読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

カウンダの死——中国とアフリカ横断鉄道(タンザン鉄道・ベンゲラ鉄道)

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ザンビアの物流——アフリカ横断鉄道の背景

ザンビア建国の父、ケネス・カウンダ

 今朝(2021年6月8日)、ポッドキャストで英国放送を聴いていたら、ケネス・カウンダの死について報じていた。カウンダはザンビアの初代大統領で、1964年のザンビア独立とともにその座に就き、1990年ごろまで社会主義政策のもと独裁的な国家経営を進める一方、周辺国の独立を後押しした。80年代から銅価格の落下とそれに伴うオランダ病(天然資源輸出依存に伴う国内産業の衰退や国内のインフレ、失業率上昇、財政の不透明化など)の顕在化で国民の不満が高まり、91年に民主化を実行。それに伴う選挙により下野。そのあとも与党となった反対勢力から執拗な弾圧を受け、2000年に政界を引退。大要こんな経歴が、ウィキペディアで紹介されている。(本なら、『ザンビアを知るための55章』が詳しいようだ。)

内陸国ザンビアの輸出ルート

 先だって、ひょんなことからSさんというザンビアから来た知人ができた。彼は交通の専門家なのだが、彼曰くザンビアの交通政策上の課題は、港からの輸送であるという。ザンビア内陸国であるため、海上からの輸入品は隣国タンザニアのインド洋に面した港ダル・エス・サラームに運ばれて、そこからトラックに積まれ、ザンビアまで陸路を行くことになる。首都ルサカまで、距離にして2000キロだ。

 さて、ここで二つの疑問が生じる。一つは、ダル・エス・サラームより近くに港湾を整備できなかったのかということ。もう一つは、陸路なら鉄道の方が輸送効率がよいのではないか、ということだ。

抜けられない南東のジンバブエと東のモザンビーク

 直線距離で行けばもちろん、ジンバブエ経由でモザンビークの海岸に出ると近いように思える。しかし、これは釜山からウランバートル瀋陽へ行くのに北朝鮮を真っ直ぐ突き抜ければ近い、というような話だ。60年代に独立したザンビアと違い、1980年代まで独立戦争と内戦に苦しめられたジンバブエやモザンビークに、十分な貿易港を整備する余裕はなく、またそれだけの需要や経済的ポテンシャルもなかった。

再整備中の南アフリカへのルート

 結局、インド洋側沿岸の南で抜けられる先としては南アフリカのダーバン港が一番近く、こちらもザンビアからは2000キロ近い距離がある。イギリス植民地時代は南アフリカまでを結ぶ鉄道があったが、独立後の反アパルトヘイト、反資本主義による南アフリカとの関係悪化とジンバブエの独立前後の紛争により、このルートは数十年に亘り使えなかった。

 現在ようやく舗装が少しずつ進められている段階で、その一部には日本のODAも使われている。(南北回廊北部区間道路改修計画 | ODA見える化サイト

破壊されたアンゴラへのルート(ベンゲラ鉄道と道路)

 大西洋側はどうか。ザンビアの西隣はアンゴラで、その首都ルアンダから南500キロのところにロビトという大西洋に面した港町がある。ここからザンビアまで陸路が整備されていた。このルートはローデシア時代からザンビアにとって重要な輸出入ルートであった。過去形なのは、それが1975年よりおよそ四半世紀にわたって続いたアンゴラ内戦によって全く破壊されてしまったからだ。

鉄道建設と中国

タンザン鉄道の建設

 さて、ここまで来れば鉄道の話もみやすい。イギリスおよびその支配下にあった南ローデシア南アフリカとの対立とその地域の内戦によって、南方への鉄道ルートは閉ざされた。また、アンゴラ内戦で西へ抜ける鉄道(ベンゲラ鉄道)は破壊された。

 前後して、ザンビアと同じタイミングで独立し、やはり社会主義国家の建設を目指したのが、タンザニアであった。そして、両国の支援役を買って出たのが、中華人民共和国である。このころの中国といえば、建国から20年ほど経ち、大躍進政策の失敗が明らかになった後であった。アフリカ諸国への介入を行なった背景には、西側諸国との対立とソ連との対立が深まる中で、諸外国、特に新興社会主義国との関係深化に取り組んでいたことがあるだろう。それらの国も、国連では同じ一票を持つ。そして党内では、毛沢東文化大革命運動で巻き返しを図っていた頃だ。

 ウィキペディアによれば、口火を切ったのは中国だったとあるが、その前にはタンザニアザンビアが西側諸国に支援を申し入れ、断られていたという。1965年にタンザニア大統領ニエレレが訪中した際に、タンザニアザンビアを結ぶ鉄道建設の提案を受ける。1970年に建設に合意する調印を3カ国で行い、中国が建設して75年に完成、76年に両国へ引き渡された。名前はタンザニアザンビアの中国語表記の頭文字をとってタンザン鉄道(坦賛鉄道)という。

赤字を垂れ流すタンザン鉄道

 この鉄道建設の成功は、その後の中国とアフリカの深い結びつきに先鞭をつけた。ただ、その後の鉄道経営とインフラ維持ができなかった(村上享二「その後のタンザン鉄道 ―中国の関与を中心として―」『国際問題研究所紀要』150号に詳しい)。当初の数年間は稼働したものの、そののち損傷する路盤、走らない機関車、効率の悪い車両運用などさまざまな運用上の困難で、80年代には道路輸送に押され始め、半世紀近くが経ったいまでも莫大な赤字を抱えている状況である。

ベンゲラ鉄道の再建とアフリカ横断鉄道の誕生

 2014年、DRC経由でアンゴラに抜けるベンゲラ鉄道も、中国の支援によって再建された。タンザン鉄道と合わせてインド洋からザンビアを経由して大西洋までが鉄路で結ばれ、2019年にそれを走破する豪華列車が走った時には、アフリカ横断鉄道を中国が建設したと大々的に宣伝された。

 しかし実際は、それを利用する貨物も少なければ、それを運用する十分な体制もできていない。過去のタンザン鉄道と同じ轍を踏まないためには、主力であるザンビアからの銅輸出のための貨物輸送に支障がない程度にはしっかりとした運用体制を築き、維持すること、そしてザンビアからの下り列車だけで折り返しが空荷では儲からないので、上り列車を輸入貨物の運搬にも使えるよう、登坂能力がしっかりとした機関車を導入し、また自動車との競合に鑑みて、海上コンテナや小口荷物を運べるような貨車の操車と荷積みがスムーズにできるようにすることなど、いくつかの課題を乗り越えなければならない。

アフリカ大陸横断鉄道の地図

カウンダ亡き後のザンビアとアフリカ横断鉄道

 それらの課題を克服し、鉄路を維持するためには中国の継続的な支援が欠かせない。しかし、カウンダが率いた社会主義的独裁政党の統一民族独立党はもはや議席を持たず、反中国路線(ゆえに日本へのリップサービスも行う)をとる左派の愛国戦線が近年与党の座を占めている。未だ権威的な社会主義体制によって国家が維持されているが、カウンダ亡き後、なんらかの変化が生じるのかどうか。

 現下の経済不安を背景に、さらに自由主義寄りの国家開発統一党が支持されるようになることにでもなれば、中国との結びつきがますます減退するだろう。その場合、西側諸国(今更この表現もないが)が鉄道支援に力を入れるのでなければ、アフリカ横断鉄道の復活は実のないものとなる。習近平の一帯一路政策で実現したアフリカ横断鉄道、タンザン鉄道とベンゲラ鉄道の未来は、ザンビアの行く末に委ねられている。

 

 

ルーティンの日々と波瀾万丈の日々

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 最近は生活がルーティンになっているので気が楽だ。だからブログの記事更新もちょこちょこ進んでいる。ある程度ルーティンの時期もないといけない。毎日が予想のつかない波瀾万丈な日々のまま何年も進むのは辛いものがある。スタートアップで働いている時はまさにそんな感じで、誰かが評して曰く「崖から落ちていきながら飛行機を組み立てるものだ」云々と。僕はそのまま組み上がらずに墜落した身の上なので何をか言わんやである。実際、スタートアップで働いている人はまさにそんな感じだろうから、大したものだと思う。最近必要に駆られて孫文などを読んでいるのだが、革命家なども同じ部類に入るであろう。

 ベンチャー社長や革命家などが波瀾万丈な毎日を乗り越えられるのは、大局的な視点に立っているからだろう。世界を変えることに比べれば、日々のよしなしごとなど大したことではない、大損、敗北、人の死、これみな海のさざなみの如し、というわけだ。大きな事業を成し遂げる人というのも、そういった大局的な視点を維持したまま、運も良く何年もそれを続けられたというような人であることが多い。僕のように糸の切れた凧のごとくあっちへふらふら、こっちへふらふらではなにも成し遂げられないまま人生が終わってしまう。

 

 

 人生というのは何が起こるかわからず、また、何かが起きたことを語り得るのは生き残ってしかもそれを語るほどの余裕に恵まれている人だから、人生について考える時に人生について書かれたものを手に取ろうとすると、かなりバイアスがかかる。本当のところ、多くの人は、何も痕跡を残すことができないまま、気づいたら死んでいるものだ。去る者は日々に疎し。死んだらもう自分自身にも、他人にも忘れられるのみである。

 そこで、この世から去るという一事をもって、ベンチャー社長や革命家の志にも匹敵するような人生の大局とみなし、満足する死たる生の極地に向かって崇高に生きようというのがセネカの言ったことであり、ストア派の哲学であり、ショーペンハウアーの人生論であるかもしらん。ザッハに帰れと訴えたウェーバーの意図するところも、日々のちまちました体験を求めるのではなく、日々の仕事を極めたところにこそ偉大さはある、という趣旨ではなかったか。

 

 

 

 

 平穏なルーティンの日々はそれはそれで愛しいものではあるが、このまま死んでいいかと問われれば、まだやりたいことが色々ある。そう思えば、波瀾万丈な日々が恋しくなってくる。ルーティンの日々は波瀾万丈な日々に疲れたときのペースメーキングのために挿入するぐらいでよい。しばらくこの心の安静を楽しんだら、またギアを入れ替えて頑張ろう。

 思うに、ペースメイクのためのルーティンの日々と、波瀾万丈の日々とを、自らがダウンせず、さりとて怠惰にならないようにうまく配分する、というような自己コントロールができることが、自分の心身の健康のためにもっとも大切なことではないだろうか。ただ、これをやるためには自己の個というものに向き合い、自己を社会や他者から切り離す必要があるので、簡単なことではない。これを自分の理性のみでやること能わず、みなヨガや自己啓発に頼るのであろうが、それでは自己コントロールではなく呪術による自己制御に落ち込みかねない。技術としてそれらを取り込みつつも、あくまで自己の死即生に向き合う中で、もっとも伸びやかな自己の可能性の伸展を試みたいものだ。

 

 

 

下田公園の紫陽花(2021年6月中旬)

 仕事が午前終わりの日に、下田公園の紫陽花を見てきたので写真をアップしようと思う。

 

* * *

 

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 これは公園に到着する前、伊豆急下田駅の真南1キロ、小さな運河沿いにある「ペリーロード」という小洒落た遊歩道に咲いていた紫陽花。ペリーロード沿いにはカフェやレストラン、ギャラリーなどがあり、落ち着いた雰囲気。観光地といっても規模は横浜や小樽の運河には比べ物にならないほど小さいが、その小ささと人の少なさが魅力。

 ちなみに、あまりのんびり滞在する時間はなく、気温も高かったので、スムーズに移動するために伊豆急下田駅で電動自転車を借りた。「伊豆ぽた」という伊豆急行のやっているサービスらしい。この辺りはMaaSの実証地域のはずだから、多少は経産省国交省から金が流れているのだろうか。しかし、2時間1,100円という、1日100円の東京都内と比べるとべらぼうに高いものだ。歩けば10分以上かかるところを3分で走り抜けられるし、ヘルメットがあって日射を避けられるので快適ではある。ただ、受付の中年男性の、レンタル客を自転車窃盗犯の如く扱うような態度には苦笑を禁じえなかった。僕が男性の一人客だったからだろうか。


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 さて、下田公園に入るとこんな感じで満開の紫陽花が遊歩道沿いにびっしり。下田公園は城山公園という別名もあり、海に突き出た岬の山が丸ごと公園になっている。山の尾根に向かって遊歩道が伸びていて、それに沿って紫陽花が満遍なく植えられている。


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 植えられている紫陽花は3万本だったか、調べればすぐわかるのだろうが、種類も千をくだらないとかなんとか。公園入り口にいたスタッフの方が、観光客の高齢女性に紫陽花の種類を細かく聞かれて困惑していた。額紫陽花も風情があってよい。


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 途中、出店の出ている広場や開国記念碑などを経てしばらく上がってくると、稲生沢川の河口にある下田港の後ろに広がる下田の街を一望できるようになる。

 河口がこの公園のある岬によって塞がれているような形になっているため、ここは天然の漁港として古くから使われていたらしい。また、この公園自体が下田城址であり、豊臣秀吉の軍勢に対峙した後北条氏の拠点があったところとして、史碑などが立てられている。


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 この日は青空が広がり、まだ夏に慣れていない身体にとっては大層暑く感じられた。花の色(実際は萼片であり、装飾花とも呼ばれる)の瑞々しさと、葉の青さが、まだ梅雨のあいだにもかかわらず本格的な夏の到来を予期させる。

 静岡は東海地方の括りなので例年よりかなり早い5月中旬に梅雨入りが宣言されていたが、隣の関東甲信地方が梅雨入りしたのはこの写真を撮った翌週だった。春とも初夏とも夏とも言い難い、しかし快適な晴天である。


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 道沿いに続く紫陽花。路面は大振りの石畳だから歩きやすく、数年前に来た時と違ってコロナ禍で人出が少なかったため、のんびりと紫陽花鑑賞を楽しむことができた。


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 この写真の奥に写っている斜面はあじさい園になっているところで、道沿いだけでなく斜面全体に紫陽花が植わっている。これを見通せる撮影ポイントの横にはレモネードを売るモダンな出店が出ていて、犬を連れたグループが皆でくつろいでいた。

 このとき公園を全体的にに見ればほぼ満開だったが、あじさい園のあるような標高の高い場所ではまだつぼみも残っている。下田公園のあじさい祭りは6月の頭から終わりまで1ヶ月いっぱい開催されているが、それが可能なのはこのように標高差と斜面の方角の違いによって咲く時期がずれているからなのだろう。


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 紫陽花が咲いているところを抜け、山の稜線をさらに歩いていくとつつじ園のようなところもある。もちろん今は何も咲いていない。さらにそこを抜けて山の反対側に出ると、このように太平洋を望むことができる。

 このとき向こうからフェリーがやってきた。神津島と下田を結ぶフェリーのようである。下田公園の横にある港から発着している。街の中心からはやや外れているが、船が大きいのと水利権の関係で、市街に近い下田港の中までは入ってこれないのだろう。


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 人が少ないとはいえ、このように人がいない瞬間を捉えて撮影するのはやや難儀である。


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 この角度からは、僕以外にもシャッターチャンスを待ち構えている人がいた。


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 帰りにもう一度下田の街を。市街地の裏手にある綺麗な三角形の山は、その形から下田富士と呼ばれている。ドラえもんのアニメに出てくる「裏山」に引けを取らない幾何学的形状だ。

 

* * *

 

以上、下田公園の紫陽花についての写真レポートであった。こういう記事は別段の新味もないが、季節のものだから備忘がてら記しておくにはよい。また来年以降に行くときの参考になるだろう。

 

 

 

チック・コリアの「スペイン」いろいろ

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 チック・コリアについてはこれまでの記事でもちょくちょく話題にしてきた。(例えば1940年代生まれの音楽家たち - 読んだ木。この記事は、チック・コリアの亡くなる前後に書いたものだった。)

 しかし、考えてみればまだ曲について書いたことはあまりなかったかもしれない。「男子高校生の演奏 - 読んだ木」で触れた通り、僕がチック・コリアを好きになったのは高校生の吹奏楽部で「スペイン」を演奏したからだったが、その楽譜は熱帯JAZZのもので、オリジナルのものとはかなり違うものでもあった。そんな「スペイン」の様々な演奏が、最近はApple Musicで聴き比べることができる。大変便利な時代だ。

 僕自身は、音楽については素人だから、別にレビューとかそういうことができるわけではないが、当時の郷愁もあるので、誰かに読んでもらいたいということではなく自分のために、いろいろな「スペイン」の演奏についてメモ程度にまとめておこうと思う。

(見出しの括弧内は録音年→リリース年) 

 

 

チック・コリア演奏録音

「スペイン」オリジナル録音(1972→1973) 

Light As a Feather
・普通のCD→Light As a Feather
・別テイクの入った2枚組CD→ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)
 ・SMH、UHQ、MP3など→ライト・アズ・ア・フェザー
Amazon Musicスペイン

 

 「スペイン」という曲の最もよく知られているスタンダードな演奏は、このライト・アズ・ア・フェザー "light as a feather"というアルバムに収められたものだ。1972年録音、73年リリース。冒頭、チックが電子ピアノで奏でるアランフェス協奏曲の第2楽章の、テレレ〜 テレレーレレーレ テレレ〜という哀愁ただようイントロが特徴的。

 ただ、後述するチックの様々な演奏、あるいはアレンジの多様さと比較すれば、演奏の味わいはあっさりしているし、曲の性格としても、冒頭にアランフェス協奏曲が引用されている他はそれほどスペイン風の曲調が再現されているわけではないし、チック・コリアのプレイが前面に出ているわけではないから、後世の人間が聴いてもそれほどインパクトを受けないかもしれない。ただ、歴史的にはやはり当時大きな影響があったのであって、全ての出発点としてこの録音があるのだ。

 

「スペイン」アナザーテイク(1972→1998)

ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)


・アナザーテイクの入った2枚組CD→ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)
Amazon Musicスペイン(別テイク)


 これはアナザーテイクということで、1998年に出たリマスター盤のボーナスディスクに収められたもの。上述の採用テイクより若干テンポが早いのが魅力。ただフルートが前者よりも力無い感じで、そこがイマイチかな。そのせいでテンポが早めにも関わらず全体的に乗り切れてない感じを受ける。 

 

チック・コリア・アコースティック・バンド版「スペイン」(1989→1989)

Akoustic Band
CD→Akoustic Band Standards and More
LP(中古品だがLPが売っている!2022/4/25時点)→Akoustic Band [Analog]

 

 ピアノ・ソロ版「スペイン」に対して、ソロではないんだけど、チック・コリア・アコースティック・バンドの有名な演奏が、チックのピアノが前面に出たバージョンの「スペイン」としてよく知られていると思う。チックのピアノを楽しみつつ「スペイン」を聴くなら、ソロよりもこれだと思う。

 このバンドは写真の通り、ジョン・パティトゥッチというベーシストと、デイヴ・ウェックルというフュージョン系のドラマーとの比較的若い3人のトリオで、フルートやサックスが入っていないこともあり、おしゃれで耳障りのいい演奏に仕上がっている。とはいえ、それはあくまでチック好きの立場からの感想で、実際はチックのめちゃめちゃ手数の多い演奏がバンドとうまく調和してるというもの。ムーディなBGMになるジャズナンバーとはわけが違う。
 これは僕は、「スペイン」の様々な録音の中で最もチック・コリアの良さというか、らしさがうまく出ている録音だと思う。しかし惜しむらくは、なぜかApple Musicに入っていないのである! 大変残念なことだ。

 

ソロプレイ「スペイン」(?→2008)

 

Chick Corea - Very Best Of Jazz: Thelonious Monk(2CD)

CD(新品)→Chick Corea - Very Best Of Jazz: Thelonious Monk(2CD)
CD(中古)→The Very Best Of Jazz - Chick Corea
Amazon MusicSpain (Live)


 チックがソロで「スペイン」を演奏する録音が入ったCDはいくつかあったと思うのだけど、これは2枚組CDのチック・コリアベスト盤で、ちょっと僕の検索能力だといつ録音されたものかとかはわからなかった。結構狭い箱でのライブで、ピアノソロで軽めに弾いているものだ。そのために時間も4分足らずと非常に短い。もうちょっとしっかりしたピアノ・ソロの「スペイン」の録音もあるはずなのだが、Apple Music上では見つけられなかった。

 

チック・コリア・トリオ版「スペイン」(2013→2013)

 

Trilogy

CD→Trilogy

CD、MP3、Amazon Musicなど→Trilogy by Chick Corea Trio

SHM-CDトリロジー (SHM-CD)


 これは、「Trilogy」というアルバムに収められた演奏で、2013年というかなり最近のライブ録音である。この演奏の魅力は、逆説的だがチックがあんまり弾いていないところだ。なんといってもニーニョ・ホセレのフラメンコギターとクリスチャン・マクブライドウッドベースの絡みが最高である。この二人が慎み深くスペイン風に「スペイン」の進行をたどっていく流れを邪魔せずに、チックが音を置いていく、それがまたムーディな雰囲気を醸している。ホルヘ・パルドのフルートがオリジナルのジョー・ファレルの演奏を想起させつつも、より情熱的なタンギングと丁寧なトリルで曲を盛り上げている。

 これは、のちに触れるパコ・デ・ルシア沖仁がほぼソロで奏でる「スペイン」とは異なり、フラメンコギターが中心となる「スペイン」ではあるがトリオだ、という点で特徴がある。チックが入っていることもあり、原曲が尊重され、フラメンコ風にアレンジするあまりリズムが崩れて三連符になるようなことがないことも、原曲好きの聴き手にとっては嬉しいところ。

 

カバー:ジャズ系

 ここからはカバー曲を扱っていこう。まずはジャズ系のアレンジから。

熱帯JAZZ楽団演奏「スペイン」(2003→2011) 

熱帯JAZZ楽団 XV~The CoversII~
アルバム(CD、MP3、Amazon Music)→熱帯JAZZ楽団 XV~The CoversII~
Amazon Music(単曲)→スペイン


 2003年の熱帯JAZZの7枚目のCDに収録された「スペイン」の「熱帯」アレンジで、Apple Musicに入ってるのはこっちのThe Covers 2に再録されたもの。中身は一緒のはず。熱帯アレンジというだけあって、コンガのポコポコいう音に乗せて重厚な金管バンドの音がまっすぐ飛んでくる熱い一曲だ。そういうアレンジの性質上、吹奏楽の楽譜になって高校生バンドなどによって演奏されている。その楽器編成もさることながら、冒頭を「スペイン」の主題にして、もともと冒頭にあったアランフェス協奏曲2楽章のフレーズが曲の中盤の転換部にどてっと突っ込まれている、これがすごくインパクトあるんだよね。
 雰囲気としては、ウェストサイド・ストーリー・メドレーみたいな感じ。ウェストサイド・ストーリーでいうウェストサイドっていうのは、アメリカ西海岸のことではなくニューヨークの地名で、東京で言えば「西川口物語」みたいな感じなのかな。それだとウェストリバーサイド・ストーリーになりそうだけど。まぁそれはいいとして、ウェストサイド・ストーリーは確かにニューヨークの話でニューヨークで上演されるけど、あれ物語の主要な登場人物がプエルトリコ人なんだよね。プエルトリコはもともとスペインの植民地で、20世紀にアメリカの管理下に移るんだけど、今でも自治領みたいな扱いで、スペイン風の文化が根付いている。それを反映した音楽になっているから、あれもスペイン風かつ熱帯っぽい雰囲気のある曲なのよね。だから熱帯JAZZ版「スペイン」が「ウェストサイド・ストーリー」風に聴こえるのも、多少は由縁のあることだと思う。

 

マンハッタン・ジャズ・クインテット演奏「スペイン」(2007→2008)

スペイン
CD、Amazon Musicスペイン
Amazon Music(単曲)→SPAIN


 マンハッタン・ジャズ・クインテットが演奏する「スペイン」。オープニングが時代劇みたい、といったらちょっと語弊があるかもしれないが、ミュートしたトランペットの高音のロングトーンから始まる独特のもの。中身の編曲はビッグバンドに最適化されたシンフォニックなもので、編曲家デイヴィッド・マシューズの面目躍如といったところだ。ただまぁ、チックではあり得ないタイミングでのメジャーへの進行とかあるので、ビッグバンドのアレンジとしてはいけてるけど、原曲好きな人には受け入れられないかも。吹奏楽やってた人なら、パートをばらしてそれぞれに受け持たせるこのアレンジは好きだと思う。

 

マンハッタン・ジャズ・クインテット演奏「スペイン」(?→2014)

Special Edition of Mjq-The 30th Anniversary by Manhattan Jazz Quintet (2014-10-08)

中古CD→Special Edition of Mjq-The 30th Anniversary by Manhattan Jazz Quintet (2014-10-08)


 トランペットが前面に出ている「スペイン」と言えばこれ。原曲のフルートの代わりをトランペットがやり、合いの手をサックスが入れるという形だ。前のMJQの編曲よりシンプルな編成。冒頭、アランフェス協奏曲のテーマをトランペットソロで吹くのは、まさに「必殺仕事人」のテーマそのものであり、時代劇を想起する人も多かろう(ただしあそこでトランペットのアランフェス協奏曲が使われている元ネタは多分マイルス・デイヴィスのアレンジだろう:「スケッチ・オブ・スペイン+3」)。なお、高校の部活の同期にしか通じない話ではあるが、高校2年生の定期演奏会第3部で「スペイン」をやる前に第2部で上演した音楽劇の中で、まさにそのトランペットソロがSEとして吹かれているので、あのとき期せずしてアランフェス協奏曲のバリエーションが2回演奏されたということになる。

 トランペット好きの人には一番楽しめる「スペイン」かもしれないけど、僕なんかはこれを聴くと、だからトランペットは鬱陶しいんだよな……って思っちゃうぐらいペットの主張が強い。それに合いの手を入れるサックスも本当になんていうか、自己主張が激しくて、曲全体としてはつっけんどんな印象を受ける。
 ただこれはもう、「スペイン」っぽさもチック・コリア感もないから、違う曲として聴けばそれなりに聴きごたえはある。なんか知らないけどドラムがオープンハイハットの付け根のところをずっとツンツクツクツクツンツクツクツクやっていて、「A列車で行こう」よりも列車みがある。言うなれば Spain ならぬ Austin で、テキサス・イーグル号でロサンゼルスからオースティンを経由してシカゴに行く長距離列車が砂漠地帯を駆け抜ける様を描いた曲、と説明された方がよっぽどしっくりくる。ロスからオースティンまではスペイン語の駅名も多いしね(そういう問題ではない)。

 

渡辺香津美 feat. 小曽根真 デュオ演奏「スペイン」(?→2016)

 

 

ベスト・オブ・domoイヤーズ
CD、MP3、Amazon Musicベスト・オブ・domoイヤーズ
Amazon Music(単曲)→スペイン [feat. 小曽根 真]


 フラメンコアレンジのギター版「スペイン」は数多くあれど、ジャズギター版「スペイン」はあまりない(多分)。その意味で貴重な録音なんじゃないか。渡辺香津美のギター演奏によるスペインは普通にかっこいいので、特に説明不要だろうが、面白いのは小曽根真がかなりチック・コリアの弾き方に忠実に演っているところ。そのおかげで、「スペイン」感はばっちり出ている。元のを聴いてないからわかんないんだけど、1998年のアルバム『ダンディズム』収録の録音なのかな。

 渡辺香津美の弾くスペインはこのほかにギターソロ、ストリングスとの共演もあるのだけれど、どちらも単に「スペイン」のインストアレンジ(元々インストだけど)って感じで、正直あまりそそられない。後述する沖仁とやったやつと小曽根真とやったこれだけは、「スペイン」として聴けるかな、と思う。ほかは渡辺香津美を聴きたい人のための「スペイン」かな、と。

 

カバー:フラメンコ系

パコ・デ・ルシアジョン・マクラフリンのギターデュオ演奏「スペイン」(1987→2016)

 

PACO & JOHN LIVE AT

LP(レコード盤!新品であるゾ!)→Paco and John Live at Montreux [Analog]
CD、MP3、Amazon MusicPACO & JOHN LIVE AT Montreux
※レビューにはDVDのレビューが書かれているが、DVD付きのものが売られている時といない時がある。購入時要チェック。
ライブDVD→PACO & JOHN-LIVE AT Montreux

 

 フラメンコ風の「スペイン」、というと語弊がある、フラメンコギターで表現しうる最高の「スペイン」、といえばこの録音だ。

 二人とも、ジャズもフラメンコも存分に演奏できるテクニックを持っている稀代のギタリストだ。「スペイン」という曲はまさにその二つを架橋するうってつけの存在である。さて、フラメンコはジャズと異なりカンテ(歌)やバイレ(踊り)が中核となる音楽である。しかも、パルマと呼ばれる手拍子や、サパテアードというタップダンスのような足鳴らし、パリージョというカスタネットのような打楽器などを用いて、かなり鋭くリズムを刻む。そのようなフラメンコの趣向が反映された「スペイン」は自ずと、観客を巻き込むようなはっきりとしたリズム感が表現されることになる。後述の通り、それは場合によっては「スペイン」の独自の細かいリズムを崩してフラメンコのノリに寄せていく結果になりかねない。しかしこの二人の演奏は、ジャズであることをも崩さない。よって、神業的なギター演奏によりその独自のリズムをさらに切れ味鋭く刻むことになるのだ。

 ライブDVDも評価が高いが、僕はまだ見る機会がない。そのうち入手して見てみたいと思う。

 

ミシェル・カミロ&トマティート演奏「スペイン」(2000?→2000) 

Spain

CD、MP3、Amazon Musicスペイン

 

 こちらはピアニストのミシェル・カミロとフラメンコ・ギタリストのトマティートの共演。ジャズに入れるかフラメンコに入れるか悩んだ。カミロはジャズ調に、トマティートはフラメンコ調に弾こうとしているので……ただまぁ、主役はトマティートであるはずだろうと思ってフラメンコの方へ。トマティートのギターは♪♬(8分音符+16分音符二つ)のリズムを8分三連符に崩してしまうのだが(チックもたまにやる)、それが情緒的な雰囲気を醸し出している。ピアノはかなりジャズ調に弾いているためにややトマティートとの齟齬があるが、音質のミクスチャが心地よいし、トマティートのソロではフラメンコギターの雰囲気を存分に楽しめる。

 

沖仁演奏「スペイン」バンドバージョン(?→2018)

Spain

CD、MP3、Amazon MusicSpain
Amazon Music(単曲)→Spain (Band Version)


 沖仁のギター演奏は日本刀のような切れ味がある。じゃあ、お前は日本刀でなんか切ったことがあるのか?と言われればそれはないのだが、言い直せば、沖仁の演奏は強い抑揚がなくリズムが正確無比、それでいて特に高音域の弦の音が鋭く、聴く人をドキドキさせる。これを比して日本刀、というわけだ。

 バンドアレンジなのでピアノとベースも入っているが、フラメンコらしくメインのリズムはパルマで取り、シャカシャカという音は多分シェイカーだと思うのだがそれにしてはリズムが細かい、雰囲気たっぷりだ。また、中盤にアランフェス協奏曲のテーマを入れてさらに盛り上げている。

 

沖仁 con 渡辺香津美「スペイン」(?→2015) 

エン・ビーボ!〜狂熱のライブ〜
CD、MP3、Amazon Musicエン・ビーボ!〜狂熱のライブ〜
Amazon Music(単曲)→スペイン

 

 フラメンコギターの沖仁エレキギター渡辺香津美のコンビで演奏する「スペイン」。小曽根との共演の時は、バブル期のフュージョンのような気障さが色濃く出ていた渡辺の演奏も、沖仁との共演ではむしろ沖のフラメンコの哀愁と情熱の漂う雰囲気を盛り上げる役割を担う。沖のギターも、バンドとやった時とは異なり、自由にのびのびと盛り上がったストロークで情熱を感じさせる。

 沖仁だからフラメンコ系に括ってしまったが、これはフラメンコとジャズとフュージョンの合間にあるような録音で、いずれとも言い難い。その意味では、曲の向かう方向が常に問い直されながら進行する、緊張感ある演奏であるとも言える。最終盤ではロック調の展開もあり、聴く者の息をつかせない。

 

元ネタ:アランフェス協奏曲

 さて、ここまで聴いた皆さんには(聴いてなくても)、改めてオリジナルのアランフェス協奏曲、ホアキン・ロドリーゴがスペインはマドリードの南にある都市アランフエスをモチーフに1939年に作曲されたそれを聴いてもらいたいものだ。

 

ジョン・ウィリアムズバレンボイム指揮イギリス室内管弦楽団

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲 他(ステレオ&マルチチャンネル)

 ジョン・ウィリアムズの演奏(映画音楽の人とは別)、オケはバレンボイム指揮のイギリス室内管弦楽団という正統派。(CD、MP3、Amazon Music)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲 他(ステレオ&マルチチャンネル)

ジョン・ウィリアムズフィラデルフィアオーケストラ

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲/カステルヌオーヴォ=テデスコ:ギター協奏曲 ほか

 これもジョン・ウィリアムズ。オケがフィラデルフィア管弦楽団でお手本のような演奏(CD)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲/カステルヌオーヴォ=テデスコ:ギター協奏曲 ほか

バルエコとドミンゴ

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲、ある貴紳のための幻想曲 他

 俗にバルエコ奏法と呼ばれる、アポヤンドせず端正かつ自然な現代的奏法を打ち立てたことで知られるバルエコと、言わずと知れたテノール歌手プラシド・ドミンゴがタッグを組む一枚(CD)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲、ある貴紳のための幻想曲 他

作曲のきっかけとなったペペ・ロメロ

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲

 アランフェス協奏曲はギタリストのセレドニオ・ロメロがロドリーゴに息子たちと協奏できる曲の作曲を頼んだことがきっかけで生まれた、その次男ペペ・ロメロの演奏。解釈が異なり好みは分かれるが、本来はこれが正しい解釈かもしれない(CD)→ロドリーゴ:アランフェス協奏曲

 

曲の雰囲気

 なんかApple musicに入ってるものとamazonのリンクがマッチしないんだよな。まぁ録音の取捨はさておき、これを聴くと意外な印象に打たれる。というのも、第一楽章と第三楽章はオーソドックな古典音楽風であり、僕のような素人が聴くと、後期バロックリュート音楽と言われればそんな気がしてくるぐらいである。第二楽章だけが敢えて聴けばスペイン風だが、そもそもバロック音楽組曲にもスペイン風の楽章というのは入っているのであって、これをもってスペインというわけにはなかなかいかない。

 ただ、この第二楽章は切り出されてギターの音楽、あるいはジャズアレンジされてスペイン風の音楽として非常に有名になった。それで、アランフェス協奏曲の第二楽章=スペイン風のギター音楽の代表となったわけだ。そこからチックはさらに主題を切り出して「スペイン」という曲を作ったのである。

 そこで思うのだが、今までジャズ風、フラメンコ風のアレンジの「スペイン」を聴いてきた。そこにはさらにフュージョンやロックの可能性もあった。しかしむしろ、リュートクラシックギターによるアンサンブルやオーケストラアレンジのクラシック風「スペイン」があってもいいのではないか。だれかそういう編曲で書いて演奏してくれないかな。

 

* * *

 

そのようなわけで、まだまだ新しい解釈や演奏の余地が多分にある「スペイン」の魅力、最初は、メモ程度に……と思っていたらずいぶん長くなってしまった。それぞれの録音について詳しくはまたいろんな人が書いているので、そちらもぜひ参照されたし。

高尾山日帰りワーケーション

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富士山

 毎週月曜と火曜が自分のメインの業務に充てられる日だが、5月は大型連休と家族のダウンで結局10, 11日しか稼働できなかった上に、その両日とも僕は全くやる気が出ないまま無駄にしたのだった。つまり、今月に入ってから1日たりとも僕は自分の仕事をしていないようなのである。丸一日自分の仕事に充てたのは、4月26日最後だった。

 そしてここのところも、気分が全く乗らないままだ。このままダラダラ行くと、単に時間を無駄にし、その結果成果が出ないためさらに気分が落ち込み、また時間を無駄にするという悪循環に陥るということが火を見るより明らかである。そこで、思い切って高尾山へ行くことにした。ここでギアを入れ替えて、再び仕事のペースを取り戻したい。

 朝、何食わぬ顔で家を出て、京王の特急で高尾山口駅へ。リュックにはシャツの替えとタオルが突っ込んである。高尾山は東京だが、やはりすぐには着かない。それでも昼前には到着して、11時半前から登山開始。僕が山と高原地図を持たずに登る山は、筑波山とここ高尾山ぐらいだ。

 

 

 目的地は、山頂を経由してケーブルカーの駅にあるカフェだ。そこで関東平野を眺めながら作業をする、つまりワーケーションというわけだ。とにかく時間が勿体無いので、さっさと稲荷山コースを登っていく。普段着、普段の靴で普段の荷物をそのまま担いでいるのだが、雨上がりのため足場が悪い。本当はトレッキングシューズを履いてこようと思ったのだが、あまりに長いこと登山をしていなかったので、昔のトレッキングシューズは皆サイズが合わなかった。メインの登山靴、これは北アルプスぐらい登れるやつだが、実家に置いたままだった。靴底が擦り切れた普段履きで、早足だが慎重に進んでいく。

 

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 コースタイム90分のところ60分程度で登り、12時過ぎに登頂。人が多い。ちょうど、富士山が綺麗に見えている(冒頭の写真)。前に登った時は夜中だったが、昼間は景色も良いし、なかなか気分が良い。

 持ってきていた新しいシャツに着替えて、寺社の中をくぐるメインの登山ルート1号路を下理、12時半過ぎにケーブルカー駅へ。そこにあるカフェレストランが今日の目的地だ。なんだかすごく綺麗な建物である。オリンピック予算がついてからというもの、都心のベイエリアだけでなく、湘南モノレール江ノ島駅とか、ここ高尾山とか、昔からあるけど結構ボロっちくて観光の魅力に欠いていたものが見違えるように綺麗になり、魅力的な観光スポットへと変貌していった。コロナで計画は狂ったものの、これで地域経済が活性化し、雇用が生まれて資産価値も向上するのだから、やはりオリンピック誘致もそれに乗じてじゃかじゃか税金を投入したのも、東京近郊の都市にとっては良かった。しかしそれは、その対象にならなかった地域からの搾取として成立しているので、その点は良くない。ただ、どうせ大して身につかない職業訓練なぞにお金を投入するくらいなら、こうやってパンとサーカスにお金を投入する、スキルのない人材でも働ける場を作ることにお金と時間を費やした方が良いかもしれないと思うこともある。そりゃ皆が高スキル人材になり、グローバルスーパーナンチャラどうのこうのに変身して労働生産性が向上するのが理想かもしれないが、そんな幻想は都心3区でしか通用しない。地場でツーバイフォーの住宅を手早く作れるとか、空いた時間で品出しや配送するとか、そういうスキルでも十分食っていける社会を作る方が人々にとっては良いのではないか。

 

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 話が逸れた。ケーブルカー駅のところにあるおしゃれなカフェレストランでカレーを食べ、コーヒーを飲みながら作業。眺めもよくて空気も綺麗、全く申し分ない作業環境だ。

 

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 14時に店を出たら、ちょうど14時のケーブルカーが行ってしまったところ。しかも点検作業中とかで本数が少なく、次のケーブルカーは14時半。展望台に上がったりしながら時間を潰し、14時半のケーブルカーに乗って下山。とても良い気分転換になった。気持ちが楽であるし、久しぶりに仕事に前向きな気分を感じる。もちろん、そういう気分を感じたからといって、仕事が実際に捗るかどうかはまた別の話だ。

 

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 こう、ね。どこでもオリンピック推しなのよね。でも山は山で変わらず、良かった。

 

 

 

「やる気が出る」問題

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飛行機にも随分乗っていない

 今週のお題は「やる気が出ない」だが、やる気が出る出ないで悩む余裕があるなら、それが出るまで休んでおけばよい。そんなものは悩む必要はない。

 前の記事「夜、跨線橋をわたる - 読んだ木」に書いた近況のように、むしろやる気が出ているのに何もできない方がよっぽど辛い。その記事を書いたのち、また平日が始まったのだが、今度は子供二人が高熱を出して保育園を休み、続けて親もダウンして翌週の前半まで予定が潰れていった。これでは何もできない。自分に熱が出ていても仕事はできるが、熱が出ているケアの必要な家族がいたら仕事はできない。昔は病児保育などを使っていたが、いつも予約が埋まっていて1人でも入れるのが大変なのに、子供が2人いて2人ともダウンするともう何もなす術がない。仕事そっちのけで、家でのたうち回る子供のために野菜のうどんを作る日々である。これは仕事のできない人間の言い訳なのだろうか? 有能な人間なら家族を看病しながら仕事もできるものなのだろうか。

 僕の母親が生きておれば、と思うこと頻りである。何かの折に頼ったり任せられたりできる家族さえいれば、もっと状況は違っていたはずだ。しかし、いないものはいない。我々のような状況は、1920年代以降の日本の多くの新中間層の狭小住宅に間借りしている家族が経験していることなのだ。コロナ禍で友人たちとも疎遠になり、1年以上経つ。そうすると子供の方が相手の顔を忘れて人見知りするようになり、友人の手を借りるのも難しくなる。

 コロナ禍以前、特に第二子を妊娠する前は、誇張ではなく毎週のように誰かが我が家に遊びに来て、あるいは子供を連れて友達とどこかへ遊びに行き、オープンで自由な子育てをやっていた。皆それに付き合ってくれていたし、子供もそれを楽しんでいた。今では真逆である。友達どころか親戚の来訪もなく、親2人だけで子供を見る。遊びに行きたくとも博物館や主要な公共施設はみな閉まっており、行き場を無くした子連れ家族が公園に溢れていて砂場遊びもままならない。仕事ができない親も辛いが、なにも新しい体験ができないまま都市に溢れる商品に囲まれてパターナルな生活を強いられる子供たちはもっと辛い。

 やる気が出ないというのは、休まなければいけないという心身のサインが出ているということだ。だから休めばよいし、それ以外のことをすることは望ましくない。もしなにか期限が迫っていようと、何があろうと、必ず1日以上休む必要があると言ってよい。これに対し、やる気が出ているのに何もできないというのは、何かやれという心身のサインが出ているのに休まなくてはいけない、日々を無為に過ごさなければならないということだ。こちらの方は子供を檻に入れ柱に繋いで仕事に行くというわけにもいかないので、如何ともし難い。

 万人に過剰労働を強いた過去は、やる気のなさが問題となったが、今日それは休む必要があることを示唆している状態として理解され、やる気が出ないこと自体は問題とされなくてもよくなった(問題としたい人はすればよいが)。他方、ワークライフバランスとか働き方改革がかりそめにも浸透している今日、やる気が出てしまう人の問題を考える必要があるのではないか。やる気がある人にもっと仕事をさせるような社会になるべきではないか。思うにこれは、そもそも労働者が自分で働く量を決めることができない社会構造に起因する問題なのだが、そういう話はここではしないつもりであるので、とりあえず問題提起にとどめておこう。いずれにしても、僕はもっと落ち着いて仕事のできる環境がほしい。

 

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2012年の以前と以後のインターネット

 どうも寝付けずに目が覚めてしまったので書き始めたブログが、夜中の勢いに任せて長くなってしまった。明日目が覚めた後に消したくなるかもしれないが、とりあえず公開しておこう。

* * *

 このブログを書き始めたきっかけが、過去のブログ執筆の経緯やSNSの利用を再考するためのものであることは、以前から書いてきたが、昔自分が書いたブログ記事(ブログごと削除済みだが、記事はローカルに保存してあるのだ)を読んでいたら、10年近く前に全く同じようなことを書いていた。

TITLE: 断SNS
STATUS: Publish
DATE: 11/01/2012 17:20:01 

毎日ブログを書くのをやめてから、再びSNSに没頭する時間が多くなった。
時間が勿体無いなぁ、と思っていると、facebookにて、SNS断ちをしたとのブログ記事をみた。これは好機、思い立ったが吉日というわけで、その時から鋭意SNS断ちをすることにした。

ややもすると、SNSでは自分の行動を逐一報告することになる。面白いことに、SNSをやめてみると、自分が自分の感情を脳内で逐一言語化していることに気づく。「あー疲れた」「ちょっと休むか」「はー」「肩痛いな」というように。思考が今の自分の状態に大きく支配されるし、なんら生産的なことがない。村上春樹的ですらある。ええと、つまり……伝われ。

SNSをやらないと、携帯をいじらなくなる。メールか電話、あるいはネットで検索をする時にしか携帯が必要ない。ネットで検索する時は今手元にiPadがあるし(この記事もiPadで打っている)、メールも電話も来ない。元来僕は電話が苦手なたちなので電話は来ないし、メールはたまにしか受信しないように設定してあるから来ない。来てもフィルタで仕分けされて、読まずとも既読になるように設定されている。

そうすると不思議なのが、なんでSNSやってたんだろうって話。
これは多分、SNSでつながってる感を手に入れるとか、ネット上のコミュニティからあぶれたくないとかではない。
新しいなにかを求めているからなのだ。

SNSをやっている時というのは、端的に暇であるが、それ以上に行動を欲している。その時にやっていることに飽きていて、なにか別のことをやりたいと感じている。暇だから寝たくて、とか、暇だから優雅なオンライン・コミュニケーションを楽しみたくて、SNSをするわけじゃない。暇だから、なんか別の、新しいことしたいなーと思ってSNSをやるのである。

実際、昔のtwitterとかfacebookからは、面白いプロジェクトや新しい試みなど、僕の現実の世界に新しいことが齎され、いろいろなことが始まった。twitterで始まったのはアート系の繋がりだ。facebookスウェーデンに行ったの時の仲間と、中学の同窓生。もっというと、それ以前のmixiは僕の人生に沢山の新しい出会いと物語を現実の世界において提供してくれたし、その頃の2chも同様だった。mixiでは、フリーペーパーのサークル——これは事実上、僕の大学生活の総ての始まりだった——や、富士山に登ったメンバー、少なからずの女の子たち。2chは面白いおっさんたち。秋葉原のバーを教えてくれたのも2chの突発OFFが活発だった頃に会ったあるおっさんだ。その前はカフェスタというのがあったり(ここでは貴重な出会いがあった)、gooなんちゃらとか(ソフトウェアをダウンロードしてやってた覚えがある)、何の変哲もない普通の掲示板でいろいろな人と出会えたり(SPAMなんかなかった時代だ)。

今のSNSは、あまりにも確立され画一化され統合されてしまった。twitterfacebookしかない。かつてはアンテナの高い人の集まりであったそこは、今や都会の雑踏と同じだ。同じ目的で集うmixiのコミュニティのようなものも、掲示板的専門性もない。ルールもなければ、開放感もない。同類意識もない。ただ手元にある地図と人間と写真をリンクしておくためだけに使うのだ。流れてくるのは、企業の広告と、皆がいいね!とかfavを押したものばかり。判で押したようなサークルやイベントの案内と、就活情報。それ自体は悪くない。それがたくさんあることは望ましい。しかしそれが不特定多数に向けて絶え間なく流れてくるのが面白くない。どれも僕に訴えて来ない。
そう思って、twitterはフォローを減らした。でも状況は変わりないのだ。なぜなら、当たり前だが、twitterの中で僕自身が無名の一アカウントだから。僕に宛ててなにかを送り様がない。膨大なアカウントがカテゴリなく並んでいるところで特徴を出せるぐらいなら、さっさとリクルートにでも面接に行った方がいい。
昔は気軽に隣の見知らぬ人に話しかけられる、気の利いたカウンターの狭い居酒屋だったのが、いまでは床を拡大してたくさんの人が知り合い同士でテーブルについている飲み屋になっている。つまりはそんな感じ。昔のように気軽に話しかけたりは、もうできない。

そんなわけで、僕は一旦ブログまで戦線を下げてみる。全然違うカテゴリの人々と出会えて、しかし居心地が良く、面白く、僕の現実の世界に刺激を与えてくれるような、つまり個々が無名ではいられないような、そういうネット環境を探しつつ。

 

これは、僕が先ごろ「インターネット年少世代 - 読んだ木」などで書いていたことと全く同じではないか。この10年間、何一つ進歩していないということが紛うことなく証明された感があり、誠に遺憾である。先の記事で書いた通り、僕はそうして「ブログまで戦線を下げて」みたり、逆にSNSまで戦線を上げてみたり、上げたり下げたり、下げたり上げたりして何も得ることなく今日まで来ているのである。

 しかし重要なポイントは、この10年間は何一つ変化がなかったが、その前は色々あった、ということがこの2012年の記事に書いてあることだろう。2012年以前は、TwitterFacebookmixiを通じて新しいコミュニティへの参加や新しい知見を得ることができていたのだ。なぜそれができなくなったのか。もちろんそれは、自分が歳をとってそういうものに積極的に参加しなくなったということなのかもしれないし、同時に、参加しても期待されない、相手にされなくなったということかもしれない。しかし、プラットフォーム自体の問題がやはりあるだろう。人が減って忘れられたmixiは、昔のように若者が溢れて積極的にやり取りする、という可能性はなくなったし、Twitterは参加する人が多様になりすぎ、またその匿名性の高さから気軽にそこに公開されている私人のイベントやコミュニティに参加することがはばかられるようになった。Facebookに関していえばまだ何かリアルの新しいコミュニティにつながる余地がないとは言えないが、そのコミュニティに繋がる前に自分のプロフィールがスクリーニングされてしまうという怖さもある。お互いよくわからないけど何か高い志や目標を持ったもの同士がセレンディピティに出会う、というようなインターネット体験は、10年前に終わったということなのだろう。まぁこのことは、まさに「インターネット年少世代」で書いたことであって、この2012年の記事が発掘されてそれを再認識させられたと言えばそれで済む話かもしれない。

 2010年前後のインターネットというのは、民主党政権時代ということもあったし、なんとなく「意識高い系」の活躍できるプラットフォーム、といった趣があった。何か新しいことをやります、という呼びかけに、本当にそういったモチベーションを持った人々が集まった時代だった。それより以前はもっとギークな集まりだったし、それより以後は大衆向けのツールとなった。2011年に出た東浩紀の『一般意志2.0』はその意味で歴史的な著作だったと言えるだろう。あの時代にのみ信じられえたインターネットの理想が、そこには綴られているからだ。その理想に賭けた人々が、その後、低俗化するインターネットの言論の世界とともにどう変化したかは、むしろ読者のよく知るところであろう。あの時、脱成長とかを掲げてた人々が、第二次安倍政権のアベノミクスの成功で梯子を外され、完全に行き場を失って、今のやや気違い染みた「サヨク」の人々になってしまったのだろう、と僕は邪推しているのだが。というのも、僕もその一人であったけれども、小泉政権以来の官から民へ、市民レベルの小さな公共、熟議民主主義というスローガンが2010年前後には本当に信じられていたのだった。小熊英二の『社会を変えるには』が出版されたのが2012年、僕が上に引用した記事を書く数ヶ月前だ。それが最後のタイミングだった。僕はその頃、脱原発デモに声なき声の会のような、あるいはベ平連のようなノリを求めて参加したら、想像以上に無意味なものだったので——そこでは戦略もなく、理想像の議論をする雰囲気もなく、知識人も実務家もほとんどおらず、明確なスローガンもなく、よくわからない人たちが太鼓を鳴らしていただけで、僕は単に怖くなった——小熊の新書を読んだときに、これは全く空論だと思ったのだった。

 アベノミクス以降は、政権や政策と結びついた事業のみが大いに繁栄し、地場の「まちおこし」や「コミュニティ」「社会起業」の取り組みは完全に蚊帳の外となる。小熊英二が肯定した街頭のデモは、明らかに政治になんの影響も与えなかったことで、小熊の主張そのものを無意味化した。その結果、当然ながらそれ以降に社会に出た多くの若者がそういった草の根の活動に寄り付かず、政策寄りの「ベンチャー」ブームに乗ったり、大企業に就職したりしていった。逆に、2010年前後に希望を持って活動していた若者たちは、いま40代前後になって路頭に迷っている人も多い。彼らは、自分が変えようと思っていた権力の向きが自分の目指す方向とは真逆に進んでいくのになすすべがないまま、しかも自分が働きかけようとしている実際に苦しんでいる人々にはあまり歓迎されないまま、この10年を過ごしてきたはずだ。そういう事業に携わる人は往々にして優しいので、それを自分の責としてさらに努力しようとするけれども……。

 どういう力の働きかけがあるのかわからないが、最近またそういった社会問題に目を向けよう、自分たちの力で社会を変えようと若者に呼びかけるムーブメントがあるようだ。昔、フューチャーセッションとかワールドカフェに没頭してきた人々が再び活躍する場が生まれてくるかもしれない。しかし、僕はもしここで2度目の喜劇をその人々が演じるようなことになれば、つまりまたしても掛け声のみが大きく、インターネットで楽しいことをやろうとしている人のところに何か人が集まって、結果として路頭に迷う若者を増やすだけになるのであれば、それはむしろ害悪であるというべきだと思う。もし再び同じような思潮が社会に広がるのであれば、それは草の根の変革ではいけない。国会の、議事堂の中で変革を起こさなくてはいけない。皆が酒を飲みながらゆるく将来のことを考えよう、ではなく、皆が命を削ってあるべき未来を議論し、それを人生かけて実現しよう、という鬼気迫るものでなければならない。誰もが政治家になることを目指し、公議を興し、国政を転覆すること、憲法を変え、国際関係を変えることを目的に取り組まなければならない。誰もが、自分個人から出発し、自分の所属する様々なレベルの集団から宇宙全体に至るまでに適用可能なあるべき徳を見出し、それに基づくあるべき法を打ち立てようと努力するべきだ。社会とは、そうしてようやく、1ミリ2ミリ動くか動かないか、というものなのである。インターネット上で出会った人が酒を飲んだぐらいで変わるものではない。

 2010年前後の人々は、僕も含めて、社会というものを知らなすぎた。それは、失われた20年を経てなお、ある程度の安定と秩序のある社会に自らを委ねていたからだった。つまり、社会を変えると口では言いながら、社会を変えるという難題には立ち向かわず、身の回りの細かいことに熱中することだけで満足していたというわけなのだ。その結果が、現在の日本のありようだとすれば、これは2010年前後に夢を抱いて、今はおそらく破れている人々が、その過ちを反省して次代に教訓として伝える必要がある。社会を変えるには、身近なコミュニティ作りだけでもノリの合う人との飲み会だけでも街頭でのデモだけでも不足であり、確固たる研究と議論に基づく新たな提議を国会に突きつけることが必要だ、ということを。

 でもそうなると、やっぱりインターネットの世界も戦闘的なものとなり、なんだかあの、和気藹々としながら世の中を良くしていこう、という雰囲気は戻ってこないかもしれない。2012年以前のインターネットのなんだか希望のある和気藹々さは、確かにその後のインターネットにおいて崩壊したのだが、それが以前のインターネット世界の性善説というか、脆弱性に基づくものだからといって、それを乗り越えようとすると、やっぱりインターネットは居心地の悪いものになる。そういう環境とか平和とかといった大きな話とは別に、日常の由無し事について何かやろうという——それこそ2012年の記事に書いたような富士山に登るとかである——人々が、気軽に集まれるようなプラットフォームがあると良いのだが。

 

▼この記事の続き

yondaki.hatenadiary.jp