読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

「やる気が出る」問題

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飛行機にも随分乗っていない

 今週のお題は「やる気が出ない」だが、やる気が出る出ないで悩む余裕があるなら、それが出るまで休んでおけばよい。そんなものは悩む必要はない。

 前の記事「夜、跨線橋をわたる - 読んだ木」に書いた近況のように、むしろやる気が出ているのに何もできない方がよっぽど辛い。その記事を書いたのち、また平日が始まったのだが、今度は子供二人が高熱を出して保育園を休み、続けて親もダウンして翌週の前半まで予定が潰れていった。これでは何もできない。自分に熱が出ていても仕事はできるが、熱が出ているケアの必要な家族がいたら仕事はできない。昔は病児保育などを使っていたが、いつも予約が埋まっていて1人でも入れるのが大変なのに、子供が2人いて2人ともダウンするともう何もなす術がない。仕事そっちのけで、家でのたうち回る子供のために野菜のうどんを作る日々である。これは仕事のできない人間の言い訳なのだろうか? 有能な人間なら家族を看病しながら仕事もできるものなのだろうか。

 僕の母親が生きておれば、と思うこと頻りである。何かの折に頼ったり任せられたりできる家族さえいれば、もっと状況は違っていたはずだ。しかし、いないものはいない。我々のような状況は、1920年代以降の日本の多くの新中間層の狭小住宅に間借りしている家族が経験していることなのだ。コロナ禍で友人たちとも疎遠になり、1年以上経つ。そうすると子供の方が相手の顔を忘れて人見知りするようになり、友人の手を借りるのも難しくなる。

 コロナ禍以前、特に第二子を妊娠する前は、誇張ではなく毎週のように誰かが我が家に遊びに来て、あるいは子供を連れて友達とどこかへ遊びに行き、オープンで自由な子育てをやっていた。皆それに付き合ってくれていたし、子供もそれを楽しんでいた。今では真逆である。友達どころか親戚の来訪もなく、親2人だけで子供を見る。遊びに行きたくとも博物館や主要な公共施設はみな閉まっており、行き場を無くした子連れ家族が公園に溢れていて砂場遊びもままならない。仕事ができない親も辛いが、なにも新しい体験ができないまま都市に溢れる商品に囲まれてパターナルな生活を強いられる子供たちはもっと辛い。

 やる気が出ないというのは、休まなければいけないという心身のサインが出ているということだ。だから休めばよいし、それ以外のことをすることは望ましくない。もしなにか期限が迫っていようと、何があろうと、必ず1日以上休む必要があると言ってよい。これに対し、やる気が出ているのに何もできないというのは、何かやれという心身のサインが出ているのに休まなくてはいけない、日々を無為に過ごさなければならないということだ。こちらの方は子供を檻に入れ柱に繋いで仕事に行くというわけにもいかないので、如何ともし難い。

 万人に過剰労働を強いた過去は、やる気のなさが問題となったが、今日それは休む必要があることを示唆している状態として理解され、やる気が出ないこと自体は問題とされなくてもよくなった(問題としたい人はすればよいが)。他方、ワークライフバランスとか働き方改革がかりそめにも浸透している今日、やる気が出てしまう人の問題を考える必要があるのではないか。やる気がある人にもっと仕事をさせるような社会になるべきではないか。思うにこれは、そもそも労働者が自分で働く量を決めることができない社会構造に起因する問題なのだが、そういう話はここではしないつもりであるので、とりあえず問題提起にとどめておこう。いずれにしても、僕はもっと落ち着いて仕事のできる環境がほしい。

 

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