読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

それわた

 今週のお題は「告白します」なんだそうだ。告白といえばトルストイ『懺悔』)か、フーコー『性の歴史 1 知への意志』『性の歴史IV 肉の告白』)というイメージがあるが、やはり面白いのは普通の個人の日常から出てくる告白である。

 普段、自分はこういう人間だよ〜と振る舞っている自分の像に対し、自分の内面の考えや実際のあり方を言語化してあげることで、表の自分と、それとは違う自分の間の齟齬に解決をつけてあげたり、あるいは自分が見せようとしている像を否定して楽になるという効果が、告白にはある。他方で、告白した内容が必ずしも自分の本心ではなく、あくまでそれも自分の見せ方の一つでしかないのに、告白することによってそれを本当の自分と思い込んでしまう、というようなこともある。いずれにしても、ブログで、「告白」するという要請に応えようと、普段は表現していないネタを表現することで、新たな自分の可能性を発見できるかもしれない。

 

 ただ、告白したことが読み手にとって面白いかどうかは別である。年に2回しか床屋に行かないとか、服はユニクロの同じシャツを5枚着回しているだけとか、カラオケでは裏声で女性ボーカルの歌ばっかり歌ってるとか、二郎ではニンニク少なめヤサイアブラコールをするとか、告白するネタには事欠かないが、僕が読み手なら「で?」と言いたくなることばかりだ。

  そこで思い出すのは「それわた」である。これは様々なシーンで使える言葉である。「それわた」とは、「それがわたしにとって何だというのでしょう?」の略で、はやみねかおるの書く名探偵夢水清志郎シリーズの主人公が所属する学校の文芸部の部誌のタイトルだ。これは秀逸なタイトルで、つまり部誌に書かれる文芸作品など誰も読みたがらない、読もうとも思わないような、「わたしにとって何でもない」ものだ、ということを反語で言っているわけである。なのに、みんなそれを読むというもう一捻りのアイロニーがここにはある。明らかにわたしにとって何でもないはずの素人文芸を、読みなくなって読んでしまう。つまり、「わたしにとって何か」であるような文芸になってしまう。

 

 

 これって、ブログと全く同じではないか。今でこそブログはお役立ち、情報紹介のようなものが多くなったが、一時期のブログは知らない人のどうでもいい日記ばかりで、「ブログを日記にしか使わないのは日本人だけ」といった頓珍漢な批判まで出てくる始末だった。しかしそれで盛り上がっていたのだから不思議である。自分に関係のないどうでもいいようなことでも、むしろどうでもいいことだからこそ、関心が湧いてしまうという人情がある。

 これに関連してもう一つ告白をすれば、僕はこのブログに15年前の文化の再来を求めている(インターネット年少世代 - 読んだ木)。「それわた」というツッコミを無視してだらだらと記事を書いていたら、どこからともなく時間や知識や欲求を持て余している人が集まってきて、どうでもいいことでコメント欄とかで盛り上がって、ゆくゆくはオフ会や文通をするという、そういう文化の再来をだ。

 しかし、今のところ1日片手で数えるほどしかアクセスのないこのブログでそんなことが起こるなんてのは、夢のまた夢だろう。そう思ってブログをやってきて10年以上が過ぎ、本当にまだあの頃の盛り上がりが戻ってきたことはない。正直に告白するが、今日もアクセスは片手で数えるほどである。

 

電車男

電車男

  • 作者:中野 独人
  • 発売日: 2004/10/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)