読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

グローバルからアジアへ、隣人へ

 犬も歩けば棒に当たるというが、コロナで外に出なかったので棒にも何にも当たらないできた。

 ようやく今月あたりから、仕事などの関係で止むを得ずではあるが、ちょくちょく家を出るようになってきている。中華料理店に行けばテレサ・テンが流れてくるし、電車に乗れば広告が新鮮で、街を歩けば馴染みの店がみんな潰れている。

 仕事場の周りのカフェが軒並み潰れて、今日はわざわざ駅前にあるカフェまで行く羽目になった。コロナから解放されたとしても、自分の生活スタイルは全く変わるだろう。いく店も、歩く道も、関心を向けるものも変わってしまった。ちょっとした異世界転生である。

 

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 去年の今頃は、いろいろと仕込んできたものが実って、一年かけてアメリカ、香港、ヨーロッパでそれぞれ研究発表をしたのちに、アメリカで仕事を探す予定になっていた。まさに今をときめくグローバル人材になってやろうという算段だったわけだ。それが、コロナで予定していた全ての発表がキャンセルまたはオンライン化。

 海外で就活するどころか、つないでくれる予定だった先生方に対面することなく一年が過ぎ、アメリカどころか日本での仕事の話も立ち消えになる有り様。思い描いていたボストン生活は絵に描いた餅で終わった。

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 しかし、悪いことばかりあったわけではない。代わりに仲良くなったのが東アジアの研究者で、成り行きで韓国、台湾、香港、中国、シンガポールなどでの研究のネットワークに仲間入りすることになった。そうしているうちに、線と点で見ていた地球が面になり、もう少しこの辺にいて掘り下げるべき課題がいろいろ見えてきた。

 5年ほど前にも、アジアでの就職を考えたことがあったが、収入が半減すると周囲に一笑に付され、それ以来僕もあまり真面目に考えないまま過ごしてきていた。その状況は今でも同じだが、僕の考え方はだんだん変わってきた。子供のことを考えればある程度の収入は必要だが、自分のキャリアを考えると、日本に居続けることはあまり望ましい選択肢ではない。

 アメリカやヨーロッパなら収入はいいが、結局黄色人種差別の中で生きることになる。僕の研究の性質上、特にヨーロッパでこの分野を研究しようとする人にはどうしても日本に対する非対称的な、マイルドな言い方をすれば日本を実際のいまある国としたではなく、ある種のエキゾチックな研究素材としてしかとらえないような、目線で取り扱う態度をいつも感じてしまい、どうしても馴染めない。

 アジアなら、むしろ日本人の看板を担ぐという点で自らが差別する危険性には注意しなければならないが、エキゾチックな問題ではなく、いまここに生きる我々の問題として、あえていえば、まだ対立と紛争が絶えないアジアの平和の問題として、他のアジア人の間にあるアジア人の一員として、対等に、主体的に研究できる。そういうことが、今年一年で学んだことだ。

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 で、その研究を進めるためには、日本を出てアジアのどこかに身を置いて、日本やその他の地域を相対的に見られるようなところに行かなくてはいけない。日本にいて日本を相対化するのは、ペニスをつけたまま女性であることを経験しようとするような難しさがある。僕は実際、それも試みているが、むしろ相対化できない自らの立場の絶対性をより強く感じることの方が多い。

 男性性を相対化するためにペニスを切り取ってホルモン注射する予定はないが、日本人であることを相対化するために日本を出てアジアの他の地域に住むのは悪くない。その時に、これは逆説的だが、日本というものがもうどうでも良くなって、日本を見るためのアジアの一地域ではなく、その地域そのもの独自の地域性が僕のアイデンティティの中で育まれ、新たな主体性を獲得することになるだろう。なんとかそこまでいきたい。然るのちに、アメリカやヨーロッパの研究者と同じように、日本をある種の客体として取り扱う研究ができるようになるだろう。

 もちろんその場合でも、自分がアジアに根差す人間だという自覚のもとで、アジアの平和を目指す主体的立場に変わりはない。

木を植えた男

 それと関連することだが、このブログを立ち上げて、久々にブログ記事を書く体験をしているが、前と違っていくらでも書くことが湧いてくる。それはなぜか。

 理由は、僕が抽象的な概念ではなく、自分の体験や感情に根ざして記事を書くようになったことにある。愛とか平和とか、社会とか国家とか、大きな主語や大きな枠組みで何かを論じようとすると、結局何を論じているのやらわからなくなってしまい、ずっと空回りすることになる。僕がすごい研究をするといって急にアメリカに行こうとするようなものだ。そういった言葉を使いたいと思った時、人は何かその言葉に託したい内容があるはずなのだ。ただ、適切な言葉がすぐに見つからず、取り急ぎ大きいバケツのような言葉にその内容を放り込んでしまう。しかし、いくらそのバケツについてこねくりまわしてみても、そのバケツに入った内容を紐解く事はできない。なんとなればその内容は、バケツの隅に少し転がっているだけだからだ。

 もっと日常の感性、いつも使う言葉、具体的な対象に絞って話を始めれば、その小さな、でも大きな意味を自分にとっては持っている内容が、輪郭を現してくるだろう。世界平和を論じるときも、愛を語るときも、まず今日会った人や訪れた場所から始めることだ。単に教条を振りかざしても、実感のこもっていない言葉は単なる無内容なスローガンに成り下がる。

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 答えは大陸や大洋の向こう側にあるのではなく、自分の隣人が持っている。隣人から広がって世界につながっている。グローバルに対するのはローカルではない、ネイバーフッドである。グローカルではなくグローバーフッド。そういうこの一年の学びが、多分僕の将来を大きく変えることだろうと思う。

 

(本記事は、はてなのお題「#この1年の変化 」に即して書かれました。)