読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

変化に満ちた面白いブログ、あるいは

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高輪ゲートウェイ駅建設直前の高輪二丁目付近

 東京は目まぐるしく変わっていく。坂の向こうにあれよあれよという間にビルが伸びていく。こちらではこの間まであった建物が消え去って更地になっている。フェンスが取り払われたら新しい道ができており、昨日までの店が明日にはなく、空の広さもアスファルトの色も見るたびに異なっている。変わるからこそ、認識される。逆に、いつも同じものは、いちいち気にならない。家の玄関のドアの色落ち具合とか、赤色の消火栓の丸看板とか、いつも使う駅のホームに降りる階段とか、そういうものは、認識の対象にならないから記憶にも残らない。

 ブログに書く対象を選ぶ時も、事情は同じ。何か変わったことがあると、それが認識の対象になる。故にそれが記憶され、それを書こうと思いたつ。しばらく行っていなかった駅が変わっていたこととか、ずっと忘れていた歌を思い出したとか、初めて読んだ本のこととか。だから、代わり映えしない毎日を過ごしていると書くことがないし、反対に旅行とかに行けばいくらでも書くことが生まれる。変化が絶えない街、いつも新しいイベントがある場所は、それゆえいつもニュースの発信源になるのだろう。面白いブログというのは、いつも新しい変化が書いてあるブログだろう。

 変わらないものは価値のないものとされる。グーグル検索のアルゴリズムは、他の内容のコピーや、類似したコンテンツが繰り返されているようなサイトをより低く評価する。同じ話を何度も繰り返す人より、新しい情報を提供してくれる人に人は話を聞きにいく。日蝕の時は皆が空を見上げるが、今日の日没を見上げた人などほとんどいない。一方で、変わらないものこそ価値があるともされる。自然科学は変わらないものの体系、あるいはそれの一覧表である。法律で、紙で、ブロックチェーンで、変わらない書かれたものによって時間を超えて同じ状態を支えようとする。『日はまた昇る』ことこそ救いである。人々は今の仕事、今の家、今の人間関係から放逐されることを恐れて、苦しみながらもそれを何度も反復する。それを毎日継続する。

 

日はまた昇る (新潮文庫)

日はまた昇る (新潮文庫)

 

 

 変わらないものを嫌いながら、変わらないものを求める。その矛盾は、人が変わらないものを求めながら、人を取り巻く環境が絶えず変わっているから生じるものであり、その変わっていく環境に適応するためには、変わったものを次々に受け入れなければならないからだ。人が永遠の愛、永遠の生命、無尽の富、無窮の隆えを一度も願わないということがあるだろうか。その願いの尽きる時に死に至る病が押し寄せる。変わっていくことができれば、あらたな永遠を夢見ることができる。再婚相手に、手術の後に、転職先に……

 ただ、変わらないものを否定し、いち早く変わっていくものを知ろうとする人が、必ずしも環境に合わせて変わっていこうとするわけではない。むしろ、変わっていくものを知って、それがさも変わらないものであるかのように理解することで、人は安心を得る。日本がおおむね今の形になったのはいつか、と聞かれて、1972年、と答えられる人は少ないだろう。7-8世紀あたりからおおむね日本のようなものがあった、と人は理解する。現在の日本を過去に投影したそれを日本の歴史ということにしていまの日本を理解することで、そこに一体の集団性が成立していると安心して信じることができる。もちろん、それが悪いことだというわけではない。多かれ少なかれ、どこでも行われていることだ。言葉を使った認識は、そういうふうに記憶を寄せ集めてそれを再認することで成立しているのだし、そのこと自体に是非はない。

 

「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)

「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)

  • 作者:網野 善彦
  • 発売日: 2008/11/06
  • メディア: 文庫
 

 

 書くという行為、特に読まれることを想定して書くという行為は、つねにそこになんらかの変化をみようとする。そうしなければ、それを読んでもらうことはできない、と先に書いた。変化を予期させつつあえて同じことを繰り返すということもあるだろう。しかしそれも、オオカミ少年になって仕舞えばすぐに読まれなくなる。しかし、書くことの効果は、その変化があるものの理解可能な範囲内にあることを示して安心させることだ。書くことは、変化していることを記憶に照らして認識し、それを変化しないものとして記録する行為だ。

 しかし、現実は絶え間なく変化している。人が認識できないだけで、何枚写真を撮っても、1ピクセルと変化のない写真など撮れるわけがない、ということだけでもそれを理解することができる。日々見ている光景も、常に光線の強さや色合い、空気中のさまざまな組成、その流れ、地面の凹凸や傾き、構造物の劣化、そこを行き来する有機体、一つとして同じように反復されるものはない。毎日同じマンホールの蓋について書くブログですら可能だろう。その温度、その色味、その上を通る人、一日として同じことはない。それを毎日書けば、同じマンホールの蓋が、たちまち川の柳の如く毎日変化するものと理解できるようになる。同時に、それは変化するけれども同じマンホールであることが繰り返し理解されて、そのマンホールの確実性がある種の安心をもたらすだろう。そしてそれは、万物についていえる。東京の変化を毎日記録する。その街は10年、20年、30年とたてば全く違う街になっている。その変化が、克明に記録されたとしよう。しかしそれを読んだ人は、それを、やはり同じ街、東京として、固有の東京らしさを持つものとして理解するだろう。

 

物質と記憶 (ちくま学芸文庫)

物質と記憶 (ちくま学芸文庫)

 

 

 端的にいえば、書くことは、あるものの変化を記録することで、あるものが変化しないことを証明する営みだ。変化が書かれていると、人はそこにある連続、そういう表現が語弊を生むなら、ある普遍をみようとする。そのことによって、それがあるものであることを認識する。変化が書かれていなければ、それは認識されない。書くことで、知っているものが知らないものになってしまうことをおしとどめ、知っているものの延長に置きなおしているのだ。それはちょっと暴力的というか、変化したいものにとっては辛いものがある。また、変化をどこか見逃すことにもなるだろう。しかし、全ての変化を捉えようとすれば、もはや私たちはここを一歩も動くことができない。見るもの全てが新しいことに気づかざるを得ないからだ。それは新生児のおぼえる恐怖を追体験することになる。不安の極地である。久々に東京に来た地方人のめまいは、やや緩和された形のそれである。だから、変化をすでに知っていることにするという書くことの効果は、人の認識にとって欠かせない営みだ。

 しかし、冒険心のある者であれば、書かれた変化を変化として読むということも可能かもしれない。知らないことを知らないままに理解するというわけだ。そんなことは可能だろうか? わからない。しかし、私たちは多分、言葉にする前には、変化を一旦変化のままで受け取っているのではないか。それを既知の言葉でコード化したものが変化を書いたものだとすれば、それをデコードすれば変化そのものに肉薄できるだろう。ただ、そのデコードの方法があるのかどうか。言葉を超えた共感とか、なんらかの共鳴とか、感触の交わし合いとか、なにかありそうだ。知っているものを知らないものにする営み、それができれば、私たちは一生飽きないだろう。同じものを何度も手放して、そのものは実は掴むたびに変化していて、その新鮮さをその度に味わうことができるから。もちろん、認知症患者のように、それは恐怖によって既知のものに置き換えられてしまう可能性が大きい。だからそれは、冒険心のあるものにのみ許される営みである。

 毎朝、違う世界に目覚める。東京は認識の安全地帯からそれを擬似体験できる街だが、そうではなく、本当にそれを体験できる勇気ある冒険者は、哲学者だけだろう。そのような人が書いたブログがあったら、読んでみたいものである。それは本当に、変化に満ちた面白いブログだろうから。

 

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

 

 

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)