けない。仕方ないので「〜的」についてもう少し調べてみることにした。すると、김유영氏(金曘泳/Kim YuYoung)という方が、前述の田野村論文より先に、非常に詳しくこのことを研究していた。氏は『「-的」ということばの発生と変遷』という題の博士論文を書いており、これをぜひ日本語で出版してほしいと思うが、僕の知りたいその語源については「「-的」の日本語化」(『日本語學硏究』第30輯,韓国日本語学会、2011年)という論文になっている(「AJ - All about Japanese - www.Japanese.or.kr」で公開)。これをみるに、「〜的」は中国語から日本語訳されたもので、もともと現代で言う「〜の(人・モノ)」という用法であった。その意味では現代の中国語とも同じである(〝我的博客“=「私のブログ」というような用法)。それが、「〜な」を意味する先の"-tic"(正確には"-ic")など西洋の形容詞につく接尾辞の訳語として用いられるようになっていったという。

 これは体感としてわかりやすい。「ミラノ風ドリア」の語感が柔らかなのは、「ミラノな感じのドリア」だからだ。しかし、「ミラノ的ドリア」だと、「ミラノのドリア」という感じに近づいていく。しかし、「ミラノのドリア」ではない……この微妙なラインだ。「あいつは自己中心的だ」と言えば、これは中国語の用法に近く、「自己中心的」だけで「自己が中心の人物」ということを意味する。これを、「あいつは自己中心だ」というと助詞が足りなくて不自然だし、「あいつは自己中心"風"だ」とは言えない。「あいつは自己中心"の"奴だ」となら言える。

なぜ「〜的」が使われるのか

 李長波の論文、「近世、近代における「~的」の文体史的考察」『Dynamis : ことばと文化』10巻、2006年を読むと、「〜的」と競合する用法もあったことが知られる。「様」「上」「中」「性」「風」「然」などだ。これらの用法は中国語の「的」には含まれていなかったもので、「的」が日本語になり、欧米諸語の翻訳に使われることによって出てきたものだと大槻は言っている。研究者に「的」と「性」が使われやすいのはこれらを比較するとなんとなくわかる。要は、あるものとの類比を指し示す「的」と、それの内包する性質を指し示す「性」がより具体的なのだ。「様」は類比だが表面上のこと、「然」は仮象に、「風」は擬似に止まる。「上」「中」は空間的位置関係であるため、抽象的な理論にそぐわない。そして、論理を類比と種と類の包含関係から進めていく方法こそ、古代ギリシャ以来の学問の伝統である。

 しかしそうなってくると、「〜的」など今後うっかり使えない。考えてみれば「的」を口語で使うようなことはあまりない気がするが、書くときにはそれなりに使っていると思う。こういうことを踏まえて手元にあるいくつかの書を読むと、現代の良い研究書には「的」がほとんど出てこない。逆に、昔の哲学書に「〜的」が多数出る時の翻訳の苦心というのも伝わってくる。現代では日本語が相当幅広い表現をできるようになってきて、英語などからの直訳風の文章ではなく、日本語なりの言い回しへと置き換えることができるようになったのだろう。これは、ヘレニズム期のローマで、ラテン語ギリシャ哲学の継受により徐々に豊かになっていくことや(ちくま新書『世界哲学史2』の近藤論文を参照のこと)、デカルトがフランス語で『方法序説』を書いたこと、あるいはアダム・スミスが英語で講義したこと(『道徳感情論』)との相似でも考えられて興味深い。日本語もあと数百年すれば、哲学あるいは宗教を担えるぐらい鍛えられた言語になるだろう。それまでに哲学や思想をやる人が残っていれば、の話だが。あるいは中国語と融合して、アジアの大陸哲学がこれから始まるかもしれない。

 

 

*1:僕がこれを知ったのは田野村忠温「「科学」の語史 ——漸次的・段階的変貌と普及の様相——」『大阪大学大学院文学研究科紀要』56、2016年に紹介されている記述からだ。田野村氏はこの分野の代表的な先行研究である広田栄太郎『近代訳語考』(東京堂出版、1969年)からこのエピソードを知ったという。これは内容が内容だけにしばしば参照されており、ここで紹介した金氏のほか、李長波「近世、近代における「~的」の文体史的考察」『Dynamis : ことばと文化』10巻、2006年でもエポックを画する話として考察されている。