読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

弱さの連鎖

 今年度が終わる。今まで幾つかの記事で書いてきたが、これほど無為な一年もない。

yondaki.hatenadiary.jp

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チャレンジして失敗し、最悪な一年になるというのなら、まだそれが糧になって意味がある。しかしこの一年のように、何かにトライすることもなく、身動きが取れないままあっという間に過ぎ、その間になされるべきだったことがなされないために未来が閉ざされたという時期を経験したことは、ほとんどなんの学びももたらさない。単に、諦めを学ぶしかない。後からではなんとでも言えるが、経ってしまった一年は戻ってこない。

 このような無為な1年間を過ごした人は、実はそれほど多くないだろう。僕の周りではむしろ、転職や引っ越し、さまざまな新しいチャレンジ、結婚まで、いろいろなことが起こっていた。僕だけが取り残された形である。より悪いシチュエーションを想像することはできるが、それとの比較はなんの慰めももたらさない。たしかに今のところ借金は増えておらず、生活費にも困っていないが、そのかわり毎晩洗面所で丸くなって1時間も2時間もパソコンを叩いている。寝室と書斎兼子供部屋に家族が寝ていて、他に場所がないためだ。毎晩嫌なことが頭の中を駆け巡り、寝付いたと思ったら目が覚める。遠くのサイレンが嫌に大きく頭の中に響く。今はいい、今は乗り越えられるが、この先はない。

 

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 自分の弱さ、自分の情けなさは自分で引き受けるしかない。「日本民族」や「男性性」に自らを委ねたくなる気持ちは痛いほどよくわかる。だめな自分だからこそ、何か強そうなものに自らを委ねたいのだ。自分が強くなくても、構造的に強い立場になれるものに。それが許されないのだから、自分の弱さは自分で享受しなければならない。しかし、他人の弱さを他人に享受させることはダメだといわれる。他人の弱さは社会のせい、自分の弱さは自分のせい。たしかにそれは望ましい解釈かもしれないが、誰もが聖人君子なわけではない。他人の弱さは他人のせいだが自分の弱さは社会のせいにしたいのが人情だ。価値判断以前に、そのことは理解されるべきだ。

 弱いものが、誰かのせいにせずに自分の弱さを受け入れることは不可能だ。自分の弱さを自分のこととして受け入れられるなら、もうその人は強いはずである。だから、弱いものは弱いものを叩く。強いものとの格差は開く。自分の弱さも社会のせい、他人の弱さも社会のせい、とすれば、誰も叩けない。本当は誰もが弱く、そこからは弱さの連鎖が見えてくるだけだからだ。人間の哀しみしかそこからは読み取れない。どこかで誰かが加害者性を引き受けなくてはならない。加害者性を引き受け、誰かの弱さを自分の強さのせいだと規定できた人から、主体性を得ていくことになる。主体は服従だと言われるが、そのような主体はまだ主体ではない。客体的に規定された主体でしかない。それを自分に引き受ければ、自分は支配側に立つことになる。少なくともその側との共犯関係として主体となるはずである。

 自分は弱い。とはいえ、それを自分で引き受けなければならないことを理解し、引き受けようとする程度には弱くない。しかし、それを引き受けられるほど強くもない。自分が弱いことで誰かを抑圧していることに正面から向き合えない。僕はわかっている。だが、どうしたらそれに向き合って、それを乗り越えられるほど強くなれるのか。それとも、弱さの連鎖として、もはや諦めるしかないのか。苦しい。