読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

ヘーゲル『精神現象学』の訳書比較

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最近、熊野訳『精神現象学』を読んでいる

熊野訳は読みやすく、訳出が比較的的確

 ずいぶん久しぶりに本の話をしよう。このブログは元々本の話をするために立ち上げたのだし(「ブログ名「読んだ木」について - 読んだ木」参照)。

 ヘーゲル精神現象学』の訳はいろいろあるが、最も読みやすく、かつ内容がよく原文に即しているとされるのが、筑摩から2018年に文庫で出ている熊野純彦訳のものだ。確かにこれは、驚くほど読みやすい。その理由はいくつかあると思う。

 第一に、訳語の扱いである。即自、対自、対他などという、これまでの訳書で通例使われてきた専門用語化した和訳語を使わず、文意に即してその時々で訳し分けている。さらに、安易に原語を漢字に置き換えた熟語にせず、それをいちいち開いている。例えば、An-und-für-sich-seinをあるところでは「絶対的な」、またあるところでは「それ自体として、かつそれ自身に対して存在すること」と訳し分ける、といった具合だ。

 第二に、文章の構造だ。ヘーゲルの読みにくさは文章をes(それ)やハイフン、セミコロンにカンマでどんどん繋いで、一体何のことを話している文章なのかわからなくなるところにある。これをそのまま訳すと、意図不明な概念が次々に並ぶことになり、しかも指示語が続いて何のことを言っているのかわからなくなる。これに対し熊野はいちいち指示語を元の言葉に置き換えて、文を切って、迷子にならないで読めるよう工夫して訳している。

 第三に、これに伴う弊害として原語に対応する訳語の不統一があるが、それに対して原語のルビを振り、適宜原語をはさみ、さらに訳注をつけるという丁寧さだ。1ページの中にルビの「フールジッヒ」(für-sich)が6回も出てくる場所があるほどであって、それはそれに当てている訳語がそれぞれ文意に則して変えられていることから、原文では同じ言葉であることを説明するために必要なのである。これは今までであれば、単に「対自」などと訳されて終わりだった。

熊野訳で難儀していること

 しかしこれは、確かに読む分にはいいのだが、要約してレジュメを作るとなると困難である。同じ「対自」という言葉にいろいろと述語が当てられているというのであれば、要約したときに論理構造に支障がない範囲でざっと抜き出せば良い。しかし、表現がそれぞれ違っていて、必ずしも全てに原語がルビで振られているわけではないとすると、言語では同じ言葉かどうか、同じ言葉でなくても同じ語根が意識されている単語でないかどうか、ということをいちいち原文にあたっていく必要がある。それをしないと、大まかな流れは掴めても、根拠となる論理構造の緻密さがいまいち掴めず、ゆえに適切な要約ができないからだ。言葉が開かれすぎていて困る、という点では、岩波から出ている水田洋訳のスミス『道徳感情論』を彷彿とさせる。どうもいちいちひらがなが多いところなど、似ているところがある。

 僕のように、原文を読むほど丁寧に読むわけではないが、細かい論理構造はしっかり把握したいという立場では、日本語にその構造が細かく反映されていない訳の場合、頭を抱えることになる。結局、原文を読まなくてはならなくなるからだ。研究会などで、他の人がその分野のスペシャリストではない場合、なおさらその責任は重くなる。そこで今は、手に取りやすい最新の原書、2020年に出たレクラム版のG. W. F. Hagel, Phänomenologie des Geistesを片手にヒイヒイ言いながら要約をしているわけだが、僕はドイツ語が読めるわけでもないし、ヘーゲルの文章はダラダラしててややこしいし、全く参ってしまう。この意味では、樫山訳は内容はわからなくても要約はそれなりにスムーズにできそうである。

 加えて、熊野訳でちょっと気になるのは、もちろんこれも読みやすさのための配慮ではあるのだが、訳者によって小見出しがつけられていることである。この小見出しが、やや訳者の読みが入り過ぎているように感じる。他の訳書でも読者の便を考えて小見出しを補足することはよくあるのだが、せいぜいその節でテーマとなっている熟語とか、人名を掲げるという程度だ。文章を元にしつつつけてはいるものの、その小見出しがつけられている文章におけるヘーゲルの主張で中心となっている言葉が必ずしも小見出しになっているわけではなく、その割に丁寧な小見出しとなっているので、やや混乱をきたすように思う。少なくとも、要約する際にそのまま使えるようなものではない。

どの訳書を読むべきか、用途や立場に合わせて選ぶ

熊野純彦訳『精神現象学筑摩書房、2019年

 とはいえ、文庫で手に入れられて、一般の人も読みやすいという点で熊野訳は最も優れている。ヘーゲルあるいは『精神現象学』を名前しか知らないが、その内容を知りたい、という人には良いだろう。それなりに安いし。それから、Kindle版があるのもナウでヤングな方面にはありがたい。Kindleでは単語で検索したりすることができる点、何かと便利であるそうだ。本だと文庫とはいえ上下各700ページあるので、だいぶ嵩張る。しかし、気合を入れれば最後まで読み通すことができるだろう。付属校のひねくれた高校生、時間のある大学生、あるいはこの方面を専攻していない大学院生、あるいは社会人が取り組むなら、この訳書をお勧めする。序文と序論を最後から最後まで読み、途中は飛ばしたりしても良いから、関心のあるところを拾い読みすれば良いだろう。

 ▼Kindle

樫山欽四郎訳『精神現象学平凡社、1997年

 1990年代に平凡社から出た樫山訳は、平凡社ライブラリーの版型を文庫版と見做すなら、初めて文庫サイズで出た精神現象学だろうと思う。その意味で、フランス現代思想ブームの中で『精神現象学』を読みたい人の期待に応えた良書であった。しかし、これは元を辿れば河出から出た1960年代の訳を引き継いでいるもので、それから半世紀以上経ち、文庫でも熊野訳が出た今となっては、いかんせん読むのが難しすぎると感じる。日本語にはなっているが、こなれていないので読み通すのが非常に難しいのだ。熊野訳は研究会などで使うには耐えない訳だと感じるので、複数人で真面目に読んでいこうというなら、樫山訳を使ってもいいかもしれない。

 できれば、すでにある程度内容を知っていて、適宜原文と対照しながら読むというのがいいだろう。特に、ドイツ語を多少は読める、ドイツ語で先に読んで後から日本語で読む、という人にはお勧めだ。値段は安く、最も手に取りやすいものと言えるが、何も知らない大学生などにはお勧めしない。松岡正剛氏はそれでも学生時代に河出の訳で読んだらしいから、さすがに大したものである(1708夜『精神現象学』G・W・F・ヘーゲル|松岡正剛の千夜千冊)。まぁ当時は、他に訳書がなかったという事情が大きいだろうが、そもそもこんな本は今でも読む学生は一握りしかいないだろう。

 

 

 

牧野紀之訳『精神現象学 第二版』未知谷、2018年

 もう少し立ち入った研究会などで使うなら、未知谷から出ている牧野紀之訳が一番良いと思われる。ただこれは値段が本当に高く、1年ぐらいは取り組み、かつ今後の人生でも何度か使うくらいつもりで買わないともったいないだろう。牧野訳の良いところは、訳者の訳に対する考え方が逐一書かれていることで、しかもそれがかなりの部分正鵠を射ているということだ。例えば熊野訳で序文の最初の節の小見出しに「哲学書に「序文」は必要か?」とあるのは、パッと見るとヘーゲルが「哲学書に「序文」は必要ない」と反語的に言っているように思えるが、これは明らかにミスリードで、ヘーゲルは明らかにこれ以下の文章で「哲学書に「序文」は必要か?不要ではないか?という見方もあるようだが、実際は不要などではなく、適切な書き方をされるのであれば、本当に必要なものだ」という趣旨のことを言っている。これは、ヘーゲルがscheinenの使い方を反語的に用いる癖があるからであって、そういうことが牧野訳ではしっかりと解説されている。そういうところが逆に、研究会などで熊野訳を使うハードルになる。

 なお、「第二版」とあるのは序文がヘーゲルの改稿版を元にしたとかいうことではなく、もともと出版社が初版を2001年に出したのだが、初版絶版になったので再版し、その時にちょっとした論考も付したので版を改めて第二版としたもので、訳文には特に手が入っていないらしい(詳しく確認してはいない)。

 
金子武蔵訳『精神の現象学岩波書店、2016年

 あるいは、人生かけてヘーゲルの思想に取り組んでみたいという人が、精神現象学を読むために使うのは、もっとも深い分析と解釈を備えた金子武蔵訳『精神の現象学岩波書店だといわれる。あまり詳しくないのだが、最近はオンデマンドで発注すれば数ヶ月後に製本して送ってくれるという次第になっているらしい。この出版年2016年というのはオンデマンド版が出た年なのだが、元々は1970年代に出た訳で、それに注解などを加えたものが21世紀入ってから出て(既に絶版)、元の訳書がこの年にオンデマンド版になった、という次第である。三冊もあるから覚悟がいる。

 

 

 

 

 

長谷川宏訳『精神現象学』作品社、1998年

 長谷川訳は、熊野訳とおなじように読みやすさを目指した翻訳だ。長谷川氏はマルクスなどもその要領で翻訳しており、その後光文社新訳などで流行した、一般読者にも親しみやすい訳を目指したはしりの翻訳者である。が、いかんせん意訳すぎる部分があり、その意訳が原文の意図に沿っているかどうか怪しいところがある。これは牧野氏にかなり突っ込まれていたはずだ。97年に樫山訳が平凡社ライブラリーで出て、98年に長谷川訳、すぐ01年に牧野訳が出て、金子訳もその頃再版のようなことをされているから、何か2000年前後にヘーゲルを読む機運があったのだろうと思う。

 原書を手元に置きたい人は

 ちなみに、精神現象学の原文はネットに公開されているので、わざわざ本を買うまでもないかもしれない。しかし、紙でできた実物の原書を研究などの用で手元に置きたいという人には、レクラムの2020年版の本がおすすめ。簡単な出版の系譜、先行文献のまとめ、それから2020年の『思想』にアドルノ論を寄せているゲオルグ・W・ベルトラムが解説を書いている。文庫サイズで700ページ弱、ペーパーバックなので軽くてよい。序文に対するヘーゲル1831年の改稿の異同も脚注で補足されている。

 

ヘーゲルだけで終わらせてはいけない

 ヘーゲルを読んだなら、その後の時代としてフォイエルバッハニーチェハイデガードゥルーズなどを読んでいくことになるかもしれない。日本に関心がある人なら田辺元なども。あるいは、その前の時代としてカントやロック、古代ギリシャなどにも遡っていく人がいるかもしれない。おいおいその辺もこのブログに書くかもしれない(が、それなら松岡正剛の千夜千冊にアクセスした方が早いかもしれない)。

 

▼哲学入門書について書いた記事

yondaki.hatenadiary.jp

▼人文系の研究者むけ

yondaki.hatenadiary.jp