読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

原発再稼働論について考える

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 先日の地震に起因する火力発電所の停止が、東日本の電力供給に多大な影響を及ぼしている。特に今日は、東電管内の需給逼迫で、政府から電力需給逼迫警報が発出されるなど、非常に混乱した状況になっている。一部停電の現実味が強まっていることから、人々が不安に駆り立てられている。

 その中で出ているのが、原発再稼働の主張だ。原発が動いていればこのような需給逼迫は起こらなかったという主張だ。ウランのサプライチェーンにおける被曝の問題、人々が事故で生活を奪われるリスク、放射性廃棄物の処分方法が決まっていないことなどは、その主張者らの眼中にはないようだ。

 震災後、原発依存ではない方向に政策は舵を切ったはずだった。原発再稼働なんかより手動でいいからデマンドレスポンス、いやなんなら需給調整契約の対象拡大だけでもやればよかったのだ。そのために、かねてからのスマートコミュニティ事業の続きで、デマンドレスポンスの技術実証などが行われた。しかし、DR実証はADR寄りでメーカーの独壇場になり、本来の目的であるこうした状況下での広範囲の需要調整は検討が進まなかった。また、安倍政権での原子力輸出政策のあおりで国内の再生可能エネルギー普及の機運は削がれ、定置型蓄電池付きのメガソーラーなど調整力のある再エネの取り組みは中国など海外メーカーが先駆けて取り組むことになった。元は原発のために作られた揚水発電が再エネの供給調整に使えることは分かっていたが、大手電力は再エネのためには意地でも調整力を作らないといわんばかりで、むしろ出力抑制という、せっかくある発電能力を封じ込める方向へと動いた。その間に、国内のパネルメーカーも蓄電池メーカーも倒れていった。VPP事業もZEH事業も政策の後押しが弱く、なかなか事業化されてこない。

 それで土壇場になって電気足りませんというのは……当然の結果であり、原発を安全に稼働する能力も準備もないまま再エネ導入を妨害し続けた大手電力や系統会社、それを覆せなかった政府の責任は小さくないだろう。実証に参加しながら梯子外された側としては忸怩たる思いである(以上はその立場からのポジトークでもあるが)。

 原発が再稼働しないのは、反原発云々ではなく地震・テロ対策の基準をクリアできないことがまずは問題なのであって、それをクリアした原発は、座り込みや裁判など抵抗運動を跳ね除け、すでに相当数稼働している。逆に、今回槍玉に挙げられてある太陽光なんか、所謂「ベースロード電源」の為に抑制させられている側である。原発地震にもテロにも耐えられ、その廃棄物の処理も燃料の輸入も問題ないというのなら、どんどんやってもらったらいい。しかし、そうなっていないのだから、原発は稼働できないのである。原発地震津波で壊れることは日本で世界初の不幸な実証が行われた。それを踏まえた安全基準をクリアしない原発でも稼働させよというなら、そう主張する方やその家族は是非原発立地地域に住んでみてほしい。あるいは福島県飯館村南相馬市の南の方へ行くのでもよい。畑や田んぼ、あるいは住宅地だった地面を埋め尽くす真っ黒なフレコンバッグ、それをまず見てほしい。それでも、安全基準を緩めてでも再稼働せよといえるのか。

 グリッドの適正化スマート化が進まないのは電ガ部と省新部というエネ庁内のパワーバランスもあるのだろうが、そのために解決されるべき問題が解決されず、レガシーのシステムを守りたい既存の大資本によって意見広告に始まるさまざまなマーケティングによっておかしな方向に世論が誘導されていくのは、見ていて辛いものがある。人の生活に即したより良い仕組みづくりに、ぜひ国や大手電力会社、その関連の研究に携わる方々には取り組んで欲しいものだ。この業界から離れてもう5年以上経つからあるいは見当違いのことを言っているかもしれない、素人の見解と思ってくれればいいが、あまりにひどい意見を多く目にするので、乱文ながら自分の考えを書き付けておく。(2022.3.22)