読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

夜、跨線橋をわたる

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 緊急事態宣言の延長とその内容の決定が、それが始まる数日前の金曜の夜というタイミングで、仕事が大いに振り回されて参ってしまった。おかげで会見と内容発表のあと、夜中に再び職場に行く羽目になってうんざりしていると、同居人が「私ならそんな仕事、一行のメールで済ませる」と僕を嘲弄してくる。いつものことだ。仕事に時間を使うぐらいならもっと家事をしろというわけである。夜に職場で仕事して寝るのが0時をすぎると、翌朝起きるのが遅くなって同居人にどやされることになる。仕事をせずに早起きして飯を作れというわけだ。朝は一応、下の子に食べさせるのも、排水口を綺麗にしてゴミを捨てるのも、洗濯を干す間に上の子の面倒を見るのも僕がやっているのだが、同居人は洗濯以外の家事が嫌いなので仕方ない。それに、夜に職場に戻るのが遅くなるのは、子供達の寝かしつけをやって、二人が寝てから家を出ているからだ。しかも、子供が起きてしまったという連絡を受けたらすぐに帰っている。職場は徒歩圏なのでそのような対応が可能なのだが、そのような場所に僕がしめて7年近くも住んでいるのは、職住近接を旨とする僕の15年来の考えに基づいたものだ。

 まぁ、仕事の内容がわからないから想像が及ばないのは当然で、夜中まで仕事しなくてもいいのではないか、と思うのも人情かもしれない。だとしても、一言でいいから、お疲れとか、無理するなよとか労ってくれればいいのにと思う。たんに、無能だから仕事ができないのだ、さっさと仕事を片付けて家事をやれこのうすのろ、という趣旨で馬鹿にされるのではたまらない。そう思って反論すると、そんなに仕事が忙しいならもう家に帰ってこなくて大丈夫、と家を追い出されてしまった。とりつく島もない。僕はいいとしても、僕がいない時にいじめられるのは上の子だから可哀想だ。最近は理不尽に怒られるのが嫌で僕に懐くようになってしまった。僕も必要な時は怒るが、一瞬で終わるからまだいいのだろう。

 うんざりである。どうしてこうなったのか。なにを間違ったのか。悩みを相談すれば、それは僕の頭がおかしいせいということにされ、カウンセリング送りにされそうになる。すぐに帰って顔を合わせたくないので、宣言延長の対応を済ませたあとしばし散策する。

 跨線橋をわたる。立っている足元を列車が行き交う。僕は死ぬには希望がありすぎ、生きるには苦悩がありすぎる。緑、青、橙、水色……どうしてこうなったのか。どうしたら変わるのか。いや、変わらないのか。レールが照らされ、窓の明かりが隣のレールを照らし……常に相手が正しいのだろうか。全て僕が間違っているのだろうか。どうしたら妥協できるのか。風とともに走り抜ける音。ズザザー、ズザザー……ザン……どこにもいけない。どこにもいけないのだ。

 家に帰る。もう寝ていてほしい。なんで帰ってきたんだよ、あぁ? と詰られるかもしれないという恐怖を抱きつつ、玄関を開ける。いずれにしても、明日の朝には冷たい視線が待っているのだ。どこにもいけない僕はそれを一身に引き受け、皆からの嘲笑と罵倒の言葉と目線に、耐えなくてはならない。

 

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 幸い、同居人は寝ていた。寝室まで行くと気付かれるので、そのまま玄関の床で寝る。深夜におそらく用足しに起きてきた同居人が、僕をなじったり足蹴にしたりする様子をまどろみの中で感じていたが、起こされはしなかったので寝ていた。皆が起き出す前、5時に起きて風呂に入って、6時に家を出た。一応、相手の意向には忠実に振舞っているはずである。このご時世、家の外には徹夜で仕事できる場所もないので、夜に帰宅して横になるぐらいは許されるべきだろう。

 考えてみれば、このような同居人からの冷遇は、ずっとあったとはいえ、とりわけ昨日は強くそれを感じるものだった。このブログで前にも書いた通り(4月の計画丸潰れ - 読んだ木)、これまで保育園の休園などがあって僕の仕事が立て込んでおり、休日にベビーシッターのサービスを使うことを打診したのも昨日のことだった。しかし、同居人の回答はいつも決まって金がない、お前がもっと稼がなければそれを使うことは許さない、というものだ。僕はそれもそうだと思いつつも、仕事と子守りで休む暇がないのは辛い、と愚痴をこぼしたのだった。それに対して同居人は間髪を入れず、休むなら平日にしてね、と言ったのである。休日は子守りがあるのだから……というわけである。しかし、平日だけでは仕事が片付かない、なぜなら先月は平日の半分は子守りをしていたのだから、という話をしていた矢先にそう言われると、こちらも返す言葉がない。

 僕は非正規雇用であるが、家事育児の半分程度しか担っていない。正規雇用の同居人にしてみれば、どうせ暇なのだからもっと家事をしろと思っているのだろう。しかし、非正規雇用だから暇だというわけではない。むしろこちらは、正規雇用を獲得するために色々な実績を積む必要があるのだ。その辺りが理解してもらえない。週の時間の分担、月の時間の分担を相談しようとしても、なぁなぁで流されてしまい、細かい時間設定まで話が進まない。何でもかんでも最後には僕が仕事ができないのが悪い、仕事をサボって家事をやれ、というのでは埒が明かない。それをいえば、じゃあ帰ってこなくていい、と言われる。なぜそこで、こちらがなんども相談したり提案したりしているように、今月の土休日の育児の分担を考えよう、外部サービスを使って楽できるところは楽しよう、といった話にならないのかが理解できない。あまつさえ、僕が車を出して僕の実家に連れて行けば、などと提案される。僕が親と調整して車を借りて運転して……で、もちろん祖父が一人で子供を見ていられるわけではないので、子守りもする、と。僕の負担ばかり増える提案だが、おそらく同居人にとって僕のリソースは天から降ってくるべき性質のものなのだろう。

 

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 ただ、これらは僕の観点からみた一方的な解釈である。相手としては、僕を蔑むというばかりではなく、多少はなにか僕に資するような発言や、提案をしようとする気持ちもないではないのかもしれない。3年前に僕がダウンした時も、仕事を辞めて家事だけやれ、というアドバイスで、僕はそれに従って仕事を辞めて家事育児に相当のリソースを割いてきた。今回も、再び仕事を辞めて家事だけやれば、精神も安定するだろう、という趣旨からの助言なのかもしれない。確かにその方が、いま足元での問題は解消されるかもしれない。そのために、そんな仕事は真面目にやらずに適当に流してしまえ、と言っているのかもしれない。しかし、3年ごとに仕事を辞めていたのでは、僕はキャリアを積めないし、早晩家計も逼迫することになる。前回は緊急避難的にその方法をとったが、その結果借金も個人の債務で残ったし、ダメージは色々と大きかった。今回は新たな借金こそないものの、キャリアが断絶するような選択はしたくない。一方で、収入にブランクを作れないから、現職の雇用期間が終わった後にキャリアを十分に継承するような転職ができない可能性はもちろんある。ただ、相手の収入的に専業主婦になるという選択肢は残されていないのだから、ある程度の所得が見込める職に移れるよう準備しなければ、僕だけでなく子供達も苦しむことになる。

 休日に子守りをして、平日に休み、しかし仕事は平日の昼間だけでそれ以上のことはやるな、というアドバイスは、僕のように非正規雇用の無能な人間には苦しいものだが、あるいは同居人のように正規雇用についている優秀な人間にとってはこれ以上ない丁寧なアドバイスかもしれない。まさにこれが、働き方改革成果主義の組み合わせのような理想だからだ。休日は子供と遊び、平日は定時で上がり、しかも有給をたくさん取れる。でも仕事の成果さえ上がっていれば、十分な給料は保証されている、というわけだ。これに対して、僕の場合は、休日は子供と遊び、平日も定時で上がったり、休みを取ったりすれば、成果は全く出ない。給料は上がらない。仕事はなくなる。そうして弱者が淘汰されることが、資本主義の理想である。おそらくこの後に続くのは、深夜のコンビニバイトや休日の倉庫バイトの掛け持ちで子供の教育費を稼ぐとか、そういったことだ。優秀な人間はそういう心配はないのだろうが、僕が倉庫の日雇いで働いていた時は、そういう弱い立場に置かれた人がたくさん来ていた。僕は弱い側の人間なので、そのような丁寧なアドバイスは辛い。おそらく強い側にいる相手は、逆に、そういう丁寧なアドバイスが望ましい世界に生きているのだろう。おそらく、倉庫の現場にいる子持ちの父親とか、精神病を患って貧困に陥っている中年女性とか、そういう人には接したこともないのだろう。社会の分断というのはこうして進んでいくのだ。ただ、それが悪意ではなくむしろ善意のアドバイスによって進められるところに悲しいところがある。

 

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 ここ数日、胃のあたりの調子の悪さに悩まされている。同居人は、僕がお腹が痛いというたびに五月病だといって笑う。ここまで整理した上で、なんとか相互理解に持っていくためのアプローチを考えようと思ったが、やはり胃がキリキリし始めた。いったん筆を置こう。時間が解決してくれることもあるだろう。それはあるいは、単なる問題の先送りかもしれないが、対応できない問題を先送りせざるを得ないのもまた、物質に条件づけられた人間の性質である。