読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

投稿のすゝめ 人文系査読雑誌に掲載されるために

不採用の十や二十、貰ったってどうということはない

 人文系の査読とはどういうものなのか。どうしたら通るのか。これは、人文系に進んだ大学院生や若手研究者から受けるものの中で、最も頻度の高い質問だ。それだけ皆、論文を投稿したいと思い、またそれをしなければならないと焦っているわけだ。

 あの雑誌が通りやすいとか通りにくいとか、あるいはあの人がどうでこの人がどうとか、ハウツー的なアドバイスもあり得るのかもしれないが、僕からするとそれは瑣末な問題に過ぎない。人文系の査読雑誌(学会誌など)に載せるには、日本語でも英語でも、やることは決まっている。論文の形式に即して論を書き、その論に適した雑誌に投稿することだ。それさえできれば、載らない論文はない。なんとなれば、学会や編集委員会の側では、いい論文投稿が無くて困っているほどなのだ。

 僕もせっせと論文を「生産」しているが、(このブログを読んでいる人なら先刻承知の通り)あまり研究に時間を割けない身の上でもあるから、いい研究をしているのにあまり論文を出さない人々に、どんどん投稿するよう訴えたい。また、大学院生などから受ける同じような質問に答える便も考えて、ここに人文系*1の査読がどんなものであるか、どうしたら通るかということを整理して書いておこうと思う。また、査読をする側になった人にもぜひ読んでもらいたい。僕が思うに、大して論文投稿の経験がない——つまりリジェクトされた経験もあまりない——まま査読する側に回る人は、非常に稚拙で攻撃的な査読コメントをする傾向がある。どのような査読コメントを書けばいいのかは、この記事を立場を変えて読めば自ずと明らかになろう。

(2023.12.26 X(旧Twitter)上の話題を見てこの記事を思い起こし、細部修正しました)

 

査読の基準は大きく分けて二つ

 査読といっても人間のやることで、査読コメントに大したことが書いてあるわけではない。査読する人が投稿者の論文を読んでわかる範囲で、知っていることを書いているだけだ。

 査読の細かい基準は学会によって異なる。コテコテの人文系の学会では完全に査読者のお気持ちに委ねられていたり、逆に文理融合的な分野だと細かく審査基準が決まっていたりする。しかし、いずれにしても査読の基準は大きく二つに分けられる。第一に、査読者が読んで、その論に何が書いてあるかわかるかどうか。第二に、査読者の知っていることが、その論に書かれているかどうか。この二つだ。前者を便宜的に、「書き方の問題」、後者を「研究の文脈の問題」と括り、以下それぞれ説明しよう。

 

書き方の問題

書き方の問題とは何か

 査読者が読んで、これは何が書いてあるかわからないな、と思う場合、そこには「書き方の問題」がある。

 僕らが何かをコトバにするとき、そのコトバはどんな機能を持っているだろうか。最もプリミティブな形態としては、喃語、つまり「バブー」「ウエーン」というような、本人には意味があるが他人には何もわからないコトバがある。そこから、コトバの通じる範囲は徐々に広がっていく。家族にだけわかるコトバ、クラスにだけ通じるコトバ、いわゆる「若者言葉」、といった具合に。あるいは、学者の間では学者の間だけで通じる「学者言葉」がある。これはいい意味での用法だと理解してほしい。つまり、田舎のジーチャンバーチャンには伝わらないが、指導教員や学会の同僚には伝わる、というものだ。その言葉は限定や定義が非常に多く、日常の中で話者共通に自明な事柄を前にやりとりするには煩雑すぎるが、異なる文化や対象を離れた場所で物事をより厳密に伝えるために重要な役割を果たす。

 論文も同様に、論文固有の言葉遣いがある。論文は出版されたり公開されたりするという関係上、個人のツイッターやブログよりも多くの人に時代を超えて広く読まれることを想定されている。さらに、研究に貢献するという価値を有さなければならないので、他の研究が参照する際や、今後の反証に使える必要がある。論文は、そうした機能や目的に相応しい形式を有していなければならない。つまり、論文の「書き方の問題」とは、論文が読み手にわかるように、それにふさわしい形式で書かれているかどうか、ということだ。

 

論文の書き方

 読み手にわかるような論文の書き方、つまり論文の有するべき形式については、巷に沢山の本や手引きが溢れているので、ここに詳しく繰り返すまでもないだろう。有名どころでいえば清水幾太郎の『論文の書き方』から小熊英二の『基礎からわかる 論文の書き方』まで、もっと初歩的なところでは本多勝一日本語の作文技術』、あるいは各学問領域、各言語での論文の書き方指南本は枚挙に暇がない。それほどそれぞれの分野において固有の書き方の形式があるということだ。

 とはいえ基本的には、次の3点を満たしていればよい。(1)一つの論文では一つのトピックだけを取り扱う。(2)冒頭では序論(はじめに)で問いを立て、本論で論証し、結論(おわりに)で冒頭に立てた問いに答える。(3)引用・参照・他の研究を援用して定義や論証を省く部分については、適切に注をつける。

 これに沿って書かれていないものは、どんなに興味深いトピックであっても、査読者を混乱させる。どんなに書き手が詳しく調べ、そして正しいことを言っていたとしても。

 あるいはこう言ってもよい。あなたが書いたものは、出版されれば1世紀や2世紀の先にも残る価値あるものかもしれない。そしてそれを、「論文」の体裁に合わせてバラバラにしたり、組み替えたりすると、価値がなくなってしまうかもしれない。しかしそれでも、雑誌の掲載に向けて査読するという立場においては、この論文の形式を投稿者に守らせることを優先せざるを得ない。なぜなら、それが雑誌やその学問分野全体をそれたらしめている形式であるからだ。

 だから、査読者は必ず、この論文で論じられ、明らかにされようとしているただ一つのトピックは何か、という見地から投稿者の論文を読み始める。シャーロック・ホームズが別々の殺人事件を同時並行で分析せず、個々の事件として描かれるか、あるいは連続殺人事件という一つの事件として扱うように。もし二つ以上の全く別の事件を——実際の弁護士がそうであるように——並行して手がけている様をそのままに書いたら、読者は混乱してしまうだろう。論文もそれと同じだ。

 つまり、投稿者は、いかなる思いがあっても、査読誌に投稿する以上は、論文にするための文章を作らなければいけない。形式の奴隷にならなければならない。そこでの主人は、真理を記述するために備えられるべきとされている形式である。

論文の書き方はどこで学ぶか

 ただし、この形式は投稿規定に書いてあるわけではない。投稿規定に書いてあるのは、こうした論の組み立て方、論文の形式がわかっていることを前提に、その枝葉末節のことが規定されているだけだ。「だけだ」とはいえ、細部に神が宿っているので(注のスタイルや、レイアウトや、番号の振り方など……)、それもやはり真理、真理とまではいかなくてもその学問分野で正しいとされることを言葉で記述するために必要な「書き方」なのだが。

 こうした、投稿規定に書かれていない、論文の組み方の基本は、先に言ったように色々な本があるが、やはり一度訓練を受けてそれが書けるようになることが望ましい。その訓練こそ、大学院の修士、あるいは博士の1、2年で受けるべき事柄である。そして、査読に回ってきて論文の書き方がなってない人というのは、大学院でちゃんとした訓練を受けていない人であることが多い。この訓練を、大学院の外で受けるのは結構難しい。大学院にもう一度入って指導してもらうか、面倒見の良い小さい研究会で何度も指摘修正をしてもらうか、という形で、頑張って訓練するしかない。

論文の書き方がダメになってしまう人

 最近見受けられるのは、時間をかけて取り組めばちゃんと書けるはずなのに、やっつけ仕事でやっているために論文の書き方がダメになってしまっている人だ。僕自身、急いでいる時やあまり力の入っていない論文では、書き方がなっていない論文を投稿してしまうことがある。そしてこの、「やっつけ仕事のダメな論文特有の形式」というのがある。

 これは、大した研究をしていないのになんとか論文として出そうとすることによって生じる。自分のオリジナルの研究の部分が少ないので、例えば本論が3章あるなら、そのうち1、2章は他人の研究を自分なりに整理したもの、3章に、自分がやったちょっとした研究を足してもっともらしい論文の体裁にしている、というようなものだ。ちょっとした研究、というのは、文学なら1冊しか扱わず比較対象のない作品分析、社会学なら標本の少ないアンケートや一人だけの聞き書き歴史学なら二次資料の分析、経済学ならデータ量が少なく新規性も乏しい標本を用いた統計分析、などだ。こうした研究に与えられる査読結果は決まっている。「1、2章は先行研究整理として序論で紹介するにとどめ、第3章の内容をより掘り下げて本論とし、序論と結論を含めた論文の全体を再構成してください」というものだ。

 現在、多くの大学院生や若手研究者が、金も時間もないのに論文はどんどん出版しろというプレッシャーを受けているがために、こうした論文投稿が増えている。まぁ先行研究整理だけでも、システマティックレビューという形でやって貰えば意味があるのだが、こうした即席論文での先行研究分析が網羅的なわけもなく、アドバイスには頭を悩ます。投稿を急いでいるのはわかるし、それが自分の就職、つまり自分の生活や結婚出産、留学生なら日本にいられるかどうか、家庭事情によっては実家の支援、奨学金などのしかかる借金、ひいては皆、自分が研究者であり続けられるかどうか、といったことに直結する問題であるという深刻さも痛切に理解する。ただ、なんとか一つでもテーマを誰よりも掘り下げて突破してくれないと、論文にはならないし、逆に一つでもそうしたテーマを手に入れられれば、その後一定程度の期間は航行し続けられる。

 昔、増田で若手研究者問題を書いてホッテントリに入った時も書いたのだが、こうした問題は若手で協力しあって、分業するなり融通するなり議論するなりすることで突破するしかない。国の金や支援を頼るのは僕は賛成できない。若手研究者がゼミや大学の枠を超え、もっと協力して細かくやり取りするようになるだけで、研究の量も質もぐんと深まるはずである。そうすれば、良い研究は国内外で誰かが認めてくれる(そのために「出版」=公的なものにするわけだ)。今の日本では、人文系の研究と研究者が枯渇状態なのに、優秀な人が研究者になる前に市場から追い出され、必要な人材がいないという歪んだ状況だ。僕の周りは非常勤を無茶苦茶掛け持ちさせられている人が多く、僕のところにもじゃかじゃか来るのだが、皆これを回す先がないので困っている。若手が協力して自ら質の底上げをしていくべきだ。ツイッターなどやっている場合ではない。

 

研究の文脈の問題

押さえるべき三つのポイント

 めでたく査読者がちゃんと論文を読めた、という場合、その論文は修正すればいつか必ず掲載される。修正にあたって向き合わねばならないのが、「研究の文脈の問題」である。

 この問題は、次の三つのポイントを押さえる必要がある。(1)自分の研究の扱うトピックが、投稿した雑誌の研究の文脈に乗っているかどうか。(2)研究の文脈を、十分に参照し、踏まえているか。(3)研究の文脈において、新規性があるか。

 そして、読める論文になっている場合は、この三つのポイントを順繰りにクリアしていけば、必ず掲載される論文が完成する。以下、順に説明していこう。

(1)自分の研究の扱うトピックが、投稿した雑誌の研究の文脈に乗っているかどうか

 そもそも研究というのは、その研究をした人独自のものであって、研究分野なんてものは、後からくっついてくるものだ。なんなら読む人が勝手につけるものだ、といってもいい。しかし、雑誌や学会など、たくさんの個別の研究をくくったある「くくり」で人々が交流し、研究が認められることを考えれば、その研究を発表する際に、なんらかの括りを選ばなくてはならない。

 しばしばあるのは、査読結果に、絶対不可能な修正要求や、見当違いのコメントがきて絶望してしまうパターンである。しかしだからと言って、査読者を批判したりしてはいけない。むしろ、査読者と投稿者の間にある差異に着目することが重要だ。

 研究が価値あるものとして認められることは、その研究がある種の「確からしいと認められうる要素」を有していることによってのみ、可能となる。査読者は、あくまで「この雑誌」「この学会」「この学問分野」という規定されたあり方のもとで査読のコメントを書いている。あなたの靴がどれほど綺麗だとしても、日本の家屋に入るときは、「靴を脱いでください」と言われるだろう。それはあなたの靴が綺麗か汚いかを問うているのではない。「靴が脱がれている」ということが、家に迎えられるに足る人間として認められる要素である、ということなのだ。同じように、ある分野でなにか確からしいと認められるためには、確からしさを証する要素が論文に入っている必要がある。ある分野では、詳しい統計の分析が必要かもしれない。ある分野では実際の肉声の聞き取りが重視されるかもしれない。ある分野では誰も見たことのない古い文献が重要かもしれない。ある分野では卓越した厳密さを有する数式かもしれない。そして、論文の投稿者は、投稿先の雑誌で認められる種類の確からしさを証明する要素を、論文に入れておかなければならない。そして、それを準備できない場合は、潔く引き下がるしかないし、論文の投稿先を選ぶときは、自分の論文の証明方法とマッチした論理構造を確からしさとして認めてくれる雑誌を選ばなければならない。 

 例えば、「中華料理店の経営史的分析」という論文を書いたとしよう。内容は、東京の中華料理店をその味の地域ごとに(四川や広東や福建など)分類して、その地域ごとの日本進出の理由を資料から集めて、統計にして分析する、というものにしよう。台湾や福建省中国東北部からの出店なら、どちらも背景に日本の植民地だったことがあるだろう。四川からは日本での四川料理ブームを狙って進出したのかもしれない。上海など広東からの出店は、華僑以来の長い歴史がある、などなど。

 この内容は、経営史として経済史系の雑誌に投稿したらよいかもしれない。そう思って投稿したら、「日本進出の理由を集めた統計がしょぼいのでダメです」という査読結果がきた。しかし、中華料理店の日本進出の理由を集めたデータなど都合よくあるわけがない。日本進出の理由を中華料理店それぞれに聞くにはあまりに手間がかかりすぎる。アンケートを送るか? しかし何語で? 予算はどうする? 考えるとキリがない。こうしてドツボにハマる人がよくある。こういう時は頭を切り替えるのである。ないものはないので、別のアプローチを考えるのだ。

 中華料理がテーマなので、料理や食生活をテーマにした比較文化研究の学術誌に投稿してみよう。投稿したら、それなりに面白く読んでくれたという回答が来た。しかし今度は、「料理の区分をちゃんと食材や調味料で定義してください」と来た。確かに四川料理ならこの調味料、広東料理ならこの食材、北京料理ならこの味わい、というのがありそうだ。とはいえ僕は、中華料理屋で食べるのは好きだが、料理をしたことはない。調味料は甜麺醤と豆板醤しか知らない。これから中華料理屋に弟子入りするか……? いや、この線も却下だ。

 そもそも僕は中華料理店が出店した背景を分析したのだった。これは歴史と言えるかもしれない。そこで近代日本史の雑誌に投稿してみた。すると、着眼点は素晴らしいという回答だ。だが、やはり分析に問題があるらしい。「全体の統計ではなく、特定の地域の出店者に絞って分析してはどうでしょうか」という助言が添えてあった。特に、植民地の研究が進んでいるので、それを踏まえて北京料理店の日本での展開を論じてはどうかということだ。これならできるかもしれない……

 これは一つの、今思いついた例である。しかし、こうしたことはよくあると思う。査読コメントで、それはできないよ、という修正要求が来た場合、それを無視して他のところだけ修正して再投稿するか、別のところに投稿することになる。色々試行錯誤は必要だが、日本語で書けば、ありがたいことに投稿する先がないということはまずない。日本はだいぶ凋落したとはいえ、多様な学問分野が細々と生き残っていて、研究の裾野は広い。ciniiでキーワードで検索したり、先行研究が投稿している雑誌などを見てみて、自分が論文として完成させられそうな分野の雑誌を見つけられれば、第一段階はクリアだ。

 なお、査読者の方も、この研究は面白いが、この雑誌にマッチしない、という場合は、その旨はっきり書くべきだ。アメリカの雑誌では、その辺は編集委員会で示してくれる場合が多いが、日本の場合は編集委員会の機能が弱く、どうも曖昧なことがしばしばである。絶対これは無理だろうという査読者の要求をそのままパススルーして、あとは投稿者任せではかわいそうである。雑誌にマッチしないならマッチしないと書いて、まぁ他の雑誌を推薦するまではしないにしても、マッチしそうな分野をサジェストしてあげたら良いだろう。

 

(2)研究の文脈を、十分に参照し、踏まえているか

 査読者が大好きなのは、自分は読んだことがあるけど投稿者は読んだことのない資料をこれ見よがしに指摘して、それがないのでダメです、とやることだ。本当にうざい。しかし、研究の文脈を網羅的におさえた上で自身の論を展開することは、多くの人々の研究を集めた研究一般への寄与、という点では本当に重要である。

 その時、先行研究の抑え方が、ナウでヤングなものをあちこちからかき集めてきて並べ立てるというやり方をする人がいるが、これはダメだ。研究には文脈がある。どの研究も先行研究を参照しており、その先行研究も先行の先行研究を参照している……ということだ。むしろ、自分の研究に近い重要そうな研究をまず手に取り、それが引用している主要な研究をも手に取り、と繰り返していき、その研究のここ100年ぐらいの展開を抑えるのがよい。

 注と参考文献というのは、ハイパーテキスト(HTMLで書かれた文章のように、リンク構造を持ったテキスト)だと思えばいい。今では、あるサイトを読んでいてわからなかったり気になることがあれば、そのリンクをクリックすればさらに詳しい情報や関連情報に移動できる。しかし昔はクリックなどできなかったので、注を見て参考文献を図書館に探しに行ってそれを読む、という手間をかけていたのだ。Twitterのレスバトルを見るには、一つのツイートをクリックすればズラーとツリーが出てくる。しかし、学術論文上のバトル(いわゆる「論争」)を見るには、ある論文の冒頭で槍玉に挙げられている他の論文をメモして、その論文が掲載されている雑誌を探しにいき……とやる必要がある。そしてそれをやらずに一番新しい論文だけを先行研究として並べても、それはレスバトルのツリーを読まずに最新の1ツイートに脊髄反射しているだけのような、残念な論になってしまう。

 最新の研究をあちこちから引くのではなく、重要な先行研究とそれが出てきた背景の文脈を押さえること、これが研究の文脈を知ることである。そしてそれを集めてくるのが研究の大きな仕事ではあるのだが、いくら情報化社会といえど、これをやるのは骨が折れる。こういう時に役に立つのが学会や研究会で、他の人から、あるいは先行研究を書いたその人から直に、何を読めばいいのか教えて貰えれば、これほど楽なことはない。他の人は、先行研究整理など誰がやっても同じだし、むしろ誰か他人がそれをやって論文にしてほしいと思っているくらいだから、喜んで教えてくれる。

 研究の文脈が押さえられていれば、査読者もその文脈において論文が意義あるものかどうか、という絞り込んだ観点から評価できるので、有意義なコメントを与えることができる。その文脈で見落としている研究はこれです、と具体的な本や論文を査読コメント内で示してくれればしめたものだ。それを参照して論を補強すれば良いのである。

 逆に査読者の方も、読んだことがある論を適当に示すのではなく、丁寧に研究の文脈を教えてあげた方が有意義だ。「近代の研究を網羅的に確認して……」「まずは誰々研究の先行研究を包括的に踏まえ……」「何々学の先行研究をきちんとチェックし……」などのように抽象的にコメントして、投稿者の頑張りに委ねるのではいけない。「まずは誰々『何々の云々』以降積み上げられてきた研究の文脈を押さえ……」といったように、文脈が欠けていると思った根拠となる、投稿者が参照していない文献を具体的に一つ二つ示してやってほしい。投稿者も同好の士、あるいは戦線を同じくする学徒であることに鑑みて、最大限その人の助けになるよう査読コメントを書きたいものだ。

 

(3)研究の文脈において、新規性があるか

 先行研究の文脈を踏まえ、また査読で指摘された研究を参照すると、自分の研究はすでに他の人にやられていた、ということもある。あるいは査読で、「あなたの研究は他の研究とあまり違いがなく、新規性に乏しい」というコメントがある場合もある。これにはもっと酷い表現があり、「面白みに欠ける」と書かれることもある。こういうことを書く査読者においては、面白みに欠ける査読コメントを自省して、ちょっと表現を工夫してほしいものだ。

 しかしこれは、研究がゴールに近づいている証拠だ。研究が先行研究と被っているということは、先行研究と同じような問題意識を共有し、またそうした問題に取り組んできた人たちと連帯しているということである。被っている先行研究者は競争者ではなく、同じ謎を解決しようとしている同志である。「早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ皆で進め」というアフリカの諺の通り、同じ謎に取り組む人が多ければ、より深い研究ができる。

 では、カブリからどうやって脱却し、自らの道を進み得るのか。一番いいのは、研究が被っている人と話すことだ。学会や研究会でその人と会えるといい。同じ研究をしていることを喜んでくれ、また色々な論点を共有することができるだろう。しかし、その人がすでに死んでいたり、会う機会がないといった場合は、被っている研究と、自分の研究とをよく見比べ、そこにある差異を探すことだ。他の人間が書いているので、絶対に差異がある。わずかでもいいので見出した差異を、同じ対象を見ているのになぜそのような差異が生まれたのだろう、と掘り下げていけば、自分の独自性、新規性なるものは、実は容易に取り出せるのである。

 

人文系の査読に通るのは、面倒だが簡単である

 大学院で論文の書き方を学べば、あとは全く研究会などに出なくても、査読コメントだけで論文掲載に持っていくことはできる、というのが僕の考えだ。自分ができる範囲での修正を求めてくる雑誌を探し、それを見つけたらその分野の研究の文脈に自分の論文をうまく位置付け、その文脈における新規性を打ち出す。これを、査読者のコメントとのキャッチボールで(ずいぶん気の長いキャッチボールになることは否めないが)やっていくことだ。いちいち査読に対応するのは面倒だが、しかし自分の可能な範囲でコツコツ取り組めば、いつかは突破できる。その意味では、難しい実験を成功させたり未知の新現象を観測しなければいけないというのではないから、非常に簡単である。言葉を操れるなら誰でもできる。

 研究をブラッシュアップするのには、査読ではなく、研究会や学会で直接やりとりすればより手っ取り早い。ただし、そのような場でのコメントは、編集委員会がチェックし、また雑誌の方向性に基づき、書かれたものとして一応は完成される査読コメントとは違う。研究会などで受け取る、他人からのある種無責任なお気持ちばかり斟酌していると、かえって書けなくなる場合もある。ポジティブな、自分を応援し、良い方向へ持っていこうとするようなコメントだけを聞いた方が良い。あるいは、面倒なコメントにはその場で反論し、喧嘩した方が良い。

 個人的には、あまり口頭のコメントは気にせず、どんどん査読論文を投稿すべきだと思うし、それを通じて査読する側のレベルも上がっていくのが良いと思う。査読コメントを書くのは骨の折れる仕事だが、これこそ研究者の仕事だ。僕は査読コメントを書くたびに、新しいことを教えてくれる投稿者に感謝している。批判的なやりとりの場合、口頭ではなく書かれたものの方が内容は精査されるし、書かれたものを見返して言い回しを修正できる。査読は、有意義で効率的な形で批判的なやり取りを行い、研究の質を高めていける素晴らしいシステムだ。

 昔は論争も雑誌や手紙でやっていた。会うのがなかなか難しかったからだ。今やなんでもオンラインで気軽にやり取りできるが、その分、考えを深め、きちんと合理的で有意義なことを伝える、という機会に乏しい。言葉は便利な道具だが、それを磨いて「学者言葉」にするのは案外簡単ではない。お気持ちだけを言葉に乗せてやり取りするなら誰でもできるが、そのノリを研究に持ち込むことはご法度だ。人文系であればこそ、言葉の持つ力を最大限引き出せるような形でやり取りすることが望ましい。

 ただし、このブログはそんなことはお構いなしに、ぼくのさいきょうのおきもちを垂れ流しているだけであるから、そこはご寛恕願いたい。

(2022.5.30記、2023.12.26細部修正)

 

 

 

▼関連?記事

yondaki.hatenadiary.jp

yondaki.hatenadiary.jp

*1:なお、僕がここであえて人文系というのは、科学ではないということだ。社会科学や自然科学の分野では、実証のプロセスが非常に重くなる。実証というのは技術であり、思考より技術などのパラダイムに依拠する部分が大きい。科学という実証を重んじる営みに比べれば、人文学はどんなに偏ってもなお偏りの少ない学問だとすらいえる。人文系は実証する学問ではない。厖大な先行研究を踏まえてそこに新たな一歩を加えればよい。実証が必要な学問とは異なる査読プロセスがそこにはある。それはしばしば科学系の研究者が思う通り、実証的でないという点では恣意的な側面が科学より強いが、しかし単に恣意的なものではない学問の論理がある。

香江『神探福邇』很有意思(香港の『神探福邇』が面白い)

『辮髪のシャーロック・ホームズ』表紙(ただしこの絵はイメージと異なり過ぎる)

 五月病である。仕事をする気が起きず、神保町でコーヒーを飲んだり本屋を覗いたりして過ごしていたら、面白そうな本があって手に取った。『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』という本だ。タイトルだけなら惹かれなかったが、そのポップと帯に、香港を舞台にした名探偵ホームズだ、と書いてあって心惹かれた。僕はホームズの方にはてんで詳しくないが、香港のエキゾチズムに一方的な思い入れがあるのだった。

 読んでみたら非常に面白く、一気に読み終わってしまった。のみならず、読んだことを誰かに言いたくてブログ記事を書きたくなり、夜中にパソコンを開いてしまった。

 

 本書はホームズの名作を同時代(1880年代)の香港に移した内容だ。確かにその通りだが、同時に香港の時代の雰囲気をよく表す描写に富んでいるところは本書の独自の面白さであり、香港のモダンだが猥雑な雰囲気に惹かれる者としてはたまらない。

 主人公の福邇(フー・アル)は、福爾摩沙(ファームス=ホームズ)、つまりシャーロック・ホームズの中国語表記をもじった名前で、その通りホームズ役である。和訳のタイトルがわかりにくいが、原題は『神探福邇、字摩斯』なので、直訳すれば『探偵福邇ホ・オ、あざ名は摩斯ムス』というわけ。台湾訳ではタイトルの頭に「香江」(香港)と付けている(『香江神探福邇,字摩斯』)から、「辮髪の」、ではなく「香港の」、と書いてくれればよかったのだが。辮髪のシャーロック・ホームズなら、北京か中国東北部にいるような気がしてしまう(清の時代だから南方でも辮髪ではあるのだけれど)。「神探」もそのままにしないで和訳して、「探偵」とすれば探偵小説だとわかる。さらに今後売れて続巻もあることを考えれば、この前後は逆にした方がいい。つまり、『探偵福邇の事件簿 香港のシャーロック・ホームズ』ならだいぶ手に取る人が増えるのでは、と思う次第。

 ホームズのパスティシュだと訳者もいう(要はパロディ)本書である。確かにトリックなど仕掛けの部分はその通りだが、北京官語や広東語、さらには満州語、閩南語など中国(当時の中原王朝は清)の地域ごとの言葉——これを方言というにはあまりに異なっている——や、植民地宗主国である英仏語が入り混じって、それが事件解明の手がかりになるところは、元のホームズに出てくるような、ギリシャ語などヨーロッパ諸語の対比とは異なる重層性があって面白い。さらに、同時代の中国をめぐる政治状況が色濃く反映されていて、さらにはそもそも福邇が満洲人で開明的清ナショナリストであるところなど、(これは僕の職業柄)本当にそそられるところがある。

 

 あまり書くとネタバレになってしまうのでやめておこう。本書の舞台となる時代は清仏戦争ベトナムが取られる頃までだが、今後辛亥革命あたりまで書いて全4巻にする予定だというから、孫文や日本人も絡んでくるかもしれない。確か宮崎滔天が初めの頃に孫文と会ったのも香港だったはずだ(『三十三年の夢』)。

 当時香港を通る日本人といえば、まだシベリア鉄道がない頃なので、欧州へ向かう知識人や官僚、横浜などから織物を輸出する業者など、西洋に向かう人は誰でも通ったことだろう。逆に、東遊運動で日本に向かうベトナム人ファン・ボイ・チャウ(『ヴェトナム亡国史 他』)や、インド独立運動で日本に逃れたラース・ビハリー・ボース(『中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義』)なども、いっとき寄港しただけとはいえ香港を通ってきただろうと思う(ただしボースが日本に来たのは辛亥革命より後か)。中国史、アジア史はもちろん、日本史にも触れるエキゾチックな歴史推理小説、続編が待ち遠しい。

 

 ざっと読んだところだし、まだ出版されたばかりで話題になるのはこれからだろうから、細かいことはさておく。一言で言えば、現在の完全に現代化した香港からは考えられないような、優雅な早茶(モーニング・ティー・タイム)と怠惰な阿芙蓉(アヘン)の醸し出す香りがたまらない探偵小説だ、というところか。

 

辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿

 

* * *

 

▼中国のSFならこちらをどうぞ

yondaki.hatenadiary.jp

女性が守りたくなる男性

男性が前線に立って女性や子供老人を守る映画の例

 ユーミンにはいろいろな名曲があるが、「守ってあげたい」はよく知られているものの一つだ。「You don't have to worry worry 守ってあげたい」というサビのリフレインが頭の中にこだまする。僕はたまに、この替え歌で「I don't have to worry worry 守ってください」と歌っている。僕には他人を守るほどの甲斐性がないのだ。

 

「男性が守りたくなる女性」vs「女性が守りたくなる男性」

 ユーミンのこの曲はしかし、ある意味で非常に特殊な曲である。そのことを説明するために、まずは以下のGoogleの検索結果を見てほしい(なお、Google および Google ロゴは Google Inc. の登録商標であり、同社のルールに則って使用しているつもりである)。

「男性が守りたくなる女性」(完全一致)の検索結果

 これは、「男性が守りたくなる女性」と完全一致するフレーズでの検索結果で、ヒット数は約38万件となっている。いかにも馬鹿馬鹿しい、くだらない記事ばかりだが、「赤字国債」(約29万件)よりもよっぽど多いヒット数であり、人々はこういうことに関心があるのだと勉強になる。いや、感心している場合ではない。これはジェンダー格差により女性が男性の奴隷化されることを推奨する記事が蔓延していることの証左で断固戦わなくてはいけない。しかし今はまだ話の途中なので、まずはユーミンの話を続けさせてほしい。

 ここで、もう一つのGoogleの検索結果を見てほしい(なお、Google および Google ロゴは Google Inc. の登録商標であり、同社のルールに則って使用しているつもりである)。

「女性が守りたくなる男性」(完全一致)の検索結果

 こちらは先ほどの逆、「女性が守りたくなる男性」というフレーズと完全一致するサイトを検索している。結果は「一致はありません」、つまり0件である。ゼロ、googleの検索能力では何一つ見つけられないということである。先ほどの検索フレーズとの違いは、「男」と「女」が入れ替わっているだけで、他は何も変えていない。「男性が守りたくなる女性」では38万件、「女性が守りたくなる男性」では0件。もちろん、google以外の、例えばダークウェブと言われる.onionのドメインのサイトを検索するとか、あるいは今は亡きYahoo!ジオシティーズを探すとかすれば、もしかしたらあったのかもしれない。しかし、ひとまずgoogleだけで考えると、やはりこれは大きな違いと言わざるを得ない。これは女性が男性を守ってくれないということではなく、男性が女性差別をしているから女性に男性を守る余裕がないという社会のジェンダー構造の表れであってこれに対しては断固闘わなければならないが、それはそれとして、ユーミンの話である。

女性が男性に向けて「守ってあげたい」と歌うことの特殊性

 ユーミンの歌は、歌詞の物語の主人公の性別が明示されていないとはいえ、僕の勝手な考えから言えば、それは女性である。女性が同い年か年下の可愛い彼ピッピに向かって歌っているのが「守ってあげたい」だと僕は思っている(これはあくまで私的な考えでありこれを他に強制するものではなく、現実世界とは隔絶された創作の世界における解釈について論じているため自由な解釈を与えることを許してほしい)。女性が男性を「守ってあげたい」と歌う、これは上記のgoogle検索結果に現れたるジェンダー格差に鑑みて、非常にリベラルな状況ではないだろうか(馬鹿馬鹿しいほど大袈裟にくだらないことを言っているが、これはそういうふうに言わないとどこから刺されるかわからないための用心に用心を重ねた言い回しである)。

昨晩お会いしましょう
▲「守ってあげたい」収録アルバム「昨晩お会いしましょう」。今でもLP、CDが売っている。両方うちにあるが、LPの方が心なしか声が若く聞こえる

 この歌が出たのは1981年で、その時の社会的な男女関係がどうだったのか僕はよくわからないが、こんな歌が出るくらいだから、「女性が守りたくなる男性」で検索しても多少のヒットがあるような世の中だったのであろうか。当時はgoogleどころかyahooもnetscapeもない時代だが。あるいは、現代と同じように男女差別が強く、逆転の発想で書かれた歌詞だったからユーミンが受けたということだろうか。多分後者だろう。*1そのことが、この曲が昔も今も特殊であり続けている所以である。

ヒモ、もとい女性に守ってもらえる男性は結構いる

 僕は悲しいことに男に生まれてしまったので、守ってくれる異性を探しても、検索上は0件である。しかし、この記事がgoogleにクロールされれば、1件になるかもしれない。そう思ってタイトルを「女性が守りたくなる男性」にした。

 しかしこれはあくまで検索上の話で、現実には、女性に守られている男性はそれなりにいる。それはあのいかがわしい「母性」とかいう話ではなく、男性が女性に対して「守る」というのと同じ意味で——経済的であったり、権力や腕力であったり——のことだ。ネットには、マスに受けることばかり転がっていて、googleで見つかることは「ネットユーザーの考えた最強の一般論」でしかなく、それは案外、現実の多様な層とはかけ離れている。芸術と言ったら仰々しいが、ユーミンの歌詞などがそういった「ネットの真実」を簡単に覆すのは、やはりある種の、芸術の力というものなんじゃないだろうか。

 なお、余談だが、女性に守られたい男性は、「ヒモになりたい」で検索すれば望みの検索結果は得られるが、「男性が守りたくなる女性」で紹介されている女性の振る舞いをそのまま女性に対してやるのでもいい。はっきり言って「男性が守りたくなる女性」だのなんだのという、いちいち「男性」「女性」でくくって振りかざされる一般論は、両方「人間」にしても差し支えないし、あるいは「部下」「上司」の組み合わせにしたり、「学生」「教師」の組み合わせにしたり、何でも成立する。ただ、読む人が興奮してクリックしてくれるという小学生ばりの理由で、「性」という言葉が入っているだけなのだ。ネットの世界はかくも悲しい。それにしても、ヒモ女性(?)には「男性が守りたくなる女性」というかっこい表現があるのだから、今後はヒモ男性も「女性が守りたくなる男性」と呼び習わしてはどうか。

 

 

*1:「守ってあげたい」と歌っている本人も、松任谷正隆に収入がなくなったら守ろうと思ったかどうか怪しいものである。いや、そもそもその歌が自分の実生活における心情と何ら関係ないということも十分あり得る(ユーミンはこの曲を出す5年前に結婚したのだが、その当初専業主婦になろうとしたとかいう話があった気がする)。

事件は中華料理屋で起こっているわけではない

f:id:tsukikageya:20220422131241j:image

 

 中国語教室への通学を開始して半年ちょっと。週1のペースで、途中保育園が閉まって行けなかった期間などもあったので、それほど目覚ましい進捗があったわけではない。日常会話ができるようになるには、あと半年ぐらいかかるだろう。

 ただ、勉強の成果は日々感じる。その一つは、中華料理屋での会話が聞き取れるようになったことだ。

 

* * *

 

 中華料理屋は安くて美味しく料理も多い、しかもどこに行ってもあることから、僕にとっては昼食の第一候補のようなものだ。しかし中華料理屋に行くと、しばしば厨房とフロアで怒鳴り合いが起きている。今日だったら、

フロア「スーヨンリンジー!イーフイグォーロゥ!」
厨房「ア?ドーシャオヨンリンジーマ!」
フ「スー!」
厨「スーヨンリンジーバ!」
フ「シャア!」
厨「ジーティエンヘンマンナー!アー?」
フ「ドヤー!」

みたいな感じである。落ち着いて食べたいというほど高級なものを食べているわけではないが、あぁ?とかあ゙ー!とか言って喧嘩しないでほしい、というのが正直なところだ。いくつかよく行く中華料理屋があるのだが、どこも大抵、厨房が男性でフロアが女性、夫婦か何かのような雰囲気があって、夫婦喧嘩を聞かされているような気になる。

 しかし、中国語を学んで、僕はわかったのである。彼等は喧嘩しているわけではなかった。今なら彼らがなんと話しているか、理解できる。

フ 〝四油淋鸡,一回锅肉“(油淋鶏四つ、回鍋肉一つ)
厨 〝啊,多小油淋鸡吗?“(はいよ、油淋鶏がいくつ?)
フ 〝四“(四つ)
厨 〝四油淋鸡,吧“(油淋鶏四つね)
フ 〝是啊“(そうだよ)
厨 〝今天很慢呢。啊?“(今日は忙しいね)
フ 〝对“(ほんとね)

普通の定食屋で交わされる会話と変わらなかったし、彼らは全く喧嘩してなかった。なんならお互いを労う暖かさすら感じられるレベルのやりとりだ。考えてみれば、(日本語話者的には)喧嘩しているような勢いで喋った終わりに、はっはっは!みたいな感じで笑い合ってたりしてたし、喧嘩ではないのだ。

 僕は悟った。事件は中華料理屋で起こっているわけではない。口の中でボソボソとしか喋らない日本語話者たる僕の誤解によって僕の中でのみ起こっていたのだ、と。

 

* * *

 

 ただ、ある中華料理屋のやりとりだけは、中国語を勉強しても全くわからないままだ。その中華料理屋というのは、餃子の王将である。

「ソーハンイガー、テンハンダイイーガー!リャンーガーコーテー!ヒトツヨクヤキィ!」

これは日中両語を融合した新しい言語と言って差し支えない。

 いずれにしても、新しい言語を学び、今までわからなかったやりとりがわかるようになるのは嬉しいものだ。ウォーのワールドのグレートなエキスパンドを感じる。なんのこっちゃ。

 

▼関連記事

yondaki.hatenadiary.jp

 

 

Amazonアソシエイトの停止と再開

f:id:tsukikageya:20210901224018j:plain

 

Amazonアソシエイトの停止(2021年9月)

 9月になった。
 気温がぐっと下がってきて、急に秋がやってきたような感じがする。とはいえそれまでも、日影にいれば何となく秋らしい風が吹いてきていたのだが。

 この間、このブログに起きた変化といえば、Amazonアソシエイトの停止である。

 はてなブログ100記事到達とその後 - 読んだ木の記事の最後の方で、Amazonアソシエイトの売り上げが発生したということを書いたが、あのワンショットだけしかこのブログからの売り上げは発生していない。

 Amazonアソシエイトは利用を始めてから180日間に3回の個別の売り上げが発生しなければならない、というのが申請条件なのだが、このブログではこの間1回しか売り上げが発生しなかったので、その条件に基づいてAmazonアソシエイトは停止された、ということである。

停止と復活を繰り返して

 ちなみに、僕の利用しているAmazonアソシエイトアカウントが停止されたのはこれで多分3回目くらいである。別に停止されたからといってペナルティがあるわけではない。あなたのブログがもう少しアクセスされるようになったら改めて申請してね、ということになる。売り上げが上がるブログにリンクを貼ってもらう分には、Amazonとしては何も不満はない。ただアクセスもない売り上げもないブログに貼られるアカウントを管理し続けるコストが大きすぎるので(というのもそれはアフィリエイトフィーを振り込む決済システムと接続されているからだ)、不活発なアカウントについては削除させてもらう、というスタンスなのである。

 改めて申請した場合、アソシエイトIDが変更になるので、既に貼ったリンクのアドレスは全部変更する必要がある(確かそうだったと思う)。Wordpressなどで作成していて、FTPからさっとダウンロードしてオフラインでコマンドを打って全て置換できるような人はいいのだが、僕のようにブログサービスを利用しているだけの場合は結構厄介である。昔、ライブドアブログで使ってたアカウントが停止され、後から再発行した時は、結局古いリンクは更新しなかったんじゃないかな。でも新たに書いた記事で売り上げが上がってたから気にしなかったのだったか。

 停止することが分かっていても、やっぱりブログを始めるときにはAmazonアソシエイトのアカウント申請をしてしまう。これは何というか、モチベーションのための作業という部分があるのかもしれない。売り上げにつながるなら真面目に書こう、SEOについても考えてみよう、という気分になるからだ。売り上げが上がろうが上がるまいが——上がるわけがないのだが——そのモチベーションは生まれるのである。

 逆に、真面目に売り上げを上げたいなら、最初からAmazonなど使わずに、A8.netなど、よりアフィリエイトの収入が上がりやすく、またそのアカウント維持のハードルが低いものでアフィリエイトを始めるのがよい。確か楽天なんかもよかった気がする。ちょっとかなり昔の話なので、最近どうなんだか、僕にはわからないが。

書く内容への影響

 アフィリエイトリンクが切れたことで、書く記事の内容はかなり変わる。これは自分でも驚くのだが、同じように書いているつもりで全く異なる記事を書いている。

 まず、この記事を読んでいる人がいるとしたらおそらく感じていることだろうが、記事の書き方が若干だが冗長になっている。それが読みにくさにつながっているか、あるいは逆に読みやすさにつながっているか、僕にはわからないが、とにかくいつもより整理されていない長めの文章を書いている、という自覚がある。

 それから、記事のネタが商品に結びつけられていない。アフィリエイトをつけていても、あまりそうならないようにしていたつもりではあるのだが、やはりアフィリエイトリンクになりやすいコンテンツに記事の内容が引っ張られがちではある。例えばこの記事の冒頭、「9月になった」とはじまっている。もしアフィリエイトリンクが生きていたら、僕はこう続けただろう。「September...と歌う竹内まりやの歌声が脳内に響いてくる」。そして、竹内まりやのSeptemberが入ったLPアルバム「Love Songs」を実家から持ってきて聴いていたが、盤に傷が入っていてSeptemberが最後まで聴けない——といった話を延々としていたはずなのだ。もちろん、それのアフィリエイトリンクつきで。

 今のところここから何か買う人がいても僕の懐は寒いままだ。ところでこういう、同じようなリンクがたくさんあるんだけど、どれがどう違うのかわからないね。

 三つ目の点として、明らかにブログを書くモチベーションが下がった。これは色々と忙しさや自分の体調や季節にも依存してくる部分ではあるのだが、やはり何かこう、フックが減るとブログも積極的に書こうという気にならないものだ。とはいえ、ブログを書く気が減退しているのは、インターネット年少世代 - 読んだ木とかなぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木とかを書いていた春の頃のような、新しい知り合いを作りたいとかそういった機運が自分の中で完全に消失しているということの方が大きいかもしれないが。

 

* * *

 

 まぁしかし、今後どんなふうにブログが続いていくのか。Twitterのアカウントはずっと減らし続けていて、このブログの記事をツイートしていたアカウントも消してしまった。改めて新しいアカウントを作らねばなるまい。しかし面倒だ。万物が枯れゆく秋を前にして、色々なことが整理され、廃棄されていく、そういうことなのかもしれない。いずれにしても、このブログは続いていくとは思うけれど。

 

------

Amazonアソシエイトの再開(2022年4月)

 上の記事を書いてから半年と少し。ブログへのアクセスが安定して増加し、検索流入も増えてきた。また、記事を書くときにAmazonリンクがないと不便だと思うことが増えてきた。これは主に、本に関する記事を書く場合に起こることだが。そこで、Amazonアソシエイトに再び申請し、アソシエイトを再開した。

再開による記事への影響

 このブログはもともと、ただ思ったこと、メモ書きのようなものを垂れ流していた(ブログ名「読んだ木」について - 読んだ木)。しかし時間が経つにつれ、僕の持つどういった情報が、このブログにたどり着く人の、あるいはネットの海を漂っている人の手助けになるのか、ということがなんとなくわかってきた。これは、検索流入が増えてきたことで、検索クエリなどの情報から、このブログの訪問者が求めている情報の傾向が掴めてきたこと(参考:1年かかって総アクセス数5000到達 - 読んだ木)によるものが大きい。これが、再開を決断した大きな理由となった。自分が欲しい本や情報を探している人が、迅速かつ適切に必要な文献に辿り着く、その支援はそれなりに得意とするところだ。

 再開による影響というより、むしろそのようなアクセス情報による影響で、人文学系の情報を探している人、特に学部生のような人を念頭に記事を書いたり、リライトするようになってきている。アソシエイトリンクもカードで貼るのをやめ、文字からのリンクに変えた。ざっと読んでもらって、紹介している内容の全体を理解してもらった方がいい、という判断だ。

復活の手続き

 復活の手続きは、最初に登録する時と何も変わらない。アカウントIDが変わるので、そのリンクのIDを全部書き換えるのが面倒であるが、それだけだ。Amazonの方で何かチェックしているのかいないのか、それすらもよくわからない。もちろん、レポートは表示されるので、アカウントが機能しているか、売上が立っているかどうかは問題なくわかる。このブログで一回停止されたからといって、ペナルティがあるわけでもない。

 あとは180日間でまた売上が建つかどうか、というところである。まぁこのブログは、アフィリエイトで稼ぐとかそういうものではないから(そもそも本など単価が低くて儲からない)、アカウントが停止になったらなったでいい。大事なのは、僕がうまくキュレーションできて、僕の書きたい欲求が多少なりとも誰かの足しになる、ということである。

 

夢の中へ(通常盤)

夢の中へ(通常盤)

  • アーティスト:井上陽水
  • ユニバーサル ミュージック
Amazon

大正期の現代思想入門——中沢臨川・生田長江『近代思想十六講』(1915)と桑木厳翼『現代思潮十講』(1913)

東京のインコはメシのネタに飛びつく

 

大正期の「現代思想」の受容

 日本において「現代思想」が人気なのは、今も昔も変わらない。ただ、大正期の方が、西洋の思想史的文脈の整理も進んでおらず、他方で日本語の語彙が貧弱だったこともあり、今の博覧強記でカオティックな「現代思想」ではなく、歴史的展開を踏まえて素朴な問題意識を深掘りしようという苦闘の中で「現代思想」を吟味しているように思える。当時の研究者のやり方は、現代とは違う。現代では、デリダドゥルーズが引用しているからと昔のあまり知られていない思想家について調べてみるとか、マルクスのようなよく知られた思想家の新しい資料を掘り起こして少々突飛と思われる解釈をしてみる、というアプローチが積極的に取られている。これらは「現代思想」研究の新規性と多少なりとも話題性を狙ったものだろう。

 しかし、大正の人々は、西洋の文献で参照されているより過去の文献はおろか、同時代の西洋思想の原典に触れることも簡単ではなかった。もちろん翻訳で触れるなど(誰かが原書を参照して翻訳しなければならないのだから)さらに難しいことだった*1。そこで大正の人たちは、昔からの思想史的文脈を自分なりに(多少は他人のトレースであれ)通史的に整理した上で、最近流行っている思想の意義を考え位置付ける、という基礎的なアプローチを重視している。

大正期もブームだったフランス思想

 戦前の日本というと、20世紀初頭の新カント派や、1920年代後半以降に非常に広がったマルクス主義など、ドイツ思想の影響をイメージする人が多いと思うが、明治期に日本へ影響を与えた文献はほとんどイギリス・アメリカから入ってきた啓蒙思想であり、日露戦争後から1920年代前半ぐらいまでは、フランスの思想がかなり参照されていた。ベルクソン(当時はベルグソン)なんかは1915年ごろにブームになっているし、社会学の祖オーギュスト・コントとか、クロマニョン人命名したカトルファージュとかに至っては、1880年代ごろからちょいちょい言及されている。

中沢臨川生田長江『近代思想十六講』(1915)

 1910年代の初めは、菅野スガとか幸徳秋水とかが虐殺された大逆事件の後で、新聞紙条例などで言論統制も厳しかったのだが、思想の概説書みたいなのが結構出ている。その手の概説書の代表格と僕が思っているのが、1915年に出版された中沢臨川・生田長江『近代思想十六講』である。この本は、評論家で『青鞜』の立ち上げをバックアップするなど若手を育てるのが上手かった生田長江と、東大工学部出身で電鉄会社で技師として働いていた電気工学者なのに、トルストイ論やベルクソン論などをバンバン書いていた中沢臨川、という面白い二人のタッグで近代西洋思想を概説しようというもの。十六講ってことは、いま大学の授業が一コマ十三回ぐらいだから、だいたい同じようなイメージと思ってもらえればよい。半期で一コマ勉強するのと同じぐらいの内容があるというわけだ。

 第一講は概説で、第二講以下で実際に紹介されているのが以下の15人。

 当時の知識人がどういう風に西洋思想史を理解していたのか垣間窺える、なかなか興味深いチョイスになっている。構成も面白い。中世の終わり、近代の始まりとしてダ・ヴィンチを置き、ルネッサンスを紹介。そこから一足飛びに近代の思想の代表者としてルソーが出てきて、そのあとは各論。

 重視されるのは「個人」の問題で、まずニーチェの「超人」の哲学からシュティルナーを中心に個人主義を説明し、これに対置されるものとしてトルストイ人道主義を紹介、その流れでドストエフスキーを論じる。イプセンは「第三帝国」の思想の紹介として出てきて、そのあとはダーウィン進化論、ゾラの自然主義という風に、それまでの人間を中心にした思想に対して、自然に傾倒した思想が現れるという論旨で講じていく。その行き着くところがフローベルのニヒリズムだとして、ここから先がいわば現代思想。ジェームズのプラグマティズム、オイケンの真理論、そしてベルクソンの生命主義へと展開していく。タゴールは東洋思想ということで入っていて、最後はロマン・ロランで読者自身に問題をひきつけさせて終わる。現象学の手前で終わっているとはいえ、19世紀の思想史としては、一つの解釈の仕方として現代でも通用する内容だ。

内容の偏倚が表す時代性

 逆に、19世紀を扱うのにカントやヘーゲルが出てこないというのも面白い。ドイツ観念論的な文脈が完全に捨象されている。生田とか、あるいは多分この本には大杉栄の影響があると思うが、在野の思想家だった彼らにとってはドイツの思想的文脈で注目すべきはニーチェシュティルナーのみで、その系譜についてはあまり意味がなかったのだろう。ダ・ヴィンチから始めながら、途中を全てすっ飛ばしてルソーまで来てしまい、近代社会、近代国家のあり方を論じたマキャベリホッブズ、ロック、モンテスキューなんかが取り上げられてないところから見ると、彼らにとって国家はもう出来上がっちゃったものなんだろうなとも感じる。これは当然、日露戦争後の帝国確立期という時代背景があり、加えて大逆事件幸徳秋水が刑死するという状況によって、市民社会論ないし社会契約論の方面、つまり現在の社会の枠組み自体に関する知の断絶、欠落が起こっているとも考えられる。

 その反動として、個人の自覚、個人の内面についての部分が強く問題化されていくことになる。「自我」の捉え方と、そのあるべき姿を考えるために、読むべき近代西洋の思想家のリスト、と考えれば自然だ。経済学なんて論外で、スミスとか、言及すらされない。経済がまだ思想の範疇外だったということもあるかもしれない。現実の生活とは離れたところで、思想をやっている。まぁこれは逆にいえば、啓蒙されているということでもある。現実の生活の中に止まっていると、「自我」がどうとか考えている暇はない。とにかくおまんまにありつきたい、誰かを犯したい、そういったことに意識が取られてしまう。農家から都会へ移住して賃労働する新中間層が出てきて、そういった人々が過去の習慣から逃れて新たなあり方を模索するときに手がかりになる本、という位置づけだったのかもしれない。

 「自我」の問題は、「人間」がいかにあるべきかということと、「人間」の外部であるものとしての「自然」の捉え方と、「人間」同士を結びつけるものとしての「愛」の様相ということを深掘りしていくことで突き詰めて考えることができる、だいたいそんな論点でこの本はまとめられていて、それ自体が「近代思想」と称した本を出す大正デモクラシー期の知識人たちの問題意識をよく表している。それが読者にウケたのかもしれない、あるいはこの本の読みやすさということもあるかもしれないが、この本は何度か再版されている。初出が1915年なんだけど、その後1930年代に至るまで数年おきに違う版が出てて、文庫にもなってる。今ではほとんど知られてない本だと思うけど、相当売れたんじゃないかな。

 当時の人って、外国の文献を引用するときに、翻訳もあんまり出てないし、こういう概説本で済ましていることが結構多い。いろんな思想家の名前知ってるんだけど、よく聞いてみたらその内容は『近代思想十六講』のパクリじゃん、みたいなことがある。でも後世の読み手はそれがよくわからないから、色々読んでてすごい、みたいな風に思ったりするわけだけど。

ドイツ思想を重視するアカデミックな思想史入門

桑木厳翼『現代思潮十講』(1913)

 中沢臨川生田長江も在野の研究者だが、それより2年前にでた『現代思潮十講』の著者桑木厳翼は、当時京都帝大教授、のち東京帝大教授となるオーソドックスな哲学研究者である。で、『近代思想十六講』ではカントもヘーゲルも出てこないという話を書いたが、次に取り上げる『現代思潮十講』は、きちんとその流れが踏まえられている。

 桑木は、近代の始まりをルネッサンスだけでなく宗教改革にも見て(これはヴィンデルバントに基づく歴史理解だと注釈がしてある)、啓蒙運動の高まりののちにルソーカントロマン主義があってヘーゲルの登場と相成る。そこから先が面白いのだが、ヘーゲルを乗り越えたのはヘルムホルツとみて、自然科学の台頭を哲学史上に置き、その流れにスペンサーヘッケルを置いていく。同時に、フランスにおけるコントの登場を実証主義の起源とし、サン=シモンの影響から三時期論に至るまでと、その思想の限界を多くのページを割いて論じている。その次に、コントに対置される不可知論の思想家としてスペンサーが改めて詳述され、それらとは対照的に客体として説明可能なシステムとしての自然を前提とする自然主義の思想としてヘッケル、オストワルドが紹介され、それを引き継ぐものとして歴史主義を批判するのだが、そこで扱われているのは「ヘーゲルの理想主義」を引き継ぐものとしてのマルクス、ランプレヒト、ヴィンデルバントだ。この批判がなかなかよく整理されて鋭いもので、僕などは人生を3回ぐらいやらないとこの知見を有するまでには至らないだろうと思う。さりげなくライプニッツを引き合いに出して、ショーペンハウアーのように歴史を反復として理解することの問題性を指摘する部分など、ドゥルーズの論点を先取りしているかのようだ。しかし、ドゥルーズのように永劫回帰しか反復しない、というような解釈に陥ることも批判している。

 自然科学の台頭以来の、事実のなかに原理や理論を求める思想に対置されるものとして次に登場するのが、印象主義である。ここではヒュームから始まってマッハの感覚論が詳述され、ウィリアム・ジェームズプラグマティズムへと至る系譜が描かれる。ジェームズのプラグマティズムについては、その背景となるベルクソンの思想にも触れるなど非常に丁寧に説明され、最後に新実在論としてラッセル、ムーア、ペリーの思想が説明される。そして、最後の最後に「現代思潮として要求する」ものとして新しい理想主義というのを打ち出して、オイケンとベルクソンを批判しつつ、フィヒテに基づくヴィンデルバント(今読めるのは『歴史と自然科学』ぐらいか)とリッカートの思想に方向性を見いだすことを指摘して、本の終わりとなる。

当時の最先端の知性の表現、現代の初学者には難解

 この最後の、新カント派の思想は確かに当時の大学の哲学研究者たちにかなり読まれ、関心を集めた思想だった。しかし、なぜいかなる文脈でそこに行き着いたかということは、この本を読んでだいぶよくイメージが湧いた。大正初期にもうここまで説明する本が、一般向けに出されていたことはちょっと驚きで、これまで知らなかった。というのもこの本は全然再刊とか復刊とかされてないんだよね。逆に難しすぎてあまり読まれなかったのかな。中沢・生田の『十六講』の方が、確かに簡単だし出てくる人物も世俗的な人だから読みやすい。単に要約が書いてあるだけだしね。

 でもこっちの本を読みこなせた人は、それだけで当時の知識人のトップラインを走れていたんだろうなという気がする。当時の状況がなんとなくわかってきたけど、大学では思想史的系譜の整理と理解が、それはそれはディープな哲学史理解に基づいてなされていて、他方で在野の、特に社会主義運動などに関心を持ちながらその思想的基盤を求めている知識人は、自我や自己をめぐる問いを引き出す形で思想史を整理している。どちらも結局は新カント派かベルクソンあたりに到達するんだけど、これが大正初期の日本の思想状況の底流にあるんだな。ここにアメリカの影響を掛け合わせれば(それは翻訳などの状況が中心となるが)、見取り図が描けるんだろう。まぁ、大変すぎて自分ではその整理をやる気にはならないが……。

 

▼関連記事

yondaki.hatenadiary.jp

 

余談:ゾ、ゾー、ゾウ

 ゾという動物がいるのをご存知だろうか。「ゾ」という、一文字の名前の動物である。英語でDzo、チベット語でམཛོ་と表記する。ヤクと牛が交配した動物で、「牛よりも大きく、力強い」とWikipediaに書かれている(wikipedia:en:Dzo)。エベレストの麓の高山地帯が広がるチベットやネパールでは、農耕のために牧畜されているという。農作業ではパワーを発揮し、肉付きがよいので食肉としても重宝され、乳の出もよいという、牛の完全体のような——もちろん人間にとってということだが——動物だ。

 英語名はゾ(Dzo)のほかに、ヤク(Yak)とカウ(Cow)の合成語でヤカウ(Yacow)と呼ぶこともあるらしい。なんだか、『もののけ姫』に出てくるヤックルを連想させるような言葉だ。実際、ヤックルが宮崎駿の書いた物語で最初に出てくるのは『シュナの旅』というチベットを舞台にしたファンタジーで、イメージとしては類縁性があるだろう。

スタジオジブリ もののけ姫 ふんわり ぬいぐるみマスコット ヤックル 11cm

 造形としてはインパラっぽい。 

 話を「ゾ」に戻そう。僕自身、そんな動物がいるということはさっき初めて知った。なんで知ったかというと、ゾという動物を検索して見つけたからなのだが、それを検索した理由は、上で触れた『近代思想十六講』にある。

 この本の中でダーウィンが紹介されていることは説明したが、ちょうどいましがたこの本のダーウィンの『種の起源』が説明されている部分を読んでいたのだ。そこには色々な動植物の例が出てくるが、こんな記述が目についた。

ダアヰンはあらゆる動物中最も蕃殖の遅いのはゾーであるとしたが、若しゾーが平均百歳迄の壽命の中に六匹の子を生むとする時は、一匹のゾーが七百五十年後には一千九百萬匹になる勘定である。(294頁) 

 ゾー、という動物名に戸惑った。ゾウか?と思ったが、その前後には「黒牛」や「蝿」といった生物が漢字で書いてある。ゾウなら「象」と書けばいいはずであるし、せめて「ゾー」ではなくて「ゾウ」と書くだろう。ダーウィンがインドか西インド諸島の珍しい生き物の話を引用している可能性もある。

 そこで、「ゾー 動物」と検索した訳なのだ。そしたら、Wikipediaで「ゾ」という動物が紹介されていることを発見した。しかもオスのゾは不妊であって、繁殖はメスのゾとオスのヤクか牛と行う、と書いてある。確かに繁殖も遅そうだ。だが、あの時代にチベットのゾについてダーウィンが知っていただろうか。当時のヨーロッパ人が武器でもって制圧して人類学や博物学のネタにした地方に、チベットの高地は入っていなかったはずだ。

 疑問が解けないので、原文(On the Origin of Species)に当たってみると、次のように書いてある。

The elephant is reckoned the slowest breeder of all known animals, and I have taken some pains to estimate its probable minimum rate of natural increase; it will be safest to assume that it begins breeding when thirty years old, and goes on breeding till ninety years old, bringing forth six young in the interval, and surviving till one hundred years old; if this be so, after a period of from 740 to 750 years there would be nearly nineteen million elephants alive descended from the first pair. (Chap. 3. Struggle for existence, The Origin of Species, 6th ed., 1872)

 がっつり elephant 、つまり「象」と書いてあった。やはり「象」のことを「ゾー」と書いていたのである。よくみると、「ハヘ」という謎の生き物も出てくるが、これの読みは「はえ」、つまり「蝿」のことである。あるところには漢字で「蝿」と書いているのに、ダーウィンを参照している部分になると「ハヘ」と書いているのだ。なんとわかりにくい。

 おそらく現在でよく参照されるのは岩波の八杉訳だろうが、この訳も基本的には「ハト」や「ハエ」など生物名をカタカナで記載している。ただし、象は「ゾー」ではなくちゃんと「ゾウ」と書いてあった。(八杉の底本は初版なので、上で引いた第6版とはやや文面が異なる。)

 ゾウは既知の動物のなかで、もっとも繁殖がおそいものであると、考えられている。〔……〕ゾウは三〇歳になって子をうみ、九〇歳まで生殖し、この間に三対の子をつくる〔……〕もしこのとおりであるとすれば、五世紀たったのちには、一対のゾウの子孫として一五〇〇万頭のゾウが生じているであろう。(八杉龍三訳『種の起原 上』岩波書店、1990年、90頁)

 実際、象の繁殖は非常に難しいらしい。京都市動物園では象の繁殖のためのプロジェクトをラオスと協力してやっているそうだ(ゾウの繁殖プロジェクト | 京都市動物園)。上野動物園のコラムでも象を交尾させることの難しさが切々と語られている(8/12は「世界ゾウの日」! 動物園のゾウを守るために[その3] | 東京ズーネット)。ナショナルジオグラフィックの記事では、若い象より高齢の象の方が繁殖に積極的だという話もあり、これは「草食化」と揶揄される若者を尻目に、高齢化した日本の男性たちの盛んな様子を想起させられ、人間も象も変わらないのだと微笑ましい気持ちになる(高齢ゾウほど交尾に積極的、50代はフル回転、研究 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)。

 誤解によって発見した「ゾ」だったが、こういうことで自分の知識が思わぬところで拡張されることは面白い。現代思想研究者なら喜んで、これは「誤配」だ、というところだろうか。いや、そういうことではない。

 まぁなんでもいいのだ。ジャパンにいる僕が、イギリスの著者がインドのゾウについて書いたものを読んで、チベットのヤクとウシに想いを馳せる。パソコンに向かっているだけでユーラシア大陸の端から端まで駆け巡る。まさにあれだ。「そうぞうは、自由だぁ〜!

 

(本記事は2021年2月に書いた複数の記事を編集しました。)

*1:岩波文庫ができたのは昭和に入った1927年だった、といえばこのことがよりイメージしやすいかもしれない。最初に出版されたのは夏目漱石の『こころ』など22点だった

戦争の呼称について考える

北海道がロシアでなく日本なのも、歴史の偶然である

戦争の呼称の変化

 今般のロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争について、現在では「ウクライナ戦争」という呼び方が通例のようだ(『ニューズウィーク日本版 3/8号 特集 総力特集ウクライナ戦争』『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』など)。しかし、より俯瞰的な視点から、「ロシア・ウクライナ戦争」という呼び方も徐々に浸透してきている。日本語ではまだWikipediaのページにはなっていないが、英語ではRusso-Ukrainian Warという項目が立ち、この表現がスタンダードになりつつある。

 ロシア・ウクライナ戦争という括りができたことで、2014年のいわゆる「クリミア紛争」からの一連の流れが、この括りに包含されることとなっていくかもしれない。今後歴史の中では、「クリミア紛争」は、今私たちが考えているような、クリミア半島にロシア軍扮する国籍表示のない謎の軍隊がやってきてそこを支配した、というような形ではなく、ロシア・ウクライナ戦争という21世紀のエポックメイキングな出来事の発端として説明されることとなる。

 このように、戦争をめぐる呼称が後から変わっていく例は、枚挙に遑がない。近代日本で言えば、当初満州事変支那事変と呼び習わしていた1930年代の中国侵略戦争は、その後に日中戦争という括りで捉えられ、さらにアジア・太平洋戦争と共に十五年戦争という括りに納められることになった。しかし、当時の日本人に中国と戦争しているという感覚はない。共に西洋に対抗しうる大国を作るために働いているはずなのに、中国政府が協力してくれない、という程度の認識だ。歴史的な視線というのは、同時代に生きる人の視線とは大きく違う。

日清・日露戦争は韓国独立戦争ではないか

 さらに言えば、まだ呼称や括り方が正確でないと思われる戦争もある。日清・日露戦争だ。日清戦争朝鮮半島で始まった戦争で、その目的も李氏朝鮮に対する支配権、より正確に言えば軍事的影響力の行使権をめぐる戦争であった。日清というが、開戦しはじめ戦場となったのは朝鮮半島だ。清で戦場となったのは遼東半島から瀋陽までの地域と台湾だが、清の領土からすれば一部である。加えて言えば、台湾は朝鮮をめぐる戦争とは異なる目的で、異なる相手と戦われており(乙未戦争)、そもそも両者を日清戦争として一括りにできない部分がある。日露戦争も同じで、日露戦争の主戦場が遼東半島日本海という、朝鮮半島の両端で行われたのは(もちろん半島内での交戦や進軍もあった)、朝鮮半島の支配権をめぐる戦いであったからに他ならない。そしてその結果が大韓帝国保護国化であり、その後の植民地化である。

 日清戦争でも清は国が揺らいだというわけではなく、むしろ辛亥革命までその命脈を保っていくことになる。日露戦争では、ロシアは三国干渉で日本から奪った地を清に返さず日本に譲ったというだけで、戦争自体のダメージはあったが、それで国のあり方が大きく変わったというわけではない。日清・日露戦争で大きく変わったのは李氏朝鮮大韓帝国)であって、この二つの戦争によって清の従属国から日本の植民地へと変わったのである。しかも、その間には独立国となる時期もあり、日本とも交戦したのだから、日清・日露戦争を包括して朝鮮戦争と言ってもいいぐらいだと思う。あまり近代韓国史に詳しくないため、具体的なことはわからないが、韓国が清と日本との間で、のちにはロシアと日本との間で、どちらと組むかを悩み続けたのは、あくまで韓国の独立のためであった。日清戦争の開始は東学農民運動が盛り上がっている最中のことであった。だとすれば、この前後の事象も含めて韓国独立戦争と括り、その中の日清戦争日露戦争、と捉え返すこともできる。もちろん、日本の人々はこれに反対するだろう。日本における両戦争の位置付けは、あくまで小国日本が周辺の大国と小規模の戦争を繰り返して帝国化していくプロセスと見做されているからだ。しかし、世界史的に見れば、日本が清やロシアと戦ったことよりも、独立を目指した韓国が東アジア情勢のキャスティングボードを握っていた、という解釈の方がわかりやすい。

韓国独立戦争という括りの意義

 この解釈に立つと、日本の位置付けは、ある意味では肯定的になっていく部分もある。というのも、韓国の次にナショナリズムを高め、独立を志向していくのは中華民国である。そして、その両者を近代化の側から陰に陽に支援したのが日本だ、という構図が世界史的にも位置付けられるからだ。政治経済だけでなく、軍隊に至るまで、日本は20世紀前半を通じてずっと、両国に影響を与え続けていたと言っても過言ではない。孫文を支援し高宗を支援し朝鮮半島中国東北部を工業化したのは日本であった。

 そして、そのために現地の人々を強制労働に駆り出し、土地を奪い、その血と汗の結晶を我がものとしてその地の人々から奪い取ったのも日本であった。これはもちろん歴史の過ちとして反省するべきことだが、歴史の事象としては物事の両面である。独立させて、しかし奪わないという方法は、「金を貸す」という穏健あるいは陰険なアメリカ的方法が実現するまでは選択肢としてなかったのであった。そこには侵略があるのみであった。今、日本が韓国の独立と近代化を支援した、「満洲」を工業化した、などと無前提に言えば大バッシングだが、世界史、あるいは東アジア史の中で、韓国独立戦争があり、辛亥革命があるという時代に、日本が果たした役割は、という枕詞であれば、その見方はむしろ肯定的になっていくだろう。それがいいことか悪いことかは、その受け手の当事者性によって異なる。

 話を戻せば、ロシア・ウクライナ戦争は、まだ歴史になっていない、現在進行形の事態である。ということは、それがさらに大きな、別の括りの中に位置付けられる可能性も残っているということだ。独立するものは、ウクライナという国だけではないかもしれないし、あるいは何かが決定的に損なわれることもあるだろう。歴史研究は興味深いが、歴史を生きることはあまり楽しいことではない。